POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

加藤和彦追悼と「ALL TOGETHER NOW」の思い出

 先のビジネスのエントリで、ちょうどサディスティック・ミカ・バンドの話が出てきたので、たまにはコラム風の私的エントリを書いてもよいだろう。加藤和彦氏の逝去のニュースは、生涯ずっとファンを続けていた小生にとっても、かなり大きな“事件”だった。編集者になったばかりのころ、アニメ雑誌NewType』(角川書店)で最初にインタビューを担当したのがシンガーの新居昭乃嬢で、そのデビュー曲を書いた加藤和彦氏の話で、彼女とも盛り上がったのを思い出す。小生の著書に登場するYMOのメンバーや清水信之氏も、80年代の加藤和彦ソロのサウンドを支えてきた面々。代表作と言える『うたかたのオペラ』、『ベル・エキセントリック』の制作を支えた、某プロデューサーの自伝を出版するために取材を重ねていた時期もあったりと、小生のキャリアにおいても加藤和彦氏はずっと、キーマン的な存在であった。小学生時代にウチにあった、唯一の歌謡曲のレコードもザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」だったし。リアルタイムで接した『パパ・ヘミングウエイ』、『うたかたのオペラ』でその強烈な存在を知り、遡って触れたサディスティック・ミカ・バンドのアルバムで、高校時代に加藤和彦に夢中になった。小生がマスコミの仕事を始めてからの20年間が、ちょうど加藤和彦氏の音楽活動が寡作化するころと重なったこともあって、ご本人へのインタビューが果たせなかったことを本当に残念に思う。
 NHKの緊急特別番組も終わったが、それを見て井筒和幸監督の『パッチギ!』に出合えたのは、最後の幸運のように思った。ずっとご本人の意志で廃盤になっていたというヨーロッパ三部作も、数年前に『ストレンジ・デイズ』誌の主導で紙ジャケ復刻化も叶った。YMOが参加しているワーナー・パイオニア時代のシングル曲「ソルティ・ドッグ」など、まだ未CD化の曲もあったりするが、おそらく近々には業界をあげての復刻追悼企画が組まれることとなるだろう。そんなここ数日のトピックの中でワタシがもっとも驚いたのは、有志の方が追悼の意を込めてアップロードしたと思われる、85年代々木国立競技場で開催されたイベント「ALL TOGETHER NOW」の、サディスティック・ユーミン・バンドの記録映像である。実はこれ、公式にはほとんど存在しないと言われた内覧用のもので、某トークライブハウスのはっぴいえんど復刻イベントで一部ゲリラ上映されたり、たまにヤフオク海賊版が出品されたりするぐらいしかアクセス方法がない、ワタシも持ってない貴重なものなのだ。はっぴいえんどの再結成が果たされたのも、このイベントが唯一であり、当時、メンバーの細野晴臣氏が準備していたノンスタンダード・レーベルが音楽監修。「さよならアメリカ、さよならニッポン」をヒップホップ風ヴァージョンに改訂するなど、昨今のレイドバックした再結成ブームとはひと味違う、批評的な試みにファンは唸らされた。加藤和彦組のほうは、坂本龍一ら一部メンバーを入れ替えてミカ・バンドを再編。ヴォーカルには松任谷由実を立てた“サディスティック・ユーミン・バンド”で、「タイムマシンにおねがい」やソロ・シングル「シンガプーラ」などを披露している。基本的なアレンジを担当した教授は、はっぴいえんどの細野氏のラディカルなリアレンジの向こうをはって、アート・オブ・ノイズもかくやの過激なアレンジで名曲を再編していたのが印象的。このときの模様は、主催の民間放送連盟を通じて、協賛のニッポン放送、FM TOKYOなどラジオ局で放送されただけなので、こうして映像版が見られるようになったことには隔世の感がある。
 昨今のはっぴいえんど再評価の中にあっても、この「ALL TOGETHER NOW」の再結成のことはあまり話題になることは少ない。エイベックス・イオから出た『はっぴいえんどBOX』で、当時CBSソニーからアナログで出ていた実況録音盤『HAPPYEND』が初CD化されたのがきっかけで、後追い世代にも広く知られることとなった。初めてその過激な音を聞いたある若いはっぴいえんどファンは、「これがなぜ当時テレビで流れなかったのか?」「映像は残っていないのか?」と疑問を投げかけていた。このオールスターメンバーのイベントに、予算も潤沢にあるテレビが食指を動かさぬはずはない、と思うのは無理はないだろう。
 これについては、小生も少しだけ業界筋から話を聞いたことがある。イベントが行われた85年、I&Sの前身にあたる広告代理店でアルバイトをしていたワタシは、多忙な中で仕事をしていた関係で「ALL TOGETHER NOW」そのものには足を運んでいなかった。だが、その開催翌月に、ボブ・ゲルドフが世界のミュージシャンに声をかけて実現した一大チャリティ・イベント「ライブ・エイド」の放映権をフジテレビが獲得。24時間放送でそれをオンエアすることがアナウンスされていた。実は「ライブ・エイド」の放送権のセールスには、1/3程度の時間枠を自国にアーティストに割くことという条件があった。「ALL TOGETHER NOW」自体、そもそも「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」に始まる大物競演ブームにあやかって企画実現したところもあり、同じフジサンケイ系列のニッポン放送が主導して実現したイベントゆえ、その映像は「ライブ・エイド」で流れるだろうというのが大方の予測だった。実際、そのようにテレビ側から働きかけがあったという話も聞いている。しかし、満を持して放送を待った「ライブ・エイド」では、「ALL TOGETHER NOW」からの流用映像は一切流されなかった。主要なプログラムを構成した、スタジアムに参加ミュージシャンを集めたイギリス、アメリカ以外の国でも、カナダ、フランスなどは自国枠のためにフェス会場を用意して放送していたのに関わらず、日本だけはテレビ局のスタジオで客入れなしでやったという事実からも、ぎりぎりまで「ALL TOGETHER NOW」の素材を使うために動いていたのではないかとの見方もある。真相は定かではないが、「ALL TOGETHER NOW」出演者の数名が「あれはチャリティ・イベントではないので」という理由で、チャリティ目的の「ライブ・エイド」への映像貸し出しを許可しなかったというのが、ワタシが広告代理店で働いていた時代に、関係者から聞かされた理由であった。
 しかし、「ALL TOGETHER NOW」がテレビで流れなかったのには、もうひとつ別の理由がある。はっぴいえんど、サディスティック・ユーミン・バンドなど、日本の歴史的グループの再結成を果たすために、もっとも尽力したのが、当時ニッポン放送の制作局チーフだった亀淵昭信氏。彼は『オールナイトニッポン』の初期人気パーソナリティ時代に、ザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」を深夜放送でパワープレイして、ミリオンセールスの橋渡しをした存在。小生も学生時代は深夜放送ドップリだったのでよくわかるが、当時、若者たちに支持されていたような新しい音楽は、常にラジオとともにあった。78年に放送を開始した『ザ・ベストテン』などのテレビの音楽番組で、松山千春井上陽水さだまさしといったミュージシャンが、一様に出演拒否していたのを覚えている方も多いだろう。「1曲だけでは自分の音楽性が伝わらない」とヘ理屈をゴネてはいたが、それはあくまで建前で、ラジオには平気で出演して曲そっちのけで爆笑トークを繰り広げていた御仁である。単刀直入に言えば、彼らは「テレビが嫌い」だった。70年代初頭、井上陽水『氷の世界』が初のアルバム・ミリオンセラーになるなど、フォークが若者に支持された時代があった。テレビは流行遅れの歌謡曲しかかからず、もっぱらリスナーは彼らの新曲をラジオで楽しんでいた。そんな折り、アイドルばりの人気を誇っていた吉田拓郎をファンの一人が訴えた、有名な「金沢事件」というスキャンダルがあった。結局、それは一女性ファンの狂言だったが、これ幸いにと、フォーク勢の台頭を心憎しと思っていたテレビ局が一斉にバッシング。その背景には、レコード会社の主要アーティストを抱えていた芸能事務所団体が糸を引いていたという話もある。それほど音楽番組は芸能界一色で、テレビ局には彼らの居場所などなかったのだ。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』でも少し触れているが、80年代初頭のテクノポップ・ブームの折り、P-MODELヒカシューらがレコード会社に所属する際に、洋楽部と契約していたのにも同じような理由がある。当時の邦楽部とは「=芸能界」で、邦楽部にする宣伝担当には、アイドルを売り込むことはできても、ロックやニュー・ウェーヴをセールスする能力はなかった。先の加藤和彦がワーナー・パイオニアと79年に契約したのも、かつてレッド・ツェッペリンなどの担当A&Rとして名を馳せた折田育三氏がいた洋楽部である。80年代初頭のレコード会社はまだ、それほど70年代的な芸能界体質がレコード産業を支配していた。『ザ・ベストテン』のフォーク勢の出演拒否にも、そんな背景がある。「ALL TOGETHER NOW」が開催された85年は、まだラジオ局はヒット生産工場として、テレビの音楽番組以上に流行をリードするパワーがあった。当時、ニッポン放送は、まだフジテレビの親会社であり、「ALL TOGETHER NOW」はあくまでニッポン放送主導で実現したイベントだった。プロデューサーだった亀渕昭信氏はその後、ニッポン放送の社長となるが、いわずとしれたニッポン放送×フジテレビの腸捻転解消を画策した、テレビ局の株式公開で起こった「ライブドア事件」の一件で、同局を後にする。亀渕氏、そして彼が実現させた「ALL TOGETHER NOW」は、「ラジオが元気だった時代」「新しい音楽がラジオとともにあった時代」の象徴的存在だったのだ。



 ご覧のように、映像はマルチカメラ収録ではあるが、あくまで記録資料として残されたもの。実況録音盤『HAPPYEND』が権利関係の問題でなかなかCD化されなかったのを思えば、これらの映像がリリースされることは未来永劫叶わないだろう。そういう意味では、動画共有サイトにおけるゲリラ放送は、ファンにとって歴史を知るための重要なメディアである。と言うわけで、11月11日の新宿ロフトプラスワンのゲリラビデオ上映会もまた、歴史を再度目撃するための重要な日になるだろう(なんつって)。