POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

ロック界の「改宗」問題について考える

 先日、日本のネオアコの源流的な動きが、ニュー・ウェーヴのゴシック時代の反動として登場したのではないかと私は書いた。それは内なるものとして静かに作品に現れたのではなく、突如風景として目の前に登場したのだ。その実例が、Jラップの誕生だ。「誰が最初にアディダスを履いてムラサキスポーツを着るか?」。そう近田春夫氏も語っていたけれど、メンバーの大半がすでに結構いい歳だったと思うのに、その実践がヒップホップの夜明けにおいては重要なテーマだった。ジャンルとは、単なる音楽のスタイルではなく、生き様の表明だったのだ。だから、日本のネオアコの生起にも、アニエスbオムのようなファッションの記号が重要だった。ある意味、音楽よりもだ。昨日まで、ゴシックメイクの黒装束でキメていた友人が、ある日突然、ダンガリーのチェックのシャツに半ズボンで「やあ!」と登場するみたいな……(笑)。結構、受け手的にはショッキングな出来事ではあったが、それは決意ある表明だった。好きなジャンルを乗り換えることは、iPodのプレイリストを切り替えるような気楽なものじゃなかった。それを私は「改宗」と書いたのだが、同時代の方々なら、言いたいことがわかっていただけると思う。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』でも、70年代末のパンク、ニュー・ウェーヴの登場時の音楽業界の混乱を、できるだけ鮮明に書いたつもりだ。セックス・ピストルズに衝撃を受けた音楽ライターが「長かった髪を切り、アメリカン・ロックのレコードを捨てた」という表現は、あの時代のありふれた風景として記憶される方も多いと思う。「なにも、捨てなくてもいいじゃん」と若人は言うかもしれない。許せ。当時は、それだけ他ジャンルに越境するのに勇気がいったんだから。ちょっとでも裏切り者として目を付けられたら、エンガチョは必至だったし。
 唯我独尊だった老舗『ミュージック・マガジン』や、70年代中期からごく普通にジャーマン・ロックを載っけてた『ロック・マガジン』などはあくまで少数派で、大手の『ミュージック・ライフ』『音楽専科』などの大衆音楽誌では、パンク、ニュー・ウェーヴを取り入れるのにずいぶん時間がかかったと思う。そもそも日本で最初にパンクを紹介したのは音楽業界の人ではなく、ウチの週刊誌の表紙の撮影でもおなじみの、カメラマンの「ネバダ穣二」こと小暮徹氏である。大貫憲章氏も、立花ハジメ氏もみな、77年に渡英してセックス・ピストルズ勝手にしやがれ』を輸入盤でおみやげに買ってきた、小暮氏の証言でパンクの存在を知ったのだ。ファッション誌のカメラマンだった小暮氏が日本のパンク紹介の第一人者になったことが、日本の音楽ジャーナリズムの人たちを意固地にさせたのだろうか。79年ごろの音楽誌の表紙を見ても、半分意地でやってんのかとよ思うぐらい、アメリカン・ロックのミュージシャンを使っている。まあ、70年代末はそういう混沌とした時代だったのだ。
 テクノポップの俊英と言われたP-modelヒカシューらが、それぞれ大手と契約を結びながら、ともに洋楽部に所属させられたというのも、当時の邦楽畑のプロモーターに、彼らの音楽をセールスする知識やスキルがなかったためである。いや、それはあの時代に限った話じゃない。ピチカート・ファイヴが佳作を量産し、カーネーションやコレクターズが戦力に加わった90年代中盤の日本コロムビアだって、社員の平均年齢は40歳前後だったっつー話。いつの時代も先鋭的なミュージシャンは、営業部隊やマスコミの無理解に悩まされてきたんじゃなかろうか。
 私と会った人が、よく私を東京出身と勘違いされることがあるが、否である。当時の東京で行われていた出来事を、私はすべて島根県の片田舎でチェックしていた。糸井重里好きを公言していたが、「人間だったらよかったのにね」という学生援護会のCMも見たことなかった。民放3つかなかったし。だから、当時の記憶が鮮明なのかもしれない。再編メロンの最初のフォノシート(『電子音楽 in the (lost) world』参照)も、ピテカントロプス・エレクトスの通販で定額小為替で買った。カセットブックのTRAだっていつも通販だ。まあ、だからこそ、今でもeBayなんかで買い物する時、面倒くさい手間もまったく厭わないわけだが。しかし、地方出身者の十字架を背負っているから、ニュー・ウェーヴに立ち向かう気負いがハンパじゃなかった。それでまあ、東京出身みたく見えるわけだな。
 実は私も、ニュー・ウェーヴな反逆の季節を迎えるまでは、結構普通のよい子であった。学級委員も長らくやっていた。面白い学級委員を目指してたりもした。映画が好きだったので、好きな音楽は映画音楽と、かなりヲタな感じであった。いや、モリコーネとか、そういうオシャレなやつじゃないので……(笑)。邦画も普通に好きだったので、日本のジャック・ニコルソンこと、武田鉄矢に一時のめり込んでいた(大地康雄はまだデビューしていなかったはず)。だから、最初に好きになったバンドが海援隊だ。「母に捧げるバラード」の、である。宝島社の『音楽誌がかかないJポップ批評』でも、その話を開陳したことがある。バカにするなかれ。初期のアルバムに入ってるモノローグ入りの曲とかは、ちょっとクリムゾンのピート・シンフィールドを彷彿とさせたりする。「あんたが大将」がヒットして予算が使えるグループだったので、バッキングを密かにサディスティック・ミカ・バンドがやってたりして、結構豪華である。明らかに高中正義っぽいギターソロも聴けちゃったりする。人気がピークのころの日本武道館ライヴ『一場春夢』なんかは、バックやってんの和田アキラのプリズムだから。福岡時代、海援隊結成前の武田鉄矢はディープ・パープルのコピーバンドにいて、イアン・ギランを目指したっていう話だから、結構ロックだったのだ。「贈る言葉」の千葉正臣の曲のほうが有名だが、もう一方の中牟田俊夫の曲なんかは、今でも結構聴けると思う。解散ライヴのLDだってたまに観ることもあるぐらい。
 よくわかんないか……。でも、こういうチラシの裏にこそロックの真実があるんだよ。先日、エレックの復刻シリーズでつボイノリオジョーズヘタ』が初CD化されたのだが、あの有名な「金太の大冒険」なんて、ノークレジットだけど演奏は四人囃子だし。歌詞に思わず吹き出して、演奏を何度も録り直したと岡井大二が語っていた。木曜日のオールナイトニッポンは、その前の「真夜中の辞典」の自切俳人も聞いていた。お笑いの面で多大な影響を受けたのはなぎら健壱なのだが、当時ソニーから出ていたアルバムなんか、裏ジャケットに「シンセサイザーは使っていません」と書かれていて、クイーンやデヴィッド・ボウイを意識してるのかと思わせる。なぎら氏が出演話を断らずに金八先生やってりゃ、今は大地主になったと思うのに。有名な「およげ!たいやきくん」のB面を歌っていたことも有名だが、子門真人はギャラ2万円まるまるもらえたけど、この人は事務所に入っていたので、源泉徴収取られて1万8000円しかもらえなかったとボヤいていたので、つくづくついてないのだな。
 とまれ、そんな私であるから、ニュー・ウェーヴの季節には当然、それまでの趣味を気恥ずかしく思い、持っていたレコードを突然リサイクルショップに全部売り払ったりして(近くに中古レコード店というものがなかったのだ)、大声でニュー・ウェーヴ改宗を宣言したものだ。なぜか母親がそれを悲しんでいたのが心に残る。今頃になって郷愁を感じて、海援隊のテイチク時代のアルバムなんかを集め出したりしてるんだが、東京はもうほとんど中古レコード店というのが消失してるから、けっこう見つからなかったりして困る。
 今のヤングが読めば、「改宗」などナンセンスに見えるかも知れないが、それは80年代末のバンドブームのころまでは残っていたように私は思う。ロックとは見栄の文化だから。
 当時、私がいた『宝島』は、早くから日本のインディーズに門戸を開いていた雑誌で、ナゴム、AAなどの初期から“インディーズの専門誌”と言われていた。バンドブームのころに部数を伸ばし、一時は30万部を超えていた。私が呼ばれたのは、広告が溢れるっていうんで、月2回刊になったばかりのころだった。初期はゼルダのチホ嬢など、ミニコミ出身のライターが戦力になっていたが、刊行ペースが短くなれば、当然書き手不足になる。それで『宝島』はあのころ、ライヴハウスに来ていた、ちょっとマスコミに興味のある女の子らをスカウトして、ライターやカメラマンとして大量にデビューさせていたのだ。なにしろビートパンクに強い専門ライターはまだ数が少なかったし。男のライターと違って理屈で動くわけじゃないから、フットワークも軽い。バンドと仲良くなってもらえれば、特ダネネタももらえるメリットもある。わりとうまく機能していたのだ、あのころは。
 ところが、バンドブームも長くは続かなかった。私がいた2年目のころはすでにブームは消沈していたのだが、大量にデビューしちゃったビートパンク好きの女の子ライターは、その後どこに行ったのか。実は、けっこうな数の子が「渋谷系」に改宗しちゃうのだ……(笑)。ナゴムなどのニュー・ウェーヴからの転身組はうまくイケたかも知れない。スチャダラパーのシンコ氏などもナゴムあがりだ。当のケラ氏がLONG VACATIONを結成してピチカート・ファイヴみたいになっちゃうわけだから、元々素地があったのだろう。しかし、多くのビートパンクあがりのライターが書いた渋谷系のアーティストの原稿は、当時の私を困惑させた。渋谷系とは半分ファッションのムーヴメントでもあったから、見た目を揃えるのは案外難しくないのかもしれない。だが、意匠のみならず、フランス映画、ペーパーバック、アメリカのロスト世代文学など、参照例は多方面にわたり、渋谷系を成り立たせる教養をものにするのは、一筋縄ではいかなかったと思う。あれは、育ちが産んだ文化だと私などは思うからだ。
 しばらくたってからだが、こんな話があった。HMVのフリーペーパーで、コーネリアスのデビュー・アルバムのインタビューが載った時のことだ。ライターは当時『宝島』でよく書いていたK嬢だった。そのころ、お決まりのように聞かれていた「コーネリアスという名前はどこから付けたか?」という質問があった。私ら映画少年はだいたい知っていた。その年の正月にテレビ朝日で『猿の惑星』の連続放送があって、大槻ケンヂもよく「コーネリアス!」って叫ぶのをギャグにしていたから。半分はたぶんそれで、半分は『ソウル・トレイン』のドン・コーネリアスから付けたんだろう。ところが、インタビュアーの質問に対し、小山田氏は「般若心経の一節から付けた」と、からかい半分で答えたのだ。「般若心経に“こうねんりあす”という言葉があって、有り難いお言葉なので、それを授かった」と。フリッパーズの古いファンならば、彼らの取材がインタビュアーのインテリジェンスを測るような、一筋縄ではいかないものというのを知ってるだろうから、「いやそうじゃなくて……(笑)」とでも返して、真実を聞き出せばよかったはず。しかし、当時の若手ライターたちは、ライターと言っても、大半がアーティストが一方的にしゃべることをただ記録してまとめるだけが精一杯だったと思う。だからその後、その小山田氏の発言がそのまま誌面に掲載され、のみならずインタビューのタイトルが「名前は、般若心経からつけたのさーー小山田圭吾インタビュー」となっていて私を卒倒させた。編集者もスルーだったのか? HMVって、そもそも渋谷系の総本山じゃなかったっけ?
 その後、多くのライヴハウスあがりのライターたちは、少しずつ渋谷系から距離を取り始めた。当然だ。元々、無理があったのだろう。で、その後どうなったかというと、かなりの数のライターが、できたばかりのJリーグのサポーターやストリート系の笑いのウォッチャーへと「改宗」していったのだ。