POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

暴論! 続・テクノとネオアコは異母兄弟である

 先日、フリッパーズ・ギターを手掛けたプロデューサーのM氏にお会いした件はここで紹介した通りだが、いろいろ当時のお話を伺っていた中で、一つ興味深い話があった。フリッパーズの初期の取材に於いて、彼らのサウンドに対するマスコミの無理解が相当酷いもので、それが少なからず後の変遷に影響を及ぼしているのではないかという話である。現在、集中的に取材に応えておられるようなので、今後雑誌などのインタビューでその具体について語られていると思うので、ここでは詳細には触れない。ただ、これには私も思い当たる節がある。95年に週刊誌時代にやった「ロック25年目の功罪」という特集の中でも、日本のロック史の中でフリッパーズの登場を大きく扱っているのだが、当時「すべてが英詞」でデビューしたグループというはかなり異色であった。これは、YMOがアルファレコードから登場したのと同じぐらい、ポリスターという傍流というかカウンター的なレコード会社からデビューしたことと大きく関わりがある。また、先日も書いた通り、『ミュージック・マガジン』『ロッキング・オン』などの主要音楽雑誌が、コンパクト・オーガニゼーションやクレプスキュール、チェリー・レッドなどの英国のインディーズに無知であったために、当時の彼らのサウンドを成り立たせている背景に踏み込んで、そのユニークさを正当に評価できなかったということ。そして、もっとも彼らが無理解にさいなまれたのが、主にヴォーカルにまつわる非難である。いわく「軟弱である」と。これと同様のケースを私は知っている。高橋幸宏氏の78年リリース当時の『サラヴァ!』評だ。ピエール・バルーアヴァンギャルド性に着目したこのフェイク・フレンチの面白さは、アプレ・ミディのコンセプトを25年先駆けているものとして今日は評価されているが、発売時には「軟弱」「気取ってる」とさんざん酷評を受けているのだ。幸宏氏のパーソナリティを知っているファンからすれば、それが彼特有の屈折したパンク精神の発露であることがわかるのだが、マスコミはそういう一面的な評価軸しか持っていない。フリッパーズが直面したのは、その22年前の『サラヴァ!』から一切成長することがなかった保守的なマスコミの論調であった。
 最近、雑誌で「ネオアコ系」特集が組まれることが多いが、そこで総括されているのは、勉強家でDJ耳を持ったミュージシャンのセンスによる“選択”が歴史を作ってきたという、エリートな自意識の一面のみである。いや無論、ネオアコというムーヴメントの生起がポストパンクにあり、シュガーコートされたサウンドの内側に、屈折したパンク観が宿っているものであったことは、ある程度理解されていると思う。ただこれも、そうした物わかりのよさで、イギリスのポストパンクのグループのように彼らを扱うのは、それはそれでお勉強の成果というか、どっか居心地悪く感じるところがあるのだ(天の邪鬼ですんまへん……)。
 フリッパーズ・ギターという語感の爽やかさが、誤解を植え付けさせる要因だと言われれば仕方がない。じゃあ、旧名のロリポップ・ソニックではどうかというと、それがコワモテのグループ名(西海岸サイケのロリポップ・ショップ+東海岸パンクのソニック・ユースから命名)だと思うのはごく一部で、「ソニックロリポップなグループ」と片づけられていただろう。当時一ファンでしかなかった私には、中期以降〜解散までの屈折観が、そうした初期マスコミの無理解にあったということを知るよしもなかった。そっか、初期はもっと普通に素直だったのか……(笑)。
 バンドブームのころに人気を博した『イカ天』(TBS)という番組で、登場するバンドに司会の三宅裕司氏がインタビューするコーナーがあった。安っすいポップロックをやってるようなグループが、インタビューだけはいっちょ前に記者会見時のジョン・レノンよろしく、審査員を煙に巻きながら「俺ってロック」と陶酔している姿はさんざん見てきた。ある時期から、そういう態度が“ロックのお作法”として広まってしまった。だが、「ビートルズの態度」というのは、女性ファンによって支えられていた彼らをやっかむ英国マスコミの誹謗に対する、彼らの屈折から生まれたものである。これは後年の話だが、エピックから『タングルド』で復活したニック・ヘイワードが、筋肉ムキムキのマッチョで再登場した時、インタビューで身体を鍛え始めた理由を聞かれ、爽やかだったヘアカット100時代の舞台裏で、辛辣な暴力的差別にあったことを告白していた。『風のミラクル』を熱愛するリスナーとして“失われた青春”に深いため息をつくしかなく、これは根の深い問題だと思った。
 フリッパーズ・ギターのヴォーカルが小山田氏になったのは、どういういきさつだったかはわからない。ベルベッツのような音を出していたビロードのころは、専任ギタリストだから。作曲者が歌う形式のはっぴいえんどのように、“消極的”な理由で選ばれたようにも見える。グループの前身名からわかるようにメンバーはパンク、ネオ・サイケを好んで聞いてきたんだし、小山田氏のルーツはハードロック一色である。それで思ったのは、自らの声質というものが、彼らのサウンド・スタイルを規定してきた部分があるんじゃないかということ。大貫妙子J-WAVEの番組は私も好きでよく聞いているが、毎週かかっている彼女のルーツである70年代のハードロックの選曲について、ボサノヴァやフレンチなイメージを持つファンからたびたび理由を聞かれるらしいのだが、「私も声がこんなんじゃなかったら、ハードロックをやってたと思う」と答えていたのと、同じような理由を感じるのだ。
 70年代末のころ、もんた&ブラザーズもんたよしのりが、幼かった高音の声を煙草でつぶしたり、柳ジョージがバーボンで喉を焼いたり(違ったっけ?)、ロック・ヴォーカリストを極めるには、人体改造もかくやという大きな決断があった。以前の別エントリーでも「ロックの改宗」について触れているが、iPodのプレイリストのようにサウンドスタイルを変えることなど許されず、ファッション一式を総取っ替えするするというような、それぐらい切実な決断が求められた時代だった。吉田美奈子氏がゴスペル・スタイルで再登場した時に、声自体の発声法を変えていたことにも、同じような決意と一抹の寂しさを感じたものだ。
 声にまつわる問題は、実はあまり触れられることが少ない。これは私がある本で読んだ知識なのだが、人間の性格決定には、親から受け継いだ遺伝子による「先天的要因」と、育った環境による「後天的要因」が関係している。実はこの2つの間にあるものとして、体の形質による性格決定というのがあるのだ。例えばその一つに声がある。小学生時代、クラスで一人だけ低い声に生まれた子というのはコンプレックスが強く、それは「先天的要因」でありながら、持って生まれた気質ではなく、環境の中で「後天的要因」によって“おとなしい性格”へと誘導されてしまうというようにだ。
 フリッパーズ・ギターでも、実は初期の『THREE CHEERS FOR OUR SIDE~海へ行くつもりじゃなかった~』『カメラ・トーク』における小山田氏の声の役割は大きい。彼の少年のような声はフィクションとしてのネオアコサウンドを成り立たせるための、重要な構成要素になっている。しかし、『ヘッド博士の世界塔』になると、マッドチェスター・サウンドの黒いビートとの組み合わせにはかなり違和感が出てくる。後にコーネリアスになって、半分をインストが占めるようになることなどを思えば、小山田氏の声に依拠したサウンドは、ごくごく初期のフリッパーズの作品に集約されているという気もする。「ヴォーカルが先か?」「ネオアコが先か?」については資料がないが、彼らにネオアコサウンドを選ばせたのが、小山田氏の声だったではないかと思うところがある。
 こうした声の問題でいちばん有名なエピソードに、細野晴臣氏のジェームス・テイラーの発見があるだろう。細野氏も生まれながらの低い声にコンプレックスを感じており、デビュー時には小坂忠氏という天賦のヴォーカリストの声を借りて表現していた時期がある。小坂氏はロック・ミュージカル『ヘアー』の日本版のオーディションにも選ばれ、それがエイプリル・フール解散の要因にもなっているわけだから、どれだけロック・ヴォーカリストとしてあの時代に引き合いがあったかがわかるはず。だが細野氏はその後、ジェームズ・テイラーの朴訥とした歌い方に啓発され、歌う喜びを知った。名盤『HOSONO HOUSE』はそうして生まれたものだ。ビロード時代はまだラウドなギタリストでしかなかった小山田氏が、ネオアコと出会ってヴォーカルを選び取ったことにも、同じような幸せな出会いを想像させる。
 坂本龍一氏も当時ラジオで語っている通り、奥歯が欠けていて発声が明瞭でないために、声にずっとコンプレックスを持っていたという。初期YMOのころヴォコーダーで声をカムフラージュしていたのもそれが理由だと思う。だが、ガチガチの理論派キーボーディストのようにインストゥルメンタルに埋没せず、『サマー・ナーヴス』で自らアントニオ・カルロス・ジョビンのように歌っているように、“歌”によるの表現に希望を持った作曲家であることがわかる。それは数々のヴォーカリストのプロデュースや、近作『オペラ』まで一貫していると思う。加えて、YMOがディスコからニュー・ウェーヴに移行する時に、倍音の多い高橋幸宏氏の声を借りて見事な転身を果たしたという部分でも、“歌”が音楽にもたらしている影響は大きいだろう。はっぴいえんど時代の小坂忠氏、ティン・パン・アレイ時代の矢野顕子氏と、天性のヴォーカリストの力を借りてきた細野氏の変遷には、常に“ヴォーカル”に対する深い畏敬を感じさせる。だからこそYMOが、デビュー時にインストバンドというスタイルを選択したということの意味は大きい。3人がテクニシャン集団でありながら、一切の演奏をコンピュータにまかせていたという、サウンド・スタイルの成り立ちと同様の、ロックへの決別意識があるように見える。
 幸宏氏が自己主張の強い一般的なマッチョなドラマーではなく、スクエアなビートを叩くことに喜びを見出すタイプであったのと同じように、YMOのメンバー選定がいかに絶妙だったか。それはヴォーカリストを招かなかった(ごく初期はティーヴ釜萢や吉田美奈子もいるが、まあそれはそれとして)ことにも、YMOが特殊な変遷を辿っていく大きな要因になっていると思う。というのも、テクノポップのルーツであるジョルジオ・モロダーサウンドというのが、シークエンサー・ビートに黒人女性のパワフルなヴォーカルを載せるというパッケージになっていて、それは後のヤズーのアリソン・モイエなどに至る、欧州のテクノ・サウンドの典型でもあったのだ。「ヴォーカリスト不在」な中で、グループのメンバーが消極的にヴォーカルを選ぶという流れは、YMOフリッパーズ・ギターの成り立ちをダブらせて見えるところがある。換言すれば、それがアマチュアイズムの精神というか、プロフェッショナルな世界に回収されないことが、テクノポップなりネオアコなりを面白くしていた要因になっているというか。
 私がよけいにそう思うのは、86〜87年に音楽雑誌『Techii』にいて、ピチカート・ファイヴとワールド・スタンダードという2つのグループの変遷を間近で見てきたことにもある。小西康陽氏と鈴木惣一郎氏は、一時期はいつもいっしょにいるほどの仲良しで、ある時期から距離を持って活動し始めたものの、2人の感性はすごくよく似ていると思うところがあった。例えばピチカート・ファイヴが『カップルズ』を出すと、エヴリシング・プレイ(=ワールド・スタンダード)が『ルール・モナムール』を出すという具合に。前者がニール・ヘフティをやれば、後者はフランソワ・ド・ルーベをやるというような、お互いのテリトリーを犯さないのは彼ら流のマナーとしても、グループの変化はすごくよく似ていた。ただ、ピチカートの佐々木麻美子氏(当時)に比べると、ワールド・スタンダードの大内美貴子氏、高瀬類子氏は、ずっと歌が上手かった。そこが2つのグループの一番の違いだった。だが当時の私には、前者のほうのヴォーカルに、よりサウンドとの一体感を感じさせたのだ。これは、コンパクト・オーガニゼーション、クレプスキュール時代のハンドメイドなテクノポップの有り様でもあり、エル、サラレーベルなどのネオアコ系バンドのDIY精神に通じるものがあると思う。
 アメリカではロック=ヴォーカル音楽と言われるほど、声が支えている要因が大きい。また、ヴォーカリスト特有の性分というか、ある種のハレンチな気性が、ロックの歴史を面白くしてきたところもある。細野氏と小坂忠氏、坂本氏と忌野清志郎氏、上野耕路氏と久保田真吾と言うふうに、“ロックにおける声”の重要性を深く理解している作曲家たちは、信頼するヴォーカリストとの仕事で真価を発揮してきた歴史がある。
 『電子音楽 in JAPAN』の松浦雅也氏のインタビューの章に出てくる、PSY・Sというグループの成り立ちも、これに近い印象がある。ジャズ、ファンク畑にいたパワフルな女性ヴォーカリストを招いたことで、テクノポップの最大のハンデであったヴォーカルの弱さを克服し、デビューしてすぐに「和製ヤズー」として高い評価を得た。だがそれでも、彼らも端境期にいたグループ特有の屈折を味わっている。元々関西で活動していたPSY・Sは、デモテープなどではすべて英詞で歌っていたのだが、東京から発信される日本のマーケットで自らの作品を“商品”として捉え直ししなければならない時代の要請の中で、歌詞を日本語に改めてデビューするのである。しかし、デビュー作『ディファレント・ヴュー』では、英語アクセントで作曲された曲ゆえにどうしても齟齬があり、彼らは次作『PICNIC』で、日本語で歌うことを優先すべく、作曲法自体を改めるのだ。“テクノ・ユーミン”と呼ばれた変身後のPSY・Sは、短期間でチャートの常連組になるという成功を勝ち取る。だが、松浦氏はこう語っている。「岡村靖幸が登場する以前は、ラジオで聞いて歌詞が何を歌っているか聞き取れないのは許されなかった」と。現在の日本の音楽シーンでは、歌詞の不明瞭さなどある程度雰囲気として受容されるようになったと思うが、それもおそらく、桑田佳祐氏や岡村氏らが戦ってきたことの功績が大きいだろう。それ以前は日本語で表現するためには歌詞を明瞭に歌うことをは必須であり、歌謡曲、ニュー・ミュージックなどの既成のスタイルに依拠する形でしか、日本のチャートポップスは存在しえなかったのである。だからこそ、フリッパーズ・ギターが英詞でデビューしたのには、そうしたプロダクツに取り込まれないためのひとつの処し方にも見える。それこそが、反逆児として存在した彼らの本質を捉えたものだと思っている。
 それともうひとつ、ネオアコテクノポップ、つまりフリッパーズ・ギターYMOと大きな共通点がある。前者のプロデューサーM氏の存在が、YMOの後見人であったアルファレコードの社長、村井邦彦氏のように見える部分があるということだ。この2人のプロデューサーは、それぞれグループと関わる以前から日本のソフトロック界を支えてきた重鎮である。YMOにおける村井氏の貢献については『電子音楽 in JAPAN』を参照していただければと思う。M氏についても、フリッパーズ・ブログやインタビュー記事をあたっていただくことをお薦めするが、当時のエピソードで私をいたく興奮させたのは、セカンドの『カメラ・トーク』をロンドンのエアー・スタジオで録音したことだ。ピートルズを育てたジョージ・マーティンが設立した、極めてエスタブリッシュな名門スタジオである。ルイ・フィリップやディーン・ブロデリックらエルのメンバーのバッキングで新作を録音するというのはメンバーのアイデアだろうが、エルの主要作品が生まれたホーム・スタジオではなく、あの名門エアーで録音するという、なんという屈折! おそらく、エルのメンバーにとっても、一生に一度の体験に緊張したことだろう。こういった実験が音楽を面白くするということを、この2グループのプロデューサーはよく知っているのだ。

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