POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

音楽史の中でテクノ・ミュージックを語るということ




 前回紹介した「テクノ歌謡」30周年を記念した11月からの怒濤のリリースについて、今回は第1弾としてここに情報を載せてPRしようと思っていたのだが、まだ未確定な要素が多いため見送ることにした。その代わり、音楽ポータル「ナタリー」のご厚意で、先に詳細を告知してもらっているので、ぜひそちらを参照いただきたい。「Perfumeニュースならここ」との定評もある、テクノ系に強いナタリーで先行情報を取り上げていただけたのは心強い。おそらくPerfumeを支持しているナタリーの常連読者にとっては、「テクノ歌謡」シリーズで取り上げているイモ欽トリオスターボーなどの音楽は、同じテクノといってもまったく別物に映るのだろうな。今春、Perfume『GAME』オリコン1位になった話題が、思ってた以上にニュース番組などで取り上げられて私は驚かされたが、「初登場1位はYMO以来二十数年ぶり」「Perfumeは平成のスターボー」といったフレーズは、送り手に多いのだろうリアルタイム世代の思い入れというか勇み足によるもので、実際にPerfume世代に、どれぐらいまともに、それがかっこいいと受け入れられるかに小生はとても興味がある。
 ナタリーで紹介されている通り、新宿ロフトプラスワンで11月30日に行われる「テクノ歌謡」イベントと同日、扶桑社から『テクノ歌謡ディスクガイド』という単行本が発売される。私が関わっているといっても制作進行に過ぎず、実際に編集を担当しているのはユービックという編集プロダクションである。数年前、別冊宝島で出た『モーニング娘。バイブル』という10万部近くを売った2冊のムックを編集していた集団で、その博覧強記ぶりというかパワフルさに敬服して、今回『テクノ歌謡ディスクガイド』の編集を彼らにお願いしたのだ。といっても、モーニング娘。ファンの世代が集まってできたユービックのスタッフは、全員がまだ20代。80年代初頭の「テクノ歌謡」の時代をリアルタイムを知っているわけではない。しかし、心配には及ばない。私の友人である音楽考古学者集団・土龍団の面々が、遅れてきた世代でありながら60〜70年代の書き手がものすることができなかった貴重な歴史を、丹念な調査によって編み上げたように、私は若い世代のパワフルな面々が「テクノ歌謡」の新しいバイブルを作ってくれることに期待している。というか、私と同世代で「テクノポップが専門」なんて言ってる音楽ライターにまともなやつは一人もいないから。「テクノ歌謡」という名称についても、昔、同コンセプトのコンピに関わってスタッフに散々な目にあったので、私自身の仕事では“歌謡テクノ”などの別の言葉を用いていたのだが、「そんなややこしいのは読者には通じない」「テクノ歌謡はすでに一般名詞。誰のものでもない」と諭してくれたのは彼らである。また、本書はPerfumeブレイクが刊行のきっかけになったものではあるが、昨年末には「初音ミク」ブームがあったり、ニコニコ動画が登場して、スターボー真鍋ちえみの映像が気軽に見れるという数年前にはありえなかった環境ができたことが、プラスの追い風になっている。むしろこれらの動きをリアルタイムで知っている20代のライターらしい、ネット世代の博識を発揮して、過去のくだらない「テクノ歌謡」ものを一蹴して、初音ミクや電波系、同人音楽、ポストPerfumeの一群についての考察を盛り込んでもらえればと、私もできあがるのを楽しみにしている。
 いいだしっぺの小生も、まったく書き手として参加してないわけではなく、編集部から依頼を受けて、主に「テクノ歌謡」前史あたりについて匿名で書かせてもらっている。10年前の「テクノ歌謡」コンピ、関連本は、ただのコミックソングや、歌謡曲でもなんでもないバンドまで混同した酷いものだったし、私が編纂した『イエローマジック歌謡曲』も80年代に焦点を絞った、レイドバックした歴史観を持たないものだった。しかし、今回の一連の「テクノ歌謡」シリーズは、Perfumeがブレイクした2008年から70年代末の誕生までを遡って帰納法的に捉えた、ひとつの歴史物になっているのが特徴。ソニー、ホンダが世界進出を本格化し、日本がジャパン・アズ・ナンバーワンと揶揄された80年代初頭に、時代の徒花として生まれた「テクノ歌謡」にも、今日のPerfumeブレイクまでには30年という長い歴史があったのだ。
 「歴史なきジャンル」と言われたテクノにさえ歴史がある、というものさしで語ることには、リアルタイム世代の私には感慨深いものがある。フュージョンの影響でロックが進化したAORの出現や、ミリオンセラーを量産する“産業ロック”の台頭によって、ロックの原初的な生命力が失われたとして、70年代末にロック本来の3コードに回帰するパンクなるムーヴメントが登場した。それまでもロック史は、実はブリティッシュ・ビート、サイケ、トラッド回帰、プログレ、グラムなど、音楽的な進化と原点回帰を繰り返してきた、いわば「親殺し」のような連なりの中にあったと言っていい。兄貴世代の価値観を打倒することで、弟世代が新秩序を打ち立てることにより、ポピュラー音楽の進化史は、大きくうねるダイナミズムを持つことができたのだ。しかし、テクノポップというジャンルには、眉間に青筋立てて社会を告発するパンクの一群を冷ややかにみているようなスタンスがあった。クラフトワーク20年代のSFイコンや戦前ドイツへのオマージュを用いていたり、日本のテクノポップ勢が手塚治虫的な脳天気さで未来を歌っていたとしても、けっして右翼的だったり明るかったわけではなく、そこには「もうそんな時代はこない」という絶望が貼り付いていたという気がした。メッセージで何かを変えようという意思すらないところに、パンク以上にテクノポップデカダンで絶望的であり、クールで過激に見えたのだ。テクノポップとはつまり、歴史を持たないところに意味があった。多くの音楽評論家が、長かった髪を切ったり、持っていた70年代のアメリカンロック名盤を全部捨てて、心機一転テクノライターとして再スタートを図るなんてことが、大まじめに行われたのがテクノポップの時代だったのだ。
 10年近く前、アスキーから出版されていた、『機動戦士ガンダム』に影響を受けた世代に向けたワンテーママガジン『G2O』という雑誌に、小生がゲストで迎えられることがあった。拙著『電子音楽 in JAPAN』が出たばかりのころで、同じ発行元だったよしみもあって、「ガンダムと音響」というテーマの鼎談に呼ばれたのだ。以前もここに書いた通り、『ニュータイプ』というアニメ雑誌で1年だけ編集者をやったことがある小生だが、基本的に『ガンダム』などのアニメを熱心に観てきたわけじゃない。他のパネラーが不得手ということで、電子音楽の大歴史を照らし合わせるための役回りでその鼎談に臨んだ。他の参加者は、いわゆるブリープ・ハウスなどに端を発する、90年代テクノのクリエイター、またはシンパのライターの面々。日頃、「テクノはよくわからない」と口にしていた小生にとっては、やはり本流がそちらとあってはいまいち飲み込みが難しく、未消化な対談で終わったという印象がある。もうひとつ、そこで感じた違和感がひとつあった。当時はまだ、コミケなどの会場でBGMに流されるのはアニメ主題歌が中心で、いわゆるアニヲタと呼ばれる人々は「音楽に疎い」のが定説とされていた。同人音楽というジャンルも生まれ、音楽的にも豊かなシーンを形成している今のコミケの姿からは想像できないかもしれない。そんな中で、「僕らは音楽にくわしい」と威張っている連中が、他のカルチャーに疎いアニメオタクと自らを差別化するために用いていたのがテクノ・ミュージックだった。
 イギリスのクラブシーンで生まれたブリープ・ハウスや、デトロイトのテクノ・ミュージックは、80年代のテクノポップから、ポップス、ロックの音楽的構造をさらに剥奪したもので、よりプリミティブに、脳やボディにダイレクトに効く音楽を志向していた。「テクノを聞いているとドーパミンが何グラム分泌される」などの物言いが持てはやされていたように、すでにそれは音楽ではない、機能的なものだったと思う。脳に直接プラグを差し込んで音の快楽を楽しむというような、SF的なヴィジョンに近いものを持っていた。当然、繰り返されるリズムはメロディーを持たず、ポップスの構造自体がにじみ出す歴史観を持っていない。ゆえにテクノ・ミュージックは、真に歴史と切り離されたものであることに意味があった。小生のように、テクノポップから70年代ポップス、その根源となったGS、フォークへと過去を辿っていくことの音楽的面白さに魅せられた「歴史好き」にとっては、突然変異として現れたテクノ・ミュージックは、取っ手のないヤカンのような、途方もないものに映った。今では多くの研究書も出ている通り、膨大なブラック・ミュージックのリファレンスがそこに影響を与えていたことが示唆されているが、当時テクノは「歴史を持たないジャンル」といわれており、それまでのロック愛好家の仲間同士の中で交わされていたような、知識によるヒエラルキーなどと無縁でいられたのだ。そんななか、当時会ったアニメオタクの人で「音楽にくわしい」という人は、たいていがテクノ愛好家で、よく聞くとロックの知識はほとんどなく、当然、リスナー歴を遡っても90年代までで終わっていた。ひねくれものの私は、「音楽にくわしい」と主張する彼らが、自らのテクノ趣味をほのめかして他のアニメオタクを差別化していたことに、本能的に薄ら寒いものを感じることがあった。以前ここのブログにも書いたと思うが、例えば新設高校の体育系の部活で、自分はしごかれた経験もないくせに先輩風をふかして後輩をバカにするような、人間的にうすっぺらなものを連想させたのだ。
 一昨日、『クイックジャパン』に載っていた中田ヤスタカ氏のインタビューを読んだ。『坂本龍一の音楽』などの著者として知られる、元『キーボード・スペシャル』(立東社)の編集長だった山下邦彦氏がインタビュアーだと友人から聞いて、興味を持ったのだ。記事自体はいつもの同誌と同じ、できあがった原稿をそのまま載せた“無編集”なもので、山下氏が発する楽典用語のフォローもない、読者にはいささか不親切なものではあったが、いつもはマスコミにガードが堅いように見える中田氏も、スコア解読をベースにした山下氏の理路整然とした問いかけに、わりと実直に回答していたのが好印象を残した。山下氏の一連の仕事は、スコアを通した音楽構造の分析が主体で、なにゆえにその曲が生まれたかを、対象を歴史の中に置いて語るというもの。中田ヤスタカがどこから現れた才能であるかを読者に伝えるべく、その影響下にあるものを言語化することに取り組んだインタビューであったが、このへんの質問になると中田氏の回答はいつも寡黙。「ほとんど影響を受けたものはない」の繰り返し。しかしそれが、小生が中田氏に信頼を寄せているところ。以前のエントリで長々とその理由を書かせてもらったこともある。彼が登場してきた“ポスト渋谷系”の時代に、「自分は何々に影響を受けた」「この曲は何々をリスペクトしている」とミュージシャンが饒舌に語り、その知識の多寡が競われ、できあがった作品は不問とされていたみたいな、知識合戦にウンザリしてた小生には、とても好感が持てるものだったのだ。それがおそらく、先に紹介した歴史観を持たないテクノ・ミュージック世代にとって、当たり前の音楽との出会い方だったのだろう。山下氏は私より上の世代だし、スコアをベースにしたものだから、今のテクノ世代のリスナーから見れば音響的な踏み込みが甘いと感じるのは仕方ない。電気グルーヴらの世代ですら、ミックスダウン、マスタリングだけはその筋のプロに任せているのに対し、中田ヤスタカは自らが完パケまですべて自己完結させる、次世代のテクノ系クリエイターである。インタビュアーの音楽ライターに、スコア分析+音響分析のためのテクノロジーに関する知識があって、初めて彼の懐に踏み込めるというやっかいな存在なのだ。
 アルバイト程度だが、音楽にまつわる文筆業をやっていていつも空しく感じるのは、こうした才能に出合ったときに、ライターには何も果たせることがないと思うこと。だいたいiTsでほとんどの曲が試聴でき、『bounce』みたいなフリペの充実している時代に、音楽雑誌なんて必要なのと問われれば返す言葉がない。そして、私が信頼しているミュージシャンの多くが、その創作の核の部分に、言葉に置き換えられないものを持っているという共通点があるということに、絶望的な思いに駆られることがある。過去にYMOのメンバーのインタビューをやらせていただいたことがある小生だが、例えばYMOの場合、メンバーは音楽ライター以上の豊かなボキャブラリで自らの音楽を解読してくれる。これは例外中の例外とも言えるものだと、私は思う。そもそも80年代のテクノポップ時代は、立花ハジメ氏を筆頭に、音楽コンセプトを自らが語る饒舌なインテリが多かったから、その時代の音楽ライターってご用聞きやってりゃ仕事になったんだよね。だから、テクノポップ系ライターに、頭を使ってこなかった、咀嚼力がない人が多いと思っているぐらいだ。中田ヤスタカ氏が、ピアノなどの楽器との対話から、具体的な何々の影響をうけることなく自らの作風を確立していったという話を、すごく真摯なメッセージとして受け入れている小生だが、と同時にそんな音楽に対峙して、音楽ライターの立場としてなんらそこに参加できないことに途方にくれてしまうのだ。
 しかし、私が『クイックジャパン』のインタビューを読んでいたとき、まったく別の思いが脳裏をよぎっていた。今春、いわゆる“パクリ問題”にまつわる大きなトラブルが業界内で起こって、一部の音楽マスコミを震撼させたことがあった。多くは語らないが、その教訓から例えばCM業界では、それまで作られていたCM用のオリジナル音楽を書き下ろすことが一斉に取りやめになり、ほとんどが昔のカヴァー曲に差し代わったと言われている。そのニュース自体はネット検索しても出てこないもので、想像にお任せするが、要点だけ書くと、「パクリという意識がなくても、たまたま似ていただけで訴えられてしまう」ことが現実に起こるということの恐怖である。この、オリジナル作者擁護というのは、80年代に右傾化したアメリカのレーガン政権時代から台頭したもので、常に利益はオリジナル作者に与えられるといういささか偏重したものである。これに対抗するには、方法は一つしかない。「似ているものがあるかもしれないことを自覚して行動する」……つまり、音楽の歴史を知るということである。権利裁判では先行しているハリウッドの映画界でも、「たまたまプロットが似ていた」ということで後から訴えられるケースが後を絶たないため、映画が制作される前に、似た脚本を事前にすべて買い上げるという慣例もあるほど。「たまたまプロットが似ていた」としても、すべてを把握して行動することなどどんな人間でも不可能。ゆえにハリウッド映画でリメイクものがはびこってしまった原因のひとつとも言われている(「訴えるならオリジナル作者を、どうぞ」というわけだ)。
 日本でパクリ裁判が大事にならないのは、もっぱら親告罪であるためで、パクったと訴える側だって「あんたこそパクっている側かもしれないよ」と言われれば潔白を証明できない疑念が、相互にブレーキをかけさせている。いわば、パクリ問題においてはお互いが同族ということ。よって日本には音楽の盗用問題で裁判所で争われたケースはほどんどなく、当然、判例がほとんどないため裁判が長期化するのは避けられないため、改めて裁判を起こしたいと思う被告人もおらず、ほとんどが水面下で、売り上げを全額渡したり作曲家のクレジットを書き換えるなどの「示談」で解決されている。しかし、だからこそ海外の大物権利者に訴えられたら終わり。ほとんどの売り上げを根こそぎもっていかれてしまう。発売前にクリアランスすれば売り上げのパーセンテージ支払いで済ませられるが、事後に訴えられたケースの場合は青天井である。そんなシビアな時代、オリジナルとして曲を作るべき音楽家が、音楽の歴史を知らないということを、不用意に言えない時代にすでに突入している。「自らの影響を受けたものにそれほど関心がない」と語る、中田氏の発言スタンスは全面的に支持しながらも、一方でそういう時代であることを考えさせられるという、非常に複雑な感情を持ってそのインタビューを読んでいた。そして、歴史を知る知識者(シンクタンクみたいなもの)としての役回りで、いくばくか音楽ライターと称する者が、ミュージシャンの手助けになることがあるのではないかと希望を持ったりもしたのだが……(いやはや、書いてみてちょっとヘヴィな展開になってしまった)。
 閑話休題。先日、松前公高氏のイベントで大阪に行ったとき、スタッフの方とカントリー音楽に関する話題で盛り上がったことがあった。実は小生、3年ぐらい前からカントリー音楽にハマっていて、常にベッドサイド・ミュージックとしてカントリーのオムニバスを愛聴していたのだ。ザ・バンドバッファロー・スプリングフィールドあたりの70年代初頭のフォーク・ロックを聴き出したのがきっかけ。これまでも常に、何かの突発的なマイブームがあると、まず本屋さんに行って書物を当たってきた小生である。ところが、日本にはカントリーに関する商業出版物ってすごく少ないんだよね。先輩ライター氏に聞いたところ、日本のロック・ジャーナリズムの原型を作ったミュージック・マガジンの創業者、中村とうよう氏が大のカントリー嫌いで、よって日本ではカントリーファンがロック文壇で疎まれることとなり、代わりにブラック・ミュージックに関する研究が日本では進んだという話らしい。改めてタワーレコードの音楽書籍コーナーを見ると、半分以上がビートルズ、クイーンなどのイギリスの音楽、残りがアメリカでその大半がブラック・ミュージックというぐらい偏重しているのだな。なるほど、毎年行われているグラミー賞の放送の半分がカントリー部門で構成され、それがそのまま共和党支持の票田になってたりするわけだから、カントリー音楽にえげつないWASPの差別主義者の陰を感じるのは、あの世代の音楽ジャーナリストにとって当然なんだろう。そんな流れで、生まれて初めてディスクユニオンのカントリーのフロアを覗いたり、タワーレコードのカントリー担当の人のご教示を預かったりして、カントリーと言っても、ブルーグラス、フォーク・ミュージック、カントリー・スウィングなどさまざまな細分化されたジャンルがあることを知った小生なのだった。だから、そんな折りに細野さんがカントリー・スウィングのアルバムを出したのに、狂喜乱舞したりしたな。
 で、さまざまなカントリー系のコンピを買って歴史を紐解いていったわけだが、ひとつだけ探しても見つからない傾向のものがあった。ジューズ・ハープ(口琴)を使ったカントリー形式のことである。例えば小生の世代だと、プリファブ・スプラウトとかイップ・イップ・コヨーテとか、ニュー・ウェーヴ世代のバンドがカントリーをパロディー化する際に、必ずリズム楽器として口琴が登場してくる。だから、カントリーにはそういうジャンルがあるかと思っていたら、アメリカのカントリー史には口琴という楽器は一切登場しないのだ。ちょうど数年前、YouTubeやまがたすみこの映像を観て70年代女性フォークにハマリ、その流れで朝倉理恵のマイブームがあって、そこで見つけた「りすのバナー」という小森昭宏の曲の中毒になって、こういうのと似たような音楽はないものかと賢明に探したことがあったのだ。いろいろ探したり聞いたりした結果、口琴を使ったカントリーのルーツはアメリカではなくヨーロッパが発祥で、それがイギリスや日本に持ち込まれたものらしい。そもそも口琴とは、モロッコの民族楽器である。これは私の推測だが、イタリアのマカロニ・ウエスタンあたりで、エンニオ・モリコーネが西部劇にストレンジな音響として口琴やオカリナを登場させて、アメリカにはない西部劇音楽を創造したように、このへんのヨーロッパ的な異種交配が行われて、プリファブ・スプラウト小森昭宏曲に見られるような「口琴が入ったカントリー」というスタイルが生まれたのではと勝手に解釈してみたりしたのだが。
 とまれ、音楽の歴史は面白いという話でやんした。



ご存じの方も多いと思うが、朝倉理恵は子供時代、桜井妙子という名前の童謡歌手であった。ディミトリ・フロム・パリスもカヴァーした、萌えアニメの元祖(?)『ふしぎなメルモ』のラウンジーなエンディングテーマや『アンデルセン物語』『ひょっこりひょうたん島』など、宇野誠一郎作品の常連歌手としても有名。これはエンジェルちゃん名義の童謡のアルバム。朝倉理恵が桜井妙子と同一人物であることに最初に気づいたのは、元パール兄弟の事務所の社長さんで現在ウルトラ・ヴァイブの高護氏らしい。

出てきたのでこれも載っけておく。朝倉理恵のソニー時代のアルバムで、これ以外にも「つる姫じゃ」とか『モンチッチ』の企画モノのアルバムなんかがある。かつてナンシー関が「いくら歳をとっても、高校野球を見ると出場球児がお兄さんに思える」という名言を残したが、小生も子供番組でお姉さんを見るときはいつも児童の気分だ。そういえば『momoco』時代に会った、『ひらけ!ポンキッキ』の木ノ内もえみお姉さんは可愛かったなあ。朝倉理恵の子供番組のお姉さんを思わせる、清楚なファルセットに心が洗われる。いまはこんな清純なシンガー、いなくなったなあ。

上でYouTubeで紹介している「りすのバナー」のシングル。私は世界一この曲が好きな人間かもしれない。ジャケット裏の朝倉理恵のアイドル風の写真がちょっと珍しい。