POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

サンプリングとパクリと教養の問題

ヘッド博士の世界塔

ヘッド博士の世界塔

 先日も書いたように、8月に発売されるコーネリアスの新譜リリースに併せて、小山田圭吾氏が在籍していたフリッパーズ・ギターの旧譜が、本格的なリマスタリングを施して再発されることとなった。で、この再発を巡って、ファンの間で言われている一つの謎がある。今回復刻されるのは、『THREE CHEERS FOR OUR SIDE~海へ行くつもりじゃなかった~』『CAMERA TALK』の2枚だけで、彼らが解散直前に出した、人によってはこれこそ代表作と讃える『ヘッド博士の世界塔』だけは、発売が見送られるのだ。スタッフ筋の知り合いがないので、私は掲示板レヴェルの書き込みでしか情報を知り得ていないのだが、「実はメンバーが反対している」(満里奈が反対しているという笑えるのもあった)など、いくつかの憶測があった中で、いちばん信憑性が高いものと言われているのが、サンプリング問題のことである。ご存じの通り、あの作品の中にはいわゆる大物と呼ばれるアーティストの“引用”がある。それが現在、復刻する時のネックになっているという説だ。
 以前、ピチカート・ファイヴアメリカのマタドールから全米デビューを果たした時、米仕様のベスト盤が作られたのだが、その曲名を見るとわかるように、日本の事情とは異なる「ある配慮」が選曲の基準になっている。レーガン政権時代に権利ビジネスの下地を整備したアメリカは、オリジナルの権利者を優遇する政策で、「ビジネスモデル特許」ブームなどによる経済的繁栄をもたらした。NHKでも特集された、ミッキーマウス著作権更新などもその一例(50年目に切れかかっていたものを、無理矢理法改正して75年に引き延ばしたもの。それほどディズニーはアメリカにとって外貨獲得の切り札なのだ)。ショービジネス界における、いわゆるパクリ裁判のたぐいも、大新聞で読めるものぐらいしか私は知らないが、レイ・パーカーJr.「ゴースト・バスターズ」をヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが「アイ・ワナ・ニュー・ドラッグ」のパクリであるであると訴えた件で、パクったかどうかは不問とされつつも、音は確かに似ているとしてヒューイ・ルイス側に軍配があがり、「ゴースト・バスターズ」の売り上げの80%を引き渡すという判決が下っている。マライア・キャリーが、トムトム・クラブのブレイクビーツを使った時の使用料が、確か売り上げの50%だったとかいうニュースもあった。以前、ジョージ・クリントンパーラメントファンカデリック時代のブレイクビーツをサンプリング・ユースとして個人名義で出した時、演奏者であるメンバーと一悶着あったのを覚えているが、それほどアメリカでは「過去音源」の扱いにはシビアになって来ている。誰もがそれで金持ちになりたいのだ。
 同じころ、日本では“引用”問題はそれほどシリアスに問われることはなかった。むしろ、RUN-DMCなどがきちんとアプルーバル(許可申請)をしてブレイクビーツを使っていることを、ヒップホップの姿勢として「いかがなものか」と書いていた評論家もいるぐらいだ。ピチカート・ファイヴフリッパーズ・ギターら、渋谷系ムーヴメントは、多分にポピュラー音楽史のシミュラクラによって成立していたと思うが、そういう意味では“引用”に緩やかだったからこそ、あの時代の日本の音楽シーンは面白いものになったと言えるかもしれない。
 では、現在の音楽シーンはどうか、それについては私は寡問にして知らない。某沖縄の若手グループがのびのびと引用技を楽しんでいるように見えるケースもあれば、某ヒップホップ・グループがジャコ・パストリアスの音源を無断使用した件で回収騒動が起こったと書かれた、週刊誌報道のケースもあるように、グローバルルールの下で法整備が進んでいる印象もある。だが、有名な小林亜星の「記念樹」裁判(詳しくはネットで調べてちょ)の、勝訴から一点して高裁で敗訴に至った流れを見ていると、基本的に状況は10年前から変わっていないという印象も持っている。
 ただ、他の業界に目を向けてみると、いまどきの映像業界などの場合は、「所有権」を中心にしてすべてのビジネスが回っていると言ってもいい状況にある。連日報道されるM&A(買収)騒動は、過去カタログを巡ってのもので、文化資産を奪い合う、丁々発止が繰り返されている。ソニーコロンビア映画に続いて、007シリーズぐらいしかヒット作がないように見えるMGMのカタログを買ったりするのは、それがいかにカネを生むかを知っているからだ。テレビ界においても、権利ビジネスを扱える人間が新たな社内の花形になりつつある。昔は、テレビ局の事業部などは「閑職」とまで言われていたが、プライムタイムの番組の視聴率が低下傾向にあり、スポンサー収入が伸ばせないといわれる現在は、『踊る大捜査線』やジブリ映画による版権収入や、深夜放送枠をアニメのPRや通販番組などにリセールして売り上げを作っている事業部が、新しいマネーメイクのリーダーになっていたりする現状があるのだ。
 しかし表舞台は華やかに見えるものの、日本の実情はアメリカとは少しばかり異なるという。「稼げなくなった時代」のわずかな売り上げを、権利を盾にして奪い合うような、アメリカの金持ちたちの狂騒とは真逆の、いささか希望のない現実があったりする。
 今夏にかけて、かつて渋谷系と呼ばれたアーティストの復活劇がいくつも予定されている。ちょうど青春期に渋谷系を聞いて育った“ベビーブーマー・ジュニア”世代を巻き込んで、大きな動きに発展するのではと期待されているが、一方で先のように10年前のような牧歌的時代と異なる、シビアな現実社会がある。もし本当にそれが理由で、最高傑作と呼ばれた当時の名作が復刻できないとしたら、痛快だった時代は遠くになりにけりといったところだろうか。
 閑話休題。サンプリングの一方にある、「パクリ」の話である。
 以前、テレビ東京の『東京ロックTV』という番組で、ある事例を巡ってのパクリ問題の是非論が話題にのぼった時に、番組の女性アシスタントが「たった12音階しかないんだから、メロディーはすでに使い切られている」と言ったことがあった。だが、同じドならドの音がひとつ鳴っていても、それを支えるコードによって表情は何通りにも変わる。おそらく彼女はピアノなどの習い事をした経験がなく、オクターブや和声、対位法といった楽典的知識が皆無なのだろう。もうひとつ、かつてベストセラーになった『絶対音感』という本がある。「あの著名なクラシックの作曲家も、絶対音感がなかったという驚愕の事実がある」といった序文から始まるもので、その年のベストセラーになったものだ。“絶対音感の有無”を巡って作者は音楽の本質を暴こうと取材に取り組むが、コメントで登場する著名ミュージシャンは皆どこか「???」と、心ここにあらずといった感じ。で、破綻したロジックは、最後に脳科学者を巻き込んで、大脳生理学の謎へと脱線していくのだ。「絶対音感信仰」は、戦前にドイツの音楽教育を規範としていた日本のある時代の傾向で、ある種のアナクロニズムである。テクニカルな意味では、フレットのないヴァイオリンや、フレットレス・ベース、テルミンなど、一部の演奏者に必須とされるだけのものであろう。しかし、『絶対音感』ブームによって、そのころ某有名ピアノ教室でも「絶対音感コース」に志望者が殺到したのだという。ここでピアノをやっていた方なら気付くだろう。ここに集まる保護者の方の中には、やはり幼少期にピアノなどを習っていなかった人がかなり多かったのである。
 「この音楽は、脳内のエンドルフィンを分泌する魔力がある」という、90年代にテクノ・ミュージックが輸入されたころによく聞かれた論説があるが、私は基本的にこういう話に耳を傾けないようにしている。音楽は薬物とは違う。エンドルフィンの分泌量で音楽の優劣が決まるなんてナンセンス。先の『絶対音感』の作者が、音楽の謎の解を大脳生理学に求めようとしたのは、真に音楽に感動させられた体験がないからなんだろう。
 いささか脱線してしまったが、つまりはこうした“教養階級”によって、日本の智が営まれていることを説明したかったのだ。法制度の改正で、裁判員制度陪審員制度と少し異なる)が日本でも始まり、今後はアメリカのような訴訟社会へと日本も変わっていくと思うのだが、もし先のような「パクリ裁判」が彼らの手に委ねられたら、どうなることかと先行きが不安である。
 パクリについては、実は私も一家言ある。以前、やはり本業の週刊誌の仕事で、「パクリが世の中を面白くする!?」というような、かなり過激なステートメントの特集をやったことがあるのだ。多分にヒップホップ登場に刺激されて作ったもので、「ニセものであれ、グッチのポーチがあったら、それはオリジナルにはない便利さを享受できる」といったその時の物言いは、現在では完全に法的には“クロ”になってしまった。あの時代ならではのものだ。その特集の中で、カルチャーに詳しい法律家に、パクリの定義を聞いてみたのだ。「メロディーの引用は2小節まではOK」とか、そういう説をよく聴くが、実はこれはデマ。明文化されたものはない。また、判例の少ない日本では、例え裁判に持ち込んでも長期戦になるのは見え見えなので、お互いが体力を消耗しないように、示談ですませるのが大半だという。それが、いつまでも判例が増えない根本的な理由になっているのだ。海外から訴えられるケースも無論あるにはあるが、大半は法廷に持ち出させることもなく、向こうが提示してきた金額で折り合うような、示談で済ませられることが多いんだとか。それじゃ試合放棄じゃん、ジダンだけに……(ってギャグを思いついたので書いてみました)。
 各々の利益追求を目指さねばならないのが仕事の、レコード会社の人にとっては、訴えられるとしてもお互い様みたいなところがある。だから、自らが火に油を注がないほうが賢明だろうという、紳士協定というか、抑制があるのかもしれない。そんな、極めて日本的な、村社会的な理由も見て取れる。
 では、利益を求める当事者達ではなく、中立的な立場の会社がこのパクリ問題をどう捉えているのか? この時私は、某著作権管理会社にも取材してみたのだ。質問はこうである。著作権管理会社は、預かった楽曲のテレビ、公演などでの使用状況を監視して、売り上げの事務処理をしてそこからマージンを取る商売なわけだから、預かる楽曲が多ければ多いほど潤う構造がある。で、この手のパクリ問題がテーマにあがるとき、必ず例として持ち出される、ヤードバーズの某曲と、日本のめんたいロックの有名な曲の類似性を例に出し(わからない人は、両親やお兄さんに聞くべし)、「すでにある有名曲と、まったく同じような曲を私が書いて、そちらに権利委託した場合、それがパクリかどうかについて審査されたりするようなプロセスがあるのでしょうか」と聞いてみたのだ。答えは否。申請があったものは、すべて預かるというのである。パクリか否かについては申告罪であるから、もし問題があれば当事者同士が民事で争うべき。こちらでは一切関知しないと、こう言われたのである。ただ、売り上げは作りたいので、登録はどんな曲でもウエルカムですよと。
 以前、ミュージシャンの平沢進氏が、某著作権管理会社の利益配分のやり方に辟易して、自らの曲の権利を、三島由紀夫の『金閣寺』や芸術祭参加作品みたいに文化庁に預けたというニュースを読んだことがある。ほとんどジョークのようだと思ったのものだが(文化庁に登録申請すると、著作権は国によって保護されるが、利益分配の機能はないのだ)、そういう話を聞くと、なんとなく平沢氏のやるせない気持ちがわかる気がするのだ。