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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

暴論! ネオアコとテクノは異母兄弟である

ネオ・アコースティック (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)

ネオ・アコースティック (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)

 先日、フリッパーズ・ギターの再発の話題をきっかけにして、わが青春の光と陰(笑)を振り返らせていただいたわけだが、畑違いの話題かなと思ったのにも関わらず、わずかながらの反響をいただき嬉しく思っている。であればと思い、もう一つだけ、ネオアコに関する昔から抱いている疑問について、皆さんに聞いてもらえたらと思って続きを書くことにした。
 『ミュージック・マガジン』の最新号で「ネオアコ特集」が組まれるなど、フリッパーズ・ギターの再発に止まらないネオアコ総括記事が各誌でも立て続けに組まれ、私も面白く読ませていただいている。ただ、手に取る前には期待を膨らませながら、やはり特集のメイン記事が過去のネオアコ専門書をなぞったものばかりで、ささくれた私の心を癒してくれるような、見事な論法で“あの時代”を語った文章というのがないということを、いつも寂しく思ってしまう。
 『ミュージック・マガジン』誌の橋本徹氏のインタビューは、正面切って彼にそういう質問をしたことがない私にとって、とても興味深い内容であった。彼は私より少し下の世代になるのだが、多感な高校時代にアジャストにネオアコ系ムーブメントに接し、そこで得た良質な種を丁寧に育てながら、今日の音楽観を築いてきたまっすぐな感性の人である。少年時代、ベストテンなどの番組にあまり夢中になることもなく、父の応接間にあったジャズのレコードを聴いて、早くからそういった良質音楽を楽しむことに馴染んでいたという話は、本人からも聞いたことがある。なにしろ東京出身である。小西康陽氏もまた、多感な高校時代にロックに目覚めた時にはすでに、両親のレコード棚にはビートルズのレコードが全部揃っていたという。女優で歌手の今井美樹が音楽に目覚めるきっかけになったのも、電気店を営むジャズ好きの父親の影響である。音楽に目覚めたばかりの彼女に、名盤を教えるなどよきアドバイスを与えたのが父親で、後に歌手になった彼女が「父を自慢に思う」と語っているのを見て、うらやましいと思った。やはり、親の教養って大きいんだよな。
 古い話だけれど、芸能界一の音楽道楽と言われていた高島忠夫が、昔、家を新築するために下ろした金で、ハモンド・オルガンを衝動買いしてしまったという有名なエピソードがあった。ハモンド・オルガンは当時数百万円もして、「冨田勲だって買えなかった」ほど高かったのだ。その息子である高嶋政宏が、その後フリクションやツネマツマサトシの追っかけになり、ロイ・ウッド好きを公言し、自らの希望でデンマークのギャングウェイにプロデュースを頼んでソロ・アルバムを作っちゃうんだから、「血は水よりも濃ゆし」だと本当に思う。
 ネオアコから、自らの音楽リスナー史が始まった世代の、キラキラした感性や深い審美眼、まっすぐな発言を聞いているとうらやましくなる。きっと下ネタなんか言ったら怒られるのかもしれない……(笑)。だが我々、もう少し上の“テクノポップ世代”にとっては、ネオアコとの出会いというのは、風景がまた少々異なるのだ。
 以前、ニュー・ミュージックのライナーノーツにも書かせていただいたが、ネオアコの重鎮と呼ばれるアズテック・カメラが、なぜ「ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター」をメジャーから再発する時に、トニー・マンスフィールドにプロデュースを依頼してディスコ・ミックスを作ったのかということについて、“彼の内なるエレクトロニック志向”と私は書いた。『ハイ・ランド、ハード・レイン』で聴ける、ネオアコとは場違いなシモンズのエレクトロニック・ドラムを使った理由も、それで説明できるだろう。デビュー時のロディ・フレームに多大な影響を及ぼしたのが、同じラフ・トレードのレーベルメイトだったスクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイド。CANの影響を受け、リズム・ボックスを使ったドイツの実験音楽を取り入れた「スウィーテスト・ガール」のシングルが、彼の指標となる音楽だったという。アズテック・カメラがソロユニットになってからNYでレコーディングしたのも、グリーンがパワーステーションで作った「ウッド・ビーズ」に感化されてのことだった。後に『ドリームランド』で坂本龍一にプロデュースを依頼するに至るのも、そうした一貫した「エレクトロニックな音楽への憧れ」が彼を導いたきたからではないかと思う。“内なるエレクトロニック志向”というのは、別にアズテックに限った話ではなくて、モーマスが『テンダー・パーヴァート』でユーロビートを取り入れたり、エヴリシング・バッド・ザ・ガールがドラムン・ベースに接近したのも同じだろう。プリファブ・スプラウトのパディ・マクアルーンは、『ヨルダン・ザ・カムバック』の時のインタビューで、このアルバムのコンセプトを「もしトレヴァー・ホーンがディズニーランドの音楽を作ったら」と語っていた(トーマス・ドルビーの立場がないじゃん……とも思うが)。おそらく、彼らの頭の中には、実際にレコードに刻まれた音とはもっと別の、原型となる理想のエレクトロニックな音楽というのが流れていたのかもしれない。一介のパンクバンドに過ぎなかったグループが、クラフトワークに憧れて、手探りで電子楽器を取り入れてみたら、シングルが全世界100万枚ヒットになってしまった「ブルー・マンデー」のニュー・オーダーと、スタートラインはそれほど変わらないように思うのだ。
 私が昔『宝島』にいたころ、ブランコ・イ・ニグロの再発などに関連した「ネオアコ特集」を組んだことがあった。この時、鈴木惣一郎氏といっしょにネオアコ人脈図を作ったのだが、ふと2人の作業の中で「モノクローム・セットは本当にネオアコなのか?」「ニュー・ミュージックはネオアコに入れちゃダメなのか?」などの疑問が沸いてきた。モノクローム・セットも実は、それ以前、日本で最初に紹介された時は、スクイーズなどと一緒にテクノポップのバンドとして扱われていた時期もあったのだ(笑)。(後期は別として)キーボードのいないこのバンドのどこがテクノポップだよと、今のヤングは思うかもしれない。だが、ブラウン管から命名したこのグループは、直立してロボット風に無機的に演奏する、ちょっとテクノっぽい意匠で、他のギターポップバンドと一線を画していたのだ。ニュー・ミュージックも同様である。サウンドだけ聴くとむしろネオアコに分類できるほど瑞々しいものだが、スチール写真は幾何学模様をちりばめた、思いっきりテクノバンドを気取ったもの。それを見て思ったのだ。ニュー・オーダーらと、ネオアコ系グループをジャンル分けする基準は、サウンドのエレクトロニック度の多寡ではなく、単に「態度」の問題だけじゃないかと。
 そもそも私が、今日ネオアコと呼ばれるものを知るきっかけとなったのが、ムーンライダーズの影響である。問題作『マニア・マニエラ』で極めたデカダンの深い森を抜け、一転して『青空百景』で突き抜けるようなアコーステック・サウンドに転身したライダーズが、その当時、影響を受けたとして公言していたのが、チェリーレッド、コンパクト・オーガニゼーションの作品だった。新星堂から出たVA『ゴースト・オブ・クリスマス・パスト(リメイク)』など、私は慶一氏の推薦文に導かれるようにして出会ったクチである。坂本龍一もまた、YMO『浮気なぼくら』のころのメロディー回帰現象について、ヘアカット100の元メンバーだったニック・ヘイワードなどの影響があったとを語っている。できあがった音からはおよそ想像つかないと言う方も多いだろう。しかし、例えばブラジルのボサノヴァへの強い憧れを起点にして、それが教授だったから技巧派フュージョンの『サマー・ナーヴス』になって、それが技術的な拙さからクリスピーなサウンドのイザベラ・アンテナになった、というほどの違いでしかないと思うところもあるのだ。ジャンルとしてテクノとネオアコは正反対に見えるが、オリジナルから離れている距離は同じという意味で、この2つは兄弟のようなところがある。日本のヒップホップが、実は近田春夫高木完藤原ヒロシといった、ニュー・ウェーヴ世代が第一歩を印したことから歴史が始まったという話は、今やJラップ史において公然の事実となっているだろう。一方のネオアコもまた、ニュー・ウェーヴ世代が日本でその源流を作ったということを、そろそろ検証する時期に来ているのではないかと思うのだ。
 ネオアコ御三家のひとつといわれるオレンジ・ジュースも、ソウル路線に転じたセカンド『キラメキ・トゥモロー』が本邦デビュー盤にあたり、代表作と言われるファーストは、輸入盤で後から買ったという人も多かった。モノクローム・セットのファンも、輸入盤屋で『Eligible Bachelors』という謎のアルバムを見つけ、「これって何だろう?」とさんざん迷って買ったら、中身が『カラフル・モノクローム』といっしょじゃねえかと壁に叩き付けた人が少なからずいたと思う。ペイル・ファウンテンズだって日本盤は出ておらず、濃ゆいファンが支持する初期のシングルなんて、新星堂かパイド・パイパー・ハウスでしか買えなかった。なぜかアズテック・カメラを除き、当時のネオアコ・シーンというのは、ほとんど情報らしい情報がなく、けっこう錯綜していたのだ。今日、ネオアコと呼ばれるジャンルは、あくまで過去を検証する中で生まれてきたもので、あのように整然としたものではなかった。実際、今でこそエラそうに『ミュージック・マガジン』がネオアコ特集などをやっているが、当時の同誌や『ロッキング・オン』などはからっきしで、むしろシーンを正しく紹介していたのは、伊藤英嗣氏や小泉雅史氏らが在籍した『フールズ・メイト』ぐらいだったんじゃないかと思う。
 それまでニュー・ウェーヴだった人が、突然、アディダスを履いてターンテーブルを回し始めたことから日本のラップ史がスタートしたのと同じように、ゴシックメイクの黒装束だった友人が、突然アニエスbファッションに“改宗”したというケースを、私はたくさん知っている。だからネオアコ史もまた、日本においてはニュー・ウェーヴと地続きの関係にあると思っている。
 だが、この2つは現在、まったく別のジャンルのように、交わらない存在になっている。特にライターなど、二つは完全に分断されてすっかり行き来がなくなっているといっていいかもしれない(オシャレ派と非オシャレ派と言っちゃうと、怒られるだろうか……)。この2つのジャンルを平等に愛する私は、いつも2つの価値観に引き裂かれるような気持ちになる。そして、その2つのエリートクラブのどちらにも入れない雑種犬であることを、寂しく思うのだ。