POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

80sニュー・ウェーヴと渋谷系を繋ぐミッシング・リンク「ハンマー・レーベル」のこと

オーディナリー・ミュージック

オーディナリー・ミュージック

 拙著『電子音楽 in JAPAN』は、1955年に日本の電子音楽の歴史がスタートしてから、シンセサイザーの普及を経て、80年代に当時の最新技術としてサンプリングが登場し、それが普及するあたりまでの歴史を綴ったノンフィクションである。ここのあるのは、目まぐるしい勢いで変わっていく、矢印を未来に向けた「ロックの進化」そのもの。「機材の発展が、ロックの進化とともにあった時代」の記録である。終章近くにある、PSY・S松浦雅也氏のインタビューを読んでもらえばわかるが、サード・アルバム『ミント・エレクトリック』のころにサンプリングの分解能が16ビットになり、サンプル音質がCDと同等に。つまり、YMO『テクノデリック』で使われているカスタム・メイドの8ビット・サンプラーから、フェアライト、E-muとも8ビット→16ビットにスペックが進化する87年ごろまでは、誰もが優れない音質をカバーして、それらしい魔法のサウンドを作っていたのだ。それこそがミュージシャンの想像力のたまものだった。ヤン富田氏やスチャダラパーが使っていたS-900も12ビット、初期のパッド型フレーズサンプラーとしてヒップホップの作法に多大な影響を及ぼした、テイ・トウワらが使っていたSP-1200も同スペックである。わずか0.8秒しかサンプリングできなかったYMOの時代から、今日サンプラーは時間無制限となり、CD同等かそれ以上の音質を獲得したわけだが、と同時に機材の発展とロックの進化の蜜月時代は終わりを迎えていく。98年に刊行された、最初のヴァージョンである『電子音楽インジャパン 1955〜1981』で「MIDI規格前夜まで」にピリオドを打ったワタシが、増補版を作るにあたり、編集者のリクエストで時代の延長を試みながら、80年代の中盤までに止めることにしたのも、それが理由。その先に、90年代のブリープ・ハウス、デトロイト・テクノなどの重要な歴史があるのは知っているが、開発者とミュージシャンが同じ夢を見れたそれまでの時代とは、進化の構造はいささか異なると言わざる得ないだろう。
 ワタシの音楽業界でのキャリアは、『電子音楽 in JAPAN』の終章の時代の後から始まっている。実はワタシが青春期を過ごした80年代後半から現代にいたる、その続きともいえる四半世紀の日本の音楽シーンの変遷については、500ページ近くのボリュームでまとめた原稿がすでにある。ある事情があって、それは書き上げられたが封印されたものだ。とある人物の視点を通して、戦後の日本のフォーク、ロックの勃興期から今日に至るまでの日本のポピュラー音楽の変遷をまとめた、レコード産業通史としてそれは書かれた。そこには、『電子音楽 in JAPAN』の続きの物語として、80年代のテクノロジーの進化との別離から、サンプリングなどの新しい手法を手に入れた日本のクリエイターたちが、サディスティック・ミカ・バンドゆずりのシュミラクラ精神を発揮して、時代のブームを築いた“渋谷系”についてかなり詳細にまとめている。おそらくこれまでのネオアコ渋谷系フリッパーズ・ギター研究本のたぐいには書かれていない、80年代ニュー・ウェーヴから渋谷系にいたる流れが克明に綴られている。実は、90年代に渋谷系とほぼ同時にシーンが形成された、「YMOの続きの歴史」として書かれることの多いテクノシーンの登場以上に、そこには濃厚なつながりがあったのだ。
 「ネオアコテクノポップの伝承者?」「テクノではなく?」という疑問は当然のように出てくるだろう。これはあの時代をリアルタイムに体験した人間ゆえの、私感に過ぎないかもしれない。例えば、高野寛槇原敬之宮沢和史のように、濃厚なYMO体験を経た人ほど「YMOと同じ手法は選ばない」という、別の選択があの時代にはあった。それと、ユーモア精神の伝承というのかな? シリアスなテクノ村の人々よりもずっと、YMOムーンライダーズらが持っていた音楽に対する批評的なスタンスを、渋谷系ネオアコの人々が受け継いでいたようにワタシには見えた。そんな意識もあってか、ワタシは『TECHII』のころから、小難しい文章を書くテクノ系の音楽ライター、ミュージシャンとまったく仲良くなれなかった。
 80年代の音楽誌編集者時代、数々のレコーディング現場を取材してワタシは、ミュージシャンの中に「音楽にあまり感心がない」という人が多くいたのに驚いた。楽器の新製品については興味はあっても、聴いている音楽はビートルズイーグルスレッド・ツェッペリンで止まっているという人が実に多かったのだ。これは70年代から変わっていない。あの時代、数少ない博識な音楽知識を有していたのが、大瀧詠一細野晴臣ムーンライダーズ山下達郎といった面々。レコード集めに奔走するミュージシャンが、酔狂な扱いをされる時代だった。いわゆる、リスペクトなどといった言葉で自らのルーツを語り、その知識に一目置かれるような文化というのは、ピチカート・ファイヴ小西康陽フリッパーズ・ギター以降に市民権を得たものと言ってもいいだろう。
 90年にフリッパーズ・ギターがデビューして、雑誌のインタビューで相手を煙に巻くアンファン・テリブルぶりを発揮するようになるが、彼らは公式に「YMOムーンライダーズが大嫌い」と発言していた。それまで日本の良識派と言われるリスナーが「知の基準」に置いていたこれらのグループを、公然と批判するミュージシャンを初めて見た(実は彼らがYMOムーンライダーズを仮想敵にしたのには、ちゃんとした理由があるが、ここには書かない)。そうした態度が、今日の「フリッパーズ・ギター=パンク・バンド説」の根拠となっている。小山田圭吾がその後、YMOのサポート・ギタリストとしてステージに立つのだから隔世の感があるが、しかしその時代からワタシには、彼らのスタンスが無学なパンク・バンドより、ずっとYMOムーンライダーズの精神を受け継いでいるように見えた。
 90年代初頭、渋谷系のムーブメントの源流とも言える出来事は、実はムーンライダーズ周辺で起こっていた。渋谷の旧タワーレコードの入っていた、宇田川町の先にあるノア渋谷というビルにムーンライダーズ・オフィスがあったころ。『アニマル・インデックス』が作られる直前に、ライダーズ・オフィスと複数の会社が出資して、シンセサイザーのレンタルとオペレーションを行うための別会社、ハンマーを興す。そこのボスに据えられたのが、『青空百景』以来、ムーンライダーズのレコーディングに欠かせない存在になっていた、当時レオ・ミュージックの森達彦氏だった。それまでのライダーズの録音でプログラミングを担当していた土岐幸男氏もそこに所属することとなり、独立した技術者集団として、より強力にライダーズ周辺のレコーディングをサポートしていくこととなった。後に、武部聡志パール兄弟らが所属する大手インペグ会社、ハーフトーン・ミュージックのプログラマーがこちらに移籍し、ハムと社名を変更。一時は「日本でもっとも舶来楽器を多く所有するプログラマー集団」と言われるほど、リッチな会社になった。
 後期ハンマーはライダーズのみならず、いわゆるチャートヒット曲の数々のレコーディングを支える存在になっていく。やがて事業を海外に拡張。鈴木慶一氏の実質的ソロともいえる充実作となった、任天堂ファミコンゲーム『マザー』のサウンドトラック盤のイギリス録音のために、ハンマーUKを設立する。そのレコーディングに手を貸した、ストロベリー・スイッチブレイドなどで有名なプロデューサー、デヴィッド・モーションとパートナーシップを結び、日本側のマネジメントを同社が担当。デヴィッドが参加した、高見沢俊彦THE ALFEE)、Charaらのプロデュースでも、森氏が采配を振るっている。そんな中で、ボスだった森氏のアイデアで始めたのが、海外の優れたミュージシャンの作品を紹介する目的で作られたハンマー・レーベル。デヴィッド・モーションがプロデュースしていたデンマークのバンド、ギャングウエイの発売権を獲得し、世界初CD化を実現する。これは当時、渋谷WAVEほかでチャートインするほどのヒットとなった。87年にデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンが、世界初のLP『シングルス』を日本でリリースすることになり、これまた世界初のライブを日本でやることになったときも、渋谷クワトロ公演で全機材をサポートしたのが、プログレ好きでデイヴと今も友人関係にある森氏のハンマーのスタッフ。豊穣なポップスの歴史と、最新テクノロジーを組み合わせたサウンドは、あの時代、ハンマーの専売特許と言っていいほどユニークなものだった。
 その後、ムーンライダーズ・オフォスが余所へ引っ越しし、その部屋をハンマーが譲り受けることになるのだが、プリプロ用としてここに、16トラックの録音機材を揃えたハム・スタジオを設立。一時、湾岸スタジオに代わって、ライダーズやメンバーのプロデュース仕事のデモ制作などで使われるようになった。実はここ、ノア渋谷5Fの同フロアには、UKギターポップ通なら誰もが通っていたZESTという輸入レコード店があった。エスカレーター・レコードの仲真史、カジヒデキ、音楽ライターの宮子和真らが店員をやっていたことでも有名だが、なんといってもフリッパーズ・ギターの2人が常連客だったことで、一躍ファンの人気スポットとなった。「フリッパーズ vs.ムーンライダーズ」という構図がすでに定着していた時代。当時のことを森氏に聞くと覚えてないというから、あくまで対立はファン同士やメディア上のことだったのかも知れない。そんな折り、ZESTの店番をやっていた元『フールズ・メイト』のライター、瀧見憲司とたまたま知り合うことになった森氏。フリッパーズの2人に刺激を受け、自らのレーベルを作りたいという瀧見氏の相談を受け、音楽性に共鳴した森氏は、ハム・スタジオが開いている時間だけ自由に使っていいと提案する。その後、森氏がシンセサイザープログラマーから、ミキシング・エンジニアに鞍替えすることになることを思えば、格好の実験材料になるという好奇心もあったかもしれない。こうして生まれたのが、あのカヒミ・カリィをデビューさせたクルーエル・レーベル。最初の作品となったのが名盤の誉れ高きオムニバス『BLOW-UP』であった。「インディーズでありながら、サウンド・プロダクションの完成度が高い」と評されたこのアルバムは、実はムーンライダーズのレコーディングから生まれたプロフェッショナル集団、ハンマーの設備で作られた作品だった。インディーズ初の10万枚ヒットとしてオリコン誌で騒がれた、ラヴ・タンバリンズ「Call Me Call Me」のミキシングももちろん森氏。このように、渋谷系の源流と呼ばれる歴史には、80年代のニュー・ウェーヴから受け継いだ伝統と技術が継承されていたのだ。
 クルーエル・レーベルは事業として軌道に乗り、同所にオフィスを構えるが、やがて仲真史氏が立ち上げたトランペット・トランペットなどにもハンマーが技術サポートし、後に人気レーベル、エスカレーターに改名してここから巣立っていく。ZESTを含めたこの一体は、まさに渋谷系の総本山といえる名所となった。また、ここに出入りしていた若手の編集者・山崎二郎が、これら新しい文化の胎動を伝える雑誌を作りたいと提案したとき、森氏はハンマーのオフィス内に彼らのデスクを置くことを許した。こうして生まれた雑誌が『バーフ・アウト』である。初期の編集部の住所は、ハンマーの事務所内になってたりするのだ(笑)。
 ワタシが森氏と最初にあったのは、ムーンライダーズ『Dont Trust Over Thirty』のレコーディング直後だから、86年のこと。『TECHII』の編集者として、ニュー・アルバムの特集のために訪れた取材だったが、そのときもライダーズを離れて、同じころに森氏が参加していたアイドル、真璃子のファースト・アルバムの話で盛り上がり、その懐の広さを印象づけた。そういう人は、実は珍しかった。おニャン子クラブなどのアイドル・レコーディングでも、徹底してトニマンやトット・テイラーのような悪ノリ実験をやっている森氏である。その偏見のなさこそが、ムーンライダーズで培った技術を、敵対していた渋谷系の人々に提供した理由であった。  VA『BLOW-UP』やラブ・タンバリンズ「Call Me Call Me」に森氏が技術提供しなければ、クルーエル・レーベルのその後の歴史も少し違っていたかもしれない。『バーフ・アウト』という雑誌も存在しなかったかも。つまり、ハンマーがなければ、渋谷系ブームは起こらなかったとも言えるのだ。



 そんな森達彦氏が初めて人前でしゃべる貴重なイベント。テクノポップな人だけじゃなく、青春期をフリッパーズ・ギター渋谷系に捧げたアナタも、ぜひ12月8日は新宿ロフトプラスワンに集まれ。


(追記)

>「YMOの続きの歴史」として書かれることの多いテクノシーンの登場以上に、そこには濃厚なつながりがあったのだ。
Twitterで、おそらくテクノリスナーらしき方から、このフレーズに違和感を感じるとの指摘が。うーむ。ワタシ的には、テクノポップに至る電子音楽の流れと、現在のテクノシーンを別のものと切り分けて考えているほう。だから、拙著『電子音楽 in JAPAN』、『電子音楽 in the (lost) world』とも、90年代のテクノを一切カットしている。その部分には別に語り部がいると思っているので。そういった主旨は、まえがきにきちんと書いてある。
 ところが、amazonのレビューなどを見ると、「90年代のテクノを扱っていない」という理由で拙著に0点が付けられる。こうした横暴さにはやっぱり腹が立つ。「電子音楽」と書かれていてテクノを扱わないと詐欺であると。ワタシは「電子音楽」の多様性こそがこのジャンルの魅力であり、拙著のように書き手によって幾通りにでも解釈できることこそ、「電子音楽」に学んだ精神だと思っているのだが。
 「かくあらねばならない」という押しつけは、90年代にその筋の人たちにさんざん言われてきた。それでワタシはテクノを嫌いになったこともある。彼らは、自分たちこそ「YMOの継承者」のように振る舞っていた。そういう人たちへの回答として、ワタシはあの本『電子音楽 in JAPAN』を編纂したのだ。もう、価値観を巡る時代の逆行には付き合わせないでほしい。