POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

ワタシのマンガ家交友録




 まわりにナイショで「pi●iv」にこそこそ投稿していたころ、絵は素人並みに稚拙なくせにコマ運びだけはちょっと手練れ風と思われて、「アンタ、ひょっとしてプロ?」と糾弾されたことがあるって話を、以前のエントリで書いたことがある。20余年編集者として、活字メインで出版裏方人生を歩んできたけれど、マンガ家とのお付き合いはけっこう多かった。ワタシが編集者人生を始めたのは84年。『ホットドッグプレス』あたりから火が付いて、雑誌の特集イラストにイラストレーターではなくマンガ家を使うのが流行り始めたころだったので、普段それほどマンガ読書習慣のない活字雑誌編集の身ながら、多くのマンガ家の方々との出会いがあって、いっしょに仕事する機会に恵まれた。雑誌で特集テーマに併せてイラストを発注する場合、活字部分の取材を同時進行させながら、イラストを前もって発注しなければならないため、記事を読まずにカットを描いてもらうことが実際は多く、記事内容とのブレが生じないよう、完全お任せではなく編集者が描いたラフなコンテを渡して、それを膨らませて描いてもらう効率的なやり方をよくとっていた。ワタシが素人なりに、マンガの描き方らしきものを覚えていったのは、そんなマンガ家とのやりとりがあったからだ。このブログに載ってるマンガも、いうなればマンガ家が肉付けする前のラフなコンテに着色を施したようなもの。少なくとセリフやストーリーは、商業誌で「商品原稿」を作っていた人間がやってるわけだから、少しは「プロ臭い」と思われてもおかしくないだろう。
 マンガ家の方々には、ライターと違って締め切りを守らない人もかなりいて(笑)、ワタシの貴重な青春時代のかなりの部分をムダに消耗させられたこともあったけど、活字の世界の人々とはまた違った人間としての魅力があった。深夜のファミレスで熱っぽく音楽談義を交わしたマンガ家の方々も少なくない。しかし、編集者の中でもワタシは珍しい、極端にマンガに疎いタイプ。敬愛する江口寿史さんとの関係の深かったころは、イーストプレスの責任編集誌『コミック・キュー』で新人発掘を積極的にやられていた時期だったので、飲み屋で熱っぽくマンガの未来の話をされる御大を前にして、マンガ話にお付き合いできないことを心苦しく思っていた。だが、出版界の傍流である活字畑から見ても、いつもマンガ界は賑やかな話題で華々しく、マンガ家の方々がマネーメイクスターとして各出版社を引っ張ってきたことをよく知っているので、いつも遠くからではあるがその活躍にエールを送っていた。ワタシはそもそも、ミュージシャンでもマンガ家でも、自分の名前を出して活動しているクリエイターには一定の尊敬の念を置いている。その人がどれだけクレイジーだったりハレンチだったりしても、世間様に迷惑さえかけなければある程度許されるという考え方を持ってるほど(締め切りブッチだけは一応怒るけど……笑)。だから、マンガ家に対する尊敬心だけは人一倍あったので、マンガに疎い門外漢のワタシに対して、皆さんがやさしくしてくれたんだと思う。
 某匿名掲示板に、ワタシが編集者時代、周りに迷惑ばかりかけていたと根拠なきでたらめ話を吹聴をしてるヤツがいて、小野島氏とか石井氏とか、そいつが挙げてる名前から類推すると元シンコーのクズみたいな女編集が書いたもんだと思うけど、ワタシは「いわゆる人に迷惑ばかりかけるタイプの編集者」ではなかった(最近書かれている「『Techii』時代に迷惑かけられたどーのこーの」は完全な創作。なぜなら、そういう仕事の仕方をしてなかったからで、当時を知らない人間がデタラメを書いていると関係者にはすぐわかる)。むしろそんなタイプの編集者に辟易させられる側だったんで、それだけは自信を持って言える。むろん、会社との板挟みで結果的に迷惑をかけたこともあるにはあるけれど、多くの方々と未だに関係が続いているのは、ライターであれマンガ家であれ、相手に尊敬心を持って仕事をしていたからだと思ってる。「原稿を入稿した後から、字数が違ってたので書き直しさせる」とか「レアなジャケットをこっちに探させる」なんてことを平気でやるようなクズな元音楽誌の編集者と違うよ、わかってる? アンタ。某掲示板のカキコとまったく同じ内容のことを人に吹聴してるんだから(その人が教えてくれた)、正体バレバレ。それにワタシは、「自虐OK」だから自分の悪口はウェルカムだけど、家族や兄弟や仲間の悪口を言われたときは許さないタイプ。仲間といっしょに作ったCDを、個人的な企みによって取り上げない抵抗勢力(ALL ABOUTテクノポップ四方宏明みたいな)があれば、当然のようにここで糾弾する。それは大人としての責任であって、アホなアンカーみたいに「大人げない」と言うのは筋違いだよ。ここ数日取り上げているアンカー成敗に対して、「胸のすくような思いで読んでます」とエールを送ってくれる人がいたりするのは、まだまだネット界では不当な情報操作にきちんと抵抗したり、自分のファミリーを守るってことができてない人が多いからだと思う。ワタシは、相手が恐怖で頭がはげ上がるまで、糾弾は止めないよ。
 また話が脱線してしまった……(笑)。とまれ、そんなマンガ家の方々との交流が20余年も続いてきたわけで、マンガ界に縁が薄い編集者と言っても、それなりの交流の歴史がある。「フツーの活字編集者が、普段どんなふうにマンガ家と交流してるのか?」という話も、あんまり記事で見ることは少ないと思うので、今回は後進の向学のために、ワタシのマンガ家交友録をしたためておくことにした。
 まずは、現在も活躍する本家本流のマンガ家で、一定期間交流を持たせていただいた方々の思い出を少々。


ふくやまけいこ……先日のエントリで書いた通り、ミニコミの編集部に出入りしていた高校時代に、関わった冊子とファンレターを送って、生まれて初めて返事をいただいたマンガ家の先生。「絵を誉められた」のもふくやま氏が初めて。当時は本名の福山慶子名義で描かれており、今とはまたちょっとタッチが違って、宮崎駿の影響下にあるカワイイ絵柄で骨太なストーリーを描く新人という、強いインパクトがあった。
よしもとよしとも……『宝島』連載時代に、毎号2ページのコミックエッセイを担当。毎回、ライヴハウスなどに訪れた体験を綴る、心象探訪をマンガ化した『ちい散歩』みたいな内容で、ワタシもけっこう出てきます。ギョーカイでも有名な遅筆の先生なのだが、最終回記念に敬愛する元フリクションのツネマツマサトシ氏との対面をセッティングしたのに、案の定1時間以上遅刻したのにはさすがに呆れた……。ツネマツ氏にてっきり半殺しにされるのかと思って興味深く見ていたが、フリクション時代のジャックナイフのようなツネマツ氏ではなく、やさしく迎えてもらえた(笑)。連載ロゴは、本人の「パンクっぽく」というリクエストに応え、当時『DOLL』で仕事をしていた工作舎のデザイナーの人に、タイトルデザインだけ頼むという凝ったこともやった。
岡崎京子……『宝島』在籍時、兄妹誌の『キューティー』で『東京ガールズブラボー』が連載開始する前に、資料提供など間接的に少しお手伝いしたことがあるのだが、実際にお会いしたのは小生が主宰していた、渋谷インクスティックDJバーのイベントに出演依頼したときが初めて。いや、『Techii』時代にShi-Shonenと対談したときだっけか? DJイベントへの出演依頼は、確かよしとも氏が元々岡崎氏のアシスタントをやっていた縁で、ご紹介いただいたのではなかったか。
江口寿史……中学時代のスター。憧れの人。最初にお会いしたのは『宝島』時代に、これまた小生が主宰したイベントの第一回に出演してもらったとき。お返しに、江口氏のマンガ家生活何周年かで行われた渋谷クワトロでのイベントの構成を引き受けるなど、90年代初頭に濃ゆいお付き合いをさせていただいた。小生がプロデュースしたベルギーのグループ、テレックスのリミックス・アルバム『イズ・リリース・ア・ユーモア』のジャケットを依頼したのもそのころ。やはり締め切りに大幅に間に合わず(笑)、完成した線画を引き上げて、岡ちゃん(『デイジーホリデー』の岡田崇氏)に無理矢理頼み込んで、エルジェの原画を参考にコンピュータ着色してもらった。『コミック・キュー』創刊前後に、よくお付き合いさせていただいたのだが、今と違って小生はもう少しやせており、江口氏本人から指摘されたこともあるほど、「ルックスが双子のようだ」とよく言われた。
森本美由紀……『オリーヴ』誌やピチカート・ファイヴ、サバービア・スイート関連の冊子でおなじみのイラストレーター。『宝島』時代に連載を担当していた山本ムーグ氏(ワールド・スタンダード→バッファロー・ドーター)と2人でやったDJイベントの最終回のために、ドレッシーなレディがモーグ・モジュラーをパッチングするというヲタ渋谷系(元祖アキシブ系?)なチラシ用イラストを描き下ろしてもらった。『宝島』時代の元同僚が当時マガジンハウスの『オリーヴ』編集部にいて(シスターMって知ってる?)、森本氏の担当をやってた縁で後日お会いできたのだが、ファンキーでステキな方でした。
しりあがり寿……一昨年に編集を手掛けた、和田静香『「患者学」入門』のカヴァーイラストを依頼。だが、初めてお会いしたのは20年前の『Techii』時代、サエキけんぞう氏のパール兄弟連載の挿絵を受け取りに行ったとき。当時はまだ某ビールメーカーにお勤めで、表参道の喫茶店で受け渡ししてました。「明和電機」の仕掛け人でおなじみ、ソニーにおられた弟さんとお仕事したこともアリ。弟さんが最初に手掛けたCGクリエイターの佐藤理氏(アーバン・ダンスのロゴや『トゥー・ハーフ』などのデザイナー)とも当時はお付き合いが深く、細野さんの許諾を取って某週刊誌に『ハイテク・ヒッピーズ』という、佐藤大氏(『交響詩篇エウレカセブン』で売れるずっと前)の連載を立ち上げたときにも、ロゴデザインをお願いしたのも覚えてる。
リリー・フランキー……最初にお会いしたのは、90年代初頭のDJパーティーのとき、出演者の宍戸留美ちゃんのラジオの構成作家して来場されていた。むろん『クロスビート』は読んでたし、後の『ぴあ』連載も愛読していたので、週刊誌に移ってすぐにイラスト仕事を依頼。『東京タワー』のヒットでおなじみの某社に出入りし始めた初期のころ、その週刊誌で初めてイラストを描いてもらったのがワタシだったと記憶している。しかし、当時から締め切りを守らないヒトだったから、「そんなことでは出世できませんよ」とお説教したりしていて、ワタシがいちばん恥ずかしい……。取材ものでは「松田優作特集」の、リリー氏に優作のコスプレをさせてやった「松田優作巡礼の旅」は思い出深い企画。亡くなられたお母様とも何度もお話しているが、息子のことを「リリーは」と呼んでいたのが印象深かった。
ナンシー関……生前に某週刊誌で、「松本人志特集」などで何度かお仕事をしており、年季の入ったムーンライダーズ・ファンとしても、新宿パワステなどでよくご挨拶させてもらった。テリー伊東が某雑誌でラブレターを送っていたのを覚えているが、実はワタシもナンシー氏の筆力には敬服し、恋心のようなものを抱いていたひとり。『電子音楽 in JAPAN』も献本してるのだが、読んでいただいたかどうか聞かず仕舞いで鬼籍に入られたのが残念なり。ワタシのブログの毒舌文章と芸能人似顔絵イラストは、基本的にナンシー氏へのトリビュートだと思ってる(なんちて)。
天久聖一……ワタシが13年在籍していた某週刊誌の長期連載「バカはサイレンで泣く」でおなじみだが、交流があったのはそれ以前の『宝島』時代。おそらくマンガ家としてデビューしてすぐのころで、前職が鑑別所員という異色のキャリアで編集部内で知られていた。後の電気グルーヴとの交流が有名だが、初めてあったころはムーンライダーズのファン同士ということで意気投合。わりとすぐのタイミングでDJイベントに出演してもらった。「ライディーン」かけますと言って『勇者ライディーン』をかけたりするお茶目なヒトだった(笑)。
朝倉世界一……初めてお会いしたのはマンガ家として独立始めたすぐのころで、内容を見てすぐにハートに矢がズキュンと突き刺さってしまったというほど、デビュー当時から小生ごのみのタッチであった。出会ってすぐの87年ごろ、小学館から出ていたパソコン誌『ポプコム』で担当していた、毎号2ページの歌謡曲レビュー連載(筆名はチャーリー江崎。神保町の編集部にチャリンコで通っていたのでこの名前に)で、毎号カットを描いてもらうこととなる。ちなみに、当時原稿を取りに行っていたオフィスが、こないだ出た『文藝別冊 吉田戦車』にも出ていた、吉田戦車氏らと借りていた初台にあった三角形の共同事務所「ハゲジ」。後に『宝島』編集部に入ったときにニュースページで、「平成のトキワ荘」ってことで、ここを写真入りで取り上げたこともある。
■はだみちとし氏……いしかわじゅん氏のオフィスにいた同郷出身の一番弟子。はだ氏の下にいた後輩のアシスタントが、『ドトウの笹口組』の若林健次氏、原律子氏、内田春菊氏といった錚々たるメンバー。はだ氏は、正式に某出版社に入社する前によく曙橋の週刊誌編集部に遊びに行ってたころ、名物編集者のツルシ先輩に紹介してもらったんだと思う。ワタシのAV知識の師匠。『宝島』時代には、なぜかAVならぬオーディオのAVの新製品紹介のタイアップ連載をお願いしていた。今では猫マンガで有名ないさやまもとこ氏を紹介してもらったり、はだ氏のネットワークで知り合ったマンガ家は多い。そのへんの吉祥寺界隈のマンガ家の交流を知りたい向きには、絶対復刻されないと聞いている、いしかわじゅん氏の傑作『フロムK』(全2巻)を古書店で探して読むことをオススメする。
本秀康……『レコード・コレクターズ』で連載していた「レコスケくん」の大ファンだったことから、後に小生が発行人を務めた『Digi@SPA!』で、描き下ろしの「レコスケくん・ネットオークションの巻」を描いてもらった。常盤響氏など共通する友人も多く、特にサミュエル・ホイへの敬愛、金田一耕助音源にまつわる分析では、小生とまるで双子のような、本氏の美意識との共鳴に驚くばかりであった。
小田島等……アスペクトの新刊『1980年代のポップ・イラストレーション』監修や、サニーディ・サービスほかのジャケット・デザイナーとしてのキャリアのほうが有名だが、実はマンガ家。実際にいっしょにお仕事する機会には恵まれていないが、週刊誌時代に何度か誌面にご登場いただいた。
みうらじゅん……『宝島』編集時代が初対面で、確かパイオニアのタイアップ記事で、レーザーカラオケ装置を自転車に括り付けて、みうら氏がホコ天に殴り込みをかけるといったチャレンジングな内容だった。某週刊誌に入ってすぐには、パソコン通信で友達を紹介する「パソ通ショッキング」という連載企画の第一回にも出演。カーツ佐藤氏の紹介ってことでパソ通友達として登場いただいたもののの、実はパソコンが一切使えないという『いいとも』以上のヤラセも。みうら氏→吉田拓郎氏で第二回を予定していたが、オファーしたけど断られたために連載はこれで終了(笑)。いっしょに組んで、ウンコみたいな最低コラムニスト、木村和久&スピリッツ編集とバトルを繰り広げたこともある。「グラビアン魂」を連載している某週刊誌とは、前身の『週刊サンケイ』時代にツルシ氏が担当していたころからの縁があるのだが、誌名が変わってからはほとんどワタシのアホな企画のみで関わってもらっており、その後、部署移動してワタシがビジネス誌の副編集長になったころにみうら氏を編集部に紹介して、本誌で「グラビアン魂」連載が始まったという次第。
とりみき……赤瀬川源平発案のトマソン芸術を我々世代に広めた伝道師。原田知世教の元教祖。ビーチ・ボーイズの現在の評価は、とり氏と萩原健太氏の尽力による(『ロッキング・オン』ではない!)。小生とは『吹替洋画大事典』(三一書房)という共著がありながら、実はお会いしたことがありませぬ。誘ってもらったのは、現在はベストセラー『天国の本屋』でおなじみの作家、松久淳氏。作家の傍ら、「よりみちパンセ」やブロンソンズでの名編集者ぶりはつとに知られているが、知り合った当時は『スタジオボイス』の編集者であった。
まついなつき……『宝島』時代から目をかけていただいていた、元ご近所さま。ウチに遊びにきたときに、あまりにレコード棚のコレクションがクレイジーだったのを見て、『ブルータス』の伝説の編集者、都築響一氏を紹介され、後に『TOKYO STYLE』に拙宅が掲載された。キチガイのようなラインナップの我が家のレコード棚は、イギリスの雑誌『iD』にも載ったことがある。
友沢ミミヨ……『ガロ』誌の連載や、ジム・オルーク『ユリイカ』のジャケットでおなじみ。DJイベントをいっしょに主宰していた、元『宝島』の同僚でテクノ系音楽評論家ニワちゃんの紹介で知り合いに。平沢ファンの先輩格で、マンドレイクの海賊テープをダビングしてもらったことも。ドイツに嫁がれるまで交流があった。
杉作J太郎……13年在籍した某週刊誌でやっていた年末恒例名物企画「裏ベストテン」を小生が立ち上げたころから、ずっとお世話になっている巨匠。加護亜依原理教の大教祖だが、実はモーニング娘。全体に関して言えば、デビュー前のオーディション時代から全部ビデオに残している小生のほうがより狂っている。元青土社ビバ彦氏らと毎年行っていた正月のハロプロ中野サンプラザにも誘われたことあるのだが、ライヴが苦手なのとシャイなもので(笑)。杉作氏とはさまざまな企画をいっしょにプランニングしながらも、うまく成就できたことがなくて、それが頭が上がらない理由に。某誌の連載「杉作オーディション」が担当移動で未遂に終わったのが悔やまれる。


 こうやって書いてみて、自分で「あれ?」と思ったのは、上記に該当しないヒトで、ワタシが勝手にマンガ家だと思っていた作家がいたこと。んなわけで、続けてマンガ界でも活躍する、カメレオンのようなクリエイターとの交友録も書き残しておく。


グルーヴィジョンズ……チャッピーちゃんでおなじみだが、本業はデザイナー。グルビにとっては暗黒史だと思うのだが、全国誌でグルビ名義の仕事が最初に世に出たのは、小生が担当していた某週刊誌の連載「大阪ストラット」だと思う。ピチカート・ファイヴのジャケットなどをやっていたグルーヴ・クエスト名義のころ、関西連載なので関西のデザイナーに頼みたいと思い、I氏と京都で初対面。連載スタート直前に名前が代わって、グルーヴィジョンズのクレジットが実際に入っている。「大阪ストラット」は、あまり個人的に好きじゃなかった竹内義和北野誠の大阪連載が終了するにあたり、「まったく新しいメンバーで」との命をワタシが受けて、『3ちゃんロック』で名前を知った安田謙一氏、『VOW!』の有名人だった吉村智樹氏、当時『花形文化通信』の編集者だった嶽本のばら氏を誘って、兵庫ー大阪ー京都の三都ローテーション連載として始めたもの。嶽本氏はその後、東京に移住。上京すぐのころにいろいろお手伝いしたのだが、男性誌の人間ゆえに「乙女評論家」ネタではなかなか企画が成就せず、疎遠になった後、『下妻物語』で大ブレイクを果たした。
中ザワヒデキ……現代美術家だが、本業は医者。ワタシが無名のクラブオーガナイザー時代、DJイベントなどで安くチラシデザインなどを引き受けていただいた大恩人である。当時の中ザワ氏の妹分として紹介され、傑作ハイパーカード・スタック(アップルが開発した、マッキントッシュ用のオーサリングソフト)を作っていた天才的な女子大生が、池松江美氏こと、のちの辛酸なめ子氏。わりとすぐにパルコの「GOMES大賞」を受賞して、一気に有名人となる。
常盤響……この中では、小生とはもっとも関係が古く、初めて会ったのは2人が20歳と19歳のころ。当時は、まだセツモードセミナーの生徒か、CSV渋谷の2Fのアルバイトをやっていた。常盤氏がロリポップ・ソニック(=フリッパーズ・ギター)に加入を誘われるよりさらに前の、紀元前の話である。現在は写真家として有名だが、当時はたぶん写真は撮っておらず、「日本のマーク・バイヤー」と呼ばれた新進気鋭のイラストレーターだった。『Techii』時代に毎月の連載を担当。しかし遅筆で有名で、あまりに締め切りを守らないんで「そんなことでは出世できませんよ」とお説教したりしていた(またかよ!)。ああ、恥ずかしい……。
高城剛……今をときめくハイパーメディアクリエイター。のわんと、彼の雑誌デビューの担当者がワタシ。日芸の生徒じゃないのにいつも武邑ゼミにいる、不思議な人であった。当時の肩書きはCGクリエイター&ライター。マンガもうまくて、自費を投じて『チキチキマシン猛レース』のCGなどを制作したあと、東映動画(現・東映アニメーション)の外部取締役役員になったのにはビックラこいた。最初の連載は『宝島』だったが、誌面リニューアルのタイミングで4カ月で終了。その後、フジテレビの深夜ドラマ『バナナチップス・ラブ』で映画監督として華々しいデビューを飾る。彼が『バナナ』でデビューしたときのきっかけの裏話はすごく面白いよ。あれは傑作だったので、小生もビデオソフトを買って持ってる。さすがにあそこまで徹底してやれば、「デヴィッド・リンチのただの亜流」とは誰も言わないんじゃないの。
大竹伸朗……恐れ多い存在。お会いしたこともない。ただ、一昨年の「大竹伸朗大回顧展」で、拙著『電子音楽 in JAPAN』を愛読書として大々的に取り上げていただいたと聞いて驚愕。足下向けて眠れませぬ。
八谷和彦……ソネットの「ポストペット」のクリエイターとしておなじみ現代美術家。なんと、小生の企画イベント「テクノポップDJパーティー」のVJ担当として、ずっと映像を依頼していた関係。当時は「SM-TV」という、ナム・ジュン・パイクのようなタッチの2人組のビデオ・アーティストとして活動していた。
伊藤ガビン……今はクリエイター、現代美術家、プランナー。『宝島』時代に連載してもらっていたころは、クレジットは本名で、本業は『アスキー』の編集者だった。元フェアチャイルド戸田誠司氏を師匠と崇める、兄弟弟子の関係(ガビンさんが兄弟子)。
角川書店社長I氏……ワタシが20年前に、創刊されたばかりだった同社のアニメ雑誌ニュータイプ』の編集をやっていたころの副編集長。先日出版された、ライバル誌というか先行誌『アニメック』の歴史を綴った小牧雅伸アニメックの頃…―編集長(ま)奮闘記』を読んで、「セル画書き下ろし」などのアイデアは、実はI氏の移籍と同じ流れで『アニメック』→『ニュータイプ』に継承された伝統だったことを知って驚く。『ケロロ軍曹』ほか、同社のアニメ事業の立役者としての働きのほか、「ChouChou」などの一般誌の編集者として知られるベテランだが、I氏がめちゃくちゃマンガがうまいことを知っている人は、今の角川書店社員でも少ないのではないか? 当時の氏の書いたラフを見て、プロのアニメーターよりもこの人のほうがうまいんじゃないのと思っていた人は多かったはず。
白井良明氏(ムーンライダーズ……実は、よしもとよしとも氏に先駆ける、初めてのマンガ連載担当が白井良明氏なのだ。『Techii』の「ムーンライダーズ新聞」内の連載として、毎号4コママンガを執筆してもらっていた。


(了)