POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

私は異常か? 正常か? 『ファニーゲームU.S.A.』の話




 前回のエントリで久々にジョン・ゾーンのことを書いていて、「そういえばアレはどうなったんだろう?」と思って、とある新作映画のことを検索してみたら、すでに上映スケジュールが決まっていた。12月にシネマライズ系で公開される『ファニーゲームU.S.A.』のことだ。オーストリア出身のミヒャエル・ハネケ監督が、ハリウッドに招かれて撮った第1作。97年の自作『ファニーゲーム』のリメイクである。
 『ファニーゲーム』はカンヌ映画祭の上映時に、あまりの内容のむごさに審査員が次々と席を立ったという、映画史に残る「後味の悪い映画」。主人公の3人家族がゴルフを楽しむために別荘に訪れ、そこで2人の奇矯な隣人に出会ったことから、世にも恐ろしい体験に巻き込まれてしまうというストーリーだ。まあ、思いっきし旧作だし、映画批評サイトでもないのでここでネタを割っても怒られないと思うが、3人は上映時間2時間をかけて、理由もなくただなぶられるように殺されていく。この映画にジョン・ゾーンの音楽(『グラン・ギニョール』より抜粋)が使われており、前半の家族の団らん風景で流れるヨハン・シュトラウスの音楽と対になって、不穏なムードを予告する場面や殺戮シーンにハードコアな曲が流れてくる。そのあまりにドンハマりな使い方は、ほとんどコントみたい……。安っぽいB級スプラッタ映画みたいな展開は、ハネケ監督の狙いらしく、派手な殺戮描写で観客を惹き付けるハリウッド製映画への批判として本作を撮ったと語っている。内容は悲惨だが、映像は淡々としたもので、殺人シーンを映すわけではない。悲鳴が聞こえている最中、カメラは空を捉えて何が起こっているかを観客に伝えない。その返り血が、白い壁にべっとりと塗りたくられて殺人の行為が知らされる。悲鳴が鳴りやんで、我々は被害者が息を引き取ったことを理解するという寸法である。暴力描写が映像的快楽に置き換えられることなく、殺人行為があったという情報だけを観客に提供することで、観る側のモラルの所在を問いかける。しかし、これが痛い。延々と続いて、観客をどんよりとした恐怖に陥れる。
 また、優しい奥さんからお裾分けでもらった卵を、2人の奇矯な隣人は何度も「うっかり」床に落とす。相手をからかうように、淡々と繰り返されるその行為は、まるでミニマル・アート・ビデオのよう。観客はそれだけで十分イライラさせられ、犯人に感情移入することを拒む。そして、やっとの思いで一度脱走に成功した妻は、元いた場所にビデオテープのように巻き戻されて(本当にここだけビデオテープ逆回しになる)、別の分岐へとわたされて、結局は惨殺される。タイトルはビデオゲームの隠喩で、つまり映画を通して、命を軽々しく扱うスプラッタ映画、ゲーム文化を批判しているのだ。「暴力批判映画は、暴力映画の残虐性を超えてなければ意味はない」とでもいいたげである。「ハッピーゲーム」なら何かの慣用句にありそうだが(おならを「天使のくしゃみ」と表現するみたいな)、この映画の題名を「ファニーゲーム」と付けるなんて、なんと悪辣でブラックなジョークなのだろう。
 拙ブログの来客のうち何人の人がこの映画を観てるんだろう? ミヒャエル・ハネケは、2001年にイザベル・ユペール主演で撮ったフランス映画『ピアニスト』で、同年のカンヌ映画祭でグランプリほか3冠を取った文字通りの名匠監督。『ピアニスト』も、主役に名優ユペールを起用しながら、男性の行為後のティッシュにこびりついた精液の匂いを嗅ぐのが趣味のピアノ教師が主人公という、かなりケッタイな映画だったので、もし『ピアニスト』を観たという人なら、ハネケのタッチはだいたい想像できるだろう。日本で劇場公開されたハネケ作品はDVDなどで全作観ている小生だが、どれ一つとっても救いのある映画がない。大半が『ファニーゲーム』と同じで、目の前で行われている行為には次のシークエンスへのつながりがなく、映画の顛末もほとんど予測できない。最後の数分、あるいは映画を見終わってから観客はテーマらしきものにに気付く。それが無惨さをより深める。幸せそうな家族の崩壊までを日記のように淡々と描いた『セブンス・コンチネント』でも、ほとんど家族の表情は映されない。漂白剤で作ったジュースを子供に呑ませるシーンで、ちらっと顔が映る。そこから子供は一切カットアウト、全編こんな具合。
 ハネケは、イーライ・ロスや『ソウ』シリーズあたりの新世代スプラッタへの批判として本作を撮ったと言われていたから、これがハリウッドでリメイクされると聞いたときは、なんとアイロニカルな行為なんだろうと思ったものだ。『ファニーゲームU.S.A.』では、惨殺される家族をティム・ロスナオミ・ワッツが演じている。オリジナルでも、そんじょそこらのレイプ映画の比じゃないほどやつれる妻役だが、久々に現れたスクリーミング・ヒロインであるナオミ・ワッツを起用するという、キャスティングの狙いは悪くない。アメリカ版の監督はハネケ自身。わざわざドイツからオリヴァー・ヒルシュピーゲル監督を呼び寄せながら、『SF/ボディ・スナッチャー』のリメイク『インベーション』をハッピーエンドに書き換えて興ざめさせたハリウッドだから、どうなることやらと心配していたけれど、本作を観た人のレビューによると、ほとんど内容は同じらしい。ハリウッド映画なのに、子供の行く末も同じというからすごい。奇矯な隣人を演じるのが、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のマイケル・ピット。オリジナルの隣人を演じている、ハネケ作品『ペニーズ・ビデオ』にも出ている、怪優アルノ・フィリッシュの凄みがどれだけ再現されているか見物だ。
 『ファニーゲーム』の監督の意図が、殺戮場面を映さないという手法によって成立していることを理解するには、脳内で実際の場面を想像してみるとわかる。血糊とエアポンプで作られた血しぶきなど、どこまで巧妙に再現されても、それがSFXという映像のマジックであると悟って安堵してしまうほど、すれっからしになってしまった現代人の我々である。たまたま先週、フランク・ダラボンの『ミスト』をDVDで観ていて、描写することの難しさを感じたばかり。
 『ミスト』は、スティーヴン・キング原作をフランク・ダラボンが監督するという、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』に続くコラボ3作目にして、初のホラー作品。ダラボンは30年越しの本作の映画化に際して、原作にないエンディングを付け加えて、原作者のキングを喜ばせた。キングの原作では末路はあえて明示されず、異世界とつながった主人公らはそのまま、無間地獄に置き去りにされておしまい。『トワイライト・ゾーン』の挿話みたいに終わるのだが、テレビの視聴者なら「ああ、これが現実でなくて本当によかった」と胸をなで下ろし、ハッピーな現実に戻っていくんだろう。登場人物のその後の運命などどこへやら、そして次週は別のエピソードが始まってすっかり忘れられて……という具合にだ。もともと60年代のレイ・ハリーハウゼン作品のような恐怖ファンタジーとして、『ミスト』も当初はモノクロで撮りたかったと語るダラボン(コレクターズ・エディションDVDにはモノクロ版のディレクターズ・カットが収録。まるで60年代のヴィンテージ作品をニュー・プリントで観ているようで必見)。『ミスト』の原作も短編だから、『トワイライト・ゾーン』の1エピソードとして映像化されたのなら、原作のまま終わるのがふさわしかったかもしれない。モノクロ作品であるという皮膜が、現実とファンタジーの間にあるからこそ、どんな荒唐無稽なストーリーでも、あの時代のシリアルドラマは許されたのだ。しかし、ダラボン監督はカラー長編作品として『ミスト』を撮るにあたり、明確なエンディングを用意し、無間地獄というエンディングの代わりに、より具体的な「救済」の場面を描いている。しかし、911イラク戦争を伝えるニュース映像を観ているようなその終幕によって、そこまで展開されてきたSFXによる荒唐無稽なストーリーが、現実の物語へと連結し、観客はいやがおうにもリアルな恐怖や悲しみを感じるようになっている。おそらくそこが、「おとぎ話」として原作を愛するファンの反感を買っている理由なのだろう。
 しかし、ハネケの映像描写は、じっさいに付き合ってみるとそれほど哲学的でもない。この人のインタビュー映像を見ると、けっこう俗物っぽさを窺わせていたりするのが面白いのだ(そのへん、フランク・ダラボンのほうがよほど思慮深いと思う)。スタンスとしては、デンマークラース・フォン・トリアーに近いものを感じるかも。ラースも「アメリカ三部作」を撮ったりしてハリウッド批判を展開している監督だが、メディアで伝えられている巨匠ぶりに比べて、けっこう本人の発言内容はかなりヘタレな感じである。カンヌでグランプリを取った『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に主演しているビョークも、ハッキリとラースをバカ扱いしているし、劇場公開もされた『ドッグヴィル』のメイキング映画『ドッグヴィルの告白』での、俳優への愚痴を語る告白シーンもかなり笑える。しかし、監督が迷いながら映画を作っている行為が、小生にはいとおしい。例えば『地獄の黙示録』撮影中のフランシス・フォード・コッポラのエピソードは、メイキング映画『ハート・オブ・ダークネス』やエレノア・コッポラの日記などを通して広く知られていると思うが、こうした葛藤の場面にこそ、神が宿る瞬間があるというか。
 小生は酒、煙草も大してやらない、どちらかといえばモラリストだと思うから、仕事などの場面ではつまらないぐらいコモンセンスな生き方をしている。だからこそ、ラース・フォン・トリアーミヒャエル・ハネケのようなクレイジーな監督に惹かれてしまうんだろう。しかし、それがちょっと行き過ぎてか、最近はどんなエグい映画を観てもまったくビクともしなくなってしまった(笑)。数年前、パク・チャヌク監督の韓国映画オールドボーイ』を観たときのこと。禁忌な愛の残酷な結末を扱って、スキャンダラスな映画として本国で話題になったあの映画に、ショックを感じない不貞な自分がいたことにオロロいた。「ああ、俺はAVの見過ぎなんじゃないだろうか……(涙)」。これも旧作なのでオチを割ってもよかろう。主人公とヒロインの間に、近親相姦を暗示させるショッキングなラストが用意されており、『セヴン』のような救いのない物語として大衆にショックを与えたのだと思うのだが、あれが真に衝撃を持って迎えられたのは、キリスト教信者の多い韓国だからなんだろう。ミッキー・ローク主演の『エンゼル・ハート』も同じようなオチだったけど、あれもキリスト教圏のアメリカだったし。「お兄ちゃん萌え」だの、「妹萌え」だの、ハレンチな行為に免疫があってどっか壊れている日本人には、大してショッキングに映らなかったりしたんじゃなかろかと、日本のモラル・ハザードぶりが心配になってしまった。てか、小生だけか、それは(笑)。
 余談だが、『ファニーゲーム』で最初に惨殺される夫役を演じているのが、昨年他界した東ドイツの俳優、ウーリッヒ・ミューエ。この人、昨年のエガデミー賞(拙者が編集した『江頭2:50のエィガ批評宣言』を参照のこと)に輝いた、ドイツ映画の傑作『善き人のためのソナタ』の主人公を演じていた役者である。映画では、東ドイツの国家保安省に務める局員を演じており、反体制側にいる劇作家をスパイするという役回りだったが、実はミューエは旧東ドイツ時代にレジスタンス側に身を置き、なんと実際の妻に告発されて投獄したという悲しい過去を持つ人。ベルリンの壁崩壊後、92年にハネケの『ペニーズ・ビデオ』で映画デビューしたという苦労の人で、そんな人がかつて自分を投獄した国家保安省にも芸術を理解する局員がいたという役を演じるというのだから、深い倒錯がある。いや、旧東ドイツ時代の悲惨な体験を考えれば、本能的に拒絶してしまうような、皮肉で演じられるようなやわなものではないだろう。よほどのユーモアの持ち主なんだろうと、小生はまんじりとその演技に見入ってしまったほどだ。そんな戦中体験を過ごしたミューエなのに、よくまあ『ファニーゲーム』みたいな、真性Mしか受けないような惨殺される役を引き受けられるよなあ。そんなことに思いを巡らせながら、ドイツ映画の変態性というか、深淵に溜息をつく小生なのであった。


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