POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『momoco』時代の思い出とアイドルの顔に関する考察

 一昨日のエントリーで、物事を表現する時に、必要なのは「表現力」よりも「観察力」ではないかと私は書いた。絵が下手だというのは、表現が下手なのではなく、空間認識力がないという理屈だ。いくら描き方を勉強しても、上手くならない人がいるのは、その根幹の部分にメスが入っていないから。歌が下手な音痴の人も同じで、あれは歌が下手という「声」の問題というよりは、カラオケのピッチやリズムを正しく認識できない「耳」の問題だと思う。「表現」について書かれたものが、なぜか「表現力」の技術論に終始し、その人の「認知力」の問題に踏み込んでいるものが少ないと思っていたので、ちょっとマジメに考察してみたのがあのエピソードである。本人は一応、普通の読者にもわかってもらえるものと思って、普遍のテーマのつもりで書いてはいるが、しかし一方で、そうした物言いが私個人の、かなり個人的な体験から芽生えたものという認識もある。
 これまで付き合ってきた女性(彼女、女友達など)の顔を見ていて、目が二重だとか、アゴがしゃくれているとか、そうした美醜というか、些細な顔の部位やバランスの問題で、その人の人生が大きく変わるのだということを、私はかなりシュールな問題として捉えてきた。「クレオパトラの鼻が5センチ高かったら、歴史は変わっていただろう」という有名な格言もある。しかし、これはかなり主観的なものである。私が昔『momoco』というアイドル誌にいたころ、デビューしたての新人アイドルや予備軍(『momoco』クラブという、おニャン子B組みたいな軍団がいたのだ)を何人も見てきた。そのころ、いつも不思議に思っていたのは、実はアイドルの子よりマネジャーの女性のほうが美人というケースがけっこう多かったこと。これはおそらく、元アイドルだった子が、年齢的な理由で裏方のマネジャーに回るというケースが多かったとか、そういう話なんだろう。タレントのお世話なら、誰よりもタレントの気持ちがわかる立場なんだろうし。でも、当のアイドルがあまり可愛くない場合がけっこうあって、「よっぽどマネジャーさんのほうを撮影したいよな」なんて、撮影隊と裏でよく話をしてたぐらいで……(笑)。結局これも、本人をアイドルたらしめているのは「アイドルになりたい」という意志の問題という話。マネジャーさんだって、本人がその気なら、ほしのあきみたいに30歳目前になっても水着グラビアの第一線で活躍できるかもしれないんだけどね。
 そういえば一時、AV女優の美形化が進んだ時期というのがあった。ブスなのに「絶対ヌードはいや」というB級モデルもいたりしたから、『ベッピン』『ウレッコ』などのエロ雑誌で、水着グラビアとヌードのモデルの質が完全に逆転していたことがあった。実際、AV女優って男っぽい性格の人が多かったりするから、自分のルックスや商品価値を測りかねてる人も多いと思う。以前も別エントリーで書いたが、昨日までコミケで同人誌売ってましたみたいな、可愛いけど性体験には乏しいようなヲタ気質な女の子が、翌月には突然AV女優でデビューしちゃうみたいな飛躍が、女性の場合はあったりする。よく、アイドルの「脱ぐ/脱がない」の境界を、本人の主体性として分析する記事を見かけることがあるが、あれは私から見ると本人の意志というより、まわりに脱がせるのが上手いスタッフがいるかいないかだけだのように思う。まわりに、「君、可愛いね」と言ってくれる人がいないと、案外女性って自分の商品価値に気付かないという人が多いんじゃないだろうか。昔、「きゃんひとみといちごプロモーション」というかなりマイナーなアイドルグループがいたのを思い出した。女の子4人組で、1人のアイドル役と3人のスタッフ役というのが同じ壇上にいるというメタ構造を持つグループだった。その4人の美醜には大した優劣はなくて、アイドル役と裏方役はくじ引きできまったみたいな感じだった。あれはアイドル産業というものの歪さを、そのまま提示してみたような存在だったのかもしれないな。
 私が『momoco』にいた時、もう一つ驚いたエピソードがある。10代の女の子の顔が、会うたびにコロコロ変わるのである。個人差はあると思うが、10代っていうのは女の子にとって、すごく顔が変わる年頃らしいのだ。昨日まで絶妙なバランスのカワイコチャンだったのに、取材で翌月に会った時には、顔がぐんと縦に伸びていたりして、「あちゃー」と思うほど激変するなんてことがけっこうあったのだ。成長とは残酷なものだ。あるいは、普通にしていると地味なのに、笑顔になると100倍ぐらい光る子がいたりする一方で、笑顔は間寛平みたいなヒラメ顔なのに、顔を真っ赤にして怒った顔がドキっとするほど美人に見える子というのもいる。どんな女の子でもいちばん美形に見える表情のポジションというのがある。喜怒哀楽で目の間の幅や頬の肉の位置って微妙に変わるから、そのいちばんのベスト・ポジションが、「笑っているとき」の人もいれば「怒っているとき」という人もいる、という風に個人差があるってことなんだろう。よく「子供時代に可愛い子は必ず成長するとブスになる」と言われるのも、同じ理屈。子役時代の顔のパーツがベストな配置だったら、頭蓋骨が成長したらバランスが変わるわけだから、子供時代よりブスになるのは当たり前なのである(その逆もまた真なり)。
 そういう風に、女の子の美醜を全体として捉えるのではなく、顔の部品やバランスで捉えるようなクセが付いているから、なかなかアイドルとして信奉できる女の子という存在が私にはいなかった。そもそも、私は青春時代からアイドルに憧れたことなどほとんどない。好きな女優はかなりいるが、その役柄が作品に完璧にハマっているなどと関心しているだけで、女優個人の生活に興味がいくこともほとんどなかった。そもそも、いい映画を観たあと感想は「脚本がよくできてる」とか「絵作りが上手いな」なんてばかりだから、俳優に自己投影なんてしたことがない。だから、女の子と付き合うときも、相手に完璧さなどを求めることはあまりなく、いちばん執着している要素さえあれば、あとは割とほったらかしだった。だいたい、アイドルに憧れたりアニメに萌えたりするのは宗教だから。あれはねじ曲がった自己愛の投影に過ぎないから、私のような自己嫌悪タイプが無条件に対象に入れあげることなんてないと思う。『momoco』クラブの子たちに、憧れているアイドルの名前を聞いても、たいてい自分の顔に系統が似たタイプを挙げていたし。西村知美菊池桃子に憧れたなんていう構図は、あれは間接的な自己肯定だと思うしね。
 ついでだから、『momoco』クラブ時代の面白い話を披露しておこう。私が担当していたのは、『momoco』クラブの中でも予備軍的なグループで、誌面に出る時は、もっぱら読者デート企画などの企画ものに参加するような子たちだった。だが一応、各校のクラスでいちばん可愛い子がトーナメント式に勝ち残ってきたような集団だったわけだから、その辺を歩いている女の子より遙かに可愛かった。しかし、可愛い子が集まると、そこには必ず優劣が発生してしまう。かわいさのインフレ状態になって、あまりドキドキすることもなくなってくるものだなという印象があった。
 実際、ちょっと可愛いくらいじゃ人生あんまり得することはないって言っていた。逆に「美人は得しない」と言う子もいた。学校で学年が変わり、クラス替えがあってちょうど1ヶ月ぐらいたった5月になると、毎年決まったように告白されるのがうんざりと言っている子もいた。男の立場からすれば、一世一代の告白のような真剣勝負のつもりなんだろうが、生まれつき可愛い子というのは、環境が変わるたびに、うんざりするほど決まり事のように告白されるらしいのだ。だからカワイコチャンに告白する時は、自分がそんなワン・オブ・ゼムだということを理解しておくほうがいいと思うぞ。だが、そんな中でもタフな女の子というのもいて、もう告白されるのはすっかり慣れていて「私は男を振るのが世界一上手い」が自慢という子もいた(笑)。いわゆる美人の子は場数を踏んでいて、だんだん振るのも上手くなっていくものらしい。だから案外、中の上ぐらいの女の子あたりが、一番自意識過剰で扱いにくかったり、犯罪に巻き込まれやすかったりするんではなかろうか。
 そんな風に、トーナメント式に勝ち残ってきた女の子に触れていた時、世の男性諸氏が結婚せずに独身で過ごしている理由がこのへんにあるのかなと思うこともあった。昔、テレビや雑誌がまだ普及してなかったころというのは、美人の基準もせいぜいその近隣の町や村の中の話だったと思う。ところが、テレビやネットの普及で水準が全国レベルに引き上げられ、おらが村のハナちゃんも、実は大して美人じゃないということに気付かされてしまった。田舎の人間が東京の基準で美醜にこだわるなんていうのは、メディアが植え付けた残酷なドラマだと思う。日本で一番好きな顔の子と結婚できなければ、別に結婚しなくてもいいやっていう気持ち、わからんでもないもの。
 以前、私はヲタクの習性を「モテをあきらめた、かつてサブカルだった人たち」と書いたが、そんな風にモテに挫折する機会は年々増えていると思う。メディアによる世界標準化もそうだが、いわゆる格差社会が進んで、美人の女と金持ちの男のカップルの掛け合わせが増えているんじゃないかと思うところがある。私が『momoco』にいた時すでに、アイドル志望の子たちには、家柄に恵まれた子がかなり多かった。昔の山口百恵みたいな、貧しい家庭で生まれた子はすでに皆無だったと思う。取材に来ていたお母さんも綺麗な人が多かったし、そのお父さんが弁護士や医者なんていう家庭も多かった。18年前にすでにそうなんだから、その美人と金持ちの結婚の比率ってそのころよりずっと上がってるんじゃないのかね。だから、ビンボー人は余った人から選びなさいって言われてるようなもんだ。
 美醜のことで言えば、私は整形肯定派でもある。可愛く見えたほうがぜったい得をするんなら、整形した方がずっといいんじゃないのと思っている。実際、デビューするアイドルがどれぐらい整形したりしているのかはよくしらない。だが、プロモーションのために月刊誌やTVにコマーシャルなんか打とうと思ったら、大して効果もないのに軽く数百万円が飛ぶ世界である。保険が効かなくたって、世界の名医に診てもらえるんなら、ブスを誤魔化し誤魔化し生きていくより、手術代に金払ったほうがよほど安く上がるんじゃないかとアイドル誌時代からずっと思っていた。よく、整形すると、生まれた子供がブスだとバレるのが怖いなんていう話聞くけど、両親が美形なのに子供が不細工なんていう家族などいくらでもいる。最初に紹介したように、顔のパーツの微妙なバランスで美醜が決まっているだけだから。自分なんかの場合、美形の母親の藤純子と、ブスに生まれた娘といわれる寺島しのぶとの関係でも、寺島しのぶの顔のほうが好きだったりするから、よけい当てはまらなかったりするが(笑)。
 『Digi@SPA!』という雑誌をやった時、15年ぶりぐらいにグラビアページを担当してみたが、改めて思ったのが、私のヒロイン観の特殊性についてだった。当初は別の企画があったんだが立ち消えになってしまい、そのあと代案としてやったのが、三村恭代ちゃんのグラビアだった。『リンダリンダリンダ』で、主演のロックバンドをやっている4人組の敵役として、一瞬だけ登場してくるクールな美形の子である。昔、東海テレビの連続ドラマで、国広富之高橋ひとみの『ふぞろいの林檎たち』の2人が夫婦役で共演していて、その娘役をやっていたころから可愛い子だなあと思っていたのだ。『リンダリンダリンダ』は、主演の子たちがわりとモッサリしているというか田舎風なのが魅力なので、三村恭代ちゃんの都会っぽい顔立ちがヒールとして対比が決まっていた。映画を観た人からも、「あのチラっとしか映らない敵役の美形の子って誰なの?」という声がよく聞かれたので、彼女を主役にしてグラビアを撮ろうと思ったのだ。映画ではほとんど怒った顔しかしてないので、生涯銀幕では笑わなかったグレタ・ガルボにひっかけて、クール・ビューティーとして登場してもらい、最後のカットだけニコッと笑ってもらった。やってる最中は完璧と思っていたが、でも仕上がってみたらストーリーがちょっと蛇足なのね(あとから「そりゃツンデレだな」と言われて、初めてツンデレという言葉を知った)。それでつくづく私の女性観はマニアックなのだなーと再認識した。山本敦弘監督の女優選びって、犬堂一心監督もベタほめしてたけど、私が見ても毎回ストライクゾーンにバシッと決まる。『ばかのハコ船』の小寺智子とか細江祐子とか、よく見つけてきたなと思うし、いい使い方だなあといちいち関心する。でもこのへんの日本映画的なキャスティングにいちいちグッときてしまう体質が、自分が王道のアイドルグラビアができない理由なんだろうな。
 昔から好きだった女優、歌手というのを並べてみると、日本だと、津島恵子、村地弘美、高橋洋子太田裕美大竹しのぶ名取裕子種ともこ加護ちゃんで、海外だとシャーリー・マクレーンとかケイト・ウインスレットあたり。以前、「友近っていいよね」と言ったらババ好きじゃないかと指摘されたが、基本的にそうなんじゃないかと思う。というか、顔の地味な人って年取っても老けないからね。あと、AV女優とかピンクの女優とか、裸を観るといちいち猿みたいに好きになっていた時期というのもある。宮下順子なんて、歳をとるごとに好きになってきてるし、あと昔は全然興味なかったのに、数年前から突如、荒木一郎が出ていたピンク映画に出ていたひし美ゆり子にハマりだした。室井滋に一時憧れていたのも、あれはピンク映画の脱ぎ要員でよく出ていたからだ。あとから気付いたけど、だいたい日常的に女の子の裸に接する時って、恋人関係とかそういうケースしかありえないわけだから、脳処理的に「恋人である」→「だから目の前に裸でいる」という関係が、頭の中でコンフューズして、いつしか「目の前に裸でいる」→「恋人になりたい」という風に処理されて恋愛感情に置き換えられてしまうんだな。だから、基本的に私は、好きなタイプを聞かれると「エロい人」というように答えるようにしている。
 しかし、今回のエントリーはいったいなんなのだ?……(笑)。



ウチは俳優のレコードも男女問わずかなりある。これは、昔好きだった『小さな恋のメロディー』のトレーシー・ハイドのEP盤。リチャード・ヒューソン楽団(のちのRAHバンドね!)のサントラももちろんだが、ダイアローグの入ったLPだって持ってるぞ。

シャーリー・マクレーン好きは年季が入っていて、サントラ盤はかなり持ってる。これはプロデューサーとの裁判で映画仕事を干され、不遇だった30代のころのライヴ盤。曲は『スウィート・チャリティ』からの抜粋が中心。シャーリー好きは小林信彦の影響である。

これは珍しいと思う、ケイト・ウィンスレットのCDシングル。PVも入っている。サム・メンデスと結婚するに至り、この人も相当マニアックな男の趣味を持ってるのだと感心した。