POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

フリッパーズ・ギターについて知っている2、3の事柄

THREE CHEERS FOR OUR SIDE

THREE CHEERS FOR OUR SIDE

CAMERA TALK

CAMERA TALK

 このブログを始めて、執筆するネタ探しの作業の中で、いきおい懐古調のネタが多くなっているのは、特に狙って意識してのことではない。しかし、おそらくきっかけはある。13年近く在籍した某週刊誌から、このたび離れることになったのである。それ以前も含めれば20年、私はほとんど仕事に忙殺されてばかりの毎日だった。無論『電子音楽 in JAPAN』などを執筆していた休職期間もあるにはあるが、休職すぐに取材に取りかかり、執筆後には即現場に戻って忙しい日々を過ごしていたので、一息つく暇さえなかった。週刊誌の編集業というのは自転車操業で、もし自分が何かアクシデントに巻き込まれたらというような、いざという場合を想定して何か計画を立てておくなんてこともない。だから緊張感があるからか、風邪というものもほとんどひかない。突然の病気でも、だいたい薬を飲んでさっさと取材や入稿に取りかかる。「あー、体調ワリィ」は日常茶飯事である。締め切り日、ライターから風邪を引いて書けなくなったと連絡をもらっても、「じゃあ次のタイミングは5時間後ですので、それまでによろしくです」と返すだけ。大人の世界は甘くはないのだ。
 だが、40歳を超えたあたりから、体調不良も目立ってきた。柄にもなく、スポーツジムに通ってダイエットも始めた。先日、生まれて初めて鍼にも行った。いつまでもロック、ロックと万年青年のつもりでいたが、すっかりジジイである。だから、映画を観ても涙もろくなる。思い出に郷愁を感じたりする。ところが記憶力はどんどん衰えるばかり。今はレイチェルの心境がよくわかる(違うか……)。おそらくここに書いているような自分が体験したエピソードも、数年後には忘れてしまうかもしれない。覚えてるうちに書いておくのも悪くないだろう。面白いかは別として。
 パルプも無限にあるわけではなく、「あと30年したらなくなるから、そのころは雑誌なんてないかもね」という話は昔からよくなされていた。だが、葉っぱから紙が取れるケナフという植物が登場して、今は心配なくなった。しかし、庶民の雑誌購買習慣というのは確実に薄れつつある。ネットに置き換わったというだけではない。昔は、とても教養階級とは言えないウチの親父でさえも、ただ見栄だけで『文藝春秋』を毎月買ってたりしたものだが(『砂の上のロビンソン』の田中邦衛みたいなもの)。幻想であれ、雑誌を売る基盤を支えていた、そういう教養コンプレックスそのものが今は忘れられつつある。雑誌文化はこうして、今確実に終焉を迎えつつあるのだ。
 音楽業界だってそうだろう。iPodウォークマン携帯電話の登場で、未来の音楽環境を我々は手に入れた。だが、音楽ソフトを生み出す現場は目も当てられない状況にあると思う。これは翻訳家の方から聞いた話だが、昔は学生がやる下訳というのがあって、分厚い論文を2ヶ月ぐらいかけてやっていたものが、今は翻訳ソフトで一瞬にしてできてしまう。本当に数秒だから恐ろしい。究極の利便性がもたらされたが、それによって翻訳料が従来の30%に相場が下がったんだそうだ。プロ・トゥールズの登場で自宅でもプロクオリティの録音ができるようになり、新人が気むずかしいエンジニアのご機嫌を伺わずに、自由にレコーディングできるようになった。だが、一方で制作費はどんどん切りつめられている。音楽を作るのは心の問題だが、経済とは見えない糸で確実に繋がっているのだ。
 そんな現状に黄昏を感じるのは私だけではないようで、最近、私が面白く読ませてもらっているものに、フリッパーズ・ギターについての某ブログがある(本人の意向もあると思うので、URLの紹介は控える)。8月25日に初期のアルバム『THREE CHEERS FOR OUR SIDE~海へ行くつもりじゃなかった~』『CAMERA TALK』がリマスター仕様で再発されることを受けて、密かに始まっていたものだ。スタッフからの視点で、彼らがデビューするに至るまでの経過を、いままで公開されたことのないエピソードで綴ったものである。署名はないが、おそらくプロデューサーだったM氏によるものだろう。文中に出てくるO氏という方も私はよく知っている。
 私が20年前にいた『TECHII』(音楽之友社)という雑誌は、YMOムーンライダーズなど、80年代初頭に登場してきた日本のパンク、ニュー・ウェーヴなどの動きが、一つの“新しい音楽ジャンル”へと結実すると思われていた時期に創刊された雑誌である。ノンスタンダード(テイチク)、ミディ(RCAのディアハートからの独立組)、テント(キャニオン)といったレーベルが立ち上がったばかりで、いずれも細野晴臣坂本龍一高橋幸宏ムーンライダーズといった信頼のおける音楽プロデューサーが関わっていた。私がそこに入ったのは、そんな「ポスト・テクノ」の誕生に立ち会いたかったからだ。結果から記せば、当時の私が期待していたような形で、新しいテクノロジーを体現したような「ポスト・テクノ」を感じさせる才能は、結局現れなかった。だが一方で、90年代以降に開花する音楽文化が、そこから確実に生まれつつあった。後の選曲ブームを準備し、DJの市民権を確立した、桑原茂一氏の日本音楽選曲家協会はこの雑誌から生まれたものだし、ピチカート・ファイヴ小西康陽氏が初めて連載を始めたのも『TECHII』である。先のM氏、O氏というのは、当時ノンスタンダードレーベルのスタッフで、『TECHII』とも関わりが深かった。そして『TECHII』編集部には、よく出入りしていたアルバイトのライター志望の学生の女の子がいた。その子が後に結成したバンドというのが、フリッパーズ・ギターなのだ。
 年齢が同じということもあり、彼女とは仕事以外の面でよく話をした。2人とも当時は中西俊夫がヒーローだった。原稿書きのためによく編集部にも泊まったが、そこでいっしょに新譜のテープをよく聴いた。ミントサウンドから郵送されてきたネオGSのオムニバスの資料があり、その中からレッド・カーテンというグループの音を見つけた時は、2人して興奮した。後のオリジナル・ラヴだ。後日、彼女は田島貴男氏と面識を得ることとなり、和田博巳氏のレーベル“ハラハラ”から出た自主制作盤オリジナル・ラヴ』に収録されることとなる、初期ナンバーのデモテープなども編集部で彼女から聞かせてもらった。すごい内容だとため息をついた。そのころ、田島氏がいた和光大学の軽音楽部によく出入りしていたから、それが縁になったのだろう。突如、キーボードを始めた彼女は(機種選びでアドバイスを求められたことがある)、和光周辺の学生と“ピーウィー60s”というバンドを結成する。名前はティム・バートンの映画『ピーウィー・ハーマンの冒険』から付けたものだ。私がもらったテープには、モンキーズ「恋の終列車」のカヴァーなどが入っており、サウンドはB-52sにインスパイアされたものだった。このバンドが様々な変転を経て、後にロリポップ・ソニックというグループ(命名は西海岸サイケのロリポップ・ショップと東海岸パンクのソニック・ユースの合成らしい)に発展し、フリッパーズ・ギターに改名してプロデビューを飾るのである。
 M氏がフリッパーズを見いだす経緯については、私は今回のブログで初めて知ったクチだ。ノンスタンダードの晩年は、発起人だった細野氏らも離れて、ラウンジ・リザーズやブルー・トニック(ルースターズの残党が結成した、日本のスタイル・カウンシル)らが所属する社内A&Rのレーベルと化していたので、実情がつかめなかった。後に『スタジオボイス』に掲載された松山晋也氏によるインタビューで、M氏がノンスタからポリスターに移籍するまでの流れを初めて知った。だが、サロン・ミュージックの吉田仁氏のプロデュースは、きっと結成時のリーダーだった彼女の意向だろう。サロンは2人とも好きだったし、初期フリッパーズ・ギターに強い影響を及ぼしているモノクローム・セットは、私らの世代にとっては、サロン・ミュージックが紹介者みたいなものだったからだ。
 フリッパーズ・ギターがデビューした時は、私は畑違いのアイドル雑誌『momoco』にいたので、有名なイントロデュース盤なども持ってはいない。ただ、アイドル誌らしいエピソードとしては、渡辺満里奈がそのころに自分のFM番組でいち早くかけていて、「オオッ!」と思ったのを覚えている。なにしろフリッパーズがデビューしたころ、彼らに注目するようなラジオ、テレビなどのメディアはひとつもなかったのだ。「よくこんなバンド知ってるなー」というのが素直な感想で、後から『momoco』の満里奈担当の先輩に聞いたら、選曲は年配のマネジャーD氏がやっていて彼の趣味だという。それが後に、担当タレントとメンバーの交際の噂に繋がっていくというのも不思議なもの。たぶん雑誌で彼らを取り上げていたのも、岩本晃四郎氏がやっていた『POP INDS』ぐらいだったと思う。『POP INDS』は当時、『TECHII』の唯一のライバルと言われていた雑誌。よく覚えてる、ほうぼうで『TECHII』の悪口を言っていたらしいんで(笑)。
 デビューCD『THREE CHEERS FOR OUR SIDE~海へ行くつもりじゃなかった~』は、私には珍しく発売日にレコード店でちゃんと購入した。音もカッコイイ! 「レッド・フラッグ」をやってるよー! この旋律はまんまビドやん! と、私には個人的に十分楽しめるアルバムだった。だが当時、アイドル誌にいる私にできることは、そのデビュー作の小さな紹介記事を書いてあげるぐらいのこと。後のネオアコリバイバルブームなんて、起こるとはこれっぽちも想像できなかった。『TECHII』時代の徹夜作業の心の支えであり、現在の音楽観を形成するきっかけとなった名盤『カップルズ』(ピチカート・ファイヴ)だって、すごいすごいと興奮して讃えたが、さっぱり売れなかった。<どうせ良質な音楽なんて売れないよ……>と、心の底で当時の私は思っていたのだ。『TECHII』で過ごした音楽業界との関わりの中で、すっかり私は希望を失い、心が傷ついていたのである。
 だから、その後のフリッパーズ・ギターの快進撃には正直驚かされた。「恋とマシンガン」がTBSのドラマの主題歌に使われていたからって理由もあるんだろうが、レコード大賞にまで選ばれちゃうんだから。私が小沢健二氏、小山田圭吾氏の2人に会ったのは、アルバイトでインタビュアーをやっていた『an』(学生援護会)でセッティングしてもらった、ロングインタビューの時。「恋とマシンガン」がヒットし、ロンドンでセカンド・アルバムをレコーディングしてきたばかりのころである。「ルイ・フィリップとレコーディングしたんでしょ?」「ディーン・ブロデリックって、後期モノクローム・セットのディーン・スピードウェルと同一人物なんだよね」などと、会話の内容は趣味丸出し。インタビュアーの一素人の分際なのに、その恵まれた環境にやっかみを感じたぐらいだ。グループ名を「フリッパーズ・ギター」に改名した理由は知らなかったので、「これってロバート・フリップの装置からつけたの?」とか、アホ丸出しな質問までその時2人にはぶつけている。<TV洋画の『わんぱくフリッパー』から命名した>と資料に書かれていて、うそだろーと思っていたから(だって前身はロリポップ・ソニックというコワモテのグループ名だし)。だけどこれは本当で、オレンジ・ジュースのファーストのジャケット写真から連想して付けたものらしい。フリッパートロニクスのことは、2人とも知らなかった。プログレは経由してないのね。世代的に当たり前なんだけど……(笑)。
 取材が終わり、同行したポリスターのスタッフの名刺をいただいてまた驚いた。『momoco』の取材でよく見かけていた、当時の人気アイドルWinkの宣伝マンのS氏だった。世界は狭いものだ。いかにもアイドル雑誌の陽気なプロモーターって印象の方だったから、後にトラットリアのA&Rマンになるなんて、この時ですら思いもしなかった。すでにリーダーだった女のコは脱退しており、この時フリッパーズは小沢、小山田の2人組になっていたが、S氏に話を聞くと、プロデューサーはなんとあのM氏だという。おまけにインペグ担当(スタジオミュージシャンの派遣)はO氏という、揃ってノンスタ出身組が彼らの制作を手掛けていたのだ。なるへそ、だからコーラスをミック(大内美貴子/ワールド・スタンダード)がやってたわけね(M氏の奥さんである)。仙波清彦、平ヶ倉良枝(はにわちゃん、オリジナル・ラヴ)、萩原基文(メッケン/キリング・タイム)といったバックメンバーや、後の「GROOVE TUBE」でセクシーコーラスがフィーチャーされる小川美潮などは、すべてO氏人脈のミュージシャンである。私が『TECHII』時代に知っていた人々が、こうした形で新しい世代に手を貸している事実に私は驚いた。そして、焦りすら感じたのだ。
 フリッパーズ・ギターはその後、打ち上げ花火のように一瞬だけ活動して解散するが、90年代の音楽シーンに大きな影響を残した。その後のピチカート・ファイヴのしばらくしてからのブレイクも、私から見れば、フリッパーズの登場が刺激した部分が大きいと思う。小西氏らの世代なら博学なコレクターは私の周りにもたくさんいたが、20代前半だった若い2人が、我々の世代と軽く渡り合えるほどの音楽や映画の知識を披露していることには感動したもの。しかもオシャレ! しかもルックスがいい! ここがポイント。確実に新しい時代が来ていることを、2人を通してひしひしと感じたものだ。
 私がその後アイドル誌を離れ、89年に隔月刊誌化するためにスタッフを募集していた『宝島』編集部に移ったことには、少なからず彼らの存在の影響があったと思っている。私は再び、最前線の音楽の現場を見てみたくなったのだ。