POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『OMOYDE』(ソニー・ミュージックハウス/非売品)

 ソニー・ミュージックハウス(現・ソニー・ミュージックダイレクト)が制作した、YMOのアルバム復刻計10タイトルのライナーノーツに掲載された、坂本、細野、高橋3人のインタビューを一冊にまとめたもの。加えて、米国デビュー時にプレス配布された英文資料と、YMOが初めて活字メディアに登場した『ミュージックマガジン』に掲載された北中正和氏のスタジオ訪問記事、メンバー3人が執筆していた雑誌『ビックリハウス』のマンガ連載「黄色魔術楽団症候群」全回をカラーで再録した、ボリュームのあるものになっている。「黄色魔術楽団症候群」の再掲載は、元ハウサー(最終巻の紳士録に、ナンシー関大槻ケンヂらとともに名前あり!)だった私のアイデア。巻末のYMO年表は、東芝EMIからの復刻時に私が作成した年表を、ソニーのスタッフがまとめたものである。
 東芝EMIからの初めてのYMO復刻の際に、私に声をかけてくれたのは、当時細野氏のマネジャーだった「DJアズマ」ことA氏。実はA氏が清水靖晃氏のマネジャーだった時代から大変お世話になっており、連絡をいただいたのは『電子音楽 in JAPAN』刊行後であった。メンバーの公認も得ず勝手に書いたものだったので、呼び出された当初は内容について怒られるのではと思い、内心冷や冷やものだったが、拙著のことは好意的に思っていただいたようでホッと安心。東芝EMIでの復刻は、エイベックス時代のデイジーワールドのように、実質的にはA氏が外部A&Rを努めていたため、いろいろお手伝いさせていただいたが、そのメインイベントとなったのが、サンフランシスコでの細野氏の10時間インタビューだった。当初は国内で数時間程度のインタビューが組まれていたが、急遽、久保田真琴氏とのユニット“ハリー&マック”のレコーディング(主にダビングとトラックダウン)で細野氏がサンフランシスコに飛ぶこととなり、であれば渡米してそこで取材すればというA氏の提案で、急遽私も西海岸入りすることに。ちなみに私、それまで海外旅行の経験など一切なく、パスポートも持っていなかったため、出発まで1週間しかない期限の中で実家から戸籍謄本を取り寄せたりといろいろあって、パスポート発行を受けたのが渡米の前日という、凄まじいスケジュールであった。
 アーティストのクロニクルな取材というのは、いい思い出から最悪な思い出まで、当時のさまざまな記憶を引きずり出すという、見方を変えれば警察の取り調べのような当事者にとってはかなりヘヴィーな作業。当日の体調などのコンディションに左右されることも多いために、実質は成り行き任せで行われることが多い。また、インタビュアーが素人でも1時間ぐらいは話は持つが、長時間の取材というのは必ず中だるみして相手が飽きてくるもので、それをいかにしてつなぎ止めて続けるかには、演出というか技術が必要である。また、こちらの愚かな一言で気分を害したりといった、思わぬアクシデントで頓挫してしまう場合なども想定しなければならず、ショートバージョン、ロングバージョンと、いつでも質問内容を切り替え可能なようにして取材に臨んだりするものなのだが、この回の細野氏へのインタビューはサンフランシスコで行ったことが吉と出た。国内では多忙ゆえに数時間すら取れない細野氏だったが、ここではノルマのトラックダウン作業以外は比較的ゆったりした時間が確保できた。それと一年中雨が降らないサンフランシスコの気候である。後日、A氏とヘイトアシュベリーを回った小生だが、サンフランシスコの町並みはペイズリー時代の当時のまま時間が止まっているかのようで、ジメジメとした気候で日々予定に急かされて過ごす東京での生活とは正反対。結果、インタビュー時間にして総数10数時間に及び、途中リラックスした雑談なども交えた、濃密な時間を過ごすことができた。現地在住のテツ・イノウエ氏に引きつられて、エッチな大人のお店にもいったし……(笑)。こういう無礼講も海外だから許される。
 レコーディングはすでに後半に差し掛かっており、参加の噂を聞いていたガース・ハドソンらザ・バンドのメンバーはいなかったが、佐藤奈々子氏が遊びに来たり、メインのエンジニアがなんとNYダウンタウン一派のマーク・ビンガムだったり(久保田氏、細野氏両氏とも、彼のソロアルバムの存在は知らなかった)と、いろいろな出会いがあったことを思い出す。で、帰国した当日にブライアン・ウィルソンの初来日を観に言って気分を入れ替えた後、予定通り一週間後に全ライナーを入稿終えて、東芝EMIでの再発は無事リリースされた。
 ソニーへのアルファレコードの販売権移動は、友人で他のアルファ音源再発を手掛けている土龍団の濱田高志氏から聞いていたが、私に話が来たのはその1年後のこと。その担当ディレクターというのが、拙著『電子音楽 in JAPAN』のエピソードにも登場してくるPSY・Sの元ディレクター氏だったというからオロロいた。東芝EMI時の細野インタビューを読んで声をかけていただいたもので、ソニーからの復刻も、同じように坂本龍一氏のロングインタビューをやりたいとの依頼だった。ニューヨークに飛んでの取材は、教授のプライベートオフィスで行ったが、こちらは勝手知ったる教授の我が家ということで、全編リラックスした取材となり、トータルで15時間近くを教授と差し向かいで過ごすことになった。これは、辛辣な発言も含めかなりエキサイティングなものになったと思う。
 当初は全10枚に分けて坂本インタビューのみを掲載する予定だったが、途中、細野インタビューを再掲載するのはどうかという話が出て、拙者も了解。ただし、東芝EMIソニーでは復刻タイトルが微妙に異なっていたため(東芝時代は、当初ファーストのUS版が割愛されており、翌年に追加することになったためライナーは未使用だったエピソードを急遽再構成。ベスト『マルティプライズ』はソニー復刻分からはオミット。『テクノドン』は東芝原盤のため復刻できず)内容を再編集することになった。その作業の過程で、今度はせっかくだから幸宏氏のインタビューも載せたいという話になり、こちらは予定されていたDVD『YMO:Visual the Best』の副音声の収録(私は構成台本を担当)と同じ日に、慌ただしくも数時間(それでも、幸宏インタビューとしては最長記録)の取材を敢行。無事10タイトル分の取材を終わることができた。メンバー3人のロングインタビューというのも、たまたま偶然が重なって実現できたというもので、これらすべては、最初の細野氏のインタビューがサンフランシスコに変更されたことがきっかけである。この神の采配に私は深く感謝している。
 私が実質作業をしたのは、各アルバム用に起こしたライナーノーツ原稿までで、いくつかアイデア提供した要素などを加味して、ソニーのスタッフが一冊の本にまとめ上げたものが『OMOYDE』となった。本書は、復刻CD10タイトルとDVDのうち5作品以上お買いあげの購買者に、もれなくプレゼントされた。だが、YMOのCD復刻は、アルファ時代、東芝EMI時代と、過去に15年間に何度も行われているため、新インタビューを読みたいというだけでCDを買い直させるのは、庶民の懐具合的にはかなりキビシイ話。新事実なども盛り込まれたこの迫真のインタビューを、実は一番に読んでほしいと思ってるのは同世代の30代〜40代なのだが、この層がもっともCDは普及済みだったりする。結果、『OMOYDE』がネットオークションなどで高価で取引されるなど悪影響をもあったため、これを市販しようというアイデアが生まれ、拙著もお世話になっているアスペクトから、再編集版が刊行されることがアナウンスされた。
 すでにネットのフライング記事で一度発表されている通り、アートワークは『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』『パブリック・プレッシャー』を手掛けた羽良多平吉氏。大幅な追加原稿を依頼されて書かされた私だが、なんとすでに一昨年に入稿は終わっている(!?)。近日には出るという噂も聞いているので、決定したらいち早くご報告する予定である。