POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「告白的AV女優論」ーーPOP2*0的モンロー祭り

 先日、週刊誌の別冊の仕事で、おそらく大衆誌で初めてと思われる、AV女優100人アンケートというのをやった。内容はお約束の、「初体験の年齢」「好きな体位」「彼の有無」「撮影時の失敗談」などの設問が並ぶものだが、それ以外にも「家族の認知(特に兄弟、姉妹)」「ギャラ」など、専門誌でははばかられるようなプライベートな質問や、なんでもない「好きな映画」「好きな音楽」などの項目も盛り込んでみた。
 ご存じのように、ライブドアの尽力(?)もあって、今やAV女優ブログが花盛りである。無論、更新が半年以上滞っているものもあれば、どう見ても事務所の人間が代筆してるってものもある。だいたい、AV女優のブログなど読む男は、スケベ目的に決まっているから、男のマネジャーが「あは〜ん」「うふ〜ん」とでも適当に書いていれば、それで難なく回っていく世界なのだ。現にアイドル系のブログも、(真鍋かをりしょこたんなど一部を除き)そんな風にゴーストライター氏があれこれ知恵を巡らせて、差し障りのない話題を展開しているのが現実なのだろう。だが、ブログを要請した事務所側は「タダでパブできるし。まいっか」という単純な理由だけだったとしても、当人のAV女優側は、自分に与えられたキャンバスで自己表現に目覚める子も多いのだ。「ヒカルンバ☆」「なつミント」など、高度なリテラシーを発揮しているAV女優のブログも多い。これらは、おそらく規格外のものとして登場した新しいタイプの才能だろう。私はそんなAV女優ブログの隆盛でわかった、彼女たちの言語感覚に期待して、アンケート企画を立ち上げてみたのだ。
 また、ある無名の女優のブログでこんなものを読んだことがある。クリスマスだったか記念日に、「普段、AVに出て迷惑をかけているので、お父さんにネクタイをプレゼントしたいんだけど、どんな柄がいいのかな?」と……。笑わば笑え、ヤングたちよ。実際は虚飾に塗り潰された世界なのにと言いたいんだろう。どうせ私は、永沢光雄AV女優』を読んで心で泣いた男だ。でも、ああいう内容を読みたいという、男のファンタジーってのもあるんだよ。現に『AV女優』の送られてきたアンケートハガキには、「普段AVを見ないのですが……」というお父さん方もたくさんいたそうだ。元学校の教師だとか。自分には与り知らぬ、現代の性というものに少し関心を持って、本を手にしたという全国の“サイレント・マジョリティ”のお父さんたちが、あの本をベストセラーに至らしめたのだ。若手のAVライターが『AV女優』を、「今どき、そんな家庭の不幸が理由で業界に飛び込むコなんて少ない」と酷評していたのも知っている。だけど、中年読者の方々からすれば、援助交際や風俗デビューなどがカジュアル化する嘆かわしい現代において、その本に書かれた小さな出来事が、源流となって彼女たちを性の仕事に就かせたという、原因としてきちんと読めるものになっているってことに意味があるんだから。
 2ちゃんねるのAV板などは顕著で、新人のAV女優のスレッドなのに、いぶし銀の比喩を発揮しているお歴々もおられる。どうみても50代だな、この御仁らは。その一方で、会社に居る若い連中とAVの新作の話をしても、彼らはまったく興味がなさそうで、セックスについては当事者としての関心以上のものはないらしい。以前、少女マンガが売れなくなった原因として「恋愛の教科書を手に取る前に、セックスを覚える世代」という、性の解放が理由に上げられていたのを読んだことがある。つまり、今どきAVを見る行為など、ファンタジーの所産なんだな。すでにAV業界自体が、自分ら40代以上の消費者に支えられた、ノスタルジーの対象になってしまってるのかもしらん。
 そのAV女優100人アンケートの集計結果は、非常に興味深いものになったのだが、その中で私をいたく驚かせたのは、「あなたはAV以外の仕事を兼任していますか?」という質問に、半分の女性がYESと答えていたことだ(無論、これには注釈が居る。アンケートの実作業をお願いしたのは、その筋で有名なAV業界紙の編集部なのだが、アンケートの解答者が、比較的大物単体系のAV女優より、企画系の子が多かったというのも理由にあるだろう。そもそも大物単体のコは、すでにアイドルみたいなものだから、プライバシーについて書かれたアンケートには答えてもらえないからだ)。半分を占める“兼業AV女優”の内訳は、デパガやアルバイト学生、普通のOL(顔出しなしの企画専門)などで、仕事が終わったアフター5や土日の休日を利用して撮影をするのだという。地方の会社にOLで務めていて、撮影の時だけ上京するという子もかなりいる。で、なぜ専業でなく兼業なのかと言えば、単にギャラが安いからである。先日、音楽業界ネタのエントリーで、プロ・トゥールズの導入で制作費が安く切りつめられるようになったと私は書いたが、それはAV業界とて同じ。セル中心時代となり、ネット配信などが勢力を伸ばしたりした結果、安価にAVが見られることがユーザー数を増やしたしたが、その分、制作費は年々切りつめられているという。それが自ずと、主役のギャラのダンピングの原因になっているところがあるのだ。「1回のプレイで10万円」なんていう、後生に傷跡を残すことの代償としては安すぎるギャラで現場に臨んでいるコも多いらしい。では、そんな安いギャラであるのに関わらず、またアルバイトやOLなどの普段のオモテの生活もあるだろうに、彼女たちがAVに出演する理由は何なのか。私が思うに、よく業界紙のインタビューで読者ウケコメントのように書かれている「エッチが好きだから」、これに尽きると思う。
 「エッチが好き」……これは自己探求だ。自身の体に埋め込まれた快楽のスイッチを探す旅である。女の子同士の会話というのは、雑誌『ANOANO』みたいに(例えが古いね、どーも)、男同士とは違って性体験をあけすけに語るものらしい。「先日こんなプレイをした」なんていう話を肴に、キャッキャキャッキャと盛り上がったりしてるんだそうな。ところが、相手の話をふんふんと大人しく聞いているだけの子もいるらしい。「なぜ私にはそういう体験が回ってこないのだろうか」と……。そんな友達の彼のテクニシャンぶりの話を聞いて、「加藤鷹さんだったら、私を開発してくれるかな?」と想像を巡らせる子が一人ぐらいいてもおかしくはない。実際、それが業界の門を叩いた理由だと、公言する子もたくさんいたのだ。
 また、こちらが恐縮してしまうぐらい、公務員風の地味な美人(歳のいった美人声優みたいな)がAV界の門を叩くことも増えてきている。年増の声優にだって性欲はある。あるいは、地味な顔立ちなのに、外人みたいなナイスバディを神様に授かってしまった人なども(うーん、これはあいだゆあとかがそうかな……)、服を着て過ごす日常生活の中で使うあてのない「使ってない5割」を世に捧げるために、自ら進んでハダカの世界に飛び込むこともあるんだそう。それと、よくコスプレーヤーのアニヲタ少女みたいな子が未経験のままAVデビューするというふれこみのパターンがあるが、あれもまんざらウソじゃないと思う。たぶん、あまりに性体験に乏しい子だからこそ、日頃から自分の“女性性”をもてあましており、回りにいるコミケ系のヲタな女友達にも相談できないことから、いきなり好奇心だけでAV業界に飛び込むような大胆さを発揮できるんじゃあないかと思う。つまり、AV業界もアニメの世界も、彼女にとっては、ファンタジーの対象なのだ。

 それだけが理由でAVに出ちゃうんだなんて、人生に後悔することはないのか? と思考して立ち止まるのは男の発想。彼女たちは後先を考えて行動しているわけではない。例えば近年、入れ墨を入れているAV女優は増えてきている。別にヤクザの美人局がいるわけじゃない。「タトゥーってカッコいい」という理由だけで入れちゃう衝動こそが、若者の特権なのだ。AV業界からすれば入れ墨など入れられちゃ、商品価値が下がるってものだが、しかし彼女たちが入れ墨を入れたがる動機というのも、業界に入る動機と裏表の関係をなしていたりするのだ。別に『AV女優』に書かれているようなステレオタイプな不幸な家庭じゃなくても、近年、幼少期に両親が離婚するなどを経験をする子は多い。それが幾ばくかは、本人の後生に影響を及ぼすことはあって、「幸せの思い出」というものに人一倍執心する傾向があったりするのだ。例えば今、彼氏とラブラブの真っ最中に居る子などが、このかけがえのない幸せの高揚気分を、2人を結びつけるの何かシンボル(象徴)に託して、消えない入れ墨として体に刻印したいという、入れ墨を入れる子特有のサイコロジーが働いているという分析もすでにあるのだ。この場合、彼女たちは入れ墨を消すことなど考えていない。このかけがえのない幸せが永遠に続くことを願って、体にメスを入れるわけだから。還元すれば、こうした「今を生きる」という衝動が、彼女たちに入れ墨を入れさせ、AV業界へと駆り立てている側面というのがあるのだ。
 こうした女性側のポジティヴな積極性が、近年、AV業界に与えたケースとして顕著なのは「恥女ブーム」だろう。画面の向こうにいる見えないマグロ男相手に、全編女優の一人芝居だけで120分を構成するという、サミュエル・ベケットの芝居みたいな世界。昔のAVなどで、「女性の肢体とともに映し出される男優の尻」を見て、それを見ている自分という構図を、まるで出歯亀のように虚しく感じる御同輩も多かったと思うが、マグロ男やマゾ男からすれば、主観モノのタイトルの宝庫である「恥女ブーム」の今など、気分はパラダイスだろう。そしてここで、「恥女」設定を成り立たせているのは、彼女たちの演技力にほかならない(by大坪ケムタ氏)。「恥女ブーム」で一定の評価を得た及川奈央ら“演技派”のAV女優らが、その後、一般作の世界で活躍し始めるのは道理なのだ。それが逆にまた、グラビアタレントのAV業界入りを則していたりする、青木りん、範田沙々らのデビューに繋がっている。
 だが、その一方で、そこには購買者(ユーザー)の存在はないがしろにされている面があるのは否めない。元女性誌のモデル出身などのプロフィールを誇らしげに謳う、続々と続く美形モデルのデビューを、当の男たちは歓迎していないのかも知れないと思うところがある。私は昔、『momoco』というアイドル雑誌にいて、毎年デビューする新人のブレイクの可否の傾向を見て、「美人のアイドルは売れない」ということをさんざん味あわされてきたからだ。なぜかファニーフェイスのにくいあんちくしょうのほうが、結果的にブレイクするケースが多いのは、芸能の歴史が証明している。男のファンは対象に入れあげながらも、決して彼女たちに完璧なものを求めているわけではないのだ。
 実はそこには、認知学のメカニズムが働いているのではないかと私は思う。今どき、人気AV女優の「裏ビデオ」など、いくらでも見ることができるだろう。東京に上京したばかりのころ、先輩が数万円で買ったという何度もダビングした汚い映像を、一回500円とか取られて先輩ん家で見させられたことがある私らの世代にとっては、夢のような環境がある。しかし、私は早期から気付いていたのだ。「あれ、なんかあんまりコーフンしないかも……」と。
 端的に言えば、隠してあるからこそ興奮するのだ。だから日本人は世界一スケベだって言われるんだと思う。それは「焦らしの美学」という、ストリップティーズの定義だけに当てはまらない。何しろ現代人はせっかちだ。むしろ、覆面とか顔にモザイクが掛かったAVを見たりする時の我々の脳裏で、その「欠けた情報」を想像力で補うようなプロセスがあるのが理由だと思う。例えば、映りの悪いビデオがあったとしても、それがけっこうセクシーヴォイスだったりすれば(秀島史香とか、みんなも好きなものを入れてみよう)、スレンダー好きは勝手に対象をスレンダーなものに見立て、ポッチャリ好きは勝手にポッチャリのイメージを投影するという、身勝手な情報処理がなされるように人間はできている。これは自分の貴重な時間を捧げた行為を、できるだけ意味のあるものとして後付けしたいという、自己愛による情報操作なのだ。つまり、対象の「欠落部分」こそが、大衆を駆り立てる魅力のエンジンなのである。どうしようもないユル〜い作品とかに入れあげている友人を観た時、きっとこいつの中で「俺が見ないで誰が見る」という、救済の青汁みたいな感情が働いていることだけは、端で見ていても実感できる私なのだ。
 チェーン店のラムタラの台頭など、いわゆる“コンビニ照明”を導入したAV専門店も増えてきた。まるで常盤響がデザインした『インディヴィジュアル・プロジェクション』の装丁みたいな、オシャレなパッケージのタイトルも増えたし、中にはエンドロールに渋谷の人気バンドの主題歌がクレジットされているなんて作品まである。『やりすぎコージー』のような深夜番組だけでなく、フジテレビの連続ドラマ『電車男』の伊藤淳史の部屋の設定に、巨乳AVのポスターが貼ってあるのが普通っていうぐらいに、AVは市民権を得ているように見える昨今だ。
 だが、そのメジャー感が、時として作品からエロスを遠ざけていると思う部分もある。以前、『momoco』でのアホな記事(こればっか)のシリーズで、「男のオヤジのハダカでヌケルか?」といういかにもアングラなチャレンジ企画があったのだ。結果から言うと、けっこう普通にイケたのである。元々“思考で抜くタイプ”の私。「こんなオヤジでヌイている俺」という禁忌な状況をさらに客体化することで、思考実験としては十分ご飯三杯ぐらいはイケたのだ(若気の至りでありまする)。つまり何がいいたいのかと言うと、エロスとは禁忌……禁忌キッズ、堂本兄弟なのだ。……じゃなかった、あくまで「自分にとってのエロス」とは、一人一人各人が持っている、極めて個人的な性の禁忌意識によって成り立っており、「欠落」の中に自分の性の理想を当てはめていく、イマジナティヴな行為そのものなのだ。
 私のAV鑑賞デビューは遅かったが、その飛び込んだ時の行動に、なにか“裏テーマ”があったとしたら、それは「自分探し」だったと思う。価値相対主義時代に青春を過ごし、右翼と人と左翼の人と普通に均等につきあえるスーパーバランサーなところがある私は、それを武器に週刊誌編集者の仕事をこなしてきたようなところがある。しかし、その価値相対主義が、真の切実な好みというものに気付かせずに、だましだましに今日の私を誘ってきたようなところがある。私はポッチャリの人も好きだし、ガリの人も好き。美人はもとより、ブスの人も可愛いと思ってしまう。「誰だっていいところがどこかある」というようなポリアンナのような前向きな性格は、きっと私が受けた教育のたまものなのだろう。しかし、だからこそ等しく、ポッチャリの人にも飽きるし、ガリの人にも飽きてしまう。実際、自分自身の究極の好みというのがわからずにいる。AVも流行廃りがあるから、一時は中島美嘉タイプが人気を博しても、数年後に見たら全然ダメじゃんっていうことは結構ある。しかしそんな中にも、なぜか時を超えて感動させられる1本というのも必ずある。きっとそんな作品に、私の「自分探し」の終着点へと誘う鍵があるのかも知れない。
 私にとって、最後に向かうべきゴールはいったい何処にあるんだろうと、そう自問自答してじっと手を見る。そして、人生におけるまだ見ぬ究極の1本を求めて、今日も私はラムタラに新作チェックに向かうのである。