POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「Shi-Shonenが予言した未来。コンピュータは新世紀の歌を歌えるか?」(副音声ヴァージョン)

There She Goes

There She Goes


 このエントリーは『電子音楽 in JAPAN』読者限定のネタでお送りする。表題の最終章の、いわば副音声である。お持ちでない方はぜひ、書店で購入してからお読みいただけると幸いである。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』の最終章は、Shi-Shonen〜フェアチャイルド〜ソロ『There She Goes』などで知られるミュージシャン、戸田誠司氏のインタビューで幕を閉じている。このインタビューは、お読みいただけるとわかるが、他の章のようなシンセサイザーの進化を軸にした構成が取られていない。90年代以降に登場し、いまや標準設備となったプロ・トゥールズによるデジタル・レコーディング環境が定着する前の“真空状態”のころ、いち早く実験的レコーディングにトライアルしていた一ミュージシャンの“心の問題”を扱っている。だから、今読むと私から戸田氏への問いかけが、まるで自問自答のようで恥ずかしい。
 そもそも、新版『電子音楽 in JAPAN』の最終章に、戸田氏のインタビューを持ってこようというアイデアは、私自身が提案したものだ。私は、あの80年代末のほんの一時期だけ、「テクノポップ復権」に希望が託せた時代に、ミュージシャン戸田誠司に夢中になっていたファン代表の一人である。その後、『Techii』在籍時には連載を担当させてもらっており、フェアチャイルドがデビューした時は、個人的にお手伝いしている仲でもある。
 しかし、私の戸田氏への思いは常に複雑なものであった……(笑)。コンピュータなど家になかった貧しい家庭で育った私なので(笑)、担当時代に戸田氏から教えてもらった話の半分も理解していなかった。だが、コンポーザーとしての戸田氏の才能を、誰よりも深く理解していたつもりだ。その面においては誰よりも自信があった(私がこの時期に作曲したデモテープは、誰が聴いても戸田誠司の影響受けまくりであった)。だから戸田氏の取材の時、ことあるごとに私は音楽の話を仕掛けていたのだが、常に新型のマシンの話にすり替えられた。まあ、きっとあの80年代末という時代は、コンピュータ業界が今以上に面白い時代だったのだろう。当時の音楽状況が面白かったかと問われれば、ウンという自信がない。まあそんなふうに、我が心の師匠、戸田誠司氏に対しては、常に愛憎半ばするところがあったのだ。実際、『電子音楽 in JAPAN』の取材原稿のチェックのやりとりの時も、ぞんざいなほど赤字を入れてきた。フントにもー。だから、構成にはけっこう苦労した。『地獄の黙示録』のラスト場面で、マーロン・ブランドの扱いに困ったフランシス・コッポラの、ブランドへの愛憎半ばする想いはきっとこんな感じではなかったのかと思った……(なんちて)。
 私が戸田誠司氏、つまりShI-Shonenを知ったきっかけというのはよく覚えていない。たぶん順序で言えば『ザ・ベストテン』の時に毎週流れていたローディのCMで見たのが最初だと思うが、見てすぐに「憧れのヒコーキ時代」をシングルを買ったわけではなかった(ちなみに、CMヴァージョンはレコード化されたものよりもっとアート・オブ・ノイズに近かった)。土曜日の昼にフジテレビの東京ローカル枠でやっていた加藤茶が司会のバラエティがあって、そこに高見知佳がゲストに出た時に流れた、戸田氏がアレンジしていた「怒濤の恋愛」は、面白過ぎたので「なんだこりゃ」と思ってすぐレコードを買いに走ったが……。たぶんアルバムを買うきっかけは、『Techii』の編集長が以前やっていた『Keyple』(自由国民社)というキーボーディスト向けの雑誌で、ノンスタンダードからの再デビュー作『Singing Circuit』のインタビューを読んだからだと思う。そこに書いてあったコピーはこうだった。「テクノポップスの新感覚派の登場だァ!」(彦麻呂風に読んでね)。
 拙者はYMOでニュー・ウェーヴにのめり込んだ世代なのだが、私がYMOに夢中になっていたのは、たぶんメンバーの類い希なコードワークに関心していたことが理由だったと思う。教授の『千のナイフ』もそうだし、「東風」の間奏部の、素人には採譜できない分数コードに応酬にはため息をついていた。細野氏の「マッド・ピエロ」もすごく好きだったし、幸宏氏のフランシス・レイの血統を継ぐ掟破りな転調やコードワークにも魅せられた。だが81年の春にリリースされた、待望の新作だった『BGM』は当初、私を失望させた。なんというシンプルな音楽! なんと私、この時『BGM』をリサイクルショップに一度売り払ったこともあるのだ。後に友人の作曲家・ゲイリー芦屋氏にその話をうっかりしたら、彼にいろいろ詰問されて困ってしまった……(今では好きなのだが)。まあ、それぐらい根っからの“ポップス人間”だったのだ。なにしろゴダイゴ大好きだったし。
 だから、散開ツアーのころのYMOを、リアルタイムで見ていたという記憶がない。私はニュー・ロマンティックという音楽が苦手なのだ。だから、英国のニューロマ・バンドみたいに、ネオナチみたいな格好をしたYMOなんて見たくない気分だった。ニューロマはムード歌謡のような音楽だと思っていた。湯浅学氏に言わせれば、ニックニューサーなんかは日本のニューロマだろう。制服のコスプレにも興味がなかった。実際、コードワークで感心させられるような音楽ではないと今でも思う。
 その一方で、テクノポップ話にはまずほとんど出てこない話題なのだが、同時代に、西海岸の一群に“テクノポップの亜変種”のような動きがあった。TOTOとエアプレイである。ウェザー・リポートの進化型というか、シンセサイザーを初期YMOのように積み上げて、AORフュージョンのあいのこのような音楽をやっていた。私が鍵盤楽器をやっていたことも理由にあるのだろうが、いかにもAOR風のヴォーカルはさておき、エアプレイ『ロマンティック』の複雑なアンサンブルには唸らされた。日本のテクノポップ系バンドでも、ジェイ・グレイドンの「トワイライト・ゾーン」を持ちネタにしていた近田春夫&BEEF(近田と茂木由多加が抜けて、その後ジューシィ・フルーツになる)、デヴィッド・ペイチTOTO一派が参加しているマライア『究極の愛』、編曲家の清水信之の一連の仕事などがあり、「西海岸一派の影響を受けたテクノポップ」というのが確かに一時期存在していたのだ。
 加藤和彦のアルバムで存在を知り、ソロ・アルバム『エニシング・ゴーズ』を発売日に買ったほど、当時好きだった清水信之氏が、YMOの代わって“初期YMO”のようなサウンドを提供してくれる存在だった。この時期に編曲家として、高見知佳EPOなどの化粧品のCM曲に数多く手を貸している清水氏だが、プロフィット5によるオリエンタルなサウンドは、初期YMOの中華路線を一人で継承しているような錯覚を感じることもあったほどだ。
 そんな“テクノポップス”好きだったから、Shi-Shonen『Singing Circuit』には一発で虜になった。ヴァン・ダイク・パークスのようなラーガ・サウンドや、細野氏譲りの変速コンピュータ・リズム、まるでコンセルヴァトワール風な複雑な弦編曲など、真に博覧強記といった印象のアルバムであった。当時働いていたアニメ雑誌ニュータイプ』の仕事でもらった、「銀河鉄道の夜」のシングル(戸田誠司編曲)も素晴らしいもので、同様に私を魅了した。アルバムを買ってすぐに、秋葉原石丸電気に駆け込んで、ぎりぎり在庫があったコロムビア時代のミニ・アルバムと2枚のシングルもこの時買った。
 実はこのころのShi-Shonenには、中野サンプラザで収録された60分ほどのライヴビデオがある。先日、スペースシャワーの仕事でオファーしたところ、たまたまテイチクで発見され、そこでビデオを見せてもらったのだが、ステージのShi-Shonenもかなり異彩を放っていた。同じころ、レーベルメイトだったピチカート・ファイヴ、アーバン・ダンス、ワールド・スタンダードなどのグループは、レコードの打ち込み曲を演奏するときに、ライヴではテープを使っていた。YMOサウンドを継承するバンドは数多く登場していたが、YMOがやっていたようにコンピュータを実際にステージ上に上げて演奏していたグループは希有で、Shi-Shonenが唯一の存在だった。コンピュータ(PC-88)をステージに上げ、飯尾芳史氏が松武秀樹氏のように背中を向けてステージ上でシコシコとローディングをやっていた。だから、テープを使っていた他のグループと違い、全曲がYMOみたいにライヴではアレンジが違っていた。「シンギング・サーキット」の奇妙なアレンジといったら……(笑)。
 私が『Techii』編集部に呼ばれたのが87年の正月のこと。すぐに戸田誠司氏の連載担当になったのは、単に編集部に人が3人しかいなくて、楽器のことがわかる人が自分だけだったからだ。「キング・オブ・コンピュータ」というタイトルのよろずPC質問所みたいな連載を担当させてもらったのだが、パソコンのことをまだよく知らなかった私は、かなり騙し騙しで毎回やっていた気がする(笑)。読者には未だに申し訳ない気持ちだ。ちなみに連載タイトルは、近田春夫氏のグループ“プレジデントBPM”のライヴに立つ時の、「アフリカ・バンバータ」とかそういうノリで付けられた戸田氏のステージネームから取られたものである。
 あの時期の戸田氏は、まさに多忙な真っ最中であった。いつも取材は、都内のどこかのスタジオだった。連載第一回はビクター青山スタジオだったが、少し待ち時間があったので音を聴いていたら、リアル・フィッシュの録音だと聞いていたのにメンバーは一人もおらず、よくわからないリズムだけの曲が延々流れていて、映画『ウォー・ゲーム』のLDのダイアローグをサンプリングで重ねていた。当時、エヴリシング・プレイ(ワールド・スタンダード)が『ルール・モナムール』で『ミツバチのささやき』のアナの声をサンプリングして使ったり、映画などの台詞を曲間に挿入するのが流行っていたので、そういう演出かと思っていた。この曲は後に、「ジャンク・ビート東京」のタイトルで、なんと桑田佳祐のラップを加えた曲として、リアル・フィッシュ名義でなぜかドロップされた。NASAの司令官の発射のカウントダウンの声が曲のイントロに使われていたが、こういうカットアップというのがヒップホップのお作法だと知らされたのはその時だ(ウブだったのだ……笑)。桑田佳祐がこの曲をいたく気に入り、「俺にくれ」と語ったエピソードは拙著でも紹介しているが、これは桑田氏の慧眼を伺わせるいい話だと思う。今はもう時効だから言っちゃってもいいと思うから書くが、戸田氏はこのころ桑田氏からサザンオールスターズのプロデュースまで依頼されながら、なんと断ったりしてるのだ。
 連載中のスタジオ見学で、いちばん私を興奮させたのは『夢工場』の時だ。フジテレビが主催した企業パビリオンを集めたミニ万博みたいなイベントだったが、この時に戸田氏と坂本龍一氏、藤原ヒロシ氏らが共作した、立体音響によるオリジナル曲というのが作られた。その曲がまた、『Singing Circuit』を上回る博覧強記ぶりというか、藤原ヒロシ氏も加わってのヒップホップ祭りというか(マルコム・マクラレン『俺がマルコムだ!』みたいな音を想像すればよろし)、教授が関わったイベント音楽の一つとしても、かなり出色な完成度を放っていたと思う。教授のベスト『CM/TV』に参加した時もその話をしたのだが、収録されなかったことはつくづく残念だ。
 とにかく、当時の戸田氏はグンバツにイケていたのだ。今の世代から見ると、人脈的に交わるイメージがないかもしれないが、ピチカート・ファイヴ小西康陽氏も早くから戸田氏の才能を讃えていた。初期フリッパーズ・ギターの姉貴的な存在だった音楽ライターの能地祐子氏だって、当時はShi-Shonen一押しだったし。モダンチョキチョキズハセベノヴコ氏など、業界にもたくさんファンがいたというのを覚えている。こうした面々の名前を挙げたのは、実は私にとって戸田氏は、ソフトロックに目覚めさせてもらった先生でもあるからだ。
 これは極めて個人的な話であり、同時代の一般的なロック少年の典型話でもあるが、80年代初頭のニュー・ウェーヴブームをリアルタイムで体験した私などは、その後のスクリッティ・ポリッティ登場ぐらいまで、ほとんど旧譜というものを買ったことがなかった。毎月、最先端の音楽を追っかけるだけで幸せだったのだ。だから、ビートルズビーチ・ボーイズにハマるのには、ずいぶんしてからだ。XTCがずっとフェイヴァリット・バンドだったから、「XTCがあるから、ビートルズいらね」と本気で思っていた。だが、これには当時の商慣習も少し影響している。アナログ盤時代というのは、コストの関係から旧譜の再発というものが今ほど行われていなかった。街のレコード店の月の売り上げのうち、新譜の占める割合が8~9割といわれていたほど、ロックの過去の歴史が軽視されていた時代なのだ。その後、外資系CDショップが台頭する90年代に入って、新譜と旧譜の売り上げの割合が5割:5割になったと言われている。浜崎あゆみらの新譜が300万枚とか平気で売れているわけだから、今はとんでもない数の旧譜が毎月売れているってことになるはずだ。私も、ストーンズとかをまったく聴いてなかったわけじゃなかったが、ウチにあるのは『サタニック・マジェスティーズ』と『アンダー・カヴァー』だけだった(笑)。だから、『宝島』のころに10代のアルバイトのヤツにバカにされ、『ベガーズ・バンケット』や『アフター・マス』がいかに名作かという講釈を延々と聞かされたこともある。まあ、それぐらいロック史に疎かったとも言える。だが、「ガイドブックに載っている殿堂入りのアルバムを聴くのがロックファンとして正しい」とも思っていない天の邪鬼であった。
 そんな横浜銀蠅みたいにツッパっていた私に、ソフトロックの魅力を教えてくれたのが、ほかならぬ戸田氏だったのだ。当時、初CD盤が出たばかりのビートルズ『ホワイト・アルバム』も戸田氏に教わって買った。あれは数が出ていなくて珍しかったので、今でも感謝している。それと、今でこそ『ペット・サウンズ』は名作とか言われるようになったが、あの時代に周辺でビーチ・ボーイズに注目していたのは、戸田氏と細野晴臣氏ぐらいだったと思う(細野氏は、ビートルズの時代からの、筋金入りのビーチ・ボーイズ派である)。また影響を受けたアルバムとして、シュガー・ベイブ『ソングス』、荒井由実ひこうき雲』を教えてもらった。シュガー・ベイブといえば、山下達郎の事務所だったアワ・ハウスの社長だった牧村憲一氏は、その後、ノンスタンダード・レーベルの立ち上げに関わり、戸田氏をレーベルに招聘した張本人である。ユーミンの「ひこうき雲」はその後、YOUが歌う最後期のShi-Shonenのライヴのレパートリーになった。『Techii』時代の残業仕事の時、毎日メゲて死にそうになっていた私の気持ちを救ってくれたのがピチカート・ファイヴカップルズ』だったのだが、バカラックニール・ヘフティもよく知らなかった私が、このアルバムを聴いてすぐにその真価を理解できたのは、たぶん戸田氏のポップス教育を受けたからだと思っている(石立鉄男の影響もあったのだが、また別の機会に)。あたかもテクノロジーの権化のようであり、実際に会話の内容もサイバーパンクの登場人物みたいだった戸田氏ではあるが、シュガー・ベイブをルーツとし、牧村憲一氏に見いだされてデビューし、牧村氏がポリスター移籍後にフリッパーズ・ギターを手掛けた後、当時のパートナーだったYOSHIE(平ヶ倉良枝)嬢の名曲「テレフォニ」を同社でプロデュースするなど、実は知られざる和製ソフトロック〜渋谷系業界における陰の重要人物なのである。
 私が担当になってからShi-Shonenとして出された作品は『2001年の恋人達』が唯一である。実は私、このアルバムについてはかなり評価が厳しい。なんで『Do Do Do』の続編みたいにならなかったのだろうと、当時は思っていた。『電子音楽 in the(lost)world』のレビューにも書いているが、ソフトロックの極みのようなポップな曲と、アート・オブ・ノイズのようなバッキングの組み合わせは、どう見ても水と油という印象が拭えなかった。当時、リズム・セクションの2人が抜け、まり嬢とペアの作曲家チームになっていたShi-Shonenには、初期のバンド形態の時のような風通しのよい感じが失われていた。だからこそ、この後に塚田嗣人氏、YOU(江原有希子)氏が加わって再び4人組のバンド形態になったShi-Shonenには、「黄金期再び!」と思うほどに入れあげた。実際、六本木インクスティックで行われたデビューライヴも見ているが、女性ヴォーカル曲をYOUが歌う形に一任したことでグループのイメージも統一感が生まれ、いつブレイクが来てもおかしくないと思うほど完成されたグループになっていたのだ。戸田氏がベースに退いてまで入れたかった、塚田氏のテレキャスのプレイは、旧4人編成のイメージに囚われない、理屈を超えたカッコよさがあった。残念ながら4人編成時代のShi-Shonenについては、バッキングを務めた早瀬優香子『ポリエステル』しか残されていない。関西キー局の番組『さんまのまんま』のエンディングに、Shi-Shonen時代の「おまかせピタゴラス」が実際に使われているのだが、これが凄まじくカッコイイ出来だったのにも関わらず、結局は発売されることもなかった(その後、改変期にそのままフェアチャイルドのヴァージョンに差し替えられた)。というか、「おまかせピタゴラス」はどこから出るんだろうとヤキモキしていた。すでにノンスタンダード・レーベルは解散していたからだ。
 その後、私がアイドル誌『momoco』にいたころ、マネジャーだったH氏から連絡があり、再び戸田氏のお手伝いをすることになった。その時、Shi-Shonenの名前がフェアチャイルドに変わったことを初めて聞かされた。おお、ビートルズの有名な真空管コンプの名前じゃん、カッコイイ! 「少年」→「子供」というもじりもお洒落かも。しかもデビュー曲はあの「おまかせピタゴラス」であった。私は興奮の頂点にいた。しかし、塚田氏とまり嬢の脱退の話を聞いて、『2001年の恋人達』の時の記憶がちょっと心に引っかかっていたのは事実だ。
 『2001年の恋人達』の時に、詞をニューミュージック系の女性作詞家陣に一新したことについて、戸田氏は当時「コマーシャリズムへの関心」と語っていた。デビューが遅かった戸田氏は、ノンスタ一派や鈴木慶一氏が主催していた水族館レーベルの他のミュージシャンに比べると、いつもどこかクールだった印象がある。だから、フェアチャイルドは戸田氏にとって、一つの商業的試みのための実験バンドだったのではなかったかと今は思っている。私の友人であるメディア評論家の津田大介氏ほか、フェアチャイルド時代の戸田氏に魅せられた人も多いと思うが、Shi-Shonenの登場時に「テクノポップ復権」の思いを託した私らの世代は、どうしてもあの瑞々しかったころのメンバーに思いを馳せてしまうのだ。
 その後、2001年夏の『電子音楽 in JAPAN』の取材でお世話になった時、私が「デジタル時代の『HOSONO HOUSE』」と呼んでいた(苗場の別荘に、デジタルのレコーダーを入れてホームレコーディングされたのだ)唯一のソロの話でひとしきり盛り上がった時には、こんなに早く次のソロ『There She Goes』が発売されるとは思わなかった。週刊誌の音楽欄を担当していた私は、そのニュースを聞くやいなや、同じ戸田フリークだったライターの津田大介氏を引き連れて取材に伺い、久々に長めにおしゃべりを楽しませていただいた。当時、戸田氏はコンシューマー・ゲームの開発会社を経営しており、PS2用ソフト『グラン・ツーリスモ2』というゲームを爆発的にヒットさせていた。話もどちらかと言えば、新譜については音を聴いてもらうことにしてってことで、ワールドカップ音楽配信と金融経済の話に終始した。その時、あのころ戸田氏が語っていた「コマーシャリズムへの関心」は、別の形で実践されたのだなと私は思った。
 音楽配信の話は、今のクリエイティヴ・コモンズのコンセプトを先駆けていたような話だった。90年にマックを買って以来、すっかりデジタル文化に染まっていた私は、戸田氏と相応にデジタル話ができるようになっていたことを密かに喜んだ。
 そういえば担当時代、戸田氏はシャープから出ていた新製品のパソコン「X-68000」の話にご執心であった。これは当時、「16ビットのホビーパソコン」と呼ばれる、最高級スペックなのにホビー志向という、お金持ちの子供しか買えなかったマシンだ。戸田氏は「X-68000」のユーザーグループのシスオペをやっていたから、まわりにはパソコンヲタのはしりみたいな少年達がたくさんいた。そのころは、高校生ぐらいの「X-68000」ユーザーと話をしている時のほうが、Shi-Shonenのファンと話をしている時より幸せそうに見えた。私はそれに、いたくジェラシーを感じたものだ。プロフィールには「『Hallo;World』が最初のソロ・アルバム」と書かれてはいるが、実はそれ以前にソロ作品が出ているのを私は知っている。富士通FM-TOWNSの専用音源ボードで再生するための、MIDIデータのみで構成された戸田誠司名義のCD-ROMアルバムがあったのだ。戸田誠司のソロ・アルバムを誰よりも楽しみしていながら、パソコンを持っていない私はそのころ、PCショップでそのディスクを眺めながら、臍をかむような思いであった……(笑)。「将来、どうせパソコン全盛時代になるのだから」というような見通しなど、当時の私にはなかった(それより秋葉原からの帰りの電車賃が心配だった)。だから、結局それを買わなかったが、その後に酔狂でCD-ROMなどをコレクションするようになった私は、今は猛烈にその時のことを後悔している。