POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

極私的列伝! 素晴らしきアレンジャー・プログラマーたちとの出会い

NHKみんなのうた おしりかじり虫

NHKみんなのうた おしりかじり虫

 昨年末の『紅白歌合戦』は、さんざん話題作りで盛り立てていながら、視聴率歴代ワースト2位という結果を残すこととなった。放送前から「どうしてPerfumeじゃなくて、ヒット曲がないAKB48が選ばれてるんだよ!」という物言いはよく耳にしていたし、自分も大いに頷けるところだったので、このへんの「アキバ系の配慮履き違え」が敗因になった説は否定できないだろう。一連のNHK特番のアキバ系への擦り寄り方は、ここんところ尋常じゃないぐらいだったのに。本当にわかってなかったのか、そこに「政治的な配慮」があったのかはわからないが、最後の一手のミスで民主党みたいに票を逃がしちゃった感じ。しかし、Perfumeはそのへん逞しく、「2008年の目標は紅白出場!」という公式アナウンスをちゃっかりと出していたぐらいで、ファンはこれで今年一年も一盛り上がりできそうだ。そういう意味では、NHKの判断は「政治的に正しかった」のかも知れないね。
 仕事をしながらチラ観してたぐらいなので、ちゃんと『紅白歌合戦』観てたとは言えないが、前川清とクールファイブの「そして、神戸」のバックにムーディ勝山がさりげなく混じっていたり(笑)、それなりに見せ場作りは健闘していた模様。そんな中で、個人的にもっとも感慨深かったのが、「おしりかじり虫」であった。NHKみんなのうた』でオンエアされて火がついた2007年の大ヒット曲のひとつだが、この作編曲を手掛けていたのが、私の20年来の知人であるミュージシャン松前公高氏なのである。『Techii』編集者時代によくイラストを発注していた常盤響氏の紹介で、彼のグループ「コンスタンスタワーズ」のメンバーとして20年前にお会いしたのが、おそらく初対面。マニュアル・オブ・エラーズという創作集団のメンバーであり、大半が東京〜横浜出身者で構成されていた中で、唯一の西日本出身者が松前氏であった。私がプロデュースしたテレックスイズ・リリース・ア・ユーモア?』にリミキサーとして参加してもらったり、『史上最大のテクノポップDJパーティー』のためにオリジナル・コンスタンスタワーズ(現在のスペースポンチ)を再結成してもらったりと、マニュエラのメンバーの中では趣味も合ってなにかとお世話になった人である。『キリーク・ザ・ブラッド』『玉葱物語』など、ゲーム音楽のサントラを個人名義で出してはいるが、どちらかというと裏方界で知る人ぞ知る存在。オーディナリー・ピープルの間でもっともよく知られているのは、東京少年のオペレーター時代の仕事だろう。今のaiko以上にもろXTCしていた後期の東京少年(キーボードは、ティポグラフィカと兼任していた水上聡氏)での、トッド・ラングレンばりの魔法のプログラミング・ワークにはいつも溜息をついていた。ブロードバンド環境が整備されたこともあり、数年前から奥さんの実家のある大阪に拠点を移して現在も活躍中だが、そんな松前氏がマニュエラ周辺で活躍していたイラストレーター、うるまでるび夫妻と数年前から準備していたプロジェクトが「おしりかじり虫」なのである。ベースラインなどに「テクノな魂が宿っている」といわれるのも当然の話。
 先日のイベントにも「ソノタ」で出店いただいた、山口優氏とのユニット「エキスポ」などでカルトな作家として知られる松前氏でありながら、こうした大衆向けの企画でも手を抜かず、職能を発揮していることに私は大いに励まされる。現在、単行本のためにいっしょに仕事をしているプロデューサーの牧村憲一氏も「い・け・な・いルージュマジック」(忌野清志郎坂本龍一)、「子供達をせめないで」(伊武雅刀)などを手掛けた「企画モノ」の名手であるが、これまでも私は、ノベルティ・ソングに情熱を傾けてきたクリエイターに常に敬意を払ってきた。古くはフォークブームの嚆矢となった、ザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」しかり、最初にヒットしたJラップ「今夜はブギーバック」(小沢健二スチャダラパー)「DA・YO・NE」(EAST END×YURI)しかり、日本の音楽史において、停滞するシーンの中でカンフル剤のごとく突発的なミリオンヒットを作ってきたのが、いずれもノベルティ色の強いものばかり。こうした曲のヒットの実績が、その後のシーンを切り開いてきた歴史があるのだ。「アーティストが主体的にやりたいこと」はむろん尊重すべきだけれど、レコード会社の傍流セクションから生まれたノベルティ・ソングから、ジャンルの歴史が築かれてきたことを軽視してはならない。そんなヒット曲誕生の現場で、数々の名プロデューサーが育っていったのだ。
 以前のアニメ劇伴のエントリでもちょろっと触れたが、そんなレコード会社の傍流=「学芸部」「ストラテジック部」の仕事で、表には名前は出ないけれど、私の心を捉えて放さない名仕事を残してきたクリエイターらがいる。主にプログラマーと呼ばれる職種の人々だが、コンピュータ、シンセサイザーが普及し始める80年代中期から、スタジオには欠かせない分野のスペシャリストとして、時には音色作り、時にはブレイクビーツのループ職人として、あるいはアレンジの大半を手掛けちゃったりと、さまざまな局面で「音楽を面白くしてきた」方々なのである。
 私が編集者をやっていた『Techii』という雑誌は、レギュラーで楽器情報を扱っていたこともあり、一般音楽誌と違って、スタジオ取材が許されていた数少ない存在だった。80年代中盤に、数多くのプログラマーの仕事を間近で体験させてもらったのは、私にとって貴重な経験となっている。スタジオでのヒエラルキー的な意味で言えば、ミュージシャンや編曲家より格下の“ボウヤ”的な位置の人も多かったので、下っ端の新人編集者だった私に親近感を感じてくれてか、待ちの時間などによく話を聞かせてもらった。そんな交流を通して、制約の多い著名ミュージシャンから依頼を受けた仕事より、むしろ「企画モノ」の仕事のほうに情熱を傾けてきたプログラマーをたくさん知っている。それほど、実はクリエイターにとってノベルティ・ソングは自由度があり、自らの作家性を発揮できる場だったんだと思う。
 いまどきは「パソコンが使えなければミュージシャンに非ず」が当たり前の時代だけれど、私が音楽雑誌の編集者だった80年代中期は、まだパソコンを持ってるミュージシャンのほうが珍しかった。趣味のゲーム用としてNECのPC-88、PC-98を持ってる人はいたけれど、音楽に使っている人もあくまでホームデモ止まりで、スタジオでは専門のプログラマーが打ち込みを担当するのが一般的だった。鍵盤奏者が自宅でデータを打ち込んでくるやり方が今では一般的だろうし、おそらくそれは主に制作コスト的な理由があるんだろう。一方で「楽器を弾かない」専業プログラマーと称される人々は、通信カラオケのプログラミングなど、別の分野に活躍の場を移している現状がある。そんなふうに役回りがまだ分化される前の時代だったから、80年代中期のプログラマーと呼ばれる人々は、ミュージシャンとタメを張れるぐらい勉強家だったし、音楽知識にも精通していた。今回のエントリは、そんな「プログラマープログラマーらしかった時代」に出会った人々について書いてみることにした(プログラマーというのは基本的に裏方なので、一部、作曲家、アーティストとして名前を出している方以外は、基本的にイニシャルで記述する)。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』で、日本のポピュラー音楽界の黎明期の動きについてまとめている通り、70年代初頭に冨田勲氏のスタジオから独立して広告音楽制作会社「MAC」を設立した、YMO仕事で知られる松武秀樹氏、KAMIYAスタジオの神谷重徳氏、KAMIYAスタジオから独立して「エレクトロ・サウンド」という工房を主宰していた、バッハ・リヴォリューションの田崎和隆氏、神尾明朗氏らが、黎明期のプログラマーとしてよく知られている。この中では、ピンク・レディーの一連の仕事や、山口百恵「プレイバックPART2」のシークエンスなどを手掛けているKAMIYAスタジオが、歌謡曲の制作現場で果たした役割は大きい。また、バッハ・リヴォリューションの「エレクトロ・サウンド」は、ヤマハシンセサイザー教室の運営を手掛け、後のヤマハのベストセラー機「DX-7」の開発にも関わっている。日本の専門学校の草分け、千代田電子専門学校出身の松武氏を始め、いずれも工学知識を有する人々であった。
 小生が『Techii』の編集をやっていたのは、「プログラマー第二世代」と言われる方々が活躍していたころ。連載を受け持っていた、現在はプロデューサーの藤井丈司氏には人生勉強において大変にお世話になった。YMOのローディー出身で、松武氏に代わって後期YMOのプログラミングを歴任。もともとブルース系ギタリストで、細野晴臣氏が主宰していた勉強会「エキゾティック・クラブ」(湯浅学氏、篠原章氏も同人)のメンバーだった人なので、打ち込み音楽に限らず音楽全体に造詣が深かった。藤井氏を筆頭にこの時代に活躍していた「第二世代」には、プログラマーという新職業に魅力を感じ、プレイヤーから鞍替えしてきた人が多い。例えば、同時期に活躍されていたベテランS氏は、なんと東京ロッカーズのSPEEDの元ギタリスト。リザードの前身「紅蜥蜴」のモモゾノ氏が、その後アミーガのプログラマーとして『ウゴウゴ・ルーガ』や『どうなってるの?』のオープニングCGなどを手掛けたりするなど、この時代のパンク、ブルース系ミュージシャンのITへの順応ぶりには敬服するものがある。藤井氏と並んで知名度があったのは、松任谷由実の仕事でシンクラヴィアのプログラマーとして名を馳せていた浦田恵司氏。『電子音楽 in JAPAN』にも出てくる、楽器レンタル・ビジネスの草分け「LEOミュージック」のプログラマー部門「RMC」から独立した人で、SHOGUNなどを手掛けていたベテランだが、早くから松武秀樹氏のロジック・システムのようにリーダー・アルバムを発表したりして、「和製アラン・パーソンズ」的な注目を浴びていた。
 こうした名伯楽の仕事現場を覗くのは楽しみであったが、なにしろ使っている楽器は、モーグ、アープ、プロフィット5、フェアライトCMI、シンクラヴィア、PPGなど高級舶来楽器ばかり。当時、AKAIから出たばかりだったサンプラー一号機「S612」(なんとメディアがミニディスク! 片面1音色!!)の話題など、箸休めに民生機のことなど話ししようもんなら、「なんだそれ?」という冷ややかな反応が返ってくるだけだった。冗談と思われるかも知れないが、80年代中期までは本当に、スタジオでは舶来楽器信仰が強かったのである。実際、完全デジタル制御になるまでは、コスト・パフォーマンスを重視し、民生機主体で開発を続けてきた国内メーカーのアナログ・シンセサイザーにはS/N比の酷いものが結構あった。MTRで多重録音をしていても、音を重ねるごとにヒスノイズやハム音が酷くなったりして、それでよく悩まされていたものである。だから、マルチ・トラック環境そのものがワークステーション化された、現在の「Cubase」などをいじっていると、一切ノイズ処理などに悩まされないことだけで感動を覚えてしまう。そんなスタジオ現場で、私のしょうもない民生機の話にフレンドリーにつきあってもらえたのが、下の世代にあたる若手プログラマーの方々であった。
 『Techii』を発行していたシナジー幾何学という会社の株主の一人に、西平彰氏という著名なアレンジャーがおられた。沢田研二のバックバンド、EXOTICSのメンバーとして、グラマラスな衣装でキーボードを弾いていたのをご記憶の方も多いだろう。編集長と懇意にしていた西平氏の縁で、西平氏プログラマー兼ボウヤをやっていたM氏は頻繁に編集部に来ることがあり、同世代だった私によく楽器の知識を指導してもらっていた。私が最初にプログラマーという職業の人を、身近で意識したのがM氏である。『Techii』とは最後に喧嘩別れして辞めた経緯もあったので、その後お会いする機会には恵まれなかったが、後年、西平氏と縁の深かったエピック・ソニー仕事でプログラマーとして活躍。実力シンガーでありながらまだヒットに恵まれてなかった岡村靖幸氏と組んでからは、名作『靖幸』『家庭教師』などのプログラミングを全面的に担当している。岡村ちゃんの脳内にある「プリンス・ワールド」を実際の音にリアライズしていたのが氏で、この時期の岡村仕事の密度は、打ち込み芸術の極みにあると私は思う。『家庭教師』以降も数年にわたって共同制作を続けており、山のような未発表テイクが残っているらしいが、川本真琴「愛の才能」ほか当時のストックから世に出たものはごくわずか。いずれ、その全貌を明かしてくれる人が出てこないものか。
 プライベートでもよく会っていたM2氏は、坂本龍一氏が審査員を務めた、パルコが主催した多重録音コンテスト「オルガン坂大賞」でグランプリを獲得した新人。その取材で知り合ったのがきっかけで仲良くなり、よく2人で遊びに行ったものだ。いつも「新曲ができた」と彼の車の中で聞かせてもらったのが、なぜか毎回ギャグ風の打ち込みものばかりで、かなり個性が強い人物だったから、常識人だった私(笑)は、よくお互いの言葉尻を捕まえて喧嘩していた。後年、アルファレコードから『スパイ大作戦』のカヴァーを含むミニ・アルバムを出したり、アーティストとして活動していた時期もあったが、すっかり会わなくなった後、『新世紀エヴァンゲリオン』で有名な鷺巣詩郎氏に師事。音を通じて再会したのは、Misia「つつみこむように」の共同アレンジャーとしてであった。
 当時、おニャン子クラブの仕事を通して、アレンジャーの山川恵津子氏にご執心だった小生にとって、山川氏とタッグを組む仕事が多かったプログラマーM3氏にお会いできたのも幸運だった。M3氏は先の2人よりは一世代上で、「LEOミュージック」系列の「RMC」出身。ムーンライダーズアマチュア・アカデミー』にイミュレーターをレンタルで貸し出したのが縁で、同事務所の専業プログラマーとなり、ライダーズではPPGのプログラマーとして活躍していた。私が最初にお会いしたのは『DON'T TRUST OVER THIRTY』のレコーディング直後のころ。長期レコーディングでやっと完成したあの問題作については皆があまり口を開こうとせず(笑)、もっぱら山川恵津子氏との仕事の話を楽しそうに語っていたのを思い出す。とにかくM3氏が参加している山川編曲仕事は、他のプログラマーとの仕事のものより音圧が凄かった。真璃子「私星伝説」のレコーディングの時、録音済みだった青山純氏のドラムが迫力に欠けていたので、トリガーを出力させてサンプリングのゲート・ドラムに差し替えた、という冒険心あふれるエピソードもあるほど(時効話なので許して……笑)。実際、山川氏が機械が不得手ということもあって、音作りに関してはプログラマーを信頼して、かなりの自由度でやらせてもらえたのだという。スティーヴィー・ワンダーを信奉し、当時珍しかった女性編曲家を志した山川氏のスコアはバークレー・メソッドの影響下にあり、これにプログラマーによる最新意匠の音作りが加わって、まるで和製スウィング・アウト・シスターのようなサウンドが生まれるマジック。恐れ多くも後に山川氏本人に聞いてみたところ、マリ・ウィルソンなどのトニー・マンスフィールドの“引用”は、ほとんど元ネタの存在をご存じでなく、あれは完全にプログラマーの趣味だったらしい(笑)。ちなみにM3氏はその後、ハンマーという事務所を立ち上げて、デヴィッド・モーション(ストロベリー・スウィッチブレイド、ギャングウェイのプロデューサー)の国内マネジメントなどを担当。カヒミ・カリィほか、クルーエル・レコードの初期作品のエンジニアリングや、自らu.l.t.という匿名ユニットでも作品をリリースしている。
 『Techii』後期に知り合いになったのが、これまた同じイニシャルのM4氏だ。当時、人手不足の編集部に助っ人として鈴木惣一郎氏が加わって、連日、ミュージシャンと編集者の掛け持ちという多忙な日々を送っていたが、ワールド・スタンダードがエヴリシング・プレイに改名して、最初にできたのが『ルール・モナムール』というアルバム。このアルバムの主要メンバーだったのが、プログラマーM4氏であった。フランソワ・ド・ルーベのカヴァーなどを含むこのアルバムには、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントの声がサンプリングで使われているなど随所に仕掛けがあり、そのタイム感を巡って、まるで映画監督と編集マンのようなやりとりが繰り広げられていたのを、スタジオでずっと傍観していた私はよく覚えている。M4氏はその後、正式メンバーとして迎えられ『POSH』をリリース(山口優氏もこの時期メンバーに)。近年は小山田圭吾氏のパートナーとして、コーネリアスの一連の仕事を手掛けている。「締め切りを決めない」という前人未踏の制作体制を打ち出した『POINT』以降のコーネリアス作品は、この方の忍耐力に支えられていると言ってもいいかもしれない(笑)。
 音楽雑誌の編集者を辞め、90年代に入ってからは一ファンとして音楽に接していた小生が、久々にプログラマーの存在を意識したのが、これまた同じイニシャルのM5氏。ピチカート・ヴァイヴ『女性上位時代』以降の黄金期を支えていたプログラマーである。ブレイクビーツを多用するこの時期のピチカートのサウンドが、いわゆる「それ風にやってみました」的な企画モノに止まらず、当世DJ的なファットなサウンドを獲得しているのは、おそらくこの方のおかげ。まったくコンピュータを触らない小西康陽氏だから、主なディレクションは氏が指示しているとしても、実際のサウンド・メイクの部分はかなりプログラマーに負うところが大きかったのではと思う。M5氏が離れたあと、代わってプログラミングを担当していたのが、当時同じ事務所に所属していた福富幸宏氏。この第一期、第二期と、ピチカート解散後の最近の作品に関わっている人と並べてみても、小西サウンドは同じ打ち込みでもずいぶん耳触りが違って聞こえる。ハウス・ミュージックに傾倒した福富時代の「東京は夜の七時」も魅力的だったけど、やはりいまでも私は、M5氏時代のピチカート・ファイヴサウンドエヴァー・グリーンを感じてしまうのだ。
 そんな「私的プログラマー史」の中で、大きな存在として君臨しているのが、何度も勝手に拙ブログで名前を登場させてもらっている、元Shi-Shonen、フェアチャイルド戸田誠司師匠である。MIDI時代の標準機的シーケンサーが登場しなかった不幸な80年代中期、多くの専業プログラマーがまだMC-4を使い続けていたスタジオに、最初にコンピュータ(PC-88)を持ち込んできたのが戸田氏であった。その驚くべき華麗な歴史は、拙著『電子音楽 in JAPAN』に当たっていただければ幸いである。だがそれでも、戸田氏のスタジオワークの現場では、池田だめお氏らベテランのプログラマーが脇を支えており、その分野のテクニシャンとの共同作業によって、あの時代のサウンドは生まれていた。池田だめお氏は、KAMIYAスタジオ出身のベテラン組の一人。私の敬愛するキリング・タイムのメンバー、Ma*To氏もタブラ奏者としての印象が強いが、元々は同じKAMIYAスタジオのプログラマー出身だ。同所が輩出した数多くの才能が、カミヤイズムとも言える芸術意識をもって、80年代以降もプログラミング音楽の質的向上に貢献してきた歴史があったのである。


 ミュージシャンが他人に任せず自らプログラミングを手掛けるという、戸田誠司氏が開拓してきたヒストリーの先に、現在のcapsule中田ヤスタカ氏の存在がある。引き合いに出されることの多い、ピチカート・ファイヴと比較すると、往年のピチカートが「小西康陽氏のアイデア」+「M5氏のプログラミング」+「信藤三雄氏のアート・ワーク」というパートナーシップの産物であったと考えると、そのすべてを自らが生み出す中田氏のパワフルさには改めて圧倒される。むろん、ミュージシャン自らがスタイリング、デザインまでを手掛けることには、他のクリエイターが口を挟めないという「閉塞性の問題」がついて回るだろう。だが、そんな批判は承知の上で、おそらく中田氏はすべてを自らが手掛ける中から、なにか「突き抜けた表現」が生まれることに期待しているのだと思う。
 一台のコンピュータで、音楽もデザインもスタイリングも、すべてがこなせるのが現代。かつて、プログラマーとミュージシャンが分業だった時代に始まり、作曲家自らがプログラミングを手掛ける時代を経て、マルチな才能を持って颯爽と中田ヤスカタ氏が登場してきた。すべてを自らが手掛けるというエゴが、必ず「自家中毒」に陥るというわけではないのだろう。「一人=一職業」という公式を打ち破る才能の登場に、大いに期待する小生である。時代のクリエイターにそうした尽きない意欲があることは、かつてピチカート・ファイヴというプロジェクトに関わっていた、小西康陽氏が自らブックデザインなどを手掛けるようになったり、デザイナーの信藤三雄氏がパートナーにもりばやしみほ氏(ハイポジ)を得て音楽までデザインする側に回ったことでも、実証されているという気がする。