POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

元祖“声フェチ”のオッサンが、近年の「声優ブーム」を斬る!

 以前、渋谷系に関するエントリーで、フリッパーズ・ギターの音楽性を決定づけたのが、ヴォーカリスト小山田圭吾の声にあったのではという仮説を立ててみた。ロック発祥の地であるアメリカの、圧倒的にパワフルなアングロサクソン民族や、カンツォーネで喉を鍛えたラテン民族らに対する、日本人の声にまつわるコンプレックスが、日本のロックシーンに独自の進化をもたらせてきたのではという視点である。日本のロック評論には、楽器に関する言及が少ないということを以前私は書いたが、ヴォーカリストの声質についても、膝を叩くほど共感する文章というのを読んだことがない。だが、そもそも私が人以上に声に反応してしまうのは、私がラジオや吹き替え洋画の影響を強く受けているからだろう。マンガ家のとり☆みき氏、ベストセラー『天国の本屋』で知られる友人の編集者、松久淳氏らと共同執筆した『吹替洋画事典』は、おそらくファン視点で書かれた日本で最初の吹き替え洋画研究書だと思う。そういう意味で言えば、“声フェチ”の元祖の一人と言わせていただいても文句はあるまい。
 まだビデオ・レコーダーがなかった時代。私がお気に入りの映画を記録する方法は、絵を模写することと音をカセット・テープに録ることだけだった。だから、私の「映画の記憶」は映像より圧倒的に音にまつわるものが多い。このへんの価値観は、『吹替洋画事典』の他の執筆者や他の吹き替え本の著者の方々と同じ、世代論に属する話になるだろう。そもそも日本のテレビで吹き替えが始まったのは、当時、字幕を入れるスーパーインポーズがコスト的に高かったこと、そのシンクロ技術が難しかったことなどが理由だと言われている。これには追記もあって、しかも初期のスーパーインポーズは画面の1/3ぐらいを占有するほどデカかったのだ。これは、まだ不鮮明なテレビ受像器が多かったからで、地震や火災が起きた時の非常時の電光ニュースも、昔のテレビでは文字がデカデカと画面いっぱいに出ていたものだ。だから字幕放送は、およそ現実的でなかったというのが理由なのだが、一方で吹き替え放送には、流し台で洗い物をしているお袋さんも、仕事をしながら音を聞いていっしょにテレビを楽しめるというメリットがあった。父親と子供がお茶の間で1台のテレビで同じ番組を見ていた時代、お母さんも共通の話題に参加できるような、そんな家族の団らんに吹き替え文化が貢献していたのだ。このへんの「画面から離れているお母さんにも話がわかるように」という意識は、実は作り手側にもあったようで、初期の吹き替え洋画には音だけで聞いていても、ラジオドラマのようにストーリーがわかるものが多い。最近、私は古い映画のDVDを吹き替えモードで再生しながら、ベッドについてウトウトしながら眠りにつくのが快感なのだが、途中で目が疲れて布団に潜り込んでも、続きのストーリーがわかるのに安心できる。だが、『スター・ウォーズ』以降、SFX技術などが進んだ結果なのだろうが、見せる要素が増えてしまったことから、声の演技の部分が少なくなり、音だけで聞いていてドラマのストーリーを再現できるものが少なくなったように思う。実際、私のようにDVDを吹き替えモードにして、布団に潜って音だけで聞いてみてもらえればわかると思う。途中でストーリーが見えなくなって、不安になってついつい起きて画面を確認してしまうはずだから。
 『吹替洋画事典』で私は、『刑事コロンボ』や『ツイン・ピークス』でおなじみの吹き替え台本作家、故・額田やえ子氏のインタビューを担当した。よく翻訳家と混同されることが多いと思うが、吹き替え台本作家は純然たる脚本家で、「日本脚本家連名」に加盟している日本語のプロである。字幕と同じく、限られたスペースや時間枠内に、原語の意味を翻訳して収めていくのが仕事。だが、言葉の正確さよりもざっくりとした大胆な意訳もできることを心得ておかないと、なかなかドラマチックな吹き替え台本は作れないという。それは「省略の美」でもあって、例えば恰幅のいい刑事が場面に登場する時など、富田耕生の声で「警察だ!」と一言言うだけで成立するという世界なのである。額田氏の取材で面白かったのは、やはりその吹き替え洋画の歴史であった。詳しくは『吹替洋画事典』や、その後、とり氏が書かれた『とり・みきの映画吹替王』を当たっていただけると嬉しい。
 声優のルーツを辿っていくと、ラジオ時代にあった「放送劇団」の存在に行き当たる。これは、当時メジャーな存在だった映画会社から役者が借りれないことから、一段下の立場にあった放送メディアが自前で声の役者を調達しなければならないところから始まったものだ。局との関わりでいうと、女子アナウンサーのような社員(または契約社員)扱いで、毎月給料をもらう立場だったようである(これは5社協定時代の映画会社が、社員として俳優を囲っていたのと同じ)。「放送劇団」は戦後、ラジオとテレビが共存するようになってからも毎年募集がかけられており、有名な『赤銅鈴ノ介』の吉永小百合などがここから巣立っている。だが、やがて組合闘争の季節を迎え、人件費を維持していくことが困難になったことから、各局の局内劇団は解散させられた。だが、これからテレビ放送が本格普及していくという時期だったので、仕事は潤沢にあったはず。そこで、映画界や大手の演劇界から役者を調達することが難しかったことから、その黎明期のテレビ洋画で声の仕事に引っぱり出されていたのが、民芸などの小劇場の役者であった。我々の世代で小劇場というと、熊倉一雄のいた劇団テアトル・エコーが有名だった。当時、彼らの属していた小劇場の世界は、新左翼系の政治活動とも密接なつながりがあり、実際に舞台で演じている演目にはアナーキーなものが多かったらしい。これはあくまで個人の私見だが、初期の広川太一郎山田康雄といった声優の過剰な演技やアドリブ志向は、こうした小劇場の血が流れ込んだ結果なのではと思うところがある。私らが子供時代に、日本テレビ系の『おはようこどもショー』という番組があった。朝の子供番組なのに、ヒッピー風の扮装で怪獣に詳しいというだけが自慢の、“怪獣おじさん”というニートのはしりみたいな人が司会をしていたゲバゲバな番組だった。この中に「おもてへとびだそう」というコントのコーナーがあり、山田康雄松金よね子安原義人夫妻ら、声優としても大活躍していたテアトル・エコーの役者が、普通にテレビに出てラディカルなコントをやっていたのだ(藤村俊二山田康雄が、アフロの髪型が同じということで、鏡のコントをやっていたのに爆笑した記憶がある)。同じ『おはようこどもショー』出身の愛川欽也だって、もともとロバくんのぬいぐるみを被って声の吹き替えをしていた裏方が、表の世界で司会として成功したって人だし。このへんの日本テレビの小劇場系の役者を使ったアナーキーな流れは、タモリの『今夜は最高』にレギュラーで出ていた、佐藤B作の東京ボードヴィルショー→ワハハ本舗あたりに繋がっていく流れの源流だと思う(あるいは、自由劇場→ラジカル・カジベリビンバ・システムという流れもあった)。
 声だけで演技をするというのは、換言すれば「容姿に頼らない」ということでもある。声だけで演じるというのは、顔の表情やアクションが使える普通の役者よりも、高度な演技力が必要になるはずだ。しかし、私のような仕事をしている同業者ならわかると思うが、雑誌の撮影などで予算の食うのは、実はタレントのギャラよりもヘアメイク、スタイリスト、スタジオ代のほうである。絵に映らない声優の仕事は、そのようにヘアメイクやスタイリストの準備がいらないことから、ずっと不当な扱いを受けてきたという歴史があった。04年11月に、協同組合日本俳優連合に所属する声優381人がアニメ制作会社(正しくは吹き替え制作会社)に対して訴えを起こした「日本アニメ・音響映像二次使用料未払い訴訟」の資料によると、二次使用料の支払いの問題ばかりか、拘束時間に対して、普通に画面で演技をする役者の70%のギャラというのが慣例として決まっていたのだという。この時の原告代表が、私も敬愛する羽佐間道夫氏だった。
 実はこの判決の前後に、羽佐間氏の代表作のひとつである『特攻野郎Aチーム』のDVD BOXが発売される話題があった。だが、当初は「吹き替え入り」となっていたものが急遽吹き替えなしで商品化されることとなり、amazonなどで「告知内容と違う」とユーザーからクレームが出るという返品騒動に発展。だから当時の噂では、そこに羽佐間氏の意向があったのではといぶかしがるファンもいて、その声優裁判の雲行き次第では、今後の名作映画のDVDに吹き替えが入らなくなってしまうのではと、心配する声もあったのだ。結果、裁判は声優組合側が勝利することとなり、その後、『特攻野郎Aチーム』のDVD BOXも吹き替え収録版で再発売されることとなった。現在は、羽佐間道夫の最大の名演を収めた『ピンク・パンサー』シリーズや、広川太一郎作品など、かなりの数の名作吹き替えがDVDで商品化されている。ああ、ありがたや。(※但し、先の裁判はアニメ吹き替えの二次使用不払いに関するもので、洋画吹き替えとは直接関係ない)
 吹き替え洋画、ラジオの深夜放送を聞いて青春期を過ごしてきた私には、常に憧れの異性の声というのがあった。上の世代の受験生が、文化放送のアナウンサーだった落合恵子(レモンちゃん)に夢中になったメンタリティというのも、ギリギリわかる感じである。思春期の男たちにとって「憧れの声」というものは、いつの時代にも存在したのだ。最近なら、東京ローカル放送で恐縮だが、J WAVE『GROOVE LINE』のパーソナリティである秀島史香の人気が、圧倒的である。『ねるとん紅鯨団』のナレーターをやっていた、皆口裕子(アニメ『YAWARA!』の主人公の声でおなじみ)の系統の声で、いわゆる喉声タイプというやつだ。「鈴の転がるような声」という表現でわかる人もいるかも知れないが、いわゆる腹式呼吸ではない赤ちゃんの地声に近いもの。映画『風の谷のナウシカ』で、音楽の久石譲の娘が歌った「らん、らんらららん……」というあの無垢な声がそのまま育ったような声と言えば、心動かされる輩も多いであろう。2ちゃんねるのラジオ板などを見ていると「結婚したい」という狂信的なファンも多いみたい。石野卓球氏もベタ褒めしてたし、極楽とんぼの山本がラジオでラブコールしていたぐらいだから、密かな業界ファンも多いよう。
 ヴィジュアルを問わない、声だけがその人の評価を90%ぐらい占めてしまうという感覚は、今のヴィジュアル世代にはちょっとわかりにくいかも知れない。例えば、円谷プロの名作『ウルトラQ』が数年前、何周年かのイベント企画で、TBSラジオ(ラジオ)とテレビ東京(テレビ)で各々続編が作られるということがあった。テレビ版は、40年前にはなかったCG技術などを駆使した、進化した『ウルトラQ』としてそれなりに健闘していたが、やはり『ジュラシック・パーク』を見た現代人の我々には、未知の映像を体験するというようなインパクトはなかった。だが、ラジオ版は、往年のキャストを復活させて(声は容姿ほど老けないものなのだ)、かなり現代的なストーリーを盛り込んでいたと思う。なにしろ、ラジオドラマというのは、シナリオに「見たことがない醜悪なモンスター登場」と書いて、効果音をモンタージュすれば、聴き手の頭の中に、各々が考えるもっとも醜悪なモンスターを描かせることができるのだ。きれいな声の女性が現れ「それは、絶世の美女であった」と言われれば、それは究極の美女像として、リスナーに印象づけさせることもできる。それほど、声のサブリミナル効果というのは絶大なのだ。しかも、昔はインターネットなんてなかったし、ラジオ雑誌や洋画雑誌にもパーソナリティや声優の写真などほとんど載ってなかった。だから、顔も知らないのに好きになってしまうというミステリアスさが、よけいにその思いに輪をかけていたようなところがある。
 先ほど、小劇場系の役者が声優として活躍していたと書いたが、実際、石立鉄男シリーズのドラマの常連だった田島令子や、『パックインミュージック』の愛川欽也が私設ファンクラブを作っていた鈴木弘子など、きれいな顔の人も多かった。おそらく本来は役者の仕事を中心にやりたかったが、事務所などの力関係から、声の仕事をやっていたという人が多かったのではないかと推察する。最近、三谷幸喜ドラマの常連である、元々は声優として有名だった戸田恵子が、声優以前にアイドルをやっていたのも有名である(たしかこの人の旦那は、『ゆうひヶ丘の総理大臣』の生徒役だった井上純一だよね)。『タイムボカン』シリーズでおなじみ岡本茉莉も、『男はつらいよ』『八ッ墓村』や武田鉄矢主演の松竹映画によく出ていて、アイドル雑誌になる前の『BOMB!』にグラビアが出ていたのを見たことがある。
 そんな風に、密かな「憧れの声」は誰の中にもきっとあったんだろうが、あまりに個人体験に属していたために、そういう話が人と通じることはなかった。それが今日、声優ブームにまでエスカレートするのだから、時代はなにがあるかわからないもの。実は私が、近年の声優ブームを初めて認識したのも、拙著『電子音楽 in JAPAN』の取材中に聞いた話からだ。作曲家の宇野誠一郎氏の取材の時に、氏から代表作である『ふしぎなメルモ』をリニューアルするという話を聞いたのだ。「リメイク?」と聞いたら、「いや、リニューアル」と言うのである。宇野氏が書いた主題歌が、そのままテクノ風に現代風にリアレンジされる。これならわかる。ところが、画面をそのままリマスターして、声と音だけを一切差し替えるというのである。メルモちゃんの声を演じるのは、売り出し中の新人声優だという。「???」……やるにことかいて、あの武藤礼子の神吹き替えをカットするというのは由々しき事態。で、いろいろ業界筋の話を聞いてみると、どうも声優ブームの一環で、アニメを新作で作るのに金がかかることから、旧作の映像だけを使って声を当代の人気声優が吹き替え直すという新商売があるらしい。むむむ。最近の人気声優は、CDを出せばオリコンチャートの20位以内に入ってしまうという、リアルなアイドル以上の人気らしいのだ。一昨年のホリプロのアニメ制作進出の記者発表も、結局は、自社の新人アイドルのあてがいぶちとして吹き替え用に新作アニメを作り、同時に権利ビジネスでも儲けようという魂胆らしいし。このへん、『名探偵コナン』などのアニメ主題歌とのタイアップでビーイング・グループが延命しているのと同じ、芸能界や音楽界がアニメ人気に頼っているという構図なのだな。いよいよ、アニメ業界が「時代の勝ち組」という印象を強めてしまう話である。
 今春、秋葉原にある普通高校で、「声優」の授業があるという前衛的なカリキュラムで知られる、ヲタの天国のようなK高校秋葉原校を取材したのだが、けっこう可愛い子もいっぱいいて驚いた。考えてみりゃ、声優科のある音楽学校、映画学校もいまどきたくさんあるし、毎年数万人が卒業している理屈になる。昔は、宇宙企画などのエロアニメも、あえぎ声をお願いできる声優がいないことから、結婚している有名声優が覆面で出たり、人気AV女優がへたくそな吹き替えをやったりしていたもの。ところが、いまはあえぎ仕事も全然オッケーで、堂々と表の作品と兼任して人気を保っている声優が10人はくだらないのだとか。ソフト・オン・デマンドのAVには、実写のアダルト映像なのに、アニメ声優のあえぎ声が入っている「吹き替えモード」なんて笑えるのもあるんだぞ……(笑)。
 これもくだらない話なので恐縮だが、昔は声優科というのは音楽学校、映画学校と相場が決まっていたが、洋画吹き替えには興味がなくてアニメだけが好きという世代もいるからか、最近は、アニメ専門学校の声優科のほうが人気らしい。同じ学校に、教室を隔てて、ルックスもいい声優アイドル風の子と、それに憧れるムクつけきアニメ青年が同居しているというのもかなりシュールな光景。ところが実際、毎年校内で「声優科」の女の子が「アニメ科」の男に告白されることが多いために、最近は「校内恋愛禁止」を鉄則にしているところもあるんだとか。学校運営もたいへんだわ。
 ともあれ、そんな声優ブームにありながら、私の琴線の触れるような存在というのに、ここしばらく会ったことがない。以前取材であった額田氏も、近年の声優の演技について「まるで宝塚芝居みたい」と批評していてなるほどと思ったが、かつてのヒロインのような“抜きの芝居”というか、色っぽい声の声優の存在って聞かなくなったと思う。最近の声優オーディションって、それなりに「容姿重視」らしいから、もはや“声フェチ”と一言で言っても、昔とは価値観が変わってきているのかも知れないな。


三宅裕司が司会をやっていた『テレビ探偵団』で、手塚治虫がゲストに出た際に「再放送してほしい手塚アニメ」というアンケートで、『鉄腕アトム』をぶっちぎって堂々の一位になっていたのが『ふしぎなメルモ』。一応、識者の説でも日本の“萌えアニメ”のルーツとされているが、それは多分に武藤礼子の吹き替えの力もあると思う。これはオリジナルのLD BOX。現在「リニューアル」版がDVD BOXで出ているが、こちらにはオリジナル吹き替えは未収録。当初、amazonなどの告知では副音声にオリジナル音声が収録される予定だったが、実現しなかった。後日、知人に噂話を聞いたのだが、「リニューアル」版の制作の理由は、声優のあてがいぶちというよりも、現在のテレビ放送に向かない、放送禁止用語の処理の問題らしい。その処理の関係で、一部画面を前後に差し替えた箇所があり、オリジナル音声がかみ合わないなどの理由から、副音声収録が見送られたという話なんだそうだ。悲しい。

これは「リニューアル」版の主題歌。CDシングルネタ用に探していたら出てきたので載っけてみた。アレンジは私も好きなstraight2heaven(長谷部徹)なのだが、こっちはイカさない。同じテクノなら、手塚治虫トリビュート『ATOM KIDS Tribute to the king "O.T."』に入っていた、ディミトリ・フロム・パリスの「ふしぎなメルモ」カヴァー(歌は野宮真貴)のほうが上出来。

岡本茉莉の初主演作品『花の子ルンルン』のサウンドトラック盤。4曲の挿入歌(小林亜星作曲)以外は、岡本茉莉が延々と花言葉を朗読するという、実質的には岡本茉莉のソロ・アルバム的一枚に。この時代にシンセのシークエンスを駆使している音楽があるのに驚くが、それもそのはず、コンピュータ・プログラマーYMO松武秀樹氏が担当してるんだそうな。

花の子ルンルン』はフランスで人気だそうで、これはカナダで出たサウンドトラック盤。声が全然、岡本茉莉に似てないのでガックリくる。カナダ盤の日本のアニメのサントラはけっこう持ってる(ちょっと自慢)。

セクシー美女といえば高島雅羅。この人、スネークマンショーでエロいコントとかもやってたんだよね。今でもDVDで聞ける代表作と言えばこれ、『刑事コロンボ』のパイロット版「殺人処方箋」でしょう。今でも現役だが、声が全然変わらないというのが凄い。魔女みたいだ。

私にとっては、小原乃梨子と言えば『タイムボカン』シリーズではなく、シャーリー・マクレーンである。だが、日本ではシャーリーがメジャーな存在じゃないので、小原乃梨子の吹き替え作品は未だ未発売。一応、ウチにあった中から、サム・ペキンパー監督『ケイブル・ホーグのバラード』を載せてみた。関係ないが、まわりの友達は皆『ケイブル・ホーグ』を推すが、私は断然、セルジオ・レオーネ監督『夕陽のギャングたち』支持派である。

これは番外編。最近見た中で唯一、神吹き替えだと感心した、テリー・ツワイゴフ監督『ゴーストワールド』。キャラクターにコギャル語を語らせているのだが、これが全然クサくないのだ。