POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「電子音楽とエロス」の深遠なる関係について考えてみた

 拙著『電子音楽 in the(lost)world』では、60〜80年代にリリースされた国内外の電子音楽シンセサイザーのレコードの主なものを1600枚紹介している。取り上げた作品は各国のコレクター氏とコンタクトをとって集めたものだが、この取材中に筆者が気付かされたのは、どの国も申し合わせたように、エロいレコードジャケットが多いということ。以下、ざっと主なものを写真で並べてみたが、モーグシンセサイザーのパネルと、水着やヌードの美女の組み合わせは、もはや黄金律のよう(詳しくは本で買って見てね!)。
 おそらく、これには理由がある。当時の主なモーグシンセサイザーのレコードは、映画音楽やポピュラー曲を電子サウンドでアレンジしたというもの。いわゆる「アポロ時代」に相応しく、従来の楽団演奏ものから最新デヴァイスによる録音に生まれ変わった、イージーリスニングが未来風に進化したものとして重宝されていた。イージーリスニング音楽とは、主に歌のない室内空間向けのBGMのことで、彼女をウチに呼んでお酒でも出す時に、ラウンジ系のレコードかなんかをかけてあげると、その場がまるで高級バーのように演出できるというもの。これは、壁紙を張り替えたり内装を替えたりするより、ずっと安上がりな空間演出法である。そもそも、イージーリスニング音楽は、当初「スペース・エイジ・バチュエラー・パッド・ミュージック」と呼ばれていた。まだ人類が宇宙に到達していない時代、月や火星がジャングルの秘境のような対象として捉えていたころに、セクシャルな隠喩も含むエキゾティックなBGMを、独身者向けにリリースしていたことに端を発している。50年代の『エスクワイア』誌の広告を見ると、高級な酒、車と並んで、最新型のオーディオ・セットの広告が大きく取り上げられていた。当時はまだ、オーディオというのは嗜好品として高級な部類だったのだ。その写真で、彼女との部屋デートでBGMにかかっているのが、フランツ・チャックスフィールド楽団やヘンリー・マンシーニ楽団などのイージーリスニングのレコード。だから、社会的ステイタスがあって可処分所得も多く、所帯もないので週末は彼女とデートばかりしているようなヤッピー風の独身男性が、イージーリスニング音楽の主たる消費者だったのだ。言ってしまえば、モーグシンセサイザーを使った企画盤のジャケット写真にセクシー美女を使ったものが多いのは、そこから派生したことの名残である。
 しかし、先日紹介したスウェーデンのポルノ映画『ゼイ・コール・ハー・ワン・アイ〜血まみれの天使』のセックス場面に、スウェーデン電子音楽の重鎮、ラルフ・ランスティンが作品が提供していたように、映画の世界になるともっと顕著に、セックスと電子音を結びつけた作品が多いのに気付く。もっとも有名なのは、ウォルター・カーロスが音楽を書いたスタンリー・キューブリック時計じかけのオレンジ』だろう。憎悪やトラウマ、性愛などのドグマティックな描写で、カーロスの強烈な電子音楽サウンドが作品に独特の深みを与えている。まあこのへん、「シンセサイザーサウンドの響きは非人間的」という表層的な解釈もあるんだろう。ナチのゲシュタポ収容所の性的なリンチを描いたイタリアのB級映画に、アメリカの映画配給会社がベリオなどの電子音楽を勝手に付けた『囚われの女』とか。マーゴ・ヘミングウェイが若き作曲家にレイプされる『リップスティック』なんて、わざわざ犯人に「僕はジョン・ケージを尊敬してるんだ」という俗っぽいセリフまで言わせて、強姦シーンにモジュレーション音を延々被せていて、観ていて閉口ものである。日本映画でも、増村保造の『盲獣』とか、ダリみたいなシュールな美術との組み合わせて、機械的なミュージック・コンクレートの音を使っているし(音楽は林光)。なにか知的なものすら感じさせるほどで、シンセサイザーのプラグを挿す行為が、例えばセックスのメタファーにでもなっているのかと勘ぐってしまう。
 いわゆる『平凡パンチ』やビニ本で性を覚えたゲバゲバな兄貴世代と違って、私らのヰタセクスアリス体験は、『11PM』で見たうさぎちゃんの温泉レポートや、『金曜スペシャル』、『ウィークエンダー』の再現フィルムなど、映像によるものが多かった。『11PM』では、人気沸騰中のピンク女優などがゲスト出演すると、ちょっとセクシーなイメージ演出でよくブラック・コンテンポラリー系のBGMをかけていた。80年代中盤の所ジョージの深夜番組の「ティッシュ・タイム」ぐらいまでずっと同じ路線だったので、私らの世代には“エロとブラコン”の組み合わせはかなり濃厚に刷り込まれている。東京に来てWOWOWで初めて「プレイボーイ・チャンネル」のダイジェスト番組を観てわかったけど、あれは海外のエロ映像(ポルノではなく「動くピンナップ」のたぐいのこと)にブラコンを使うという定番のトレースだったのね。
 日本製のAVなのに、モザイク処理の入っていないものが、アメリカのメーカーから現地の出張商社マン向けとかに出ているのを何本か見たことがあるのだが、素材は同じでも編集は国ごとに違っていて、特に面食らったのはBGMの使い方だった。セックス場面にほぼ全編、大音量で音楽をかけていたのだ。私が持ってるクリスタル映像系の作品など、細川たかしの「北酒場」のインスト・ヴァージョンが延々かかっていて、喘ぎ声も聞こえないほどである。
 以前、某週刊誌の取材で、科学雑誌でよくアクメの研究リポートなどを発表していたその筋では著名な性科学者の人に取材したことがあって、たまたまその海外ポルノの音楽の話を聞いてみたことがある。その先生によると、アメリカはベッド社会なので、行為中にスプリングのギシギシいう音で気が散るということから、昔から「消音」の意味でBGMをガンガンかけるという習慣があるらしい。日本は畳に布団なので静かだから、国産ポルノでは行為中に音はしないでしょうというのが先生の説明だった。なるへそ。
 私が今以上にビンボー生活を送っていた時、ホテルを使うのも金がかかるからと、自宅でシッポリ決めたい時なども、よくBGMをどうするか考えたりしていた。さっきのブラコンの印象があったので、いろいろ試して、その流れからプリファブ・スプラウト『ラングレー・パークからの挨拶状』が結構ハマるなあとか発見したり(パディに申し訳ない……)。毎回、4曲目の「ナイチンゲール」あたりで昇天してたから、俺って早いのかなあとか(笑)。でも結局、あれはFM番組とか既成のものをダラダラかけたりしているほうが、相手の気が休まるようだ。音も直接スピーカーから出すんではなくて、ラジカセを隣の部屋に持って行って、そこでならして壁越しにフィルタリングして聞こえるぐらいが一番落ち着くみたい。と、一応、童貞諸君向けに先輩からメモを送っておく。
 純日本産のエロに関して言えば、初期の宇宙企画英知出版のイメージビデオでよく使われていた印象があるのは、ドビュッシーエリック・サティピアノ曲。海外ポルノ以上に予算がないので、使用料のかからないクラシック曲は黎明期から重宝されていたようだ。日活ロマンポルノになるともっと直接的で、本多俊之とかがアルバイトで軽めのBGMを書いていたりするのだが、予算がないので打ち込みもののチープな音楽が多い。その打ち込みものの場末感が、海外ポルノのブラコンばりに国産エロの定番化しているところがあると思う。
 ところで、エロと電子音楽の関係を、「エロと機械」の関係に捉え直すと、興味深い考察が生まれる。まだ萌えブームが起こる前に、秋葉原に少しづつアニメ系の店ができつつあったころ、「戦車と少女」とか「銃と少女」というような組み合わせのヴィジュアルが街に溢れていたのだ。このへんについては、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』という本もあったはずなので、その因果関係についてはすでに十分検討されているのだろう。それを見ていて、以前、電気グルーヴのオールナイトニッポンで、石野卓球氏がアメリカにツアーで行った時に買ったおみやげの中に、『ウーマン&ガン(Womens & Guns)』という雑誌があるという話を思い出した。この雑誌は、前半が女性のセクシー写真だけで構成され、後半が銃の記事だけで構成されている折衷雑誌。一件、なんのつながりもないように思えるが、「男が手に入れたい夢のアイテム」であるこの2大要素を組み合わせたというのが、その雑誌のコンセプトだったらしい。
 シンセサイザーがまだ、高級オーディオのように金持ち独身男性にしか買えなかった時代がかつてあった。「モーグシンセサイザーと美女」の組み合わせにも、同じような「男がぜひ手に入れたい成功のステイタス」という因果が見て取れる。冷たいシークエンス・ビートと黒人のホットな肉感的なヴォーカルを組み合わせた、ジョルジオ・モロダーサウンドなんていうのも、いかにも白人が思いつきそうな、「戦闘美少女」みたいなヲタな音楽だったのかも知れないな。