POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

さらばディスク時代part2 華やかだったCDシングル文化を追悼する

 先日のエントリーで、80年代初頭に登場したばかりのころの黎明期のCD(CDDA)の歴史を紹介した。レコード業界から消費者の意識が離れるきっかけを招いたと言われるCCCDコピーコントロールCD)も、原理的にはCD(CDDA)と同じもので、PC用のCDドライブのみに悪さをするようにエラー信号がランダムにたくさん書き込まれていただけ。ところがCD専用再生機である、オーディオメーカー製のラジカセ、コンポ、カーオーディオのたぐいも、OEMパーツとして中国ほかの大量生産品である安価なPC用のCDドライブを流用していたりしたために、PCへのコピーどころか「CD専用プレイヤーでも再生できない」という由々しき自体を招いてしまった。
 CDを開発したのは、それ以前にカセットテープを普及させた実績のあるオランダのフィリップスと、日本のソニーである。『電子音楽 in JAPAN』でもエピソードを紹介しているが、CD収録時間を60分に考えていたのフィリップスの考えを蹴って、CBSソニーの社長で音楽家でもあった大賀典雄氏が「ベートーベン「第九」をフルサイズで収録したい」と熱望して、標準74分に設定したという逸話は広く知られているだろう。だが、そもそもPCM技術は、東芝日本コロムビアなどが先駆者であり、ソニーが取り組む以前から開発されていたものだった。70年代末期、YMOの記事などが頻繁に取り上げられていた時代のオーディオ系の雑誌には、よく「レコードに代わる未来のメディア」というタイトルで、“DAD”(デジタル・オーディオ・ディスク)という名前で紹介されていた。以前書いたように、当時はカセットテープのソフトもドルビー録音とノーマル録音の2種類が違う値段で売られていたり、映像ディスクもLD(パイオニア)とVHD(ビクター)とが競合していたり、映像ソフト自体も同一作品をVHS、ベータ、LDで別々のメーカーが勝手にデザインを替えて出していたりと、メーカーごとに無手勝流のビジネスを展開していたから、私などは消えてしまったDAD規格のように、CDも早々になくなるのではないかと思っていた。ところが25年の風雪に耐え、CDが今日に生き残っているということには、驚きを禁じ得ない。おそらく、iPodなどのデジタル・オーディオとの親和性から、しばらくは今後もCD(CDDA)は現役メディアとして延命していくことになるであろう。
 日本で最初にリリースされたCDは、開発元のソニーの所属アーティストだった松田聖子大瀧詠一である。当時は値段も3500円と高かった。その後、ソニー発のデジタル・サウンド時代の旗手として、CDでデビューを果たした最初のアーティストが、最近、コーネリアスのラジオ番組などで再注目されている、安西史孝氏のいたTPOである(『電子音楽 in JAPAN』参照)。他社がCDに追随するのには少し時間がかかったが、はやりデジタル・オーディオに関しては業界でリーダーシップをとっていた日本コロムビアが、早々と参戦していたのを覚えている。海外では、先日のエントリーで書いたように、フィリップス系列のフォノグラムがいち早く対応しており、パレ・シャンブルグの3枚目やトーマス・フェルマンが主宰していたオムニバス“チュートニック・ビート”のように、80年代中盤にすでにCD化されていたタイトルも同社には結構多い。
 CDも今のように安定路線になるまで、各メーカーはその技術を応用した、様々なバリエーション規格を頻繁に発表していた。主なもので言えば「CDV」「VCD」「CDシングル」などがある。「CDV」は、12センチのCD盤の片面がCDとLDの記録面に分かれており、映像が1曲、音楽が3〜4曲入るようになっていたという、映像と音声の折衷ソフト。LD面はレーザーディスク・プレーヤーと互換性があった。うちにもユニコーン「大迷惑」、宍戸留美「Panic in may room」などのCDVがあるが、当時日本でも面白いPVがぽつぽつと登場し始めたころだったので、それなりに存在意義はあったようだ。スタンプのケヴ・ホッパーのソロなんかも出ていたりするのだが、残された記録も少ないために、その全貌は私にもつかめないでいたりする。「VCD」は、パソコン用として浸透していたmpeg1ファイルを収録した、映像と音楽をフルサイズで収めた映像メディア(DVDはmpeg2)。LD、CD(CDDA)、CDVなどの初期のデジタル・メディアはデータ無圧縮で収録していたが、「VCD」やMDではデータを圧縮して収録できるようになったため、小さなディスクに長時間のソースの収録が可能になった。CDサイズに、映像と音声がフルに60分近く収録できるのは驚異であった。これは主にパソコンでの再生を目的としていたメディアで、レーザーディスク・プレイヤーなどとの互換性はなく、専用プレーヤーも大手から発売されたものの、日本では普及しなかった。しかし、その利便性からアジア全域で爆発的に普及することとなり、向こうではテレビをつないで再生するVCD再生機能のついたラジカセやコンポがずいぶん普及している。国内ではソフト化されていない日本のドラマや映画などが、アジアのみでVCD化されているケースも多い。また、アダルト系のタイトルが特に普及しており、日本でもKUKIなどのメーカーが一時リリースしていた(KUKIは創業者が寺山修司天井桟敷のスタッフだった人なので、こうしたニューメディアへの取り組みが常に早かったのだ)。「VCD」はmpeg1圧縮という汎用記録方式なので、現在でも海外製のDVDプレーヤーなどには、これを再生できる機能を持たせたものは多い。そして3つ目が、その中でもっとも普及した、今回のエントリーの主役である「CDシングル」である。
 もう現物を知らないという世代もいると思うので、一応、スペックを説明しておく。サイズは12センチのレギュラーCDより少し小さい8センチのディスクで、記録はCDやLDと同じ無圧縮方式。時間にして最大20分の記録ができた。サイズが小さいのが売りではあったものの、店などで扱うのに万引き対策などの観点で扱いづらい面があったため、少し大きめの短冊形の縦長で販売し、買った後に余白のプラスチックをパキッと割って、折りたたんで8センチにして収納するという形式が取られていた。以前、テレビのバラエティ番組で、和田アキ子がCDを買うたびに、いちいちケースを割って紙とディスクだけを引き出して聴いていると語っていたが、あれは和田がCDシングルで見た行為を混同していたためだろう。余白部分を割るというのは、初期のCDシングルのデザインがアナログシングルの正方形のジャケットを流用していたためで、下の部分の余白になにも印刷がない無地のものも多かった。それが、だんだん縦長のCDシングル独自のデザインになっていき、やがてアナログ・シングルが消えていくという顛末を辿る。購入者の間でもプラスチックを割るという行為には抵抗があったし、ケースを割ると中古盤店などで引き取ってもらえないなど実際はハンディもあったため、たいていの中古品店では、今でも販売時の短冊形のままで流通している。
 「CDシングル」と謳っているわけで、これは17センチのアナログ・シングルに替わるものとして開発されたものだった。実はこの時期、アルバムのCD化はすでに浸透しており、オリコンチャートなどで見ると、アルバムチャートはCD中心なのに、シングルチャートはアナログというかなり歪な状況があったのだ。だが、アルバム以上にアナログ・シングルには長い歴史がある。CDシングルへのシフトは容易ではないと思われていたので、当初はCDシングルのみのさまざまな付加価値が付いていた。収録時間が20分という、容量も通常のシングルの倍。値段も同時発売の800円のアナログ・シングルと差別化するために、1枚が1000円というのが平均価格だった。値段がアルバムの1/3もするというのは、たった1曲を聴きたい人にとってみれば、今のiTMSのシングル曲価格=200円(平均)と比較すると、かなり割高感がある。だから、トイズ・ファクトリーのエルレーベルのCD再発シリーズのような、マキシ・シングル、ミニ・アルバム用のディスクとして重宝されたこともあった。あるいは、カラオケブームの黎明期でもあり、先に普及していたカセット・シングルが2曲のオリジナル・カラオケを併録していたのを真似て、たいていのアイドルのCDシングルはカラオケを含む4曲入りで売られていた。私のような編曲家マニアにとっては、オリジナル・カラオケの商品化は、バックトラックの研究に大いに参考になった。中には、忌野清志郎坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」のように、オリジナル・リリース時には未発表だったカラオケが、CDシングル化で初めて公開されたものもあった。私が選曲した「歌謡テクノ」のコンピレーション『テクノマジック歌謡曲』に収録している、芳賀ゆい「星空のパスポート」も、編曲者である小西康陽氏のピチカート・ファイヴ「ベイビー・ポータブル・ロック」と同じように、CDシングルのほうには、ダブ・マスターXこと宮崎泉のダブ・ミックスが、シークレット・トラックとしてまるまる20分収録されていたりする。
 このCDシングル規格は、日本のソニーがオリジナルに開発したもの。一時期、英国のヴァージン・グループが採用して、ジャパン、XTCなどのミニ・アルバムを小さな8センチの紙ジャケで出していたことはあるが、全世界的にはほとんど普及しなかった。後にグリコの食玩でCDシングルがもてはやされたのでわかると思うが、あのチマチマとしたミニチュアサイズが、いかにも日本人向けだったのだろう。それに、アメリカではすでにシングル文化というものが終焉に向かいつつあったことも理由にある。90年代初頭、すでに時代の潮流とかけ離れてきたという判断から、ビルボード誌がシングルチャートを撤回している。アメリカのレコードビジネスの規範となっていたヒットチャート文化が、誕生から約半世紀がたち、ひとつの時代の終わりを告げていたのだ。これは、ハウス、テクノなどのダンス・ミュージック志向のグループが、アルバム主体で作品を発表しており、シングルを切らなかったためである。ラジオでは従来通り、アルバムから人気曲を紹介するという流れがあったため、その後ビルボード誌ではシングルチャートに変わるものとして、オンエア頻度で人気を集計するパワープレイチャートを誕生させた。数百というラジオ局が存在し、今でもランキングに強い影響力を持っているラジオ中心社会であるアメリカならでは。このあたり、先日の米タワーレコードの2度目の倒産にも、遠く関係している要因のような気もする。
 日本では、アナログ・シングルからの入れ替えに成功した「CDシングル」だったが、小室哲哉全盛のころの90年代初頭、12センチCDに入れた“マキシ・シングル”として単独曲がリリースされるようになる。当初は、シングル曲とそのリミックス・ヴァージョンを、CDシングル、12センチCDそれぞれに入れ、2種類で発表していたアーティストもいたので、オリコンチャート上では、2つは別々の曲として集計されていたりしたのだが、やがてシングル曲の中心がレギュラーCDサイズ(マキシ・シングル)のほうに統一されていった。これは、「パソコン・ソフトの箱がなぜ大きいのか?」の理由と同じで、レコード店店頭で並べた時に、ジャケットのサイズがそのまま広告として機能するからである。やがて、CDシングル自体が業界から忘れられることとなった。外資系大型CD店などでは、扱いづらいことからかなり早い時期に一切の取り扱いをやめたところまであったのだ。その後、ボアダムズや、最近出たコーネリアス「music」のように、盤面に60分近くまるまる1曲を収録したマキシ・シングルも登場。それまでも、シュトックハウゼンなどの現代音楽の世界では、まるまる1曲で一つの作品というアルバムがあったわけだから、ここですでにアルバム、シングルの概念が崩れていたのである。
 現在、日本でもシングル・チャートは、形式としては一応残ってはいるものの、すでにビルボードがシングルチャートを撤回した時と同じように形骸化している。おまけに、オリコンチャートにしても、POS集計でランキングしている新興の調査会社プラネッツにしても、タワー、HMV、ヴァージンなどの大型CD店の売り上げデータを提供してもらえずに集計しているわけだから、すでにランキング文化というもの自体が役割を終えてしまったと言えるかもしれない。
 以前のエントリーで私は、都内の多くの中古レコード店から、アナログ盤が消えつつあることを書いた。90年代中頃の数寄屋橋のハンターの倒産は、その象徴的な事件だったと思う。なにしろ、あのフリッパーズ・ギターの2人も、マニアの道は「ハンターに始まりハンターに終わる」と語っていたぐらいで。私も、渋谷にレア盤を並べるセレクトショップ系のネオアコ中古店ができる前から、その筋のマニア盤を集めていた口なので、業界人からの流出品も多いハンターには大変お世話になった。だが、ハンター後期のころですら、アナログ・プレーヤーのない家庭はすでに多かったように思う。こうして経済効率優先の社会の中で、アナログ盤はメディアとしての役割を終えてしまったのである。そして、CDシングルもある時期、「固定資産税」の問題などもあって、ごっそり処分されてしまったと聞いており、現在では都内の中古CD店でもほとんど見なくなってしまった。フロントローディング式のパソコン用のドライブでは、すでに8センチCDを飲み込んでも再生できないものも多いらしい(このへん、日本だけで普及したAMステレオと同じで、安価なアジア製のOEMパーツを使っていることが理由)。そもそも、CDシングルって当初から対応していないプレーヤーも多く、8センチの外枠にアダプターを付けてレギュラーCDのようにして再生していたこともあったぐらいで、元々ハードメーカーにとって鬼っ子のような存在だったんだろう。
 企画モノ好きな私も、一時、中古盤店で大安売りしていたCDシングルの宝探しに夢中になっていた。シングルのみの別ミックスもあって、意外な戦利品も数多く見つかったが、現在はその多くは、アルバムのCD再発のタイミングでボーナストラックとして収録されている。だが、賞味期限がその一瞬という、リリース自体が一発ギャグみたいな、今後絶対復刻されないだろうと思う愛すべき企画ものも多かった。そこで今回は、そんな中から一部ではあるが、面白そうなCDシングル作品をまとめて紹介してみることにした。



「THE SHOPPING SPREE」シリーズ(バップ)

これはみんな集めてたと思う、トイズ・ファクトリーがまだバップのレーベルだった時代に出ていた、エル復刻シリーズ。初期の10インチやマキシ・シングルをそのままCDシングルで復刻したもので、一枚1200円と高価ではあったが、日本のみのCD化という貴重なものだった。後期のエルって、クレプスキュールみたいな普通のイージーリスニング志向になるので、初期の傑作のCD化には喜んだもの。キング・オブ・ルクセンブルグ、バッド・ドリーム・ファンシー・ドレス、アンソニー・アドヴァーズ、ハンキー・ドリー、ビド、モーマスルイ・フィリップ、ゴル・ガッパス、ジ・アンダー・ニースほか20枚近くがある。このうち、ビドの2枚はモノクローム・セットのコンピ『ヴォリューム・コントラスト・ブリリアンス』の日本盤に追加収録。他の曲も、マイク・オールウエイが立ち上げた新レーベル“リッチモンド”から出た、各アーティストのベストに主要曲はほぼ収められている。

忌野清志郎坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」(ポリドール)

オリジナル発売はロンドンレコードだが、倒産後にカタログはポリドール(現・ユニバーサル)に引き取られ、92年に突如CDシングルで再発。オリジナル・リリース時には未発表だった、2曲のオリジナル・カラオケが初収録された。「明・る・い・よ」はカラオケだけで聴くと、「両眼微笑」の変奏曲みたい。

山下達郎「パレード」+シュガー・ベイブ「DOWNTOWN」(イーストウエスト・ジャパン)

ナイアガラトライアングルVOL.1』収録の達郎の名曲が突如、フジテレビ系『ポンキッキーズ』の主題歌に。再発なのにオリコンのアルバムチャートで1位を取ったシュガー・ベイブ『ソングス』の再発と前後して、70年代の達郎サウンドの再評価現象が起こり、突発的にリリースされたもの。「パレード」は92年版リミックス、「DOWNTOWN」はシングル・ヴァージョン。現在は確か、どちらもCDにボーナストラックで収録されていたはず。

ブライアン・フェリー「TOKYO JOE」(東芝EMI

キムタク主演の傑作ドラマ『ギフト』主題歌に、なぜか突然同曲が器用され、なんと来日まで実現。これは主題歌としてリリースされたCDシングルの復刻で、貴重なカラオケ・ヴァージョンも収録。ブライアン・フェリーのオリジナルカラオケが入手できる時代がくるなんて……。

コニーちゃん「バブルバスガール」(ポニーキャニオン
はのあきwithウゴウゴくんとルーガちゃん「ショガクセ〜イズデッド」(ポニーキャニオン
前者が『ポンキッキーズ』挿入歌、後者が『ウゴウゴルーガ』主題歌。『ピタゴラスイッチ』など子供番組の音楽が先鋭的だという事実は現在でも変わらずだが、こちらも前者はカジ・ヒデキ、後者はピエール瀧、CHOKKAKU(プリンストンガ名義)が手掛けている。こうした企画ものは、お宝音源が多いのに復刻されることが少ない。SF作家でもある野田昌弘が企画した、日本版「セサミストリート」として始まった『ひらけポンキッキ』も、本家がジャクソン5などを使っていたように、初期からプラスチックス、ペリー&キングスレイなどを使っていたことで有名。テレビ朝日系『ピッカピカ音楽館』も、挿入歌の制作を現在のコーネリアスの事務所である3Dが担当していたので、岡井大二(天沼デン助)、はにわちゃん(ヴォーカルは三橋美香子)、成田忍(アーバン・ダンス)、やの雪などが手掛けていたりする。

ManaKana+TARAKO水谷優子「じゃがバタコーンさん」(日本コロムビア
カヒミ・カリィ「ハミングがきこえる」(ポリスター

ともに『ちびまるこちゃん』主題歌で、コーネリアスこと小山田圭吾プロデュース(カラオケ・ヴァージョンはCDシングルのみ)。『ちびまるこちゃん』は当初こそ音楽はビーイング一派だったが、西城秀樹起用あたりから原作者さくらももこ氏のご主人だった宮永正隆氏が音楽プロデューサーとして関わり始め、映画版のサントラには大瀧詠一細野晴臣曲を使用。イメージアルバムには、清水一登などを作編曲で起用していた。その後、宮永氏は、大瀧詠一さくらももこと共同出資でダブルオー・レコードも設立し、渡辺満里奈のシングルなどもリリース。最近は『ビートルズ大学』の著書でも知られている。

キリング・タイム「BOB」(エピック・ソニー
HANIWA「新大魔人」(ソニーレコード)

前者は板倉文率いる、日本のザッパ・バンドの名作12インチの復刻。現在はAMJから、12センチ盤でリマスター復刻されているが、それまでは幻のCDと言われていた。後者ははにわちゃんのヴォーカルが女優の池田有希子に交代し、HANIWA名義になった『ハッピー・ピープル』時代に出たアルバム未収録曲。

HIROMITSU「たどりついたら雨降りだけじゃなかった」(ポニーキャニオン
先日フィーチャーできなかった、鈴木ヒロミツの最新シングル。プロデュースはブラザー・コーンバブルガムブラザーズ)。モップス時代の「たどりついたらいつも雨ふり」のアンサーソングで、カップリングには「たどりついたら」の新ヴァージョンを収録! しかし、凄まじい最悪コンディションのヴォーカルはあい変わらず。「たどりついたら」は同じころ、山崎ハコもシングルでカヴァーしていて、こっちは名演に仕上がっていた。

スパンクハッピー「空飛ぶ花嫁」「CHOCOLATE FAOLK SONG」(東芝EMI

菊池成孔氏のアイドル時代(?)。日本コロムビアからデビューしたソロ・シンガー、原みどりのバックバンドがパーマネントなグループに発展し、東芝EMIに移籍してデビュー。シングルはいずれもアルバム未収録。当時のメンバーは、原みどりとパートナーだった菊池氏に、モーニング娘。の「真夏の光線」などを手掛けているキーボーディスト、河野伸の3人。実は同じころ、ティポグラフィカのキーボーディスト、水上聡氏が東京少年に加入してメジャー進出しており、スパンクスはそれと並ぶティポグラフィカ第二のメジャー進出ユニットという風に私は捉えていた。河野氏のアルバムのアレンジは今聴いても凄い。その後、原みどり、河野氏が抜けたのにスパンクスが継続したのには驚いた。

ブリッジ「夢見るシャンソン人形」(ポリスター
ナイス・ミュージック「LITTLE CHANSON DOLL」(ビクター)
三菱自動車のCMソングで、フランス・ギャルのヒット曲「夢見るシャンソン人形」を、渋谷系代表のブリッジ(カジヒデキ在籍)とテクノ代表のナイス・ミュージックが競作カヴァーするという企画。どちらもシングル・オンリーで、カップリングは未発表曲。2グループとも実力派で、甲乙付けがたい仕上がりに「日本の音楽業界の未来は明るい」と、頼もしく思ったもの。

モーニング娘。愛の種」(Spree Record)
初期の『ASAYAN』時代から見ていた元モー娘。ファンなので、これは必須でしょう。結局、東京での即売は中止されたのだが、当時ワンナップ(ゼティマの前身)にいた友達におねだりしてこれをもらった。佐々木敦氏、湯浅学氏とは一時雑誌の取材でモーニング娘。論を闘わせたこともあった。懐かしいなあ。本作のみ、曲はつんくではなく、詞はサエキけんぞう氏、曲は桜井鉄太郎氏が担当。桜井氏は『電子音楽 in JAPAN』でも書いている通り、元清水信之のマネジャーであるからして、テクノなアイドル・ポップをやらせれば見事なものである。

カントリー娘。「北海道シャララ」(Potato)
モー娘。の妹ユニットの、北海道限定シングル。当初は3人組だったが、このころは戸田鈴音ソロになっていた。カップリングのスウェーディッシュ・ポップ風のヴァージョンが素晴らしい。

山根栄子VS GIRL GIRL GIRL「ベイビー・ブリッジ」(東芝EMI
Girl Girl Girl Homme「弾丸を噛め」(キティ)

FM横浜の同名のラジオ番組のために、小西康陽ピチカート・ファイヴ)、窪田晴男パール兄弟)、桜井鉄太郎で結成されたスーパーグループが“Girl Girl Girl ”。放送音源は、リミックスされたものが共同プロデュース・レーベル「ワイルドジャンボ」(徳間ジャパン)から複数出ているが、こうした単発企画が別の会社からもリリースされていた(いずれもアルバム未収録)。前者はバック・コーラスの重鎮だった、山根栄子のボーカルを、3人が各々リミックスした3ヴァージョンを収録。実は山根栄子は、私の中学時代の同級生の実姉なのだ。後者が桜井鉄太郎ヴォーカルによる名曲。別ヴァージョンが、マキシ・シングルでもリリースされた。

The Three Wise Men「Thanks For Christomas」(ヴァージン・ジャパン特販)
The Colonel「Too Many Cooks In The KLitchen」(ヴァージン・ジャパン特販)

これは珍しい、XTCの変名バンドが出していたシングル2枚の世界初CD化。鈴木さえ子立花ハジメの担当だったミディのA&RのT氏が大のXTCファンで、のわんとヴァージンから正式に販売ライセンスを取り、自己資金でCD化したもの。各2000円で売られたが、話題性から無事完売した。但し、現在はXTCのレア・トラックス集『Rag & Bone Buffet』に収録済み。T氏はデイヴ・スチュワート、コーギスの再発を手掛けた人でもあり、現在は山下達郎のFC会報誌の編集でもおなじみ。

TMN vs 電気GROOVE「RHYTHM RED BEAT BLACK」(エピック・ソニー
瀧勝「人生」(トレフォート)
子門'z「トランジスタ・ラジオ」(キューン・ソニー
電気グルーヴガリガリ君」(赤城食品)

電気グルーヴ関連のアルバム未収録曲を4つ。一つ目は、記念すべき彼らのデビュー曲で、なんと当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった小室哲哉氏からオファーを受けた、カップリング企画。TMNのお洒落なオリジナル曲を、辛辣な歌詞とサンプリングでトホホに改作している。「人生」はピエール瀧の演歌路線の初のソロ。発売元のトレフォートは「RHYTHM RED BEAT BLACK」の歌詞にも出てくるが、ソニーグループが初めて都内ではなく横浜拠点に作った、現在のキューン・レコードの前身。「トランジスタ・ラジオ」は3人の変名で、子門真人の物真似で歌うRCサクセションのカヴァー。「ガリガリ君」は、アルバム収録曲を赤城食品の社員が聴いていて、プレゼント用に制作をオファーされたもので、CMでは使われていない。

冨田勲新日本紀行 冨田勲の音楽」(BMGビクター)

冨田のシンセサイザー時代以前に書かれた、NHK大河ドラマや手塚アニメの音楽を、大友直人指揮、東京交響楽団で演奏した同名のアルバムからのシングルカット。「青い地球は誰のもの」のカラオケはアルバム未収録。

エキセントリック少年ボウイオールスターズ「エキセントリック少年ボウイ」(イーストウエスト・ジャパン)
日陰の忍者勝彦オールスターズ「日陰の忍者勝彦」(イーストウエスト・ジャパン)
消防車(ソバンチャ)「オジャパメン」(ポリスター

ダウンタウン関連から3枚。「エキセントリック少年ボウイ」は『ごっつええ感じ』から派生したグループだったが、これがヒットしたことで吉本とフジテレビが揉めたことを理由に、吉本単独グループとして結成されたのが日陰の忍者勝彦オールスターズ。こちらはフジテレビの協力が得られなかったので、ヒットした記憶がない。『HEY×3』には出ていたのだろうか? 「オジャパメン」はなぜか韓国のオリジナルのCDのほうを持っていた。あのネタは、現在『トリビアの泉』の構成作家でもある 三木聡氏が舞台でやっていたのを、ダウンタウンがテレビで採用したんだよね。

IZUMIN「コラムで行こう!」(東芝EMI
ザ・ブロンソンズ「マンダム〜男の世界 大脱走'95」(東芝EMI
ともにみうらじゅん氏のプロデュース作品で、A&Rはみうら氏に心酔する元YMO再発ディレクター、N氏仕事。前者は泉麻人アイドル化計画として制作されたもので、作曲を担当しているテクノ系クリエイター、サワサキ ヨシヒロはなんと元みうら事務所の電話番。後者は、マンダムのCMソング「男の世界」と映画『大脱走』のエルマー・バーンスタインの主題歌を、宍戸留美でおなじみ福田裕彦氏がアレンジしたもの。ザ・ブロンソンズはみうら氏と田口トモロヲ氏とのユニットで、スチャダラパーらがゲスト参加するアルバムも出ている。

高野寛田島貴男「Winter's Tale」(東芝EMI

同世代の2大名ソングライターがたまたま同社に籍を置いていたことから、サッポロビールのCMソングとして共作されたもの。こういう企画はアンソロジーものなどでも再収録されることが少ないので、CDシングルの存在は貴重である。

Pizzicato Five/Keigo Oyamada「"the first cut is deepest" ep」(日本コロムビア

小山田圭吾プロデュースのピチカート・ファイヴのアルバム『ボサ・ノヴァ2001』のトレイラー・ディスク。「マジック・カーペット・ライド」「我が名はグルーヴィー」などのラジオ・エディット、別ミックス、アカペラ、声のメッセージなどを収録したもの。

本多俊之ラジオクラブ「ヨコハマドラゴンサンバ」「GOOD EVENING」(東芝EMI

元バーニングウェーヴのサックス奏者、本多俊之小川美潮(チャクラ)、東原力哉(ナニワ・エキスプレス)、鳴瀬喜博と結成したグループ。前者は89年の横浜博覧会のイメージソングで、久々の美潮節炸裂のポップ・チューン(アルバム未収録なのが惜しい名曲)。後者はテレビ朝日系『ニュース・ステーション』のテーマ曲だった。