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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『電子音楽 in JAPAN』(アスペクト)

電子音楽in JAPAN

電子音楽in JAPAN

 98年に刊行された、日本で初めての国産電子音楽の歴史を綴ったノンフィクション。1955年にNHK局内に誕生した、西ドイツに続く「世界で二番目の電子音楽スタジオ」の誕生に始まり、東京オリンピック大阪万博などと電子音楽との関わり、シンセサイザー輸入の背景、YMOの登場、国産シンセサイザーブランドの世界進出までのおよそ50年の道のりを、当時の資料とおよそ50人近くのインタビューで構成したもの。

アスペクトの公式ページ(http://www.aspect.co.jp/np/details.do?goods_id=308

 これまでも無署名で多くの単行本を手掛けてはきたが、プランニングから原稿まで、ほぼ一人でやった最初の仕事がこれ。初めての正式な署名本でもある。
 もともとは、黒澤明のファンだった私が映画『羅生門』についてつらつらと考えていた時に、事件に遭遇した立場の違う3人が、その体験をおのおのの視点から語ることで「3通りの真実」が生まれるというプロットに、「何か似た例があったよなあ?」と気づいたことに端を発する。それがYMOの「写楽祭事件」の記憶に結びつき、一気に輪郭をもって、単行本のアイデアに結実したことがすべての発端である。
 80年6月に日本武道館で行われた、小学館が主催した新雑誌『写楽』の創刊イベントは、招待客のみということもあり、桑原茂一率いるスネークマンショーが司会進行を務めるなど、徹底してアンチサーヴィスに徹したものだった。モンティ・パイソンのシニカルな笑いが日本に初めて紹介されたりといった、風刺や自虐の時代の先駆けで、どれだけファンがそれについてこれるかという挑戦的な試みである。だが、会場に駆けつけた大半が、当時「時の人」となっていたYMOを目当に来ていた一般客層。同年の国内ツアーの渋谷公会堂NHKホールの公演さえ、抽選で落とされ観れなかった人のほうが数は多く、この写楽祭のチケット入手のためにダフ屋に数万円を使った人もいたほど、当時のYMOは、チケットが取れないバンドとして有名だったのだ。ところがここで3人は、ツアーセットを最後まで見せずに、キングストントリオのパロディを演じるなど、徹底的に客を焦らした。やがて客のヤジコールがあふれんばかりとなって、進行自体が危ぶまれる事態に。出演者の篠山紀信などが恐れをなして帰ってしまうなどのエスカレーションの中、それでも客の怒りなどに一切耳を傾けず、無言で予定を履行していく出演者の中で唯一、教授だけが「コノヤロー」と客を怒号したのだ。このエピソードは、翌日の新聞で取り上げられ「すわ、YMO解散か?」と見出しに書かれるほどの“事件”として扱われた。特に教授は、数ヶ月前から女性週刊誌の見出しになっていたアッコちゃんとのスキャンダルの件で、渦中の人物だったのだ。
 坂本龍一は「コノヤロー」と怒鳴り、高橋幸宏が「まあまあ」と客をなだめ、細野晴臣は黙して語らずと、3人はここで見事な対称を見せた。このアンサンブルは、3人のパーソナリティを見事に象徴していた。この“神の采配”を私は痛快に思ったほどだ。
 90年代中頃、私は週刊誌の編集部におり、扇情的な特集などにも関わって、クレームにもめげないヒット企画を生むべく、読者奉仕のために仕事をしていた。タブーこそ読者の知りたい甘い毒の果実である。デイヴ・マーシュ『ロックンロール・コンフィデンシャル』など、海外には刺激的な音楽ノンフィンクションは数多く存在していた。『NME』(ニュー・ミュージカル・エキスプレス)を筆頭とするイギリスの音楽メディアなどは、王族さえ容赦なく攻撃する英国ジャーナリズムの伝統を背負っており、「攻撃することこそが民意の代弁」だと主張しているほど。音楽と同様、映画も大好きな私は、数多くの名画の存在を書物によって知ったクチだが、スキャンダルをもアメリカ民族史などと結びつけて一級の論文に仕立て上げる映画ジャーナリズムのバイタリティに敬服してきた。優れた評伝も多いが、一方の音楽もしかりで、欧米では音楽ジャーナリズムも映画や演劇と同じ地位と歴史を持っており、大学でも専門課程で教えられている。ビートルズの伝記ならマハリシ・ヨギ導師のセクハラ騒動やLSD摂取の話、ビーチ・ボーイズの伝記なら右翼との交流やドラッグ文化、殺人集団との遭遇などの話が、ごくごく普通のエピソードとして登場し、サウンドを語る際には無視できないファクターとして、歴史検証の重要なピースを担っている。なぜ、そういうスタイルで、例えばYMOの伝記なんてものが存在しないんだろう? というのが、昔からの素朴な疑問だった。
 本業の週刊誌で私は、95年に「日本語ロック25年目の功罪」という特集を組んだ。当時、年間ミリオンセラーが20本近く出るほど音楽業界には活気があり、はっぴいえんどから数えて25年目の節目ということで、歌詞や流通などの側面から、音楽雑誌がやらないアプローチで大人のロック特集を組んでみた。売り切り原則だったインディーズ盤を、大手問屋が代わりに買い取り、それをメジャーの商品と同じように委託品としてショップが扱えるようにしたりというような、新しい動きなども生まれていた。「最低注文10枚から」なんていう現金取引が前提だったインディーズ盤でも、地方のレコード店が興味から置きたいと思えば、キャッシュを用意しなくても1枚からお店で扱えるというのは、ロックにとって流通革命だと思った。
 その特集の直接のトリガーとなったのは、やはり当時、週刊誌の話題になっていた桑田長渕論争だ(この詳細は各自で調べてね)。特集でもこれをメインで取り上げ、文化人としても活躍していた著名ミュージシャンS氏に事件を解読してもらった。その時、私は先の疑問をぶつけてみた。「なぜ、音楽評論家の多くが無言を決め、この件を正しく解説してくれないのでしょう」「日本には硬派な音楽ジャーナリズムはないのでしょうか?」と。S氏の回答は明晰だった。アメリカの音楽産業は広大で、生活の糧として街に根を下ろす職業ミュージシャンも多く、シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどはエリアごとの音楽産業を営んでいる。生涯、生地から離れずに一生を全うするミュージシャンだっているのだ。だから、地を隔てての批評が成立する。一方、東京を中心とする日本の音楽シーンの中では、価値観の違うミュージシャンなどを理路整然と批評しても、必ずどこかで相手に出会うこととなり、誤解から感情的な諍いになったり、その発言がまわりまわって本人に創作行為の傷害になるような、事態に発展することだってある。日本の音楽産業の“狭さ”が、ミュージシャン同士の批評精神を奪い、音楽雑誌を御用ジャーナリズムに至らしめているのだと。
 86〜87年の多感な時期に、『TECHII』(音楽之友社)の編集部にいた私は、ちょうど担当者として「ノンスタンダードレーベルの解散」「バンドブームの始まり」などの季節に立ち会っている。その時に遭遇したいくつかの個人的体験から「二度と音楽業界と仕事したくない」と決意して、音楽ジャーナリズムから離れたという過去を持っていた(それで、当時紹介された選択肢の中から、もっとも遠かったアイドル雑誌の世界に向かうのだ)。以降の私は一音楽ファンの立場に過ぎず、だから音楽については、失なうものなど何もなく、言いたいことを言える立場にいた。そこで決意したのは、自分のような門外漢にしか語れない、音楽ジャーナリズムってのもあるんじゃないかということだった。
 また、この本も当初は編集者として私がこれを企画し、ライターは別の「音楽に詳しい人」を迎える計画だった。ところが、相談した多くの書き手に「立場的に微妙なので」「書き上げる自信がない」などの理由で拒絶されてしまうのだ。そこで意を決して、私が書き手の側に回り、編集を別の人に頼むということで、企画を仕切り直しすることになった。この決意表明の後、私は会社に休みを取る旨を伝え(当時は社員ではなく契約扱いだった)、97年の春から取材に取りかかることとなったのだ。
 当時まだ、インターネットは普及の過渡期にあり、私はそれと無縁のアナログな世界にいた。だからこの企画の予備取材が始まった段階で、今ならまずそこから始めるだろう、ネットによるリサーチなどの手段を持っていなかった。よって、本業でよく法律、歴史に関わる調べものをする時に使っていた、国会図書館での調査からスタートさせた。国会図書館は過去に日本で刊行された全単行本から雑誌の全バックナンバーまで、あらゆる閲覧が可能な施設である。また、戦後にリリースされたレコードの8割が所蔵されているレコード室があり、一日あたり、シングルなら8枚まで、アルバムなら4枚まで聞くことができた。誌面に載っているモーグシンセサイザーなどの企画レコードの存在は、国会図書館のレコード室で知るに至ったものばかりだ。この国会図書館での作業が、私に多くの電子音楽の歴史の知識を与え、それはやがてYMOの伝記から、それを中心に据えた電子音楽史の企画へと発展していくきっかけをもたらした。国会図書館での作業に要したのが7ヶ月。インタビュー取材やプロット作りがここでの作業と並行して行われ、実際の執筆作業は暮れの11〜12月の2ヶ月程度ほどで済んだ(週刊誌の編集者は、原稿を書くスピードがウリなのだ)。それほど、国会図書館での調査がもたらしたものは、私にとって大きかったのだ。
 当初、出版社に持ち込んだ企画書のタイトルはズバリ「藪の中」だった(芥川龍之介が書いた『羅生門』の原作より)。これが内容からそぐわなくなり、途中から「モンドYMO」に変わった。登場していただいた多くのミュージシャンに取材許可をいただいた段階でも、書名はこれであったから、いかに登場された方々の懐が広いかがわかるはず。だが、インタビューに登場していただいた一人から改題を求める意見があり、途中から“書名なし”で進行することになった。現在の『電子音楽 in JAPAN』のタイトルは、すべてが書き上がった後に、当時の編集部が付けたもので、私はそれを承認したに過ぎない。
 これが書き上がったのは、97年の12月31日のこと(私は当時『電波少年』の熱心な視聴者で、ドロンズアメリカ縦断のゴールインと同じ日だったために、ドロンズの帰還は他人事とは思えず、その日のことは強い印象として記憶している)。しかし翌年1月、すべてを書き上げて版元に持ち込んだ後、発行元の都合という理由だけで、出版は一度取りやめとなってしまうのだ。立ち上げ時の編集者とは、夏の時点で、大阪万博に関する取材を巡って意見の相違があったために、実際の取材オファーや執筆時の編集実務はすべて私自身が行っていた。問題含みのこの初代担当者は、やがて自身が担当した売れない本の責任を取らされる形で姿を消した。その人物への抗議として出版契約を不履行にし、原稿を引き上げた私は、この本を出してくれる可能性のある版元を手当たり次第に探ったが、なかなか受け入れてくれる会社に巡り会うことはなかった。「こういう出版物ならここでしょ」と読者も思いつくだろう、あのA社やあのB社にも断られた。それを拾ってくれたのが、当時新メンバーで立て直しをはかったばかりの新興出版社アスペクトだったのだ。編集担当者は、今でも同社に籍を置く、私の週刊誌編集者時代の元先輩である。
 その原稿は結局、98年の4月に新しい版元に届けられ、当時人気のあったデザイン会社のサルブルネイがアートワークを手掛け、8月に刊行に至った。その期間、私はすでに本業の仕事に戻っていたため、慌ただしい中での刊行はじっくり感動を味わうような状況ではなかった。しかし、新聞やラジオから思わぬ反響をいただき、神保町の三省堂書店では芸術書のランキングで4位にまで上がる記録を残した。この本を一蹴した、持ち込んだ各出版社への怒りもこれで収まったが、なにより無償でこの本に取材協力していただいた皆様に、無事出版することで恩義を返せたことに安堵できた。
 最初のヴァージョンは、ページ上下段で700ページに至り、定価3000円と高いものだったが、初版の4000部は早々に消化しそうな動きだったため、発売日から2週間後には二刷が決定していた。だが当時、アスペクトはあくまで発売元で、販売元は親会社のアスキー出版局だった。アスキー角川書店の傘下となっている現在、セガ系列のアスペクトとは完全に袂を分かっているが、当時同社はアスキー出版局のサブレーベルのような立場にあった。そのアスキー出版局の意向によって、「この本は売れているので、うちが引き上げますから」ということで、この本は二刷からアスキー出版局に版元が変わっている。この辺の流れには、作者はまったくタッチしていない。
 80年代に新興出版社として登場したアスキーは、ゲームの攻略本などで隆盛を極めた会社だが、この時とった販売戦略が「買い取り」というシステムだった。ゲーム攻略本を出すには独自なスタッフ、ノウハウが必要であり、他社のつけいる隙がなかったため、アスキーのゲーム単行本は当時独占事業化しており、どこの書店も一定の入荷数を確保すべく日参するほどの人気だった。現在の『ハリー・ポッター』の単行本のように、完全な売り手主導で市場を形成しており、「返却不可」の買い取り条件でも十分書店と渡り合っていけたのだ。私も詳しい経緯は知らないのだが、アスペクトという会社はそのころに、アスキーレーベルの中で、日頃は関わりのない大手取次の東販、日販ルートを通す商品を扱うために作られた会社だったと記憶している。よって、『電子音楽 in JAPAN』は二刷から、委託ではなく「買い取り商品」として扱われることとなった。これが不幸の始まりだった。だって、一冊3000円もする売れそうもない本を、買い取りで入れる街の書店がそうそうあるわけじゃないから。書店でも二刷から書棚で見かけることがなくなって、とたんに売れ行きがパッタリと止まった。私は販売強化ができないものかと掛け合ったが思い虚しく、八方ふさがりの中、以前も触れたとおり公式ホームページを立ち上げるに至り、作者自身がPRに務めることとなったのである。
 ふー、説明しても長くなる。拙著にかかわらず、一冊の本が世に出るには、それだけのドラマがあるのである。で、98年版が完全に書店から姿を消したころ、別の出版社から再販の話をいただいたりして、それもかなり現実的な動きに至ったのだが、その話が刺激剤となって、オリジナルの版元でリプロするという結論に落ち着いた。「であればデザインを一新して、CDも付けましょう」「新規原稿も書きますよ」ということで、テキスト・データ量にして1.5倍に膨れあがった現行版が、2001年に無事刊行されることになったのである。この時、私の執筆期間は、本業が多忙だった関係で夏休みの数週間しなかなったのだが、発売時期が数ヶ月ほど後ろにずれ込んだものの(とはいえ、これはデザイナーの作業遅れのため)スケジュールはほぼ予定通り履行された。
 私はこの調査の時に、インターネットというものの最大の恩恵に浴することとなったのだ。ああ、オリジナル執筆時にこれがあったら、どんなに助かったことだろうと……。