POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

時効だからOK? 拙著にまつわるエトセトラ

 98年に立ち上げた公式ホームページには、まだ未見の方に拙著を紹介するダイジェスト記事や、すでにお持ちの方へのファンサーヴィスとして、簡単な補足コンテンツなどを用意していた。しかし、そこでは一切触れなかった話もある。一冊の本が刊行されるまでには、読者も知り得ないドラマが必ずある。例えば、『電子音楽 in JAPAN』の準備中のこと。取材する目的でオファーを予定していた、日本の電子音楽、ミュージックコンクレート作品の第1号を手掛けた、武満徹黛敏郎の両氏が立て続けに亡くなるという、初期段階で最大のアクシデントに見舞われている。それでも本というものは、作り手さえタフであれば出ちゃうのが凄いところ。だから、いちいちネタばらしなどせず、あたかも最初からそれは計画されていたかのように振る舞うのが、エンタテインメントとしてもっともらしいんではないかと思ったりする。
 『電子音楽 in JAPAN』でも大きくページを割いている、私が青年期に体験したテクノポップ・ブームという ムーブメントがある。最先端のテクノロジーを使いこなす知性と、パンクな魂を宿すこのジャンルの音楽は、50年代SFに登場するマッドサイエンティストや、70年代のインテリヤクザに準えることもできそうな、危なっかしい魅力を湛えたクールな存在だった。無論、音楽もカッコよかったが、その態度にこそ、我々世代はシビレたのだ。ところが、YMOや数多くのテクノポップ・グループから、そうした偉大な反逆精神を授かったはずの我らテクノ世代の批評家というのは、意外なほどおセンチな人情家が多かったりする。「私がYMOと出会ったのは、中二の時であった……」という思い出語りで始まる、まるで四畳半フォークの歌詞のような、テクノポップの名盤レビュー記事がけっこう多いこと。それは、多くの読者もお気づきのことだろう。私はネオアコ系の音楽も好きである。青春の未熟な魂をたたき付け、見苦しい自己愛を抱えたままダッチロールし、青臭いリリックで声が裏返りながら心の叫びを歌う、彼らのステージに心打たれることだってある。だけど、「テクノポップでそれってあり?」というのが正直な感想である。あまり批評的に取られても困るが、早くからテクノポップ系雑誌で活躍されていたライターの方々の本などで、決まって「この本が完成するまで、こんなに苦労したんです」とか「私にとってテクノは青春でした」などと、あまりに正直に心情を吐露するものが多いということに、居心地の悪い思いを感じたりしていたのだ。これ、偽らざる気持ちとして。
 だから、私がテクノポップ系のアーティストの記事を書くときには、そういうおセンチな気分を一切排することに務めてきた。ロボットが書いたっていくぐらい、機能的だったりするほうが、らしいじゃんと。『電子音楽 in JAPAN』も『電子音楽 in the (lost)world』も、あっさりしすぎと思うぐらい、前書きも後書きも淡泊である。著者の心情を汲み取りたいのならば、むしろ「行間を読めと突き放すのがテクノポップだ」などと気取ってみたりするのが、正しい処し方だと思っていた。しかし、実を言えば私も人の子で、テクノポップ以外のジャンルで表現をするときには、かなり見事にウェット&メッシーな原稿をものしたりするタイプでもあるのだ……(笑)。
 日々の会社生活の中で、10歳以上年の離れた世代とコミュニケーションを取る時などに、「そこまで説明せにゃならんのか」と、怒りに震える場面というのは案外多い。これは本人というより教育の問題なんだろうが、書いてあるままを額面通りにしか受け取れないというような、不器用なほどまっすぐな世代がいたりするのが哀しき現代社会なのだ。私の本など見せようものなら、あまりに感情吐露があっさりしすぎるゆえに、「もう少し、あなたも苦労しなさいよ」と、きっと諭されたりするのがオチだろう。
 反逆の時代は遠くになりにけり。反対の反対は賛成なのだ。つまり、むしろ「わかりやすいこと」こそが、エンタテインメントとして真っ当なのだという、ここにパラダイムシフトがあるのだ。
 昔から映画が大好きな私だが、最近は人混みや並ぶのが辛いからと劇場に行くが億劫になって、もっぱら新作を半年遅れのDVDで初めて楽しむことが増えてきた。なによりDVDは、本編を見て満足した後に、監督やスタッフの副音声で舞台裏を知ることができるのが、格別の体験なのだ。昔は、メイキング・ムービーに凝るなどというのは浅ましい行為であり、本編だけを割り切って楽しむことこそ身上と、突っ張ってみたりしたものだが、いやはや、副音声で知り得る舞台裏の話というのは、実に面白い。本編の出来はそこそこだが、副音声は面白いなんていうものもあったりするのが始末に負えない。いやそれこそが案外、マルチメディア時代のエンタテインメントの姿だったりするのだろう。「どうしてここまで酷い映画が撮れるのか」と思う映画というのは数々あるが、その理由を副音声で監督がひとつひとつ見事につまびらかにしているDVDがあると聞けば、それはそれで逆に好奇心をかき立て、ちょっと観てみたいと思ったりするし。でしょ、やっぱり。
 して、私は以前のホームページには一切書かなかった、拙著が出るまでのさまざまな背景を、可能な範囲でここで披瀝することにした。悪口をエンタテインメントに昇華できるような、ナンシー関のような才能は私にはない。だがそれでも、同業や後進の者であれば、私の愚かな体験から何か学べることだってあるだろう。