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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『電子音楽 in the (lost)world』(アスペクト)

電子音楽 In The(Lost)World

電子音楽 In The(Lost)World

 本書は、先に刊行された『電子音楽 in JAPAN』の副読本としてリリースされた、電子音楽からテクノポップまで、電子楽器、電子的デヴァイスを駆使した世界のレコード、1600枚を紹介するディスクガイドである。

アスペクトの公式ページ(http://www.aspect.co.jp/np/details.do?goods_id=588

 『電子音楽 in JAPAN』がそこそこセールスできたため、2001年の改訂版刊行直後に、版元から「次は『電子音楽 in the world』を書きましょう」というオファーをもらっていた。実は、『電子音楽 in JAPAN』で取り上げている「日本の電子音楽史」というのは、まとまった資料が存在しない“砂上の楼閣”のようなもので、評論家の秋山邦晴氏の日記の中とか、NHKのエンジニアや音楽部部長の思い出の中にしか存在しないものだった。書いている本人も初期段階から、落ち穂拾いのような些末な個人史から大歴史とのミッシング・リンクを探っていくというような、記録者の恣意的な演出がないと成立しないコンセプトであることを理解していた。だから『スタジオボイス』誌の書評で、デザイナーの宇川直宏氏に「“日本の電子音楽史”を書くというアイデアが独特」と書かれた時は、慧眼だなあと深く感動したものである。
 ドイツの西ドイツ放送局や、アメリカのコロンビア・プリンストン電子音楽センターなど、海外の主要機関には潤沢な資料が存在するし、国家プロジェクトとして大予算の下で歴史検証がなされているフランスのIRCAMのようなケースまである。「世界の電子音楽史」なんてものがあれば、誰よりもいち早く読みたいと思っているのは私自身だ。それなりに資料持ちである自負はあるが、英語もからっきしだし、なにより私が日本人だからこそ、時代の微妙な綾をすくい取って、無謀な企画だった「日本の電子音楽史」に取り組めたのだ。その仕事はおそらく、各国の同胞のジャーナリストによってなされるのが筋だろう。日本人が書く「海外の電子音楽史」など恐れ多く、また取材費などいくらあっても足りはしない。およそ現実的でない理由から、そのオファーを遠ざけていたのだが、一方で2001年の改訂版執筆作業時から、私はインターネットにすっかり魅了されていた。それまでは、海外の無名なミュージシャンの足跡を辿ることなど、ほとんど不可能だった。だが、現在はネットの恩恵で、本人と英文でコンタクトを取ることだってできる。ニュー・ミュージックのライナーノーツを書いた時に資料を提供してくれたJonas Warstadなど、海外のコレクターと知り合う機会も増えて、この関係をなんらかの形で使えないものかと考えていた。そして思いついたアイデアを携えて、再び私から版元にアプローチしたのが、この『電子音楽 in the (lost)world』だった。リクエストをもらっていた『電子音楽 in the world』のタイトルだけ拝借して、これに(lost=失われた)を挿入し、いずれ各国の研究者が出すであろう「世界の電子音楽・正史」の副読本というのはどうかと。レコードガイドならば日本人でも作れるのでは、と持ちかけた現実的なプランである。また、当時流行していたディスクガイド本は、売れないと言われる音楽書籍の中で唯一ヒットの可能性がある分野と言われており、それが直接の執筆動機でもあった。下心見え見えであった。私はエゴの発露としてよりも、社会参加の手段として本を書くタイプのライターなのだ。
 実際、『電子音楽 in JAPAN』で紹介しているレコードのたぐいも、98年版の取材の段階では、ほとんどコレクターである友人の借り物だった。刊行後にラジオ番組などに呼ばれる機会があり、昨日まで素人だった者が偉そうに講釈を垂れたりしてつつも、正史の研究者の方々に申し訳ないなという思いもあった。「それなりの専門家」を自覚するようになったのは刊行後しばらくしてからで、2001年版の執筆段階のころには、大半の資料を自前で用意することができるようになった(初版の印税はそれで消えた)。だが、海外のマニアのコレクションにはとても覚束ない。そこで、JPEGやMP3などの手段を使い、海外のコレクター氏から“電子的手段”によって資料を集めることで、それを一冊にまとめることができるのではないかと考えた。これこそがインターネット時代のディスクガイドの作り方なのだ。多くの世界のコレクター氏の協力によって、この本は完成することができた。原稿を私一人で書いているのは、単にスケジュール履行のためで、クオリティチェックの簡易化というのも、少ない予算でやりくりするための条件だった。
 私は友人である音楽ライターの伊藤英嗣氏や小野島大氏のように、一人でディスクガイドを書き上げるタイプのジャーナリストに、以前から敬意を表していた。『電子音楽 in JAPAN』も、武満徹黛敏郎について書いている同じ人間が、巻末の伊藤つかさのアルバムについて書くということに、在野の人間が書くことの価値があると思っていた。だから、通常のディスクガイドで行われるような「この線引きの向こう側は、そちらの専門ということで、どうかひとつ」というような、テリトリーごとに専門家が譲り合うような作り方に、ダイナミズムを感じられずにいた。わからないならば、勉強すればよいのだ。エリートクラブごっこというのも性分に合わなかったし。映画評論家の双葉十三郎のように横断的に対象を捉えることで、一つ一つのジャンルムービーへの評価がより鮮明になる場合だってある。そう自身に言い聞かせて、たった一人で書くということをルールと課して、この本は作られた。
 だが、ここには捻れがある。普通、長編のストーリーより些末なディスクガイドのほうがずっと書きやすいと、読者の方々は思われるだろう。実際、『電子音楽 in JAPAN』を購入していただいた読者にも、「ディスクガイドいらね」と言われたこともある。しかし、『電子音楽 in the (lost)world』の執筆作業は、『電子音楽 in JAPAN』よりずっと過酷であった。ストーリーのある記事というのは、本人がペースをつかめばいくらだって作業が続けられるもの。一方の資料本は、作業自体が極めてミニマルなため、黙々と升目を埋めていくようなもので、自分を見失うことの多い無限地獄のような作業であった。まあ、だからこそ気楽に他人が踏み込めないだろうと、自身がこれに取り組むことの正当性を唱えながら、ノルマの作業を終えることができたわけだが。なんと、天の邪鬼なことだろう!
 あと、一部の販売店限定だったが、ヤン富田氏のCDとDVDが付録として挿入されることとなった。本書はディスクガイドと銘打ってはいるが、実際に通常のディスクガイドのように“入手しやすさ”を根拠にディスク選定が行われたわけではない。むしろ、二度と復刻されないような失われたレコード文化のドキュメントとして、その陰の部分をきちんと取り上げることに主眼を置いたものだ。だから、実用性を期待して本書を手に取られた読者には、申し訳ない思いもあった。また、サバービア・スウィート(橋本徹氏もまた、信頼する友人の一人)など、過去に歴史に埋没した無名のレコードを、未来に聞かれるべき音楽として蘇生させる意義深いディスクガイドもある。だが拙著では、ジャン・ジャック・ペリーの仏時代のレアなライブラリーも、3枚1000円のエサ箱でくすぶっている喜多郎ニューエイジも、おならのレコードもあえて等価に扱っている。刊行後、あまりに恣意的じゃない作りに呆れる方もいたようだが、ピチカート・ファイヴ小西康陽氏のように、「標本化」することに価値があると讃えてくれた方もいた。ありがたき幸せ。しかし、私のみがMP3で聴けて満足してるのでは買ってくれた方に申し訳ない。そこで、こうした電子音楽作品群に横たわる、ファニーでシリアスでパンクな気分を、紹介しているディスクに変わる形で読者に疑似体験してもらうための、最良の方法として、尊敬するヤン富田氏の作品を収録することを思いついた。私の著者名の入った単行本に「作品を提供してください」などと頼むというのも、相当無謀な行為だと思ったが、ヤン富田氏は懐が深かった。結果、大盤振る舞いでCDとDVDの両方が限定付録として付くことになった。作業後半のころ、ほとんど毎日めげていた私にとって、ヤンさんが手をさしのべてくれたことが、どんなに励みになったことか。ヤンさん、ありがとう。
 結局、その付録は、「流通上の問題」で、レコード店経由で入手できるものだけに付くこととなった。一部のネット書店などにフライング記事が載ったために、発売時に一般書店で購入し「付録が付いてない」と読者を困惑させたり、購入を踏みとどまらせた人もいたというから事態は深刻である。版元のウェブで「付録が付いているショップ一覧」を掲示してはというアイデアをいただいたこともあったが、これは「大人の事情」でできないのは社会人の方ならおわかりだろう。ヤン富田氏の付録という、最大のキラーコンテンツを手に入れながら、それを一切アナウンスできないことの虚しさといったら……。一冊の単行本が世に出るには、本当にシュールなドラマがついてまわるものなのだ。
 オールカラー本であるため、出せば赤字という本だが、当初の予定を覆して、これをオールカラー本に仕切り直してくれた版元には敬意を表する。