POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

板倉文(チャクラ、キリング・タイム)録り下ろしインタビュー


 拙者と同郷で、もっとも敬愛するミュージシャンの一人、板倉文氏のインタビューは、拙著の公式ホームページ用の独立した読み物として98年に取材されたもの。本来なら、P-modelヒカシュープラスチックスに続く“第二次テクノポップ・ブーム"の当事者として、あるいは神谷重徳氏の関連事項として、2001年の改訂版『電子音楽 in JAPAN』に採録することも考えたが、電子音楽との関わりとして構成するのが難しく、掲載は見送った。が、当時から現在まで、板倉文氏の雑誌媒体でのクロニクルなインタビューはほとんど存在しない。初掲載時には入手困難だった一連の仕事がAMJより一気に再発されて聴きやすくなったこともあり、彼の作品群をぜひ耳にしていただきたいという思いから、今回、当ブログに記事を再録することにした。チャクラ〜キリング・タイムという、日本のオリタナティヴ・ロックの変遷を歩いてきたキー・パーソンであり、市川準映画の劇音楽作家として、邦画ファンにも愛されている存在。その知られざる板倉文氏の軌跡を、時系列に辿ったインタビューとして面白く読んでいただけると思う。



板倉文の青年時代

ーー本名は、作家名の板倉文明ですよね。
板倉 はい。
ーーチャクラでデビューするまでの、少年時代のことについてまずうかがいたいんですが。出身は島根県松江市ですよね。
板倉 中学3年のころからギターを始めて、中学生だったんだけど、地元の高校生といっしょにバンドをやってたんです。そこではベースをやってたんですけど。
ーーのちにゴンチチのアルバムでベースを弾いてますけど、もともとベーシストでもあったんですね。
板倉 ええ。当時、プログレが流行っていて、ウィシュボーン・アッシュとかピンク・フロイドの『エコーズ』とかのコピー・バンドですね。最初はトリオ編成だったのが後にツイン・リードになって。でも、僕は中学生のころからオリジナルをやるほうが好きだったんで、高校生のバンドとは別に、オリジナルのバンドをやろうとしてたんですよ。でも、田舎だから表現しきれないというか、自分自身もまだギター下手だったし。それで、高校2、3年のころにジャズを勉強しようと思って、松江市内にキャバレーがあったんですけど、そこの店のハコバンでベースをやってたんです。お客さんがリクエストしない限りはジャズができるというんで、見つかったら退学になっちゃうんですけど、12時ぐらいまで。見よう見まねで、まあジャズの雰囲気ですよね。曲はモードの曲なんかもやってましたよ。変わったところでは、アルバート・アイラーとか。
ーー前衛ジャズですね。
板倉 バンマスがもともとこっち(東京)でやってた人だから。ピアノの人も島根大学の特音(特別音楽学科)の人っていう、テクニックのある人ばっかりだったんで、刺激になりましたね。まるっきし理論的なことはわかってないんで、なんとなく譜面を追って、いわゆる4ビートって感じで、ちょっとは雰囲気になじんではきたんです。実は、山本恭司(BOWWOW)が中学んときの先輩なんです。高校は別だったけど、高校時代から彼はもう上手かった。あの人が合歓の郷音楽院っていう、ヤマハのところに行ってたんで、僕もいってみようかなって受けて、高校卒業して上京してからはそこに入ったんですよ。そこでは、カシオペアの向谷(実)さんなんかが同級でしたね。そこに行くようになって知り合ったベーシストというのがいて、友貞(一正)くんなんですけど。彼と仲良くなって、いっしょにバンドをやろうということになったんです。
ーーそれが最初のバンド、地球防衛軍ですか?
板倉 そうですね。でもまだ名前はなくて、適当につけてやってたんですけど。ヴォーカリストの人が別にいて、その人は後にデビューしてテレビにも出るようになったって人なんですけどね。その初代ヴォーカルの人とは何回かライヴもやりましたね。それで、入選作が自主制作のマイ・レコードになるっていう西武主催のコンテストがあって、地球防衛軍って名前で出たんです。そのときいっしょにステージに出てたグループには、角松敏生さんとかがいましたね。
ーー当時はどんな曲をやってたんですか?
板倉 合歓の郷に行ってたとき、僕や友貞くん以外はみなスタジオ・ミュージシャン指向っていうか、フュージョンみたいなものに傾倒してたんです。僕らはミルトン・ナシメントとか、エバーハルト・ウェーヴァー(キリング・タイムのジャケットの絵を書いている、マヤ・ウェーヴァーの旦那さん)とか、ECM系の音楽が好きだったんです。それで、オリエンタルな感じっていうか、アメリカナイズされたものとは違うものをやりたいって考えてて。
ーー結果として後のチャクラは、オリエンタルなニュー・ウェーヴとしてデビューしますが、まずオリエンタル指向というのが先にあったんですね。
板倉 そうですね。ミルトンなんかのペンタトニック(民族音楽特有の音階)も、日本のペンタトニックもなんか共通してクるっていうか、魂にクるって感じがしたんですよ。あと、友貞くんといっしょにヨーガとか精神世界にわりとハマっていって、でまあ、チャクラなんていうバンド名にしたんですけどね。
ーーずっと、「イタクラ→チャクラ」なんだと思ってました。
板倉 とんでもない(笑)。あとは、細野(晴臣)さんの『はらいそ』とか『泰安洋行』なんかの存在があったんじゃないかな。
ーーそこにオーディションで小川美潮さんが入ってくると。一説によると、同じオーディションのとき、後にソロ歌手でデビューする池田典代さんなんかもいたそうですね。
板倉 ノンちゃんのことですね。美潮と同じときにどっちにしようかって迷って、結局美潮にしたんですけどね。オーディションっていうのは何回もやってたんですよ。



■チャクラ、ナベプロからデビュー

ーーその後、チャクラが渡辺プロダクションに所属するというのは、どういう経緯からだったんですか?
板倉 僕らがヤマハイースト・ウエストってのに出たとき、渋谷の道玄坂ヤマハPAを当時やっていたカンさんって人がいまして、その人が気に入ってくれて、アマチュアのときマネジャーをやってもらってたんです。当時は週一ぐらいでヤマハで演奏してたんですけど、そのうちその人が渡辺音楽出版に入ったんです。そのとき僕らもいっしょに入ることになって。で、そこにいた藤井さんって人が、僕らのことを気に入ってくれて。
ーー後にエピック・ソニーで、キリング・タイムや小川美潮の宣伝担当をする藤井和貴さんですね。
板倉 ええ。それで、僕らは出版から入っていって、プロダクションといえば系列のナベプロだろうということで。
ーーナベプロでバンド形態って、当時は珍しかったんですか?
板倉 いや、ノンストップっていうセクションがあったんです。太田裕美ちゃんとか山下久美子ちゃんとか、あとクラウディ・スカイってバンドがいたりしたから。
ーークラウディ・スカイは、大沢誉志幸さんのいたバンドですよね。
板倉 ナベプロでは、僕らのことをわかってくれる人というのが難しくてね。いろんな人に面倒を見てもらって、みんないい人で一生懸命やってもらったんですけど、思うようには売れなかったんですけどね。
ーーチャクラの音が新しいカテゴリーのものだったので、社内コンセンサスを得るのが難しかったわけですね。
板倉 僕らにしても「これはどういう音楽だ?」って言われたら答えられないし。デビュー曲の「福の種」って曲はわかりやすかったんですけど、あれは僕らの中では特異な曲だったんでね。友貞くんの世界なんですけどね。
ーーそこからデビュー・アルバム『チャクラ』への経緯なんですが。
板倉 アマチュアの最後のころには、バンドは7人に膨れあがってたんですが、デビューするときはもうナベプロにいて、メンバー7人もいらないってことで5人になったんです。というか、されちゃったという感じなんですけどね。それで、当時矢野誠さん(プロデューサー)という人がいて、ムーンライダーズの『MOONRIDERS』なんかを聴いてて「いいなあ」って思ってたんでプロデュース頼んで、それで1枚目は矢野さんとやるんです。YMOよりも先に、ああいうことをやってた人ですね。あの時代は、「レコード文化あるところには必ずテクノあり」というような感じだったんで、それは矢野さんの影響なんですね。
ーーテクノポップというのは、矢野さんの主導なんですね。
板倉 友貞くんは、後に民謡やったり禅寺に篭もったり、そっちの世界に走っちゃう人だったんです。結局、商業ベースに乗ったり、こういう(『チャクラ』のジャケットみたいな)ユニフォームを着てやることに抵抗があったんで、辞めてしまったんですけどね。キーボードの勝俣(伸吾)くんも精神的にナイーヴな人だったんですね。それでドラムの(横澤)龍太郎と美潮と僕が残って、ダイちゃん(近藤達朗/キーボード)とどんべい(永田純/ベース)が入って、『さてこそ』のラインナップになるんですけどね。
ーー近藤さんやどんべいさんとのつながりというのは?
板倉 僕らがもともとアマチュアだったころから、ダイちゃんはプロでやっていて、友貞くんの友達だったんですよ。で、どんべいはダイちゃんの学校の後輩だったんです。
ーーどんべいさんは前年まで、YMOの世界ツアーのチーフ・ローディをやってんたんですよね。
板倉 彼ももともと、ウィーピング・ハープ妹尾っていうバンドのベースをやったりしてたんですよ。ダイちゃんのほうは(金子マリ&)バックス・バニーだとか有山淳司さんがやっていたGAS(ガス)とか、高校生のときからああいう人たちとやってたわけで。僕らも下北ロフトを拠点にライヴをやってたんですけど、ダイちゃんもよく遊びに来てくれて、いっしょに飛び入りセッションしたりして仲良かったので、ぜひいっしょにやろうよって。
ーー『さてこそ』から、細野さんがプロデュース(注/レコードではチャーハン細野名義で、制作協力のクレジット)、ジャケットが奥村さん、プログラミングが前作の神谷重徳さんから松武秀樹さんに交替するという、YMOチームがチャクラに合流してきますよね。これはどういう順番だったんでしょうか?
板倉 細野さんが最初ですね。デビューする前から細野さんとやりたいって気持ちはずっとあって。細野さんに電話したら「いいよ」ってことで、とりあえずテープを聴いてもらったんです。それで、たぶん「いとほに」をいちばん気に入ってもらったみたいで。あれは日本の「はにほへと」っていう邦楽音階の音名のヴォーカリゼーションなんですけど。ようするにフィリップ・グラスなんかと同じヴォーカリゼーションなんですね。それで、細野さんが当時、「歌詞やメロディーが邪魔だ」って言ってたときで。
ーーYMOの『BGM』のころですからね。
板倉 「はにほへと」というのが、なんとも摩訶不思議な感じで。それと(R&Rみたいに)繰り返さないってところをすごく気に入ってくれて。
ーー細野さんの当時のインタビューを読むと、『さてこそ』については、プロデュースではなくミックスをやった、と言ってますよね。
板倉 プロデュースという名称ができなかったのかな。たぶん、レコード会社的な問題ですね、それは。
ーー細野さんはレコーディングの最初の段階からいたわけですね。
板倉 ええ。あのとき、「次は細野さんとやりたいんですけど」って一応、矢野さんに電話したら、「失礼だ」って怒られて。「そんなこといちいち言わんでもいい」って。言ったほうがいいと思ったんですけどね(笑)。
ーー細野さんとの共同作業というのは、どうでしたか?
板倉 『さてこそ』は、僕らの好きなようにやらせて、細野さんは何も。矢野さんのときは、あんまりスコアなんかにはあれこれ言わないんですけれども、「こういうタイプの曲が欲しいな」とか、バンドとしてソフィスティケイトさせるために、いろんな宿題を出されたんです。こういうものについてどういうふうに思うかとか、言葉でミーティングしていって。要するにプロデューサーの人に僕らの音楽をまとめてもらうって感じだったんですよ。矢野さんのときは、リハーサルもわりと長かったのかな。
 「You need me」という曲は、僕と細野さんでほとんど作った曲なんです。この1曲だけ、どういうふうにアレンジしていいかまったくわからなくて、迷ってるんですって細野さんに相談したんです。そしたら「わかった」って、力を貸してくれて。細野さんのメモしたものをもとに、まずリズムを作っていって。そういう細野さんの組み立て方にずいぶん影響を受けましたね。でも、あとは「どうぞ、やってみれば」っていう感じでした。
ーー文さんのインタビューの、今まで影響を受けたミュージシャンの話の中で、日本人の方の名前って、細野さんぐらいですよね。出会いはいつごろから?
板倉 はっぴいえんどからですね。細野さんっていうと、神秘体験の話は聞いたことありますか? 昔、おウチに遊びにいったことが何回かあるんです。わりと僕も、神秘体験っていうかどうかわからないけど、子供のころに「何だろうあれは?」っていうようなものにちょっと触れたことがあって。あの方は、自分の神様と個人的に付き合ってるってところが、非常に僕はいいやり方だなって。力を借りて、自分を非常にいいところに持っていく。上手いストレスの使い方というか。スタジオに何も書かないで行ったり、それは本当にストレスの上手い使い方だと思いますね。僕なんかも同じようなことをやって、そんときは結局エライ目に会いましたからね(笑)。
ーー音楽面と精神面の、両方の部分で影響を受けてるわけですね。
板倉 ええ。細野さんのことは、いつも気掛かりですね。
ーー『さてこそ』は、ほとんど文さんが詞を書いてますよね。はにわちゃん以降、美潮さんの作詞家としてのイメージが強いんですけど、『さてこそ』のときはあの感じを、ほとんど文さんが書いていたという意外な発見があって。美潮さんが大半の詞を書くのは、サ−ド・アルバムの『南洋でヨイショ』になってからなんですよね。
板倉 なるほど。
ーー『さてこそ』はセクシャルな詞が多いですよね。「ちょっと痛いけどステキ」とか「You need me」とか。他のニュー・ウェーヴのグループが近未来とかそういう意匠のコンセプトの描写が多かったのに対して、チャクラはむしろ感情にうったえるものというか、ある種ニューミュージック的な部分もあって。
板倉 もともと頭の中にはテクノっていうのはなかったんですね。
ーー方法論でしかない?
板倉 そう。今でこそ面白いとは思いますけど、歌詞の世界まではね、本位じゃないっていうか。あとね、あんまり僕、詞を自分で書くのは得意じゃないって思ってたんです。こっぱずかしい。
ーー心の内面を吐露するようなところがありますからね。
板倉 こっぱずかしい詞を書いちゃうんで、それで以降は辞めちゃったんですね。
ーー「おちょーし者の行進曲」の作詞の、海老寿いわしさんって誰なんですか?
板倉 僕が高校ぐらいまでよく行ってたブルース喫茶のマスターなんです。純文学作家を目指していた人で、こちらのほうに上京して、小説家活動をしてたんです。かなり精神的に影響を受けた、僕のグルみたいな人なんですけどね。いろいろな詞が他にもあって、今読んでもいいと思うものがたくさんありますけどね。
ーーあと、『さてこそ』には謝辞で大成建設のクレジットがあって。「III」の冒頭に、YMOの『テクノデリック』みたいな「ガシャン、ガシャン……」って工場のノイズが入ってますが、あれはYMOとどっちが先だったんでしょう?
板倉 入ってましたね、『テクノデリック』にも。こちらが先だったと思います。
ーーあれは松武さんのサンプラー、LMD-649を使っていた?
板倉 いや、テープ・ループです。大成建設の新宿の高層ビルの中の工事現場に、音を録らせてもらいに行ったんです。それでループを作って。
ーーそこにアカペラを乗せたと。当時、インダストリアル・ミュージックという言葉がありましたよね。この1曲だけそういうアプローチをしてますが、こういう現実音を使う発 想というのはどこから?
板倉 確かに、インダストリアル・ミュージックというのは聴いてましたね。
ーースロッピング・グリッスルとか、キャバレー・ボルテールとか。
板倉 ええ、それの影響なのかな。他にもあるんです。「Free」って曲でもループを使ってる。当時はまだサンプラーってものがなかったんで、テープ・ループはずいぶん使ってましたね。
ーーさきほどフィリップ・グラスの話がありましたが、例えばテリー・ライリーなんかがやっていたテープ・ミュージックの手法のほうが、むしろインダストリアル・ミュージックより身近なものとしてあったということ?
板倉 例えばスティーヴ・ライヒの「イッツ・ゴナ・レイン」とか聴いても、いいなとは思わなかったですけどね。実は小学校のころから、オープン・リールでとにかくテープ・ループを作ったりして遊んではいたんですよ。単純に繰り返すという。
ーーあの、ずっと聴いてると紋様を描くような世界というか。
板倉 従来のシステマティック・ミュージックのように、切り替わって発展していくものじゃないと。とくに「III」という曲のコンセプトは、第三世界のことなんですけどね。
ーー当時、アフリカや東南アジアの音楽とかを「第三世界」と呼んでましたけど、ああいうプリミティヴなミニマル指向があったということ?
板倉 うーん。当時はいろいろそういうことを考えていて、もうずいぶん忘れちゃったんですけどね(笑)。
ーー81年というと、ずいぶん当時としては新しいアプローチをやっていたんですね。
板倉 『テクノデリック』を聴いたとき、ああ教授もやってるなって思いましたけどね。まあ、僕らがいちばん最初にやったわけじゃないと思いますから。
ーーそういうミニマルな曲もあれば、近藤達朗さんの「微笑む」のようなプログレ的な展開をする曲もある。他のグループより、チャクラはそういう指向性が混在してるんですよね。あるときは芸能色が強かったり、すごくプログレッシヴだったり。
板倉 とにかく、すごく欲張りだったんだと思いますよ。



■チャクラ、小川美潮との二人組ユニットになる

ーーさて、82年6月6日に渋谷のテイクオフ7で、「チャクラ・ユニット化宣言」をされますよね、メンバー5人の最後の日に。
板倉 ええ。『さてこそ』が終わったとき、僕と美潮以外は、好きなミュージシャンをその都度集めてやりたいって言ったんです。そのとき美潮はもうWha-ha-haをやってたし、僕もポンタさん(村上秀一)や仙波(清彦)さんとやりたいからって、ダイちゃんとどんべいに言って。で、今度は僕らでプロデュースまでやりたいんだと。
ーー『チャクラ』が出た直後ぐらいに、別のレコード会社からデビューしたWha-ha-haに美潮さんが加入しますよね。バンドのヴォーカルが、デビューしたばかりのころに別のことを始めるのって、すごく珍しいケースだと思うんです。Wha-ha-haって、文さんから見るとどんな存在だったんでしょうか。
板倉 メンバーは大人の人たちですから、そういう人たちと美潮が接してくれることで、逆に僕のことなんかも知ってくれるきっかけになりましたから。神谷さん家と僕ん家が近かったっていうのもあるんですけど。美潮はあれでより開き直った感じっていうのかな。坂田(明)さんの影響でね。非常によかったと思いますよ。
ーーあのWha-ha-haからのチャクラへのフィードバックって、あったと思いますか。
板倉 そうですね。ありますね。
ーーユニット化というのは、すごくテクニックのある人が参加することによって、ある種表現が突き抜けるということ?
板倉 そうだなあ。まあ、『さてこそ』がある程度作れたなっていう感じがあって、これから先ってことを考えてたんです。ダイちゃんなんかは毒もあって、それが表裏一体って感じで。僕はどっちかっていったら、雨だとか風だとか、そんな感じの音楽をやりたくて、そういうところで意見が食い違ってきて。僕は『南洋でヨイショ』を作る前に、キリング・タイムのことをもう考えてたから。
ーーチャクラのライブで試験的にやっていた、前身の“チャクラ・アコースティック・ユニット”のことですね。
板倉 ええ。とにかくドラムとベースっていうリズムの要をとっぱずして、そういうリズムの組み立て方の音楽をやってみたいなって。
ーーふむ。キリング・タイムがドラムレス&ベースレスで誕生したのは、もともとロックのリズム隊を外すという考え方がおおもとにあったんですね。
板倉 当時は弦の一本一本が独立しているエレクトリック楽器を使ってたんですけど、それでアルペジオとかスリー・フィンガーを弾いたときに、一本一本の定位を変えて聴くとミニマル・ミュージックみたいに聞こえるわけですよ。それで、僕はガット・ギターを弾くのがもともと好きだったんですね。あとはマリンバ、タブラっていう、どれも音階があってリズミックな楽器でやりたいなと。スティーヴ・ライヒなんかがすごく好きだったんですけど、それよりもうちょっと即興性のある、ミニマルっぽい音。要するに雨だとか風だとか、そういう音楽をやりたいんだと。チャクラの最後のコンサートのときに「山」って曲をやったのもそれなんです。
ーー青山タワーホールですね。4曲だけ、アルバムに入っていない曲をやってますよね、メンバーはほぼ後のキリング・タイムの編成で。
板倉 でも、キリング・タイムは結局、そこからもうちょっと毒のほうに行っちゃったんですけどね(笑)。
ーー人を食ったような、突拍子もないバンドでしたもんね。
板倉 そこはまあ、清水一登氏の影響が大きかったですから(笑)。
ーー青山タワーホールのとき、バックの構成はほぼキリング・タイムでしたけど、ドラマーがまだ矢壁カメオさんなんですよね、PINKの。
板倉 カラード・ミュージックの橋本一子さんのソロのライヴを手伝ったとき、人種熱(ex.ビブラトーンズ)のキーボードのAQ(石井明)と知り合ったんです。最初ドラムは、 アルバムを手伝ってくれた古田たかしくんに頼もうとしてたんですけど、彼が当時、原田真二とクライシスや佐野元春のバックで忙しくてできないってことで、「誰かいいドラマーいないかなあ」って相談したら、(人種熱にいた)彼を紹介してくれたんです。それで、仙波さんと矢壁さんにやってもらって。
ーーPINKというと、同県人でもある福岡ユタカさんとのつながりもありますよね。『別天地』の「EBRIO」で福岡さんが参加していたり、福岡さんのソロ『YEN』で文さんがギターを弾いていたりという。あれは、松江時代からの知り合いなんですか?
板倉 いや、カメちゃんを通じて知り合ったんです。それに、PINKは当時ノンストップにいて、ディクレターも僕らと同じ福岡知彦(渡辺音楽出版/当時のチャクラのディレクター。後にエピックに移籍し、キリング・タイムのプロデュース。現在はRobin discsプロデューサー)さんだったんです。岡野(ハジメ)さんとかホッピー(神山)さんとか、PINKの人たちは当時裕美ちゃんのバックをやっていたので仲良かったですね。
ーー話を戻しますが、『さてこそ』から『南洋でヨイショ』に向かう過程っていうのは、つまり、毒ではない方向に向かおうというのがあった?
板倉 そうですね。
ーーそれで、陽気な“南洋”というトロピカル指向になったと。
板倉 どうだったんだろう。あんまりこのときはコンセプトはなかったな。
ーーこれがミニ・アルバムになったのは?
板倉 いや、曲はこれぐらいでいいんじゃないかなっていう。
ーー『南洋』のシンセサイザーっていうのは、これは文さんですか。
板倉 いや、ほとんど久米(大作)さん。はにわオールスターズ(82年8月に板倉、美潮が加入した、仙波清彦の大編成バンド)で知り合ったんです。
ーー2人組のユニットのチャクラ、プレ・キリング・タイム活動開始と、ほぼ同時期なんですよね、はにわオールスターズに加入したのは。
板倉 それと、カラード・ミュージックなんかもステージではお手伝いしてました。Wha-ha-haを中心に、人間関係が広がっていったんですね。
ーーそういえばこの時期、チャクラは事務所がオレンジ・パラドックスになって、レコード会社がバップに変わりますよね。
板倉 チャクラがナベプロを辞めちゃったんです。オレンジ・パラドックスというのは、もともと細野さんのマネジャーやってた方(伊藤洋一)の会社なんですけど、美潮だけそちらと契約して、僕は渡辺音楽出版の預かりみたいなかたちになって。それで、レコード会社もバップに移るんです。
ーーその流れで、バップから美潮さんのソロが出たりするわけですね。それと『南洋』には、逆瀬川健二さんが参加してますよね、タブラ奏者の。
板倉 もともとキリング・タイムには逆瀬川さんも参加してたんですよね。
ーー昔ヒカシューにいた人ですよね。伝統的な日本のインド音楽の実践者ですよね。
板倉 OM(オム)っていうオレゴンラルフ・タウナーがいたアメリカのグループ)みたいな、タブラとかガット・ギターとかの編成のアコースティックなジャズ・バンドがあったんですが、そこに星川(京児)さんってシタールやインディアン・ハープをやってる人がいて、逆瀬川さんはその人の紹介なんです。高田馬場にアフリカ料理のお店があって、そこによく僕は行ってたんですけど、当時はヒカシューの事務所が近くて、僕もヒカシューなんかも何度か手伝ったことありますよ。
ーー巻上公一『民族の祭典』で、「板倉文=イナナキ・ギター」ってクレジットされてますね。実はこれ、原マスミの『夢の4倍』にも出てきますけど、この音の正体は何なんでしょうか? 僕はエイドリアン・ブリューの影響なのかなと思ったんです。動物の鳴き声みたいな音で。
板倉 あれはブギーとマーシャルのアンプのヴォリュームをフルに入れるんですよ。それに僕はオクターバーって、いわゆる発振器を通して、1オクターブ上のを混ぜてね。オクターバーは単音の発振器だから、和音で鳴らしたときに音がトブんですよ。それをフル・ヴォリュームにしてやると、そういう感じになるのかな。僕はとにかく、変わった音がどうにかして鳴らないかなって思ってて。たまたまショートして電圧がぐっと下がったときのディストーションの音だとか、昔のファズだとか、そういうのを使ってたんで。そういう、ちょっと壊して使うっていうのかな。
ーーその「壊す」っていうのは、パンク/ニュー・ウェーヴの壊すじゃなくて、前衛ジャズのテンションのような考え方なんでしょうか?
板倉 ヒカシューのときもそうだし、「わたしと百貨店」もそうですけど、ギターの6弦を全部同じ弦で同じ音程にしておいて、それをバーでキュッキュッってやったりとか。ちょっと違うことをやんないと、下手だから(笑)。 
ーー『南洋』は一部、下田逸郎さんと赤城忠治さん(フィルムス)が作詞をしてますよね。
板倉 忠治は、ちょうどフィルムスとデビューのころがいっしょだったんです。友達から紹介されて、一曲書いてきてよって書いてもらった。下田さんは、ディレクターの福岡知彦さんの趣味です。
ーー「私と百貨店」の冒頭に出てくる、アラビア語のようなインドネシア語のような歌詞というのは、どなたが?
板倉 これは確か松原さんっていったっけな。清水一登さんの知り合いの神秘主義っぽい人で。渋谷にあったビデオ・ラムダっていう、大きなスクリーンに映像を映せるところがあって、そこでもう初期のキリング・タイムが月一でライヴをやってたんです。そのときにいろんなスライドを提供してくれた人で、なにか有り難いお言葉をお願いしますって。
ーー意味は?
板倉 よくわかんないんです(笑)。
ーーあとで美潮さんがインドネシア語を勉強して、本多俊之ラジオクラブで詞を書いたりするので、てっきり美潮さんかと思ってました。
板倉 あれは何語かもわかんないんですよ。
ーーさて、当時すでにキリング・タイムを始動させていて、『南洋』にもメンバーが参加したりしていますよね。
板倉 キリング・タイムはすでに並行してやっていて、『南洋』のときはチャクラのライヴでも、最初の3人(板倉+清水一登、Ma*To)はいっしょにやってたんですね。
ーー清水一登さんは、当時まだドイツ銀行にお勤めだったんですよね。
板倉 ええ。2枚目のころ、PAをやってくれていた森村ヒロシって人がいて、お兄さんが 森村ケンっていう、わりとサルサとかで有名な人だったんですけど。そのエンジニアの人の友人だったんです。彼が新月っていうプログレ・バンドのエンジニアもやっていて、で、新月のキーボードを清水さんがやっていて。
ーーとはいえ、清水さんはまだアマチュアのころですよね。そういう人がいきなり文さんといっしょにバンドを組むというのはまた、どうして?
板倉 彼のプライベートの自宅録音のテープを聴かせてもらったときに、これはもったいない、これは世に出さなきゃいけないって思ったんです。まあ、それをチャクラでやるというのは、彼のごく一部でしかないんですけどね。彼はフリー・ジャズとかそういうかたちではライヴはやってたんですね。亡くなられた高柳(昌行)さんとかと。レコーディングすることは好きというか、楽しいんじゃないかと思って、チャクラのことイヤじゃないみたいだから、それで手伝ってもらってたんですね。
ーー実は、さっき出た渋谷テイクオフ7のとき、後にキリング・タイムのナンバーになる「SONG FOR FOOD」を日本語でやってるんですよね。美潮さんのヴォーカルで。あれをやったあと『南洋』が出たので、『南洋』に「SONG FOR FOOD」が入っていてもおかしくはないなって。
板倉 それほどまあポップな曲じゃないから、というか。あれはアフリカ音楽をよく聴いていて、コラの感じが欲しいなってイメージしてやってただけなんです。
ーーのちにハム・ザ・エルディンの歌で、本格的ヴァージョンとして世に出るわけですね。
板倉 テイクオフ7は、あれはあれでね。食べ物の歌っていうのは面白いかなと。ただ、『南洋』にあれを入れてもどうかなってことでね。
ーー実は、テイクオフ7では、「SONG FOR FOOD」を含む組曲というのもやってて。最後の青山タワーホールのときも、清水一登さんのザッパみたいな新曲を下ろしてる。そのへんの音は、まったくレコード化されてなくって。
板倉 清水さんの曲は、あれはどっかでレコード化されてるんじゃないかな。あとのは申し訳ないと思ってるんだけど。実はカラード・ミュージックが新宿ピットインでライヴをやったとき、前座でチャクラをやったんですけど、そのときやってた曲が面白いんですよ。もっと実験的なもので、『ノー・ニューヨーク』とか、ああいうものを聴いていた影響があって。ロック・フォーマットじゃないものっていうか。
ーーいわゆるパンク・ジャズみたいなもの?
板倉 タイミングの取り方とかもインテンポじゃなかたり。現代音楽もちょっと聞きかじってたりして、まだフレッド・フリスがいたころのマテリアルとか、ああいうスタイルに影響されてた時期だったのかな。
ーーチャクラにおいて、それを実践してたと。
板倉 ええ。いつもの曲じゃなくて、あのときはそういう感じでやってましたね。
ーー『南洋』にも少しだけ、ビル・ラズウェルを経過した感じはしますね。アクセントの位置の奇妙さというか、マテリアルの『メモリー・サーヴス』とかの絞まった音というか。
板倉 タイムの取り方とかね。
ーーやっぱり日本のニュー・ウェーヴ史の中では特異でしたね、チャクラは。後に美潮さんがフランク・ザッパソニー盤のライナーノーツを書いたりして、なんとなく見えてくるんですけどね。



太田裕美ほか、歌謡曲への曲提供

ーーチャクラのユニット化宣言をした82年ごろから『南洋でヨイショ』までの一年のブランクの時期から、他アーティストへの楽曲提供やプロデュースが増えていきますよね。例えば、歌謡曲の仕事をたくさんやってらっしゃいますけど、あれは渡辺音楽出版の縁なんですか? それとも、歌謡曲というものに思い入れがあってのことなのかと。
板倉 そうですね。太田裕美ちゃんはすごく好きだったですね。そんときの作詞をやってた銀色夏生(山元みき子)もすごい好きだったし。裕美ちゃんがニューヨークからこっちに帰ってきて、『Far East』に2曲提供するんです。後にディレクターは福岡さんになるんですけど、もともと裕美ちゃんは、ソニーのディレクターの白川(隆三)さんがやってたんです。白川さんのことが好きで、いっしょに仕事をしたいなって。先日出たボックス『太田裕美の軌跡』に、「葉桜のハイウェイ」の別のヴァージョンと、未発表だった「ステーションtoステーション」というのが、初めて入ったんですけどね。実はアレンジをね。今、聴いたら全然いいんですけど、当時僕このアレンジいやだって言って、そういうことでごたごたしちゃって、シングルAB面で出そうとしてたんだけど、オクラ入りしちゃったんですよ。
ーー太田裕美さんや山下久美子さんの仕事だと、文さんの曲は大村雅朗さんがアレンジしているものが多いですね。文さんも自分でアレンジされますけど、コンポーザーとしての依頼と、アレンジ込みの依頼というのは、ディレクターの判断で?
板倉 最初は曲だけだったんです。それに、僕はとにかくバクさん(大村雅朗)さんが好きだったんです。
ーーヒップアップのアルバムもいっしょにやってますよね、最初のころ。
板倉 売れっ子のアレンジャーだったんですけど、バクさんのアレンジは、空間的な部分もいいし、カッチリしてていい曲に聞こえるんです。僕なんかがアレンジしちゃうと、どうしてもつたなさが目立っちゃって。
ーーアヴァンギャルドになっちゃう(笑)、手癖で。
板倉 そうですね。
ーーどの曲もコード展開がずいぶん変わっていて。どれもポップスの定型を止めてませんよね。さっきもでた、ミルトン・ナシメントとかの影響というか。
板倉 そういうこともあるかも知れないけどね。例えば「33回転のパーティー」なんかはかなり凝ってますよね、コードが。
ーー歌謡曲って、普通はディレクターが「もっとシンプルに、もっと歌いやすく」って言うでしょう。
板倉 なんででしょうかね。
ーーそういう注文がディレクターから?
板倉 いやいや、違います。ジャズの影響なのかな。「ルナチコ」なんかも、聴いているとそんなにわかんないかも知れないけど、いちいち内声を動かしたりするところまで全部書いちゃうんですね。
ーービッチリ、コード指定しちゃうんですね。
板倉 うん。
ーー僕の好きな文さんの歌謡曲仕事っていうと、例えば三田寛子少年たちのように』なんかがあります。
板倉 浜口庫之助さんの曲ですね。あれは楽しくできましたね。あのころはサンプリングして、リズムなんかもジャストな、いかにも打ち込みって感じじゃない、ちょっとびっこ引いてるみたいな、わりとそういう、民族音楽でもないんですけどね。変なグルーヴっていうのをやりたかったころですね。
ーー文さんの中には、いわゆる歌謡曲仕事って意識はなかったのかも知れませんね。
板倉 うん。他にも、谷山浩子さんの『水玉時間』なんかは、自分でやった中では好きな仕事ですね。



ゴンチチほか、プロデュース作品と坂本龍一『Beauty』への参加

ーー一方のプロデュース仕事のヒストリーですが、最初はゴンチチ(当時はゴンザレス三上チチ松村)の『Another Mood』が83年。あれは録音は大阪なんですか?
板倉 そうです。
ーーこれはディレクターの福岡知彦さんから、文さんにプロデュースの依頼があったと。
板倉 ええ。フェアライトCMIがまだ日本に2台ぐらいしかないころで。PSY・Sの松浦(雅也)さんがまだあっちにいて。
ーーフェアライトを使うというのは文さんのアイデアで?
板倉 いいえ。フェアライトが大阪にあるので、それを使おうっていう話がもともとあって、僕も初めてでしたね。ただ遊んでただけでしたけどね、使いこなしてはないなと。
ーーでも、セカンドの『脇役であるとも知らずに』の「修学旅行夜行列車南国音楽」のリズムのサンプリングは絶妙ですね。文さんがどうやって、そういう感覚を習得されたのかに興味があって。
板倉 まあ、時間をかけて、ああやってみよう、こうやってみようって。そういうことだと思います。
ーーこれ以降、たくさんのプロデュースを手掛けられていますが、バンドではなく、プロデューサーとして何かやりたいとうのは、文さんの意向としてもともとあったものなんですか?
板倉 いや。プロデューサーといっても、僕の場合はアレンジャーというほうが強いのかな。
ーー84年には、少年ナイフ、サボテン、コクシネル、D-DAYの4組のガールポップ・バンドを文さんがプロデュースする、オムニバス『くっついて安心』がバルコニーから出ますよね。これは画期的な企画でした。
板倉 あれはバルコニー・レコードの守屋(正)さんって人がいて。もう一人のプロデューサーのモリタさんていう人が、もともとイミテーションのマネジャーをやっていた人で、僕とはもともと知り合いだったんです。そのモリタさんが守屋さんに僕を紹介してくれたんですね。それで、やんないかって頼まれたんです。
ーー文さんのプロデュース能力に、早くも注目して?
板倉 太田裕美なんかを聴いてね。
ーーつまり、女性ヴォーカルものを文さんのプロデュースで、網羅的にやると面白いんじゃないかという。
板倉 ええ。少年ナイフなんかは会わずに、大阪から送ってきたテープに、ここの音をちょっと足しちゃってみたいな。
ーー今でいうリミックスみたいなものですね。ここで活躍しているバナナ(川島裕二EP-4)さんとのつながりというのは?
板倉 彼がまだスペース・サーカスにいたころからの付き合いなんです。昔、ローランド主催のシンセサイザー・テープ・オーディションみたいなのがあって、優秀曲がレコードになるっていうもので。僕がジュピター4を買おうと思って、ローランドのショールームに行ったとき、そのレコードがあって、「ねずみの行進曲」っていう曲があったんですね。そのとき、川島裕二っていうのを初めて見まして。その後、チャクラをやっていたときなんですが、龍太郎の軽井沢の別荘でよくセッションをやっていて、キングからデビューするシンガーなんかのデモテープを作るってことで、そこにギターで参加したりしてたんですけど、その合宿にいったときに、バナナっていうのが来たんです。そんとき初めて顔を合わせて、セッションしてみたら、なかなかやるなって。
ーーシンセサイザーを?
板倉 やってましたね。
ーー不思議なプレイですよね。何がルーツなのかわからない。
板倉 「ねずみの行進曲」からしてそうですよね。その後、僕は久しぶりに裕美ちゃんのライヴのときに会ったんですよ。僕が裕美ちゃんのアレンジなんかをやってたから、「今度いっしょに仕事やろうよ」って彼のほうから誘われて、(井上)陽水さんとか、原(マスミ)さんとかをやったんです。彼のレコーディングのやり方を見て、こういうふうに楽しんでやってるのかって、ずいぶん影響されましたね。それ以来、シンセっていうとずっとバナナっていう感じなんです。
ーー清水さん、近藤さんなんかと並行して、ずっといっしょにやってますね。
板倉 実は、電話で聞くと声が似ているってところで、なんかひょっとして君は僕の裏の弟だなって、僕がいっちゃったんですね(笑)。
ーー比較的最近のプロデュース仕事の中では、喜納友子さんの『楽しき朝』があります。僕はチャクラから入ったので、聴いていてそこにつながるものがあって。喜納一族とのつながりはそれまでもあったんですか?
板倉 なかったです。これは東芝EMIのディレクターの人から僕に来たんです。
ーーディレクターの中で、昔チャクラでペンタトニックをやってた文さんのイメージがあったんでしょうか?
板倉 いや、それまでは僕のこと知らなかったんですね、その人は。
ーー共同プロデュースの清水靖晃さんというのは?
板倉 靖晃さんは僕が頼んだんです。ヤッちゃんのことは、僕はすごく尊敬してますから。それで、一度いっしょに何かやりたいなと思ってて、たまたま「INK(インク)」っていう曲ができてて、聴かせてもらったら友子さんにピッタンコだったので、これはちょうどいいって2曲提供してもらって。共同プロデュースをやってもらったんです。
ーー喜納友子さんっていうと、「花(すべての人の心に花を)」のオリジナル・シンガーってイメージがありますよね。
板倉 当時、「花」がCMでヒットしてたんですね。それで、友子さんってところにちょっとスポットを当てようということで。喜納昌吉さんとも出会えて、僕は面白かったですね。すごく仲良くしてもらいました。
ーーそれと、これはプロデュースではないですが、坂本龍一さんの『Beauty』で1曲、ギターを弾いてますよね。
板倉 実をいうとね、キリング・タイムのマネジメントをやっていた山田(次朗/ティック・タック・パブリッシャーズ)さんって人が、当時教授のマネジャーみたいなことをやっていて、キリング・タイムを紹介してくれたんです。それで、レコーディングをやってる最中にちょこっと行って、どんなことしましょうかみたいな感じでね。そのときは結局、Ma*Toと僕が呼ばれてって。
ーー坂本さんが、ワールド・ミュージック的なことをやり始めたころですよね。
板倉 すでにCMとか原盤を自分で持って、賢いやり方でやってらしたんですね。すでに曲があって、教授はピアニストだから、普通にこうアルペジオみたいに打ち込んだフレーズがあって。ドラムはけっこうグルーヴがあってスクエアじゃないから、スクエアじゃないノリにならないかなって相談を受けて。当時、僕は三田寛子の仕事とか、リズムを崩すみたいなところでやってたんで、「1拍を12分割して、1/12ほど隅に寄せると、16分音符の3連みたいに、ちょっとハネると思いますから」って、ちょっとスコアをいじってあげて。「1/12か、なるほど」って言ってやってましたけどね。実は僕、スコアを書くときに、書いた音が聞こえてこないっていう、逆にこれ幸いに、見た目で楽譜を書いちゃうことがあるんですよ(笑)。こういうアルペジオも、こういったほうがいいのかなっていうのを、見た目で適当に書いてみるという。教授の、普通に考えればこういうふうに書くっていうところを、僕に違うアプローチをさせるっていう、すごくうまい使い方をしてましたね。実は、僕の「Lotus」っていうソロの曲があるんですが。
ーーオムニバス『ドライヴ・トゥ・ヘヴン、ウェルカム・トゥ・カオス』に提供した曲ですね。
板倉 ええ。あれなんか聴いてもらうとわかるんですけど、非常に紋様じゃないでしょう。ドロドロしてる。それ以前の人たち、細野さんにしても矢野さんにしても、きっちり紋様なわけです。わりと自分は、紋様じゃないものを書くってことが、自分のカラーになるんじゃないかって、そんな変な考え方があった時期なんですね。それは直観的なものなんですけどね。そういう紋様じゃないアプローチをするってことで、教授のギターを弾いてるわけです。まあ、入れてもらったわけですけどね。
ーーそういえば、その『ドライヴ・トゥ・ヘヴン』に参加した経緯っていのは?
板倉 チャクラのファンクラブ(チャクラブ)にいた伊達(タカシ)くんって人がいまして、まだ、アマチュアだったころからチャクラを観にきてくれてた人で。ライヴでアンコールで何もやる曲がなくなったとき、ちょっとインド音楽っぽいことをやってたんですね。ギターの弦を全部べろんべろんに緩めて、5度と、あとは全部同じ音にしてやってて、 彼がそれに興味を持ってくれて。彼は、漫画家の玖保キリコさん(『ドライヴ・トゥ・ヘヴン』プロデューサー)の一派にいたんですよ。



市川準作品ほか、映画音楽への参加とはにわちゃん時代

ーー文さんと言えば、映画やテレビのサウンドトラックの仕事もずいぶんやられてますよね。まず85年に『うる星やつら4』があって、これが実はキリング・タイムの最初のまとまった仕事なんですが。あれ以降、キティ・レコードとの縁が続きますが、あれはどういうつながりなんですか?
板倉 実は、チャクラが名古屋でライヴをやるとき、必ず観にきてくれる近藤さんって人がいたんです。東京に上京してからもウチに遊びにきたりしてたんですけど、彼がキティに入ってディレクターを始めて、安全地帯とかをやってたんですね。今はキティを辞めちゃって、東京バナナボーイズというのをやってるんですが。
ーーバナナボーイズの近藤由紀夫さんですね(現在は日本テレビのドラマの音楽プロデュースなどを手掛けており、『凍りつく夏』では清水一登、『冷たい月』ではエンニオ・モリコーネ、『女医』では小林泉美などを音楽に起用)。その後、今度はバナナさんと、同じ近藤さんのプロデュースで『お茶の間』というドラマのサントラもやってますよね。シンクロ・ヘヴン名義で。
板倉 あのバンドは、実際にあったものなんです。90年ごろに何度かライヴをやってましたね。バナナと僕と、メッケンと青ちゃん(青山純)とカメといっしょに。
ーー同じころ、NHKニューウェーヴ・ドラマ『エデンの街』にも参加してますね。プロデューサーは、ディップ・イン・ザ・プールの木村達司さん。
板倉 あのときの監督は、のちにコマーシャルなんかをいっしょにやらせてもらったりしましたね。すごく気に入ってくれて。あれは1曲はキリング・タイムで、もう1曲はシンクロ・ヘヴンというかたちでやったんですよ。
ーー一方の映画音楽のほうは、『BU-SU』に始まる、一連の市川準監督作品がおなじみですが。市川さんとは、CM仕事をいっしょにやってらっしゃいましたよね。
板倉 その前に、斉藤由貴の『漂流姫』と、村上里佳子のビデオをやってますね。
ーー『会社物語』は、その後文さんのソロとしてアルバムがでますね。
板倉 打ち込みものもありましたからね。バタさん(川端民生)とやったり。
ーーキリング・タイムが1曲だけ、「日没」のリメイクをやってますけど。
板倉 あれは市川準さんですね。非常に気に入ってくれて、あれを入れてくれって。
ーーいわゆるエレクトリックなヴァージョンに改めて。
板倉 『SKIP』のときは雅楽でやっちゃいましたからね。雅楽じゃなくて、ライヴでやってる感じでやったほうがいいんじゃないかって意見があって。じゃあ、どうせならジャズにしちゃおうって感じで。
ーー『つぐみ』からは、かなり本格的なオーケストレーションをやってますよね。普通、ロックのアレンジャーの人が弦のアレンジまでやることは決して多くはないと思うんです。シンフォニックな映画音楽には、もともと興味があったんでしょうか?
板倉 映画音楽はとにかく好きでしたね。小学校のころに好きだったのが、フランシス・レイジョン・バリーの『野性のエルザ』とか、バート・バカラック。でも、正式にはほとんど勉強はしてないんです。合歓の郷にいたとき、放課後にアレンジ教室っていうのをちょろっとやったことががあるぐらいでね。弦だけの曲じゃないんですが、(アントニオ・カルロス・)ジョビンのアレンジをやってるときのクラウス・オガーマンとかの曲を聴いてね、どういうふうにやってるのかって研究はしてましたね。オガーマンの弦だけの曲になると、複雑になって僕なんかには手に負えないんだけど。
ーー当時、オガーマンとかドン・セベスキーのジャズ・アレンジ理論なんかが出ていて、そういうアカデミックな理論が下地にあったわけですね。
板倉 編曲法はさておき、理論はわりと面白いと思ってましたね。要するに、自分が演奏しないってことなら、いかように書いてもやってもらえる。それこそ図形を書いてもやってもらえる(笑)。
ーーキリング・タイムのアルバムのインナーみたいに。
板倉 面白いですよね。
ーー図形というのは、ジョン・ケージとかクセナキス的な意味ですか?
板倉 いや、ようするに記譜法のことですよね。ネコカル(斎藤ネコ・ストリングス・カルテット)なんかは、見た目は書きなぐったミミズみたいな線とか点だけ、五線譜の上に線を引っぱるだけで演奏しちゃうんです。
ーー文さんの曲をみんなが聴いて、いちばんよく言われると思うんですけど。懐かしいとか、胸がキュンとなるというのがあると思うんです。過去のインタビューを読むと、出身地の松江の近くにあった宍道湖の原風景があって、そこから創作が始まってるという。
板倉 宍道湖はウチから近所だったんです。夕暮になるとふらっと出掛けていって、ずっと眺めてたんですね。夕焼けが暮れていって真っ暗になるまで、いろんな色彩の変化があって、そういうものの中に、なんとも言えない懐かしさっていうか。夕方っていうのは、そういうなんか淋しいような、けっして朝焼けにはないものがありますよね。最初はそれを絵に描きたいって思って、描いてたんですけどね。確か、当時はまだ(ブライアン・)イーノはアンビエントはやってなかったよね。
ーーそうですね。オブスキュアもまだなかったのかも知れない。
板倉 じゃあ、ジョビンの影響なのかな。
ーーまさに、あのジョビンのアルバム・ジャケットのイメージですね。
板倉 ブラジル人が好んで使う、サウダージの気分なんかに近いんじゃないかな。リオなんかも夕陽がきれいだと思うし。
ーー最新作の『ランデヴー』がありますよね。あれは、今は『美しい人』を撮っているTBSのディレクター、土井(裕泰)さんがチャクラ時代からの文さんのファンだということで依頼されたと聞きました。
板倉 ありがたい話で。
ーー「愛の桟橋」とか、まさに聴きたかった板倉節という感じでした。あれはそういう、監督の細かな指定があったんでしょうか。
板倉 リクエストはありましたけど、あれは結構ストックがあって、こういう感じはどうですかって、こっちが聴かせてね。ちょうどそのころは作ってたストックで間に合った。
ーーあれが久々の盤でしたが、CMの音楽の仕事は、精力的に続けられていますよね。
板倉 最近だと、JNAかな? 航空会社のCMで、わりとゴンチチみたいな感じの曲をやってましたね。
ーーこの後はキリング・タイムの歴史の話についてうかがいたいんですが、その前に。はにわオールスターズ時代があって、あれが後に美潮さんを中心にダウンサイジングして、はにわちゃんになりましたよね。文さんはそのとき抜けますけども、あとではにわちゃんから美潮さんが脱退して、つーちゃん(木元通子)がヴォーカルになってから、今度はメンバーが一新して、文さんが戻ってきてバックがキリング・タイムになるんですよね。
板倉 たまたまスケジュールが会うっていうことで。はにわオールスターズでは、いろんな人に出会えましたね。あと仙波(清彦)さんの、いっしょに演奏する人たちへの気の回し方っていうか、プロデュース能力というか、本当にすごいなと思ってました。とにかくあの人の音楽性といいますか、冗談音楽は冗談音楽としてあるとして、あのシニカルな部分はともかく、マジな部分ですね。演奏技術のすごさという。オレカマとかのね。はにわちゃんをメッケンと清水さんとでやってたときなんかは、ホントにいい刺激になりましたね。
ーー後期はにわちゃんというのは、ひょっとして文さんの曲もやってたんですか?
板倉 ええ。チャクラでやってた曲なんか、「おちょーし者」とか「私の百貨店」だとか。
ーー「ひょっこりひょうたん島」とか、笠置シヅ子なんかも、文さんのころはやってたんでしょうか?
板倉 いや、どうなんだろう。やってない。
ーーつまり、後期はにわちゃんは学芸会っぽい感じじゃなくて、チャクラみたいな楽曲を中心にやっていたんですね。仙波さんは、やっぱりチャクラみたいなバンドをやりたかったということなんでしょうか?
板倉 仙波さんが僕の書く曲を気に入ってくれたんです。特に「めだか」を気に入ってくれてね。なにかっていうと「めだか」をやってもらってましたから。
ーーオールスターズのレコード(『はにわ』)でもカヴァーをやってますけど、はにわちゃん時代にもやってたんですね。
板倉 ええ。仙波さんが「めだか」を始めとして、僕の書く曲ってものに何か感じるものがあったんじゃないでしょうか。
ーーはにわちゃん用に文さんが書き下ろした曲もあったりするんでしょうか?
板倉 うん。確か1曲ぐらいあったんじゃないのかな。のちに『BUSON SEMBA』(仙波清彦のソロ・アルバム)に入ってる「夏河」っていう曲になった曲がそうですよね。



■キリング・タイム結成〜現在

ーーここからはキリング・タイムについてうかがいます。キリング・タイムというと、大半の人がフレッド・フリスのバンド、マサカーの『Killing Time』を連想するでしょう。
板倉 そうですね。フレッド・フリスは本当に好きでしたからね。
ーー一方、人によっては、チャクラと並行して「暇つぶし」でやってたから、キリング・タイムだという人もいて。
板倉 実はマサカーの『Killing Time』を知るより先に、キリング・タイムって名前でやってたんです。屋根裏のブッキングやってた人が、月に1回好きなことやっていいよって 言ってくれて、いろんな人を呼んでやったりしてたんです。その中で逆瀬川さんとか清水さんが入ってきたりして、それでだんだんこういうかたちでやろうってことで、マリンバとガット・ギターとタブラって決まったんですけど。その名目も、キリング・タイム……暇つぶしってことでね。
ーー85年にスウィッチ・レーベルで、キリング・タイムとしての最初のレコーディングがありますよね。あのスウィッチの12インチのシリーズですよね。
板倉 そうです。
ーー確かそのときは「BOB」を出そうという。
板倉 そうです。もう「BOB」はステージでやってましたからね。
ーースウィッチから出そうという話はどこから?
板倉 その前に、僕がスウィッチで(高橋)鮎夫くんのお手伝いをしていて、鮎夫くんの当時の奥さんだった伊賀崎(陽子)さんって、元『ぴあ』にいた人がいたんです。いわゆるスウィッチのディレクターなのかな。そういう関係で、僕にも出さないかって話がきて。
ーー鮎夫さんや、清水靖晃さんのあとに、出るかも知れなかった。
板倉 そうですね。それでポシャっちゃった。
ーーそのときの「BOB」は、のちのエピックから出るものとは違うものですか?
板倉 いや、それを母体にしてますよ。
ーー『別天地』への参加は、チャクラ時代のディレクターだった福岡さんがエピックに行ったからということですよね。
板倉 そうです。
ーーキリング・タイムは、もともと清水一登さんとMa*Toさんとの3人だったのが、メッケンさんとホワチョさんが入って、斉藤ネコさんが入るという順だったんですよね。
板倉 ええ。メッケンもホワチョも、原マスミのライヴでいっしょだったんです。何度かライヴをやっていたので。
ーー青山純さんは?
板倉 はにわちゃんバンドですね。
ーーネコさんと知り合ったきっかけは何だったんですか?
板倉 橋本一子さんのライヴでいっしょだったんです。最初はガット・ギター、タブラ、マリンバで、そこにチェロとヴァイオリンっていう編成でやりたかったんです、キリング・タイムは。それで最初、はにわのベースとスコアリングをやってた寒河江(勇志)さんにチェロをやってもらって、ヴァイオリンがネコってかたちでやってたんです。だけど、寒河江さんがウィーンに行っちゃったんですね。それで渡辺等(Shi-Shonen/リアル・フィッシュ)さんなんかにやってもらった時期もあるんですけどね。ところが、チェロ、ヴァイオリンってところから、音量的にだんだんエレクトリックなものでやることが多くなってきて、だんだん変わってきたんです。それで、ホワチョが入ってきて、メッケンがエレクトリック・ベースで入ってきてから、「BOB」みたいな曲をやるようになったんですよ。アコースティックなところから突破して、もう少し違うようなアプローチでやってみようってことで。
ーー僕は最初に聴いた音が「BOB」だったので、もともとああいうフランク・ザッパの『ニューヨーク・ライヴ』のような指向性のグループかと思ってました。清水一登さんのザッパ趣味もあったというか。
板倉 「ブラック・ページ」をよく聴いてたんですよ。フランク・ザッパは『ズート・アラーズ』とか好きだったんですが、僕は根っからのザッパ・ファンじゃなかったんです。でも、サッパのギターというものには非常にそそられてたんですね。『ニューヨーク・ライヴ』を聴いたときに、「このキメの嵐はなんだ?」って思って、それで僕なりにやってみようと。キメというのは、リー・リトナーとか、当時流行ってたんですよ。だから自分でも、チャクラとは違うセッション・バンドみたいなところで、そういう自分で書く曲には、たくさんキメが入る曲ってのがもともとあったんです。それで、清水一登氏がいるから大丈夫だろうってことでやってみた。ザッパっぽい感じというのはね、でも僕からのアプローチだよね。もろ「これはザッパでしょう?」って言われちゃうような音でしたからね。清水さんだったらもうちょっと違う、一登色のあるやり方でやってくれたと思うんですけど。今はあれはちょっと恥ずかしいかな。
ーーいちばん最初に『別天地』の「ルナチコ」があって、一方でああいう「BOB」みたいなプログレッシヴな12インチでデビューするわけですよね。エピック・レコードはどういういつもりで、キリング・タイムを売り出そうとしてたんでしょうね。
板倉 エピックはなんでも、とにかく好きにやってくれと。それが社長の丸山(茂雄/現ソニー・ミュージック・エンタテインメント社長)さんの意向でしたね。
ーー『別天地』への参加というのは?
板倉 あれは僕の好きにやってくれって言われて。
ーーソロ名義に近い?
板倉 ええ。「EBRIO」はキリング・タイムで、「ルナチコ」はポップをやろうと。「ルナチコ」は実際は打ち込みで、ホワチョがパーカッションをやってくれただけで、それだけだったんです。キリング・タイム名義になっちゃってますが。
ーーつまり、キリング・タイムの厳密な音楽性はなくて、「ルナチコ」のクレジットもキリング・タイムでOKということですか。
板倉 いや、違う。「ルナチコ」はキリング・タイムという認識はないですね。
ーーじゃあ、対極のプログレッシヴな音のほうがキリング・タイムだと。
板倉 ただ、4人でやってたときなんかは、ジョビンの曲をやったりとか、カヴァーばっかりやってたときもあるんですけど。
ーー最初期のことですか?
板倉 いや、7人編成になってから、一度アコースティックで4人だけでやってるんです。テレビ朝日のツタ館っていう、もう今はないんですけど、そこでやったんですけどね。それはいわゆる好きな曲をやろう、カヴァーをやろうっていう。ジョビンとかライ・クーダーとか、「日曜日はダメよ」とか、オリジナルもちょこっとやったりとか。
ーーそういえば、キリング・タイムはライヴではよくカヴァーをやっていたそうですね。くわしい人に聞いたら、ECMエグベルト・ジスモンチの「セブ・ムチョセ」という曲をやったり。
板倉 あれ、僕のオリジナルの曲なんです。たまたま目の前に牛乳のパックがあって、成分無調整って書いてあったんで、「セブ・ムチョセ」って(笑)。
ーーそうだったんですか、すいません(笑)。でも、去年の再結成ライヴでは、「インファンシア」をカヴァーしたと聞きました。
板倉 ミルトンの影響っていうのもありますが、ジスモンチにも影響を受けてますね。「EBRIO」なんかは、80年代の『エン・ファミリア』の曲の影響があります。『ジダテ・コラソン』とか、ECMじゃなくてあの人、EMIからもレコード出していたでしょう。
ーーブラジルEMIからですね。ちょっとロックというかフュージョン路線の。
板倉 実はあっちのほうが好みでしたね。
ーー日本のロック・バンドの活動フォーマットって、まずレコーデッド・アートとしてレコードを作って、ライヴはそれを再現するという流れがあるでしょう。文さんの中では、そんなふうにライヴはその都度やりたいことをやって、レコードはたまたまその中でプログレッシヴなものが残ったというだけなんでしょうか。
板倉 そうですね。
ーーレコードがすべてってわけじゃなくて。
板倉 7人になってからは、新曲をやるってことになると、なかなか詰めてリハーサルするってことをしないバンドだったんです。みんな器用な人たちだったんで、譜面をちゃんと書いていけばできるんだけど、詰めてやることに飽きちゃうんですよ。それに僕とかホワチョはなかなか覚えられないし。新曲をレコーディングするってことになれば、合宿したり時間をとったりするけれど、みんなそれなりに忙しかったりするんで。
ーーひまつぶしにならない(笑)。
板倉 そうなんです。で、だんだんライヴをやらなくなっちゃうんですけど。
ーー初期ピンク・フロイドみたいな、レコードとライヴは全然別のものなんですね。
板倉 そういう時期が長かったということですね。でもずいぶん人も変わってきたんですよ。去年、久しぶりにやったんですが、しばらく遠ざかってたこともあるのかな。スコア通りにやるっていうのが、すごく楽しいっていうか。それまでは、どこに行くかわからない、わりと斉藤ネコを中心に切り崩していくって感じだったんでね。自由にやることっていうのはとにかく悪いことじゃないし、発展していくぶんには非常にスリリングだし、ライヴだったらそれはいいんじゃないかと。後から聴くと、非常に面白かったりしますからね。やり終わったときに、楽しかったねっていう。
ーー楽しいというのが、あくまで至上のものであって。
板倉 キリング・タイムの最初のインタビューのとき、僕も清水さんも言ってたんですけど、僕らはアマチュア・バンドと同じ姿勢で好きな音楽をやってて、それをレコード会社の人が出してくれるっていうのは、何と有り難いことでしょうと。ライヴでプロモーションするってことは、僕らはやらないし、やれないし。取材なんかもデタラメ、いい加減なことばっかり言ってましたからね。自分たちが楽しむってことがまずいちばん。それで、まわりの人も楽しんでくれればそれでいいって感じだったんで。
ーー例えば、「SKIP」をステージでやったことはあるんですか?
板倉 部分的にはありますけど、全部はやってないですね。あの、「うっうっ」っていってるところは、エンケン遠藤賢司)さんがいないとできないところだから。お皿だけの世界かな、と最初は思ってましたから。
ーーあの張り詰めた感じは、ライヴの和やかな感じとは違いますからね。
板倉 けっこうあれはテープ編集で作っちゃったってとこありますから。
ーーところで、実は前から疑問だったんですが、キリング・タイムのアルバム名って全部人名ですよね。あれはどういう意味なんですか?
板倉 清水さんがいつも買っていた『ナショナル・ランプーン』って雑誌に、ミスター・マレックっていう漫画家が、風刺画みたいなのに文章がついた漫画を描いてたんです。僕はあんまり英語は得意じゃないんですけどね。毎回、「ボブについて」とかタイトルが付いていて、例えば「ボブ」っていうのは、両手両足をチョン切られて海に放りこまれた状態の人っていうような、そういう極悪な漫画だったんですけど。そういったところから拾ってきたんですね。
ーーあの人を食ったようなクレジットの入れ方というのも、じゃああれは清水さんのカラーなんですか?
板倉 いや、あれは全員ですね。
ーー全員が集まると、そういう極悪なパワーを発揮するわけですね(笑)。
板倉 そうです。
ーーでも、「SKIP」だけは人名じゃないですよね。
板倉 いや、あれも人名なんです、実は。
ーー次の『アイリーン』がいちばん、キリング・タイムのベーシックな音楽って感じがしますけれど。
板倉 ベーシックっていうのかな。『アイリーン』はとにかく歌ものをやろうと。それでみんな曲を書く。みんなで曲を書きましょうっていうのがコンセプトっていうのかな。
ーー「奴隷の恩返し」は、映画『BU-SU』にも出てきてましたけど、スタジオ・テイクは ずいぶん前からあったんですね。
板倉 あれは、『アイリーン』についでにいれちゃったってことですよね。
ーーボーナストラック的な位置にということ?
板倉 そうですね。
ーーゲスト・ヴォーカルがいろいろ参加してますが、「虫のしらせ」のYOSHIPONは、大沢誉志幸さんですよね。「オフちゃん」のああもんというのは?
板倉 Ma*Toの奥さんですね。
ーーなるほど。最後は『Bill』ですけども、それまで僕は文さんの系譜としてキリング・タイムを聴いてきたんですが、ここからは清水さんの曲が増えますよね。
板倉 清水一登さんの世界が、それまであまり出てなさすぎたっていう。僕は、矢野誠さんの言葉で言うと、色好きというか、和声なんですね。『Bill』というのは、そういうんじゃなくて、もっとビートの面白さとか、ガシッとした、いかにも『Bill』って感じの世界というのをやろうとね。そのころ僕はキリング・タイムに提供する曲をあまり書かなくなってたし、ちょうど清水さんはキリング・タイム用の曲が貯まってきたんで。
ーー「Linbo Dance」はライヴですよね。
板倉 そうです。
ーー「MIFUNE」は、かなりファンク色が強いですよね。
板倉 そのときはゴーゴーでしたね。当時、好きだったという。
ーー「MIFUNE」というと、意味は三船敏郎のことですか?
板倉 あれは杉浦茂の漫画で『モヒカン族の最期』っていう本に入ってる、「ミフネ」って漫画から付けたんです。でも、ハカマを履いて摺り足で歩いてるようなイメージもあって、どっちでも構いませんね。
ーーでは最後に、キリング・タイムの今後の予定なんですが。
板倉 去年(98年)のはホントに久しぶりだったんですね。
ーーその前が、あのクワトロのマック清水さんが参加したやつが最後ですよね。
板倉 そうです。でも、復活したあの青山マンダラ以来、スケジュールが合わなくてね。マネジャーが今いないんで、今はちょっとまた前向きに考えて、またやろうかって。来年(2000年)にはやろうと思ってますよ。
(了)