POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

板倉文、小西康陽ほか参加オムニバス『別天地』(オーダーメイドファクトリーで受付中)




 リニューアル準備期間ですが、今回はちょっとコマーシャル。86年にエピック・ソニーからリリースされたオムニバス・アルバム『別天地』が、ソニー・ミュージックエンタテインメントのオンラインショップ「オーダーメイドファクトリー」の復刻候補カタログに加わり、現在購入希望者を募集中である。
 「オーダーメイドファクトリー」についてご存じない方に説明しておくと、ソニーが原盤を所有しているカタログを中心に、「まだCD化されたことがないもの」「一度CD化されたがすでに入手困難なもの」から、いきなり復刻して一般発売するにはちょっと売れゆき的に厳しいかなと思われるマニアックな作品を、事前にネットで購入希望者を募り、一定の数量に達したら商品化を実現させるという、いわゆる音楽版の生協のようなサービス。書籍やCDの復刻企画は、「復刊ドットコム」や「たのみこむ」などでかなり早い時期から始めていたのでご存じの方も多いと思うが、実は書籍やCDというのは著作権に絡む商品のために、目標定数が集まったのに「交渉の結果、著作者がNGなため、商品化できなかった」という例が多いことでも知られる。復刻サービス業者が署名を集めて過去の発売元(原盤権所有者など)を訪ねても、未CD化タイトルにはそもそも再発できない事情があるようなものが多かったり。あるいはレコード会社にしても、ただでさえ不況で物が売れない時代だから「そんなに人気があるならウチで出す」なんて言われたり。某「●●●●●」などで実現したCDが、その後知らないうちに増産して一般のCDショップにも流通し、ユーザーから「限定版って聞いたから買ったのに」というクレームが付いたなんてケースも過去にあったが、これも同じように権利元の意向を察するような裏事情があるのだろう。「売れるならウチでもやらせて」と言われりゃ、オリジナル発売元の意見が優先されてしまうのも致し方ない。
 で、こういうサブライセンス商品というのは、復刻サービス業者がレコード会社の特販部や版権部などに交渉するのだが、商品化にOKが出ても自社のカタログを復刻・販売するに当たっては、自社スタジオでマスタリングすること、自社プレス工場を使うことなどの付帯条件が付くのが慣例。安い街のマスタリングスタジオや、台湾のプレス工場で作るような自主制作よりは相場はお高くなるから、CD単価が高額に跳ね上がってしまうハンディはつきまとう。これに加え、特販部との取引は「売り上げ結果を見て、後から%支払い」ではなく、「全枚数買い取って、そちらのマージンを付けて自社流通で売りなさい」というのがほとんどだから、事前にまとまったキャッシュが必要。この枚数というのも、外部業者の商品化には最低プレス枚数がやや多めに設定されている場合が多いらしいので、これもまた著作権問題とは別に、復刻のハードルを高くしている理由にもなっている。だが、そんな状況には、音源を貸し出すレコード会社側も心を痛めている部分があって、米ライノが親会社のワーナーのカタログを一手に復刻しているみたく、オリジナルの発売元自体が復刻サービスを始めるケースが増えてきているのが、昨今の状況。そんなメーカー側の取り組みの中でも復刻実績で定評があるのが、ソニー・グループの「オーダーメイドファクトリー」だ。大半が最低目標到達枚数は非公開になっているものの、自社工場を使っているメーカーだから最小枚数でもプレス可能なので、一般の復刻サービスよりも目標条件枚数は低いはず。実際、一ユーザーとしてここを利用している小生も、拙著『電子音楽 in the (lost) world』でも紹介している、大野雄二のシンセサイザー・アルバム『コスモス』や『スペース・キッド』、『永遠のヒーロー』などの初CD化分を無事入手できた。遡れば、ソネットがやっていた「廃盤復刻計画」という同様のサービスでも、やまがたすみこ(昔人気だったアイドル・フォークシンガーで、現・井上鑑夫人)のCDを手に入れていた私だ(ちなみに「廃盤復刻計画」は、私が『Techii』時代にお世話になっていたミディレコードでEPO坂本龍一の担当ディレクターだった人が始めたもの。マニアックだったのはそれ故)。ソニーの洋楽部が以前ネット展開していた「名盤復刻隊」にもちょろっとお手伝いしてことがあるが、小生がライナーノーツを書いた『フロム・A・トゥー・B』のニュー・ミュージック(トニー・マンスフィールドのグループ)も、ウェブでリクエスト希望を募ったら、3枚目の『ワープ』、2枚目の『エニウエア』がなんとリクエスト1、2位に輝き、無事CD化が実現。『ワープ』の世界初CDを実現したときは快哉を叫んだものだ。ここでもライナーノーツを書かせていただいたが、小生がボーナストラックのアプルーバルを申請したとき、ほぼリクエスト通りの曲数が揃ったのは、やはり権利元のメーカー主導の企画だからなんだろう。で、この度、古くからの知人が「オーダーメイドファクトリー」の担当になるという嬉しいニュースが舞い込み、その第一弾として『別天地』をラインナップした話を聞いて、ぜひ協力できればと思って今回一文をしたためた次第である。販売実績が上がれば、きっとあんなこともこんなこともやってくれるのではと、今後のサービスの充実に期待している私。ここの読者の方でも、ぜひご興味があれば一票を投じていただけると幸いである。
 『別天地』については、「オーダーメイドファクトリー」の紹介文を参照していただきたいが、92年に2度目にCD化された際に、ライナーノーツを担当させていただいたこともあって小生とは関わりの深い一枚である。86年にリリースされた、板倉文小西康陽、重藤功(デイト・オブ・バース)、バナナ、和久井光司という5人の新鋭クリエイターが2曲づつ提供したコンピレーション盤。すでにチャクラでデビュー済みだった板倉氏は、太田裕美ヴォーカルのソロとキリング・タイムで1曲づつ提供。当時、キリング・タイムはすでにスウィッチ・コーポレーションで『BOB』を録音中だったが、ここへの参加が縁でスウィッチのレコード事業部解散の後、エピックからデビューを果たす。小西氏はピチカート・ファイヴオードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビューしたばかりのころで、後にマンフレッド・マンみたいな7inchシングルを出したりミントにも録音がある、サイド・ユニット“ヤング・オデオン”はこれが初出。なんとヴォーカルは中西俊夫(元プラスチックス、MELON)だよ! 後にフジテレビ月9の音楽まで担当することになるデイト・オブ・バースも、キティからの正式デビュー前というから早い。スクリーンも後にキティからデビューを果たしたが、和久井光司氏は、最近では『20世紀少年』の浦沢直樹のミュージシャン・デビュー作を手掛けたことでもおなじみですな。リリース時の最大の目玉だったのは最後の大物、バナナ(川島裕二)の初のソロ2曲。井上陽水や安全地帯で奇妙なアレンジで知られていたバナナは、ご存じ京都のファンク・バンド“EP4”のメンバーだが、後期スペース・サーカス→コシミハル with TUTUなど、このころはテクノポップ界でも注目の人物だった。拙者がコンパイルした『テクノマジック歌謡曲』に入っている、爆風スランプ「嗚呼!武道館」の、本家マテリアルもまっ青なヒップホップ・アレンジも彼。クレジットされているUPLMは、XTCみたいなヴォーカル・グループとしてバナナが結成したもので、結局入れる予定だったレギュラー・ボーカルを欠いたまま、ここではPINK福岡ユタカがゲスト歌唱している。収録されている2曲を最初に聴いたときは鳥肌が立ったもの。UPLMがアルバムを出すという噂は、その後ファンの間でもちきりでしたね。書籍『イエロー・マジック・オーケストラ』に収録されているロング・インタビューのために、ロサンゼルスでかなり長い間細野さんと過ごさせていただいたとき、ノンスタ時代にバナナにソロのテープをもらったことがあると語っていたのを聞いたときも興奮したなあ。ああ、地道にソロ作ってたんだ。結局、UPLMは板倉氏とPINKの矢壁カメオのバンド“シンクロ・ヘヴン”に鞍替えしたようで、この名義でライヴなどを行っていた時期に、渡辺満里奈が主演していた望月峰太郎原作のドラマ『お茶の間』のサントラにも“シンクロ・ヘヴン”として曲を提供。これがまた『別天地』の2曲の続きみたいでカッコイイのれす。
 『別天地』のプロデューサーは、小生も中学時代からファンだった太田裕美の旦那さんである、当時エピックの福岡知彦氏。同社でくじらゴンチチ遊佐未森などのデビューを手掛け、土屋昌巳大沢誉志幸の担当だった人ですね。渡辺音楽出版時代にチャクラに関わったのを振り出しに、「テクノ歌謡」の嚆矢と言われる、板倉文らが参加した奥方・太田裕美の名盤『I Do,You Do』、『TAMATEBAKO』をディレクション。板倉プロデュースの『Another Mood』でポリスターからゴンチチをデビューさせたあと、創業早々のエピック・ソニーに入社して、引き続き彼らを手掛けたというキャリアの持ち主である。ソニー・グループ在籍時の後期には、知る人ぞ知る“Robin Disc”を社内レーベルとして起こし、あの「日本のXTC」「第3期キング・クリムゾンの極東版」と恐れられたCONVEX LEVELをメジャーデビューさせた人ですから、新世代にアンテナを張り巡らせている方でありまして、実はこのオムニバスも、同時期にスタートした細野氏のノンスタンダードみたいに、のちのち“別天地”をレーベルとして整備するためのイントロデュース版として計画されたものだったそう。ブライアン・イーノ監修の『No New York』、カセットのNME『C-86』やクレプスキュール『ブリュッセルより愛をこめて』、トット・テイラー『ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・コンパクト・オーガニゼーション』などなど、「伝説はオムニバス盤に始まる」と言われた時代でしたから。「これが売れたらレーベルに」という目算だったものがアテが外れて、福岡氏のレーベル計画は実現しなかったそうですが、アルファやテイチクならまだしも、メジャーのソニーでの実験レーベル計画は当時でさえ実現は難しかったかもしれない。後にポリスター周辺から起こったネオアコブームだって、それより何年も先んじて、フレデリックが監修した『インセンス・アンド・ペパーミント』というオムニバスを同社は出していたわけですから。このへんは「なぜYMOがアルファから、フリッパーズ・ギターポリスターという辺境からデビューしたのか?」という命題に関わる話なんだけど……。
 で、なんでそんなくわしい話を知っているかというと、(もう時効だと思うので書くのをお許しいただきたいのだが)20代のまだ血気盛んだったころ、『別天地』に心打たれた小生は、なんと福岡氏のところに『別天地2』を作りましょうと、企画書まで作って持ち込んだことがあるのである。無謀ですなあ。結局、当時のエピックのラインナップ的に考えて、とても実現は無理だろうとのことで一夜の夢と化したのだが……スペース・ポンチ(岡村みどり)などをエントリーしたラインナップは、メンバーの岸野雄一氏が今や東京芸大で教えるような時代になったことを思えば、それはそれで実現していたら伝説になったかもと思ったりするんだけれど(笑)。