POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『momoco』のAVレビュー時代が私の黄金期だった?

 先にエピソードを紹介した『momoco』(学習研究社)のAV担当時代が、私のライターとしての黄金期だったかも知れない。AVに詳しかったわけではない。むしろ、あまりアイドルなど芸能界に詳しくなかったのを面白がって起用されたのだ。今でこそ歌謡曲のコンピレーションCDなどを監修する身分の私だが、それも22歳頃、アイドル誌で奇人変人の諸先輩方からオルタナティヴな価値観を授かって、私の中に芽生えたものなのだ。当時、清水義範の贋作小説の影響を受けていた私は、自分の知るレトリックのすべてを駆使して、AVの画面描写のシズル感を活字化することに務めた。とにかくサルのように見て、書いて、ついてにカイていた記憶しかない(笑)。毎月書き上がった原稿を届ける時、担当者に褒められるのは行為以上に快感だった。AVコーナー宛にファンレターをもらったことまであったのよ。残念ながら、何度かの引っ越しの時に、その2年分の『momoco』のバックナンバーはどこかに紛失してしまった。まあ、今読んで面白いというものではないだろう。時代がおおらかだったのだ。
 数年前、例の音楽本の執筆のために段ボールに詰め込まれた古い資料を整理していたら、当時のフロッピーとイラストの下絵みたいなものが出てきた。フロッピーは磁性体が湿気で腐っていて読めなかった。イラストの下絵というのは、当時、AVレビューの扉のところに、毎月私が書き起こしていたイラストである。なぜ、私がイラストまで描くことになったのか、きっかけはあまり定かではない。残業中か何かに、ギャグを説明するために『クマのプー太郎』の似顔絵を描いたら、すごく似ていたとかの理由で「次からお前が絵を描け」とか、そういう顛末だったような気がする。渋谷にあった学研ヤング編集部は、どういうわけか歴代、編集者がヘタウマイラストを描く伝統があった。80年代初頭に、『ガロ』編集長だったナベゾ渡辺和博)とかマガジンハウスの編集者だった安西水丸が、イラストレーターとして売れっ子だった流行のモロ影響だったのか。はて。高校時代、隣県の大学生のミニコミに参加して、ジャーナリストごっこの気分を味わっていたことがある私だが、活字の内容にさして興味がなかったので、そこでも挿絵みたいな仕事ばかり頼まれていた。絵描きのキャリアなど、子供時代にチラシの裏手塚治虫の模写をしていたぐらいだったが、描いていたら段々コツがつかめてうまくなった。大友克洋のマンガに熱中していた時期でもあった(小生をよく知っている人は周知だと思うが、私はマンガというものを読む習慣がないのだ。だから、マンガに熱中したのは高校時代だけ)。コピーライター時代も、ラジオやテレビのコンテだけはとにかく褒められて気分がよかった。
 下に掲載したのは、その時の下絵である。水戸黄門のは、確か水戸黄門がAV評を書くとか、そういうしょうもない企画だったと思う。それ以外は、要求されて描いたものばかりだったので、どういう使い方をされたかの記憶がない。なにしろ、18年も前のことなのだ。