POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

私がAV (業界)に愛着を感じるようになった理由

 完全に客集め目的のページゆえ、趣味に暴走して恐縮っす。ここでは、ちょっと気になるアダルトな話題を息抜き程度に取り上げていく予定である。
 本業の仕事でもAV関係の担当を務めることが多くなった昨今。もともと嫌いなほうではないし、安田理央氏、大坪ケムタ氏ら、アダルト文化の重要人物とは仕事柄よく連絡を取り合っている。だが、個人的にはAVデビュー(むろん観る方よ!)はかなり遅かった。まず私らの世代の高校時代には、(少なくとも地元では)AVというものが存在しなかった。おそらく「唸るほど本数を観る」を初めて体験したのは、88年から2年籍を置いた、学習研究社アイドル雑誌『momoco』で、AV情報ページを担当することになってからだろう。村西とおる監督がクリスタル映像を独立してダイヤモンド映像を立ち上げたばかりのころで、土曜日の深夜番組で女子大生がAVを紹介するような悪ノリ文化も盛んだった。モデルは今ほど美形が潤沢にいたという印象はなく、月当たりの本数も僅かだったと記憶している。私の当時の仕事は、主要各社を訪ねていって新作のタイトルを伺い、作品のVHSテープとポジ(リバーサル・フィルム)を引き上げて、それを記事化するまでの全行程である。VHSは完成が間に合わずワークテープを観るという、まるで裏ビデオみたいな体験もまだあったし(とはいえ、モザイクは当然アリ。裏ビデオといっても当時はまだ、何度もコピーを繰り返したような劣悪な映像のものがウン万円もして、縁はほとんどなかった)、ポジもデュープ(複製)ではなくオリジナルの35ミリのロールから、来た者が早い順で気に入った場面をハサミで切って持って行く「切り出し」と呼ばれる方法で、肝心な部分が丸見えになっているカットを持ち帰っても怒られなかった(でへ……)。
 それよりなにより、当時のAV業界はまだ活気があって、例えばピンク時代のにっかつなどの、昔の映画の撮影所の雰囲気を漂わせる感じがあった。普段はAV女優が電話番をしているメーカーもあって、女優さんにお茶を出してもらったときは興奮したもの。夏の暑いさなか、C社というメーカーで資料のコピー待ちをしていた時は、怖そうな社長さんから「よー、坊主」と呼ばれて、冷蔵庫にあったアイスを奢ってもらったこともあった。今でもある九鬼は、創業者は寺山修司天井桟敷のスタッフという変わり種で、60分のうち、スターリンのライヴが30分入っているという滅茶苦茶なAV作品まで出していた。後に町田康(町蔵)やメトロ・ファルスの伊藤ヨタロウ、てんちゆみ(きどりっこ)、石野卓球といった蒼々たるメンツが「昔、AVに出ていた過去があり!」と写真週刊誌で取り上げられたりもあったが、それも九鬼の話で、別段驚くこともなかった。当時のAV界がインディーズ・ロック界と深い関係で結ばれていたのは、『宝島』の読者には周知のことだった。安田理央氏などは、そうした背景から登場してきた存在である。
 バンドブームの到来で、『宝島』周辺のバンドもこざっぱりとし、次々とメジャーに移籍していった80年代末に、AV担当だった『momoco』から私が『宝島』編集部に移ったというのも、神のお導きかなのか……。