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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『キーボード・マガジン』(リットー・ミュージック)に、電気グルーヴのヒストリー原稿を書きますた。


Keyboard magazine (キーボード マガジン) 2009年 10月号 AUTUMN (CD付き)[雑誌]

Keyboard magazine (キーボード マガジン) 2009年 10月号 AUTUMN (CD付き)[雑誌]

 近況報告のため、久々の更新で失礼しまする。
 本日10日発売の、『キーボード・マガジン』(2009AUTUMN)に電気グルーヴのヒストリー原稿を書かかせてもらった。電気のメンバーとは取材で何度もお会いしているし、昔小生が主催していたイベントにも出てもらったことがあるけれど、彼らについての文章を書いたのは実はこれが初めて。郷里静岡の友人の実兄という『エレキング』『remix』編集長の野田努氏や、デビュー時から彼らを見守っていた小野島大氏らのインタビューや文章を、一読者としてこれまでは読む立場に過ぎなかった小生だが、専門誌らしく「楽器側からのアプローチで」ということでオファーをいただき、小生なりに役目が果たせればと思って引き受けた。電気グルーヴのファンのうち、どれぐらいの割合が『キーボード・マガジン』を読むような人なのかはわからないけれど、『キーボード・マガジン』を定期購読しているような“品行方正な読者”には、きっと電気の存在は魔物のようなものだろう。そういう意味で今回の原稿は、彼らのわかりにくい魅力を、身近で接していたこともあるワタシなりに、翻訳してあげられるのではと思って受けたもの。愛情が溢れすぎて、例によって小生の悪い癖が出て、規定枚数を遙かにオーバーした長文になってしまったけど(笑)。
 以前、拙著『電子音楽インジャパン』(アスキー出版局から出た旧版のほう)を新しくアスペクトから復刊するにあたり、同時発売で続編を書かないかという話をいただいたことがあった。旧版は清水信之氏のインタビューが最終章。時代で言うと1981年12月、YMOがウィンターライブを終了して1年の活動休止に入り、プラスチックスが解散し、ヒカシューが“脱テクノポップ”路線にシフトしつつあった時期をひとつの大団円に、以降の歴史をスッパリ切り落とすという構成を取っていた。これらのバンドの共時現象的な動きを、いわば「黄昏の風景」として織り込み、MIDI登場前夜で終わるという、ノンフィクションとしてはかなり感傷的な、沢木耕太郎チックなまとめ方をしていたのだ。その続編の話をいただいたあと、80〜90年代のシンセサイザー音楽シーンについて一回俯瞰した結果、続編ではなく追加取材をした「増補版」として出し直すことに変更。新版の『電子音楽 in JAPAN』(2001年刊行)では、TPO、PSY・S、Shi-Shonenといったデジタル時代の黎明期のグループが登場する、80年代中盤までにとどめることにした。このとき実は小生、90年代のテクノシーンの代表として電気グルーヴの活動なども一通りおさらいしていたのだけれど、いろいろ逡巡した結果、その時代を取り上げることを断念している。電子楽器メーカーがガレージ・ファクトリーから歴史を立ち上げ、ミュージシャンもまだ手探りで電子楽器を取り入れていた“ハネムーン”の時期は、MIDIが普及し始めた80年代中盤には、すでに終わりつつあったことが理由。小生が音楽雑誌の編集者で楽器担当をやっていた87年ごろには、プロフィット5のシーケンシャル・サーキットもすでにヤマハの門軍に下っていたり、80年代初頭に勢いのあったベンチャー企業は次々と解体。以降のデジタル楽器メーカー史は、大手銀行をファイナンシャル・バックグラウンドにして、ある種マネーゲームの様相を呈していく。
 しかし、今回のヒストリーを書くにあたり、改めて80〜90年代の電子音楽史を振り返ってみたのだけれど、電気グルーヴのメンバーが歩んだ歴史も、けっして画一化されたり、順風満帆だったわけではない。「楽器が弾けなくても、誰でも音楽ができるようになる時代」の実現が、創作者たちに苦難の道を強いてきたところがある。そういう意味で言えば、不自由な時代とはいえ70年代に青春を送ったミュージシャンのほうがずっと悩みは浅く、時代状況に恵まれていたといえるだろう。デジタル黎明期から普及期までにあたる、8ビットから16ビットと処理速度が劇的に向上してくる80年代中盤はまた、アナログ時代の10年間ぐらいに相当する進化のタームが、2〜3年ごとに更新されていく激動の時期でもあった。当時は、一桁しか表示できない前後不覚の液晶ディスプレイで打ち込むのも、MIDIデータの発声音が増えるとケーブルの転送量の限界がきて「テンポがもたる」のも当たり前。データをバックアップするのもフロッピーではなくミニディスクで、サンプラーにしても小生が音楽活動をやっていた86年ごろは、CD音質に劣る「12ビット」が標準の時代だった。このデジタル黎明期のミュージシャンたちに話を聞いても、『電子音楽 in JAPAN』と同じぐらいの濃厚なノンフィクションが書けると思うのだが、きっと機材の進化史は時代を刻むものさしとして背景に後退し、それを使う創作者の「心の問題」が主役になっていくだろう。
 歌詞やパフォーマンスから見た電気グルーヴは、これほどひねくれたバンドはほかにいないと思うほど屈折しているが、デヴァイスの歴史から彼らの成長を眺めていくと、時代状況に呼応して創作活動を果たしてきた、極めてマジメなグループに見えてくるところがある。『キーボード・マガジン』への寄稿文は、オッサン臭い、よそよそしい感じの文章ではあるけれど、それは愛情の裏返しで、海外のジャーナリストが電気グルーヴのヒストリーを書いたら、こんな感じになるのかなというようなフラットなまとめ方になっていると思う。
 そしてもうひとつ、90年代初頭にムーヴメントをダイレクトに体験しながら「テクノがわからない」をずっと表明してきたこと。おそらく「パンクを通ってこなかった」ワタシの生い立ちに理由があるのだろう(これも単純な話ではなくて、フュージョンからテクノに入った人間なりに、より深い葛藤もあったりするんだけど、それはまた別の話……笑)。実は、過去にも電気グルーヴについて原稿依頼されたこともあるにはあるのだが、いつも丁重にお断りしており、テクノの最大の理解者だった野田氏、小野島氏らが電気の活動を文章でフォローしてくれるのが、なにより正しいと思っていたのだ。
 ワタシなりに書くスペースが与えられたと思うようになったのは、昨年の久々のニューアルバムに『J-POP』というタイトルが付けられていたこと。レコードショップの「クラブ」のカテゴリではなく、「Jポップ」のカテゴリでまっとうに勝負したいと付けたのがこのタイトルという。テクノとしてのエクスキューズなしに、日本のロック/ポップスシーンの本流に向けて堂々と音楽を作っている電気グルーヴに、きちんと対処するのが書き手としての勤めだろうだろうからね。