POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

家政婦は見たPart3「細野晴臣氏の黒歴史? FOEを検証する」

Making of NON-STANDARD MUSIC

Making of NON-STANDARD MUSIC

 今年の初め、スペースシャワーTVのほうから依頼を受けて、日本のテクノポップ史をクロニクル形式で構成した2時間のテレビ番組の選曲を担当させていただいた。以前、『史上最大のテクノポップDJパーティー』というイベントを主宰していた時、ビデオが流せるようにプロジェクターを置いてお客が車座になってそれを囲み、懐かしいフィルムコンサートみたいに、80年代当時の様々なグループのビデオを延々2時間半も観るという“番外編”的な試みを一回だけやったことがある。クラブ文化の隆盛前夜で、そういう試みが珍しかったのもあって、各レコード会社から「建前はPRということでね」ということで許可をもらって、非公式にビデオを貸していただくことができたのだ。ビデオ鑑賞会などアナクロの極致的なイベントだとは思ったが、今のように過去映像がDVD化される機会などが少ない時代だったから、お客にはずいぶん喜ばれた。今のYouTubeではないが、いくつかテレビ映像を勝手に使わせてもらったりして、Shi-Shonenの「嗚呼、上々」とか『鶴ちゃんのイチゴチャンネル』に出た時の「瞳はサンセットグロウ」(片岡鶴太郎が、南流石が振り付けた福原まり嬢の動きを面白がってイジっていた)、フジテレビの深夜番組『面白予約SHOW』で流れたコシミハル「イマージュ」、沙羅「サテライトIO」、有頂天「べにくじら」など、ここでしか観れないものもずいぶんフィーチャーできたと思う。中でも出色だった映像は、テイチクのノンスタンダード立ち上げの時に、映画館でかけるために制作された、ジョン・カーペンター遊星からの物体X』とケン・ラッセルアルタード・ステーツ』を掛け合わせたような、細野晴臣S-F-X』のPR用の短編映画だ。お金を使ったフィルム撮影ということもあり、ノンスタ立ち上げ時の勢いがひしひしと感じられる。実はテイチク時代には、FOEのビデオというのは割と多めに作られていて、ノンスタ作品が一斉にCD再発化された時に購買特典で付いてきた、初期のプロモ集に入っていた「ストレンジ・ラヴ」以外にも、日本武道館公演を素材にした「DANCE HALL」など、複数のビデオクリップがあったのだ(某局で観たことがある)。
 スペースシャワーの選曲仕事の時は、エクセルでリストを作って、昔借りたものなどを思い出しながら、各社に調査を依頼しておいた。ところが、90年代初頭のイベントをやったころにはまだ残っていた80年代のテクノポップ系グループのビデオは、かなりのものが廃棄されていたのだ。一風堂「MAGIC VOX」のように、BBCの年間リクエスト4位に入ったMTV史に残る貴重な作品も残ってなかった。以前も別エントリーで書いたが、おそらく固定資産税の対象となるために、契約終了のアーティストの関連物は、商品化されたもの以外は廃棄することを経理などから要請されるためであろう(実は、出版社も事情は同じなのだ)。テイチクにあったFOEの映像は、PVはおろか、数年前にプレゼントで出していたはずの『S-F-X』の短編映像すら今は残っていないと言われたのはショックであった。つくづく思ったのだ、FOEって不憫な存在だなあと。
 現在、細野晴臣氏のビブリオグラフィー関連物については、はっぴいえんど時代から支持する多くのジャーナリストらの協力によって、かなりのものが手に入るようになった。ティン・パン・アレイの中華街ライヴなど、CDで聴けるようになるとはよもや思わなかっただろう。だが、そんな細野ヒストリーの中でも、FOEにスポットを当てたものを読んだことはほとんどない。実際、有名な「滑って転んで」(「COME☆BACK」)の歌詞に象徴されるように、細野氏の骨折事故という“天啓”によって解散させられたようなグループだったので、総括が難しい存在ではある。だが当時、雑誌編集者として音楽業界に入ったばかりだった私は、「細野晴臣が、YMO散開後に結成した初のグループ」というFOEのキャッチフレーズには、いやがおうにも期待させられた。事実、ジャケットに映るレーベルの象徴だった緑色のオブジェ、グロビュールは“ビッグバン後の星の胞子”と説明されており、「ビッグバン=YMO解散」後の“再生のシンボル”として捉えていた私などは、FOEに「テクノポップの再生」の希望を託したものである。
 FOEについては、実は資料らしいものがほとんど残されていない。日本武道館公演の豪華パンフレットや、浅田彰+大原まりこが執筆した『FOE MANUAL』なる単行本も出版されてはいるが、これらは音楽を説明するための機能を果たしたものではない。後者は「ホール・アース・カタログ」のパロディのような装丁だったが、私のような音楽バカで生真面目な性格の人間からすると、その内容はまるで「ファンを煙に巻いてるんじゃないの?」という印象すらもったほど。メンバーが積極的にグループを語った発言も当時から読んだこともなく、再発CDのライナーノーツでも、事実関係をつまびらかにするのが限界だったようだ。ただ、私はそのころ、まるで細野晴臣FC会報のような『Techii』という雑誌にいたので、発言をひとつひとつ聞き漏らさないようにしていたつもりで、活動期のFOEについては、いくらか自分流に解説することができるのではと思っている。以下、あくまで目撃者の一人だった私の主観からこう見えた、という断り書きをして、FOEのヒストリーを書いてみたい。音楽雑誌の細野特集でもし100ページ使えたとしても、FOEに割けるのなんて数ページだろうから、こういうミニマムなネタこそブログの本領発揮ということで、お付き合いいただけると嬉しく思う。ていうか、自分らの世代がやらなくて誰がやるってーの(笑)。
 85年にノンスタンダード/モナドが立ち上がった時の話は、まだ業界にはいなかったので、音楽雑誌や週刊誌で取り上げられた記事で知っている程度だ。有名なテイチクの社長が「細野を呼べ」と語ったというエピソードも、広く喧伝されていたから、音楽に興味のない会社の先輩なども知っていたぐらい。“商業レーベル”のノンスタンダードと、“非商業レーベル”のモナドという二枚看板でレーベルを運営していくという話が、最初から組み込まれていたのかは定かではない。最初にその話を聞いたときは、YEN時代のYEN(レギュラー)とテストパターンやインテリアを輩出した「YEN MEDIUM」のような、上下関係としてそれは意識していたような気がする。モナドも当初、ノマド(ややこし)というレーベル名だったはずで、イーノのアンビエント・レーベルみたいに環境ビデオや出版物も扱う中で、レコードも出すということだったから、あくまでノンスタありきで、モナドは特殊商品専科のサブ・レーベルという位置づけと捉えるのは、レコード会社の経営上の扱いとしては間違ってなかっただろう。
 実は立ち上げ時、ノンスタンダード/モナドは「細野晴臣の新レーベル」という形でマスコミには取り上げられていた。だがそのころはまだ、自身が立ち上げたアルファレコードのYENレーベルのプロデューサー契約は残っており、ノンスタ立ち上げの後からも、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』や『YEN卒業アルバム』など細野氏が関わったタイトルがリリースされている。ノンスタンダード/モナドとの契約は、あとから知ったのだが、YEN時代と違って、一アーティスト、またはパート・プロデューサーという立場だったようで、レーベル全体の責任者ではなかったようだ。YENはアルファレコードの社員A&Rによる社内レーベルだったが、ノンスタンダード/モナドはテイチク内に制作を置かず、エイベックスとデイジーワールドのように、販売はテイチクが行い、GEOという会社が外部A&Rとして制作を受け持つという関係だった。GEOには、YMOのマネジャーで有名だったI氏などが在籍していた。「演歌のテイチク」にポピュラー音楽制作の受容度があったとも思えないし、成り立ち自体がテイチク社長管轄の特殊なプロジェクトだったので、この時代に外部A&Rのシステムを取り入れていたのは、かなり珍しいケースだったと言えるかも知れない。だからこそ、ノンスタンダード/モナドはその後、日本の商慣習との軋轢に苦しむことにもなるのだが……。
 これはあくまで当時の私から観たイメージだが、細野氏がYENを抜けてテイチクに移籍したのは、あくまでモナドをやりたかったからではないかと思っている。社外A&Rという存在は今でもそうだが、レコード会社不干渉がルールなので、実験的な試みにもトライできる環境があり、売り上げさえ出してくれれば何をやってもいいことになっている。YENレーベル後期に、おそらく細野氏が悩まされてきたのは、なにより成果主義を求められる社内レーベルだったからではないかと思う。配給はテイチクがするが制作環境はこちらで用意できる新レーベルの条件は、当時の細野氏には魅力的に映っただろう。だから、おそらく細野氏にとっての本線はむしろモナドにあり、そのモナドでの活動の自由度を確保するために、ノンスタンダードのほうをヒットレーベルに育てて、安定的な運営を目指したのではないだろうか。また、当初はワールド・スタンダードもカタログ上はモナドのアーティストとして紹介されており、そのほかビデオ映像作家などをアーティストとして迎える予定もあった。この辺はブライアン・イーノのオブスキュアなど、わりと風通しのいい海外の自主制作レーベルがヒントになっていたと思うが、その後、ビデオなどのリリース計画は立ち消えになってしまい、ワルスタもノンスタに移籍することになって、モナドに残されたカタログはすべて細野自身のソロ作品という結果となった。後期FOEが、細野ソロから離れプロジェクト色をより強めていくことを考えると、モナド=細野氏、ノンスタンダード=それ以外、というぐらい、細野氏のやりたかった仕事の成果が、モナドに集約されているのだ。実際、モナド作品の完成度の高さは、ノンスタンダードの成果を超えていると私などは思っている。
 ちなみに、ノンスタンダードの命名理由は「標準化されていない大衆音楽」というもの。還元すれば、つまり歌謡界、芸能界の外部からアプローチして、ヒットメイクを試みるという狙いだろう。これはあくまで参照例としてだが、当時、BOφWYのように「テレビに一切出ない」手法でファンを集めるような新しい成功パターンが出始めたころで、そのような芸能界に属さない“非主流”なやり方(YMOは芸能界に属して存在していた)で、レコードのマスセールスを実現できるのではないかという期待を込めた、これもまた実験的なレーベルではなかったかと解釈している。だから、BOφWYとも親交が深かった、ルックスのよいアーバン・ダンスのような、本来の細野趣味からは離れた異色な存在をノンスタンダードは受容できたのではないかと思うのだ。
 であるからこそ、細野がノンスタンダードから出した作品については、レコード会社のルールを厳守していた。最初の作品「Making of NON-STANDARD MUSIC 」(但し、モナドとのスプリット)、『S-F-X』などは、異常なほど短期間に制作されている。実は、レコード会社で新譜を出す際に、いちばん最初に決定する要素というのが、社内稟議にかけて了承を得た後の「発売日」。レコーディングほかすべての行程は、そこから逆算してスケジュールが組み立てられるのが慣例だ。だから、自然な摂理に適った「新曲ができたから」→「レコードを出しましょう」という風なプロセスでレコードが作られることは通常ありえないという、いびつな構造がそこにはあるのだ。おそらく短期間に次々と制作してリリースしたのも、先に作られたスケジュールを履行してどんどん作品を作る形でしか、理想的な制作環境を確保できなかったのではないかと思う。
 FOEの音楽性については、YMO結成時に存在していたマーティン・デニーのようなモチーフが、広く知られているわけではない。ただごく初期のみ、インタビューなどでリファレンスを公開していた。ザ・システムのデヴィッド・フランクは、ハイエナジー寄りの軽薄なイメージもあったりするプロデューサー。だが当時は、スクリッティ・ポリッティがパワーステーションで録音した「ウッド・ビーズ」や、デヴィッド・パーマーがABCを抜けて結成したパーソン・トゥ・パーソン「High Time」などに手を貸しており、グリーンら当のメンバーよりも、細野氏は制作にクレジットされていた彼の存在に着目していた。それとニュー・オーダーシンディ・ローパーなどのリミックスを手掛けていたイタロ・ハウスの名匠、アーサー・べーカーの影響も色濃い。実際、アーサー・べーカーが手掛けたフェイス・トゥ・フェイス「Under The Gun」(テレビ朝日のMTVではよく掛かっていたのに、なぜか日本発売されなかった)の12inchに収録されたラテン・ラスカルズのリミックスは、「ボディ・スナッチャーズ」のリミックス・ヴァージョンに多大な影響を与えたことが伺える。また、後期FOEにメンバーとして正式に迎えられる、元ラウンジ・リザーズのアントン・フィアーにも着目していたが、但し彼のドラミングにではなく、リズム・マシンのパターンの打ち込みの非凡さを高く評価していたようだ。てことはさしずめ、ザ・ゴールデン・パロミノスのファーストあたりであろうか。
 同じころ、アルバム『業界くん物語』で、ヤン富田氏のプロデュースによる日本初のヒップホップ曲が誕生したり、近田春夫氏がシックスティ内に日本初のラップ・レーベル「BPM」を立ち上げるなど、Jラップ誕生の動きなどもあったため、FOEも和製ヒップホップ・グループのひとつとして捉えられていた。だが、近田春夫氏、いとうせいこう氏らが、ヒップホップの実践において、かつての「日本語ロック論争」のように言葉の扱いの問題を重要視し、16ビートに載せるライムなどのフロー研究に執着していたのに対し、FOEは「ボディ・スナッチャーズ」を始めとして、アクセントに「Thing」「Watch Out」など英単語を置いて、ちょっとズルして日本語によるヒップホップを実践していた。だから、むしろこの時期は、言葉よりも音ありき。快楽主義的なデジタル・ビートがモチーフとして大きく、FOEにおける16ビート、32ビートの追求は、理屈や言葉を超えたスピードのみを志向していたように思う。「OTT(オーバー・ザ・トップ)」というのは、いわばYMO結成時に語っていた「エントロピー」の概念の発展形。コンピュータを使うプロセス自体に魅了されていた初期YMOのころのように、スタジオワークの作業の中から何か新しいものが生まれてくるという狙い以外は、明確に目指すサウンドがあったわけではないようだ。あの過剰な32ビートを、細野氏が当時「抗ストレス音楽」と呼んでいたのは、おそらく“インターチェンジ効果”(高速から一般道に降りた時に、風景が止まって見える現象)のような効果を例えてのこと。それほど当時の細野氏の日々の生活が、目まぐるしいジャンキーのような状況に置かれていたのかも知れない。またその時期というのは、坂本龍一氏のプロデュース作や、ジェリーフィッシュにリミックスを頼む話もあった高橋幸宏氏の『Wild & Moody』など、YMOの他メンバーもこぞって、ヒップホップ的サウンドに接近していた。しかし、細野氏の 16ビート探求はMC-4を自身で打ち込む中から自然発生的に生まれたテーマで、他メンバーのような海外のヒップホップシーンの翻案といった、外部のダイレクトな影響からではなく、もっと魑魅魍魎としたものだったのではないかと思う。
 だが、そんな私の仮説上では扱いにくい『FRIEND OR FOE?』というアルバムがある。細野晴臣ソロではなく、正式なFOE名義の最初のアルバムだが、かなり歌詞もシリアスな作品で、ここでの音楽の扱いはやや投げやりというか、『S-F-X』ほど手放しで楽しめるものではない。むしろ、元インテリアズの野中英紀氏をパートナーに迎えた理由にも繋がるが、「音楽よりスローガン」という逆転したアルバムになっていると思う。FOE日本武道館のパンフレットを読むとわかるが、2人の間に音楽的な礎があったわけでなく、ただ「敵か味方か?(Friends or FOE?)」という声明だけが、2人を結びつけていたという。いわば本作こそ、彼ら流のステートメントを載せたラップ・アルバムなのだ
 ちなみに「敵か味方か?」というのは、英国のパンクや、NYのヒップホップの曲の中で、対象として歌われる政治家や王族のような“敵の存在”が、日本の社会では見えにくくなってきているという、当時の細野氏の発言に繋がるものだ。その地球規模のグローバルな視点が、野中氏と“共闘”することになった最大の理由のように思う。それ以前は、YMOワールド・ツアーへの失望から、とことんドメスティックに内向して、松田聖子を始めとする和製ポップスの質的貢献をした細野氏だったのだが、この時期はむしろ海外と繋がることを志向しており、後のジェームズ・ブラウンやNYダウンタウンのネットワークだけでなく、ニュージーランドサウンド・テロリスト、ジム・フィータスらとも交流していたほど。一件つながりが見えにくい野中氏をパートナーに選んだのも、彼の留学経験などを評価した、言葉やコミュニケーションの作法の問題からではないだろうか。
 後に近田春夫氏からラブコールを受け、彼のBPMレーベルから「COME☆BACK」を出しているFOEだが、なぜ和製ヒップホップの運動に同調しなかったかについては、「日本には海外のような、カウンターとしてのストリートの音楽など存在しない」という、当時の細野氏の発言が暗示していると思う。近田氏にも「Hoo! Ei! Ho!」という同モチーフのラップ曲があるが、86年の新風営法施行によって、ディスコなどで夜遊びをしていたミュージシャンたちが皆、家に閉じ困られるという状況があった。だから日本に於いては、新しい音楽はストリートには存在せず、むしろ自宅録音をしているヲタクな連中から新しい音楽が出てくるはずだ、というのが細野氏の当時の主張であった。格差社会、階級社会が明確に見えにくい日本では、敵の存在を認識するのが難しく、パンクやヒップホップのようなカウンター的な動きが起こりにくい。そこで細野氏は、「敵か味方か?」という価値観の共有を問うことで、敵の存在をあぶり出そうしたのである。動機付けは細野氏には珍しく、極めてパンクだったりするのだ。
 細野氏が当時、「今はホーム・レコーディングしか信じられない」と語っていたが、その背景には、85年に行われた筑波科学万博への失望の念がある。YMOの初期のころ、「テクノロジー崇拝」の一翼を担っていたことについて、活動期から猜疑心はあったと語っていたが、YMOが社会参加をする際に、かならずパートナーとして手を差し出してくる相手というのが、スローガンを高らかに謳い上げる日本の企業であった。テクノロジーの可能性を誰よりも信じるミュージシャンだったが、筑波万博の狂騒など、結局はただの企業パビリオンの陣取り合戦に過ぎないと、細野氏は論破していた(一方で、筑波万博に多大な貢献をしている、坂本龍一氏とは対照的)。それはかつて、大阪万博を真っ向から批判した、高橋悠治氏の声明に似たものを感じさせる。高橋氏も、国家予算で音楽を作るNHK電子音楽スタジオのようなパトロン文化から早くに離脱し、モーグなどの小型シンセサイザーのシステムで70年代から創作に取り組んでいた。この時期、細野のシステムも『フィルハーモニー』のころよりさらにミニマム化し、レコーディング・スタジオも「LDK」より、六本木WAVEの上階にあったビデオ映像用のMAスタジオだった「SEDIC」主体に変わっている。また機材も、高価だったプロフィット5や装甲車のようなボディだったイミュレーターから、カシオのミニ鍵盤付きのCZ-101のような民生機が中心になっていた。「エコーはヨーロッパの歴史そのもの」と語っていた細野だが、ノンエコーを極めていたこのころの音は、坂本龍一氏が『NEO GEO』で実践していたようなサンプリング手法と、間逆のやり方で“脱領域化”を実践していたと思えるのだが、うがちすぎか?
 さて、当初からFOEは12inch(当時はその折衝案として、ミニ・アルバムの形態が取られていた)主体で活動するグループと説明されており、それを細野氏は「FOEの活動というのはドキュメンタリーであり、ニュースである」からと語っていた。だから12inch攻勢というのは、刷りだしの新聞の号外のような即時性を求めた、FOEというグループの活動を成り立たせるための必須条件でもあったのだが(この辺は、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのころのZTTレーベルと通じるかも)、実際は日本の商慣習にそぐわないということから、早期にアルバムや7inchシングルへのシフトが要請されている。『SEX,ENERGY&STAR』に細野氏が関わった曲が少ないのは、それがミニ・アルバムから制作が始まって途中でフル・アルバムへと変更されたため。「Sex Machine」の7inch Mixも細野氏の仕事ではない。ラスト・アルバム『SEX,ENERGY&STAR』では、一切関わっていない曲もあったりして(表題も細野氏命名に非ず。これは珍しいかも?)、実態が取材レポートなどのニュースとして紹介されればされるほど、FOEは実態が見えにくくなっていくというアンビバレンツな存在だった。そういう意味では、最後のシングルが、細野氏がFOEを休止した理由をラップで綴る「COME☆BACK」だったというのも運命的だろう。
 ただ、細野氏以外が時期によってイニシアチブを取ることもあった、開かれたグループであったことが、別の面でFOEの魅力にもなっていた。特に私にとって印象深かったのは、後にフェンス・オブ・ディフェンスで再登場する、ベーシストの西村昌敏氏を途中から迎えたことだろう。時期的にはたぶんTMネットワークのサポートをやっていたころだと思うが、西村氏は元々、長戸大幸氏率いるビーイング所属アーティストで、マライアや清水信之氏などのように、スタジオ・ミュージシャンとして活動してきた、ノンスタ周辺では異色のプロフィール。ビーイング時代の仕事では、同社に所属していたアイドルの太田貴子が、声優として出演していた『クリーミー・マミ』というアニメの主題歌でジョルジオ・モローダー・サウンドを実践したり、デビューに1億円をかけたユニット、少女隊の12inch「Forever」のヒップホップ・ミックスなどを手掛けたりして、一部の歌謡曲ファンを唸らせていた。実は後者の少女隊は、当初はマテリアルのビル・ラズウェルに本当に依頼する話もあったらしいのだが、それは果たせなかったものの、西村氏の手掛けた12inch Mixは、あの時期の和製ヒップホップとしてはかなりの完成度を持っていたと思う。西村氏の合流はおそらく、細野氏がだんだん離れていった最後期のFOEに於いて、パートナーだった野中氏にとって心強い存在だったと思う。また、アントン・フィアやアイーヴ・ディエンといったNYダウンタウン周辺のプレイヤー、ジェームズ・ブラウンのような大物から、小林克也氏やスパッツ・アタック(ディーヴォのPVに出ているダンサーで、一時はMELONのメンバーとして日本在住)のような異業種のクリエイターまで参加させて、FOEビル・ラズウェルのマテリアルのようにアメーバ状に変異していった。このあたり、実は横尾忠則氏を迎える計画があったとか、メンバーが「100人になるかも知れなかった」と語っていた、YMOの原型イメージを反映させていた面もあったのかも知れない。
 FOEは、テイチクから離れて近田春夫BPMレーベルから出した最後のシングル、「COME☆BACK」の歌詞で触れられている通り、『SEX,ENERGY&STAR』のミックスが終了した直後、雪道で滑って骨折し、入院を余儀なくされたことから、グループ自体が消滅している。ただ、アルバム完成後の取材時にすでに各雑誌で語っていたように、レコーディング直前に行われた日本武道館でのジェームズ・ブラウン公演の前座で、客からのブーイングを受けたことが、解散の直接のトリガーになっていることは否めないだろう。これまでもグループをいくつも結成しては解散の苦労を味わってきた細野だったが、だからFOEはある種“天啓”によって終わらされされたグループなのだ。日本武道館公演の顛末を語ったときの、「FOEを終える、まあきっかけになったかな」という発言は、失望というよりも、ピリオドを粛々と受け入れるという、クールな佇まいを伺わせるものだ。また、ご存じの方もおられると思うが、日本武道館ジェームズ・ブラウンの楽屋で、細野氏は忌野清志郎氏と初対面を果たしており、忌野氏をジェームズ・ブラウンに引き合わせたのが縁で、後にHIS(細野晴臣、忌野清志郎、坂本冬美)結成に発展していくのだから、何が幸いするかはわからないものだ。
 最後にーー。細野氏は当初、モナドをやりたくてテイチクに移ったのではと私は書いた。が、結果、モナドは当初発表されていたような映像作品、出版などの他事業に進出することはなく、純粋な“商業レコード”のレーベルとして、ノンスタンダードの商品と同じように扱われていった。今の時代から思えば、モナドのようなコンセプトを実践するなら、インターネットの通信販売などの販路を使った限定商品として、“非商業レーベル”として運営するスタイルが模索できたと思う。だが、当時はまだ既成の流通網が音楽シーンを支配しており、市場にとってこの2つは、毛色がただ違うだけの「細野晴臣のレーベル」という意味で、ほとんど同じように扱われていたはず。映画のサウンドトラックだった『パラダイス・ビュー』のようなマス向けにアピールする作品もモナドで扱われていたし、CM音楽集『コインシデンタル・ミュージック』に至っては、明らかに細野氏のポップサイドに配慮した選曲がなされている(事実、これがいちばん売れた)。
 YEN時代には、「YEN MEDIUM」作品を新しい時代の音楽に相応しく2200円というチャレンジ価格で出したり、ゲルニカ『改造への躍動』のように4chのカセット音源をあえて商業リリースしたこともあったが、モナドに於いては、むしろノンスタと同じような「商品」としての有り様が求められていたように思う。モナド=細野氏、ノンスタンダード=それ以外、と私は書いたが、“商業レーベル”“非商業レーベル”とくっきり分けられるほど、2つは表裏の関係にはならなかった。つまりそれほど、ノンスタンダードが受け入れられなかったのだ。しかし、初期作品である『S-F-X』の終幕に、すでにモナドとの混合が見受けられるように、当初から2つは、ブライアン・イーノのようなきっちりと分かれたコンセプト・レーベルにはならなかったんじゃないかと思う。イーノは『No New York』のように、本当に不干渉という非プロデュース=プロデュースを実践してしまうクールなビジネスマン。そうしたイーノの偉業に触発されつつも、やっぱり細野氏が関わると、ノンスタ作品もモナド作品も相似形を描いて、いわゆる「ポップな普遍性を獲得してしまう」というところが、テイチク時代の細野作品の魅力だったりすると思うのだが、いかがだろうか。