POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

雑誌『テッチー』(音楽之友社)の思い出

 このところ、えらく音楽ジャーナリズム批判が続いていて、読み直すと青すぎて恥ずかしいな。まるで20年前の血気盛んな若かったころみたいだ。『ミュージック・マガジン』批判だって、ただ憎くて言ってるわけじゃないよ。感性を育ててもらった恩も感じてるが、同世代の後継者が不甲斐ないから怒ってるだけ。聞けばこの手の月刊音楽誌は今、どれも刷り部数3万部止まりだという。通常の返本率を考えれば、定期購読者は1万人ちょっとだろう。いまどき萌え系のムックなら、中堅クラスでもそれ以上売れているはず。それでライターのギャランティを払ってるのだから大変な労力である。今年もレコード会社の再統合は続くと言われているが、それすなわちメーカー数が半減するということ。ご祝儀で出稿いただいているような固定枠のレギュラーの広告主が半分になれば、広告収入もその通りにガクッと減る。新聞社の収入落ち込みを伝えるニュースで「前年比マイナス20億円」なんていうとんでもない金額が出るのは、全国紙1ページ全段で出稿料1000万円として、それが200本埋まらなかったってだけの物理的な話だから。また音楽雑誌では、ディスカウントといってお付き合いの深いメーカーは、7掛け、5掛けなんていう割引料金で広告を受け付けるのも日常的。最近は営業かけてもページが埋まらず、輪転機がまわるギリギリまで枠を空けて待つなんてことも多いらしいけど、落ちてもページを減すわけにもいかず、かといって全部自社広告で埋めるのもみっともないから、「次回はぜひ出稿を」とお願いしてサービスでタダ広告を入れるところも増えている。今はメール便があるからそれほどシビアじゃないけど、昔は定期発送の郵便料を安くするために「第三種郵便」の認可を取るのが必須で、広告を全ページの半分以下にするなどの取り決めがあったから、出稿とバーターで広告みたいな商品絶賛記事を別枠で用意する、タイアップなる商法も生まれた。かの音楽雑誌も広告ページと目次を照らしあわせれば、どれとどれがタイアップ記事かは一目瞭然なんだけど、高橋修はそういう自覚がないのか、タイアップ記事でも滅茶苦茶書くからなあ。そういうのを「広告に振り回されない態度」なんて、プロだったら絶対言わないからね。
 脱線話が続いた……。ワタシも20年前に音楽雑誌にいたことがある。音楽之友社から出ていた『Techii』という月刊誌である。編集者生活2年目に編集部に入りし、それから約2年を同誌の編集者として過ごした。たまたま文章を持ち込んで、音楽好きなのを見込まれて編集者になったのだが、音楽好きが仇になってギョーカイに勝手に失望し、2年でそこを離れた。当時のことを思い出しても、毎日泊まりでただ忙しかっただけだから、いきなり振られても何のエピソードも出てこない。思えばそこを辞めたのは自分のいたらなさが最大の要因であったが、バブルに向かう景気上昇の時代だったから、本当にうさんくさいギョーカイ人が出入りしていたころで。映画業界、出版業界にくらべると音楽業界は、そういう魑魅魍魎を寄せ付けやすいところがある気がする。音楽評論家にしてもライターにしても、マジメに原稿も書かずFM番組やテレビの構成で食ってるような、遊んでるだけのいかがわしい人のほうが多かったし。音楽嫌いになりそうだったので、「この世界にいたら自分はダメになる」と思って、たった2年で音楽ジャーナリズムの世界から離れた。知人の編集者が以前、校正係として出入りしていた出版社の編集部に、たまたま空きがあると言われて、89年に『Techii』を辞めて畑違いのアイドル雑誌の編集者になる。よく考えりゃ音楽業界もアイドル業界も同じようなものなんだけど……(笑)。まだ20ウン歳で若かったころだから、ミーハー気分もあったんだろう。アイドル誌時代に取材で行った南野陽子の誕生パーティーで、尾崎豊にばったり会ったことある。カリスマロッカーだってアイドル好きっていうんだから、同学年ってことで許してほしい(笑)。
 ライター参加時代も含む、『Techii』で過ごした86年〜88年というのは音楽産業にとって激動の時代であった。歌謡曲のイメージの強かったソニーグループが、佐野元春らの時代の種まきを経て、ミュージック・ビデオ時代にメディアを味方に付け、プリンセス・プリンセスユニコーンTMネットワークなどをビッグヒットさせて、日本には根付かないと言われていたロックのビジネスを成立させたころだ。「ロックは日本に根付かない」というニュアンスは、今の世代にはわかりにくいかもしれない。例えば70年代末にデビューして「ロック御三家」と言われ、アイドル並みの人気を誇ったチャー、世良公則とツイスト、原田真二の3組にしても、チャーは職業作家の書いたシングルを歌ってたし、ツイストはヤマハポプコン出身で当初はニュー・ミュージック扱い。原田真二を売り出した辣腕プロモーターは、元キャンディーズのマネジャーだった大里洋吉氏であった。いずれも芸能事務所的な仕掛けでテレビに登場して人気を得て、そこから現在に至るキャリアをアーティスト本人が築いていった。つまり80年代初頭までは、まだ「グループサウンズ商法の時代」が続いていたと言ってもいい。大里洋吉氏はさらにその後、アミューズを設立するんだけど、テレビを利用してジューシィ・フルーツサザンオールスターズを大衆化した手腕は、やはり大手芸能事務所にいた時代に培われたものだろうしね。
 ワタシが上京した84年ごろはまだ、YMO解散から半年足らず。「テクノポリスTOKIO」の時代の残り香やワクワク感がまだ東京の街の隅々にも残ってて、細野さんの出たばかりの新曲をカセットに入れて、ウォークマンで聴きながら街を歩くのが『ブレードランナー』的体験だなどと言われていた。ポップで実験的な“ポストYMO”的新人が次々デビューしていた時代だし、サンプリング登場以降の電子楽器の発展にはめざましいものがあって、「ロックは進化している」という躍動感は、音楽業界全体にあったと思う。しかし、そういう加速度化は、先の「ロック大衆化」の時代到来と引き替えに、80年代中ごろにパタっと失速する。ワタシが『Techii』で仕事を始めた86年には、ノンスタンダード/モナドとテイチクの契約が秘密裏に解消され、教授もミディ・レコードを早期に離脱。高橋幸宏ムーンライダーズもまた、芸能界的体質のレコード会社内でレーベルのために戦っていた時代であった。YMO散開以降に登場したユニークな新人グループに心酔し、まるでそのファンジンのような雑誌に編集者として入ったものの、すでにそんな新しい才能にメディアが味方する時代が終わりつつあったのだ。だから、先のソニーのアーティストのような、ロック・ビジネスで成功を果たした一群が、当時のワタシにはまるで敵のような存在に見えていた。
 このブログで『Techii』時代のことをずっと書かなかったのは、毎日忙しかっただけで記憶が薄いということもあるけど、そういう時代にあまりいい思い出がなかったから。『Techii』はワタシが去ったあと、わずか1年で休刊に。台所事情を知ってる自分から見れば、自社で広告営業まで引き受ける請負編集はあまりに予算的にきつすぎて、将来的展望も感じられなかったのが撤退した理由なのだろう。同社は出版業に見切りをつけ、コンピュータ・グラフィックス制作会社に転業して、第一人者として業績を確立。音楽に加藤和彦を起用したCD-ROM『アリス』で通産大臣賞を受賞して箔を付けた。元ラジカルTVの庄野晴彦が映像を手掛け、上野耕路が音楽を付けたCD-ROM『ガジェット・トリップ』や、シックスティで出ていた戸田誠司のソロ『Hello world:)』を新装版として復刻するなど、その後のリリース作品にも『Techii』時代のムードは残っている。だが、90年代初頭のバブルの崩壊の煽りを受けて、資金繰りがうまくいかずにシナジー幾何学は倒産。大変な苦労をされたそうだが、その後社長が広告業界に復帰された話を聞いてワタシも安堵していた。しかし、やはり近年の広告不況の影響もあったようで、今の仕事に見切りを付け、つい最近になって郷里に帰られたという話をある方から聞いたばかり。『Techii』編集者出身で、現在も出版の仕事をしているのはワタシ一人らしい。若葉マークの新人編集者に目を掛けてもらった義理もある。当時の記憶とともに、『Techii』という希有な雑誌があったということを記録しておくのも、恩返しになろうってもんだ。
 『Techii』は、毎号YMOの元メンバー、ムーンライダーズなどのニュー・ウェーヴ系グループをメインに扱っていた特殊な邦楽ロック雑誌。一時はミディレコードの機関誌なんて言われてたぐらい、その手のアーティスト情報が充実していた。中期から後期に掛けて登場したアーティストの中で、シンボリックな存在だったのは松浦雅也氏のPSY・Sと、戸田誠司氏のShi-Shonenだろう。クラシック専科の音楽之友社にとっては久々のポピュラー月刊音楽誌で、販売以外の編集、広告すべての業務を、シナジー幾何学という編集プロダクションが担っていた。ワタシが編集者兼社員として在籍していたのはその会社。自由国民社にいた方が独立して作った会社で、元々同社で『キープル』というキーボード雑誌の広告営業をやっていたのだが、最後は編集者となってその雑誌の最後を看取った。「フォノシートが付く雑誌」という『Techii』のフォーマットは、そこから受け継がれている。楽器の新製品を使ったモニター記事のために、プロのミュージシャンが新曲を録音してフォノシートに収録するという、音源制作のスタジオワークには独自のノウハウがあり、それが後のCD、CD-ROM制作への進出に活かされている。『Techii』という書名は「TECH+TOUCH」の組み合わせから付けられた造語。命名通り、雑誌の前半を「アーティスト情報」、後半を「機材情報」で半々に構成するというというのも、『キープル』からの流用スタイルだ。編集長によれば、『Techii』と『キープル』を並べると、立花ハジメのソロ『テッキー&キップル』みたいになるだろうというこじつけもあったらしい(笑)。社員はワタシが入ったときで3人。楽器のことがわかるのを見込まれて、機材情報の担当者として編集部入りしたのだが、当時ニュー・ウェーヴに詳しい人材は自分一人しかいなかったので、特集やらアーティスト記事やらと大半のページに関わっていた。「ムーンライダーズ新聞」や「窪田晴男物語」はワタシの担当。「アポロンの車」という珍しい名前の代理店が機材関連の広告営業をやっていて、そこが元々カシオの主要代理店だったこともあり、細野晴臣『S-F-X』で使われたCZ-101や、冨田勲氏のコスモ・シンセサイザーP-MODEL時代に平沢進氏が使っていたMIDIギターなど、カシオの電子楽器を頻繁に取り上げていたのが特徴的であった。
 ワタシは楽器周りの記事全般に関わっており、井上鑑氏、藤井丈司氏、飯尾芳史氏、戸田誠司氏といった、機材関連の連載執筆陣の担当をすべて受け持った。新製品モニターの記事でも、いわゆるテクニカルライターだけではなく、ピチカートV時代の鴨宮諒氏のようなミュージシャンの方にも、よくリポート記事をお願いしていた。書くのが本業ではない、老舗リットー・ミュージックなどでも書かれていない新人ミュージシャンを起用したのは、音楽情報と楽器情報を等価に扱う創刊コンセプトから言えば『Techii』の真骨頂のようなもので、「ヒップホップのための機材選び」なんて特集を、RUN-DMCなどのオールドスクール登場の余韻さめやらぬ、86年に掲載しているところが同誌のウリであった。ただし機材担当編集者としてのワタシは、あきらかに落第生。NECのPC-88、98などのパソコンがスタジオに導入され始めたはしりのころで、学生時代からパソコンなどほとんど触ったことがないような人間が、毎号記事チェックしてたのだからヒヤヒヤもの(笑)。当時はプログラマーの半分以上が、時代遅れのMC-4をまだ現役で使っていたころ。そんな転換期に、時代を先取りしてた戸田誠司氏のようなハイテク・ウィザードの担当として、毎回パソコン周りのトレンドをチェックしていたのだから、苦労がしのばれる。シンク・トラック用のFSK信号がやがてタイムコードになり、映画業界で使われていたSMPTEがスタジオ・ワークに普及し始めたころで、その理屈を飲み込むのにも本当に苦労しまして(笑)。「シンクロ野郎」という連載を持っていたプロデューサーの藤井丈司氏には毎回怒られてた。メンボクナイ。
 もう時効だろうから書いちゃうけど、『Techii』は創刊するにあたり、学習研究社YMOファン雑誌『サウンドール』の編集部員でもあった、ドラゴン高橋こと高橋竜一氏が編集長を務めるはずだった。それがいろいろもめ事があって、スタッフが全員離散。社長が急遽、編集長を務めることとなり、編集長クレジット不在のまま創刊号を出した直後のころに、ひょっこりワタシが現れて、2号目に書かせてみたらまあまあイケルじゃんってことで、創刊3号目から編集部員になったという流れがあった。専業の音楽ライターへの不信感のようなものがあったのかもしれない。できるだけミュージシャンに文章を書かせようという機運があって、新譜レコード・レビューも小西康陽高浪慶太郎(敬太郎)、成田忍、藤野ともね、直枝政太郎(政宏)など、ほとんどミュージシャンが書いていた。ミュージシャンのエッセイも、今の『TV Bros.』ばりに充実していて、のちに単行本『これは恋ではない―小西康陽のコラム 1984‐1996』にも収録されている、初めてエッセイを小西氏が連載始めたのもこの雑誌である。クラブキングができたばかりのころは桑原茂一氏とコネクションが強かったから、音楽選曲家協会が設立されたときは、その出張版のような連載を誌面に設けていた。これも面白い話なので、今だから許してってことで書いちゃうけど、自分が毎号担当していたスコア(楽譜)のページでも、たまーに現役ミュージシャンに小遣い稼ぎのアルバイトで採譜をお願いしてたことがあって、XTC特集のときの「ジェネラル&メイジャーズ」のバンド譜は、なんと成田忍氏が起こしたもの。アーバン・ダンスが当時、ステージで「ジェネラル&メイジャーズ」のカヴァーやっていたんだよね(笑)。
 こうして思い出していくと、当時の記憶の糸がもつれたまま、脳裏に浮かび上がってきた。よく考えれば直接の退社の原因は、別にあったのかもしれない。確かにイヤーな保守的な時代に世の中が向かいつつあったし、軽薄な音楽ギョーカイ人に対する嫌悪感もあった。しかし編集仕事にも慣れて文章を書く作業も油が乗り始めたころに、『Techii』の編集部から外れて、出版以外の事業を任されることになったのだ。それが同社を辞めることなった原因であった。新卒の後輩を入れてもたった4人の会社だったから、中堅社員に新しい事業収入の柱を任せるのは、経営者として当然の選択だったのだろう。だがワタシも当時はまだ22歳。雑誌の世界から離れるのが口惜しかった。同社を辞め、編集者を続けていくことを決意したというのが、本当の理由だった。
 ワタシが担当していた機材関係のページは、早稲田大学多重録音研究会出身の新人編集者が受け継ぐことになり、『Techii』はその後、ワールド・スタンダードの鈴木惣一郎氏、当時『テクノポリス』(徳間書店)という雑誌のライターでもあった元4-Dの横川理彦氏、きどりっこの佐藤隆一氏らが編集スタッフで加わって、新たな充実期を迎えることになる。アマチュア時代から人気のあった、それまで同誌のアイドル的な存在だったテイ・トウワ氏が、ソロデビューすることなく「映像関係の仕事をしたい」と音楽活動に見切りをつけてニューヨークに留学。“ポストYMO”的な才能にとって、生きづらい時代が到来していた。しかし同時期、『Techii』がリポートしていたようなヒップホップ、ネオGSなどの動きが生まれ、小さな源流がやがて巨大なサブストリームにつながっていく。黎明期のヒップホップ・シーンには、当時パール兄弟のダンサー集団、リーマンズのメンバーだったECD氏がすでにいたし、小西康陽氏が初期から絶賛していたネオGSシーンの最後尾には、レッド・カーテンと名乗っていたころのオリジナル・ラヴもいた。『Techii』編集部によく出入りしていた同い年の女性ライターのI氏も、のちにフリッパーズ・ギターを結成して90年にプロデビューを果たしている。連載イラストを担当していたセツモードセミナーの学生だった常盤響氏は、その後カメラマンになって『インディヴィジュアル・プロジェクション』の装丁でブレイク。篠山紀信容疑者(笑)にも一目置かれる大先生になった。ついでに言えば、ピチカート・ファイヴフェアチャイルドカーネーションも、『Techii』休刊後に見事ブレイクしてるのだから、先見の明はあったのだろう。
 同誌の廃刊は、ちょうどそんな新路線が軌道に乗り始めるころのことだったと思う。と言っても、そのころのワタシは新天地であったアイドル雑誌の仕事で忙しくて、対岸の火事のような気持ちでその知らせを受け取っていた。「もし自分が編集部に残って、もし『Techii』も続いていたら、90年代に入って開花するヒップホップ、ネオGS、ネオアコシーンの源流に立ち会えたかもしれない」……そういう「if」をたまーに考えたりすることもあるんだが、人生はどうにもならないものでねえ(笑)。アイドル雑誌やら一般週刊誌やらビジネス雑誌の副編集長やらを経て、この一風変わった書き手である、自分の血肉が築かれてきたのは否定しようがないから(笑)。今もこうして音楽愛を失わぬまま、音楽の仕事を続けられてるのだから、結果オーライなのかもしれないね。