POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

Twitterのこと、プロ/アマを分け隔てるものについての考察

(1)
 先日ここでも取り上げた、「ささやきブログ」とも称される“リブログ”という存在がある。いわゆるtumblrとか Twitterがその代表的なものだろう。「ミニブログ」とも言われる通り、字数制限がある短文向きのサービスで、写真や他のソースからの引用文が、ボタンクリックで気軽にアップできるのが特徴。従来のブログと大きく違うのは、あらかじめ設定しておく条件づけによって、単なる日記やメモに過ぎなかったものが、ダイナミックな情報ツリーへと自動的に育っていくところ。おそらくmixiブームなどでわかるように、同好の士との情報共有は今や大前提で、さまざまな共感するユーザーが枝葉を付けていくのが、人気ネット・サービスの基本形なのだろう。ふと個人が投げかけた問いかけや疑問が、リンクを貼ったA氏が媒介者となり、最適な答えを持つB氏にそれが届いて答えを導きだすというような、「集団知」として機能する部分もあるんだろうね。
 ネットで新しいサービスが始まるたびに、とりあえず最初は偏見抜きでなんでも試してみることを一応肝に銘じているワタシ。ブログを研究し始めたのはイラク戦争の報道のころだから、かなり早かったのに関わらず、実際に自分で始めたのは仲間内でいちばん遅かった。しかし、今では多くの友人がブログをやめてしまい、ただ一人孤独なランナーを続けている。「新手のネットサービスに冷淡だ」と言われることが多いがそれは誤解で、ワタシぐらいブログ・エンジンを酷使して「表現」と格闘しているユーザーはいないと思う。実は“リブログ”のことも、身内の友人からかなり早い時期に教えてもらっており、一昨年のPerfumeマイブームのころは、雑誌やテレビを頻繁にチェックできない自分のような人間は大変重宝した。30〜50代が中心になってしまった某匿名掲示板は、すでにPerfumeのような新世代アーティストの情報をフォローする力を失っていたから。HTML時代からホームページをシコシコ作っていた世代なので、写真や文章のソース(引用元)を脳幹のシナプス(情報伝達物質)のように繋いでいく、リブログのダイナミズムには魅せられた。実は今、書き下ろしの単行本のために、ヒトの大脳皮質の「情報処理のメカニズム」について毎日資料を読み込んでいるのだが、人間の脳の処理系統には、得意なことと不得意なことがある。その得手不得手をを知ることで、脳の拡張ツールであるパソコンの利用価値の重要性を改めて知ることも多い。パソコンの初期のアプリケーションとして、ワープロと同じぐらいポピュラーだったアイデアルプロセッサーなど、脳の情報処理を補完するものとして考えれば、現在のTwitterなどの果たしている役割に近いのかも知れない。しかし、そんな“リブログ”の魅力は十分わかった上で、ワタシがそれをやる決意には至らなかった。その理由は、ここの読者にはあえて語る必要もないだろう。とりあえず今のワタシは、「情報利用者」ではなく「情報発信者」として、なにができるかに取り組んでいる「試用期間」なので。


(2)
 友人のジャーナリスト、津田大介氏がリブログを使ってリアルタイムに会議中継する報道スタイルが話題になって(「tsudaる」というらしい)、この数ヶ月で自分の周りでもTwitterユーザーが一気に増えた。やはり友人で古くからネットを情報発信ツールとして使っている、アダルト系ライターの安田理央氏のブログのエントリなどは、Twitterの魅力を端的に伝えていて、やっぱりうまいなと思う。初めてインターネットに触れたときは、ワタシも情報網が世界に通じていることにコーフンして、座りしょんべんしそうになったぐらい感動したし。検索エンジンなんてまだほとんどなく、調べるときはURLを入れて目的に辿り着くのが当時の使い方の基本型。Yahoo!のカテゴリ分類が支配していた時代だったから、始めたばかりのホームページを載せてもらいたくて申告したのに、審査に落ちたりしたこともあってがっかりしたけど。海外の雑誌などから、いかにして面白そうなホームページのURLを手に入れるかが重要で、その行った先に一つでもリンクが貼られていれば、そこから辿ってさまざまな世界の情報を探り当てることができた。まさに「ネット・サーフィン」と呼びたい感動がそこにあったのだ。それがいつしか「当たり前の風景」となり、検索エンジンの発達した今は、必要なときに必要な単語だけを入れれば、目的の情報源にあっという間にたどり着ける。その背後で動いているエンジン自体は劇的な処理能力で毎日動いているのだが、我々がパソコンの前についてネットを始めるときの気持ちは至って平穏だ。アクセスするたびに動的に変化するTwitterを使ってみた安田氏が、頭がクラクラするようなコーフンを覚え、ネットを始めたばかりのころの「ネット・サーフィン」の感動になぞらえる気持ちはとてもよくわかる。
 しかしながら、水を差すようで申し訳ないが、ワタシは“リブログ”万能説を取る立場ではない。当初は「ネットは敵」と身構えていたテレビや雑誌などの既存メディアが、今ではネットの動画などをネタに番組や特集を作っている。そんな「オリジナル情報源の危うさ」(フェアユースの問題も含む)を日々感じているワタシにとって、「引用」だらけのTamblrなど、“リブログ”ブームの現状はあまりにも諸刃の剣な問題を含んでいる。特に「日本人がそれを使う」という大前提で考えると、ユーウツになる部分が多い。tumblrTwitterのリンク機能が、結局「自分と他人の共通項」を確認するだけのものになってしまうなら、日本人の付和雷同性がブーストされるだけのような気がしてしまうから。それをよしとして使う分には問題ないけれど、このあまりにも強力なツールと対峙するには、「使い手にもそれ相応の自制心が必要である」とワタシなんかはつい考えてしまうのだ。
 オリジナル情報ソースを、複数の利用者がツリー状に繋いでいくtumblrのビジュアルがまた、オリジナル情報の発信者と利用者の境界を曖昧なものに見せている。「このコメントは誰発信のものなのか?」が、パッと見ただけでわからないことに、オッサン世代は困惑してしまう。そんな印象から、日々、ワタシを悩ませている「プロ/アマの境界線」というテーマに結びついて、ユーウツになってしまうのだ。ユーザーにとっては、未知の情報を見つけ出す作業にも、それ相応の発見の「カタルシス」があるだろう。ただの媒介者でも「集団知」のサークルにおいては、情報のソムリエとしての役割を果たすため、オリジナル情報の発信者と相応の存在価値があるという言い分があるとすれば、それもわからないわけではない。しかし、情報を紹介することで得られてしまう「カタルシス」が、もし創作へのエネルギーを奪ってしまう部分があるのなら、それには大きな問題の根を抱えていると思う。
 10代の後半のころのワタシの話だが、コンテスト応募を目標に脚本を書きためていた時期があり、その短い期間だけあえて、似たようなマスコミの仕事ではなく、昼間をスーパーのアルバイトで過ごしていた時期があった。まったく知的ではないその日常の逆境が、ワタシの創作心を駆り立ててくれるのではという甘い期待があったのだ。しかし、住めば都でいつしかバイトにも慣れ、創作心もいつしか薄らいでいってしまった。肉体労働で得られる「カタルシス」というのがクセ者で、この麻薬が達成感中枢を満タンにしてしまい、すっかり自分をただのスーパーのアルバイトの一人に変えてしまったのである。それと同じとは言わないけれど、情報にまみれることの「カタルシス」によって、あたかも情報の送り手になったかのような自己満足に浸ってしまう人は、けして少なくないだろう。自らの脆弱さを自覚する人が、精神の鍛錬の場としてリブログに交わる覚悟ならば、それはそれで大いに賛同するけど、そうじゃなければ、やっぱり「多数決はいつも正しい」というような、日本人の付和雷同に輪をかけるだけのような気がする。


(3)
 話は変わって、昨日の小向美奈子の「ロック座出演」の話題である。結局、昼の部は出演できずにブーイングの嵐だったが(そりゃ、当たり前だ)、夜の部ではバストトップを披露するなど、一応ファン・サービスの目的は果たせたようだ。清純アイドルで売っていた時代を知っているので、はやり元アイドルのストリップ・デビューの衝撃はワタシにとっても大きい。だが、アイドル誌に数年いて、多くのアイドルデビューを目撃してきて、アイドルにとっての「プロ/アマの境界線」というものにも、すっかりしらけているワタシ。今回の騒動もすべて芸能界という大海の中で、「ある種の必然」によって決定づけられただけのような、出来レースのように思えてくる部分が多い。
 そもそもアイドルとは何だろう? ファン人気が集まるからアイドルになるのではなく、自らが「アイドルになりたい」とその世界に飛び込めば、その人はその日からアイドルになれる“自己申告”の世界である。以前、美少女AVがメジャーな人気を獲得し、その経済的発展ぶりから多くの人材を引き寄せていたころの『Beppin』(今の『Bejean』の前身)のヌードグラビアの完成度は凄かった。その次にある水着グラビアの脱ぎのない自称アイドルのほうが、圧倒的に質が落ちるなんて号が何ヶ月も続くことがあって、「アイドルになれなかった子がAV女優になる」なんて言われていた時代を知る世代として、驚天動地の気分を味わっていた。そんなときも、アイドルかそうじゃないかを決めていたのは客観的なルックス的価値ではなく、結局、本人の意志だけだった。
 ある時期、アイドル事務所の人とも懇意にしていたことがあるので、業界政治や事務所の収入源については、ある程度知っている。売り出しのための出費(交通費からオーディションの参加料など)ばかりがかさみ、雑誌の露出も原則プロモーションのためにギャラが出ない新人は、デビューして数ヶ月はほとんど事務所に収入をもたらさない。よって、売り出し中の給料制のころのアイドルの月給は、今でも10万円がいいところだろう。それで生活ができるかって? それでも耐えられるビンボーな出自の子と、わずかの収入などあてにせず、仕送りを受けられる地方の裕福な家庭の子だけがアイドルになれるのだ。アイドルの稼ぎ口は、営業とCM出演料、写真集の印税ぐらいしかない。レコードの歌唱印税など微々たるものだし、情報番組へのテレビ出演はほとんどノーギャラだと思う。プライムタイムの歌番組にしても、番組側がオファーしたもの以外は、基本的には歌手へのギャラはまったくないか薄謝が当たり前。バックバンドを必要とするアーティストなら、番組ではなくレコード会社が、宣伝費からバンド代を捻出することも多い。アーティスト側にとってテレビ出演は、出費などの犠牲しかないわけだが、それでもプライムタイムの番組に出て宣伝できる見返りは、広告料に換算すれば数百万円は下らない。その後「アイドルはノーギャラ」の定説を変えたのは、“バラドルの登場”だ。だから、アイドルが歌番組に出なくなり、主にクイズ・バラエティに出演している現在のテレビ番組では、お笑いタレントなどと同等に、アイドルにも正しくギャラがで出てるんだろうと思う。
 当時はそんな時代だったから、アイドル・ビジネスの舞台裏で繰り広げられる茶番を知って、賢い子はいつしかアイドルを辞めていったし、あるいはより効率のいいショーバイとして、AV業界の門を叩く子もいた。人生の岐路に直面したとき、アイドル当人には、そんな複雑な悩みを打ち明けられる相談相手などいないだろう。友達のアイドルがいくらいたって、悩みを共有するだけで、相談相手にはならないはず。だから、芸能界に見られる日常風景として、アイドルはときに迷走発言をする。これはあくまでワタシの妄想だが、子役時代から芸能界で育った沢尻エリカのプッツン発言も、若気の至りで十分イタイ部分が多いことは認めつつも、あれは彼女なりの「ギョーカイの思い通りにはならない」という反抗心の表明なんだろうと思う。アイドル事務所にいる社員も、ちゃんとした人もいるにはいるけれど、少なからずギョーカイ人と接してきたワタシに言わせれば、「人間として最低」と思うようなマネジャーもかなりの数がいる。ワタシがもし仮に転生して、もし芸能人になったとしたら、まずいちばん最初にユーウツになるのは、芸能界の最前列にいる彼らとうまくコミュニケーションが取れないだろうなということだったりする。
 話が大きく脱線してしまった(笑)。「プロ/アマの境界線」の話の続きだ。それを決定するのは、才能を認めた世間ではなく、そう宣言した本人だけというのは、結局アイドルもマスコミも変わらない。さらには、「まるでアマ同然のプロ」「プロになってもおかしくないのにアマ」のような逆転があったりするのが現代。「pi●iv」の投稿者にしたって、プロはだしの画力を持つ美大出身の地方在住の主婦もいれば、たいした画力もない絵師が、たまたまラノベの挿絵などのラッキーな「萌え絵」の依頼を受けて、マスコミの寵児として祭り上げられるような逆転現象も頻繁に目にするしね。


(4)
 実はこれに付随して、ちょっと根の深い話題を紹介する。数年前に音楽業界で「輸入権」の問題が取りざたされたことがあった。日常的に購入する機会も多い、日本盤より安くて助かっている輸入盤CDを、新譜を中心に国内販売できなくするという動きがかつてあったのだ。ジャーナリストの津田大介氏とワタシは、かなり早い時期からこれをゆゆしき問題として注目し、当時在籍していた週刊誌で記事として取り上げていた。現在はプロデューサーとしても制作手腕を振るう音楽評論家、高橋健太郎氏が主幹となり、小野島大氏らとともに当時の文科省に「輸入権の行使反対」を働きかけをする動きもあった。実は日本の音楽業界で、ジャーナリストが一丸となって国に働きかけるという例はこれが初めてだったらしい。基本的に評論家というのは、インディヴィジュアリストが多いから。ワタシと津田氏は文科省で行われた最初の記者会見から、この問題に参加していた何人かの一人。精神的にはもちろん、輸入盤の恩恵にあやかっている立場だから応援はしていたが、輸入は認めるのに輸出にだけ制限がかかる、国際貿易上で考えれば日本優位という不均衡が続いてきたことについては気がかりな部分もあって、どちらかに与するような立場はとらなかった。だからその後、委員会がこれに反対する音楽ライター、評論家にネット上で声をかけて、署名運動を始めたときもワタシはそれにサインはしていない。その後、ワタシは別の人から声がかかり、先のような説明をした上で、その人から参加者のリストを見せてもらったことがある。そこに並んでいた数人の名前を見て、ワタシはちょっとたじろいだ。普段から、「音楽業界のダニ」だと思っているような酷い文章、酷い態度で悪評高い人物の署名が、ズラッと並んでいたのだ。こういう問題に直面したとき、心ある人は立ち止まって「国際貿易法」のことなども考えて逡巡し、それが理由で署名に至らないなんてこともあると思う。ところが「祭りに参加」みたいな気分で、何一つ状況を理解できてないようなヤツが、いの一番でアクティブに署名したりする、この矛盾って一体?
 最近も『ミュージック・マガジン』の忌野清志郎追悼特集に関する記事で、某匿名掲示板で特定のライターが糾弾されたことがあったばかり(最近の『ミュージック・マガジン』の編集の杜撰さは本当に酷くて、ライターがかわいそうだと思う)。「才能に見合ったものに資格を与えるという、音楽ライターもライセンス制にしたほうがいい」なんて、我々世代には懐かしいジョークを唱える人もいて笑ってしまった。実は、ワタシらぐらいがギリギリ最後の世代なのだが、音楽ライターになるルートとして、有名な音楽評論家の事務所に入り、鞄持ちから始めて恩師の紹介で雑誌デビューするなんて慣例が昔はあったのだ。当然、資料の取り寄せから電話の応対、情報誌のファイリングからきっちり叩き込まれ、その先に文章の添削指導なども先生から直々に指導していただく。こうして数年の下積みを経て、デビューするというライターもけっこういたのだ。それに対し、瑞々しいファンのスピリットで書くことこそ、ロック評論の在り方だと説いたのが『ロッキング・オン』。これが月刊音楽誌で発行部数1位になったころから、いわゆる下積み派(シンコー・ミュージック出身と言ったほうがいいのかな?)よりもポッと出のライターのほうが多勢を占めるようになった。「音楽を語るより、それをダシにして自分のことを語りたい」という日本人には、『ロキノン』のような作文雑誌のテイストのほうがマッチしたんだろう。むろん、それを頭ごなしに批判するつもりない。だが、少なくともそれまでは、「何がダメか」を教える役回りもいたし、酷い先輩にしても我が身を振り返るときの「反面教師」役になってくれていたのだから。そういう他者とのふれあいがない中で、自分を律していかねばならないアマチュア出身の音楽ライターは、逆に精神的に大変じゃないだろうかという話だ。
 津田氏と連携して行った取材は他にもある。今では誰も覚えちゃいないだろう「CCCD」(コピー・コントロールCD)の問題も当時、複数回にわたって扱った。多くの音楽マスコミがこれを単なる悪の所業として取り上げていたが、このときもワタシは「反CCCD」という立場を取らなかった(「返品不可」の問題だけは例外。詳しくは検索汁)。「ごく普通のCDプレーヤーでさえ再生できないこともある」という利便性が奪われることや、音質劣化のことなど、アーティスト側の主張は当然の問題を叩きつけていたが、それが何故に採用されたものであるかという流れを踏まえた、マクロ視点で語っているミュージシャンは少なかった。所属するレーベルが「CCCD」を採用したことを、自分のブログで堂々と非難していたミュージシャンさえもいた。「じゃあなぜ、佐野元春みたいに辞めないんだろ」と言うのは、ヤボな発言なんだろう。あらかじめ、怒られない安全圏で言ってるつもりだろうから。そもそも「CCCD」は、無法な違法コピーによって収入源を奪われた音楽業界の対応策として、多くの権利者を保護するためにレコード会社が代表して採用を決意した流れがある。つまりは、レコード会社がアーティストの権利主張を代弁して行っているという構図があるのだ。その点についての自分の立場をハッキリせずに、音質がどうのこうのだけでそれを非難するなど、なにをかいわんやである。もちろん「所属アーティストは一律に採用させる」という当時のやり方には問題がなかったとは言わないが、レーベル離脱することを恐れて宇多田ヒカルだけ「CCCDにしない」を認めてしまった当時の東芝EMIが、結局、「だったらワタシも宇多田さんと同じに」という他アーティストの声を聞き入れなければならなくなったことを考えれば、メーカーの最初の判断だってさもありなんというところだろう。


(5)
 話は堂々巡りになってしまったが、ワタシがリブログを警戒する背景にあるのは、とにかく短いインパクト文で世の中を理解しようという横暴さとか、近視眼的な感情論、「プロ/アマの境界線」の危うさなど、よほどの自制心を持って参加しない限り、さまざまな問題がそこに横溢しているのではないかという話である。先の「輸入権に率先して署名した音楽ライター」「CCCDを逡巡せずにボイコットするアーティスト」など、いつの時代も「アクティブな発言者」のほうの意見が真理だと信じられ、付和雷同にそれに賛同してしまう多くの日本人がいる。さまざまな問題に直面したとき、「立ち止まって考えるべき」と唱えるのがワタシのスタンス。アクティブな意見がそうじゃないものより、必ず正しいわけではないということを肝に銘じたほうがよいと思う。こういう意見はきっと、アクティブに立ち居振る舞うことこそを「是」とする動的なサービス、Twitterなどの“リブログ”を全面否定するものとして捉えられちゃったりするのかな。このテーマについては、ぜひ批判なり共感なり、各個人の意見について聞いてみたいと思ってる。一部分を引用して言葉尻を取った、言葉の語法の問題とかじゃなくてさ。それを使うユーザーの「心のライセンス」という大テーマについてね。


※一部、記述間違いがあったので訂正しました。失礼しました。


(余談の余談)
 『Web進化論』を書いたはてな取締役でもある梅田望夫氏の、ITmediaに掲載されたインタビューが各所で波紋を呼んでいる(ワタシはある程度正論だと思うけど、日本人はもっと邪悪だと思う)。「Zopeジャンキー日記」というブログにそれをフォローしていたエントリがあって、興味深く読ませていただいた。まだ未読の読者はぜひお読みいただきたいが、知ったソースは津田大介氏の「RENEGADE COPYRIGHT WAVE」で、そこに引用されてたのが、以下のような原文→コメ。


>「システムが性善説を前提としているのは、はてなだけでなく、ネット自体がそうだ。
>この「オプティミズム」が、ネットをここまで成功させてきたのだ。
>しかし性善説を前提としたシステムは、ネガティブなものも見境なく許容する」(「Zopeジャンキー日記」)


見境ないからこそこれまでのメディアにない強度があると僕は考えるのだけれどなぁ…。
(「MASASCIANTEのTumblrでは、(以下、略)。」)
 これなど、雑誌のような字数制限のないブログの特質とも言える、長文で書かれてこそ微妙なニュアンスが伝わるという好例を、そういう配慮もなしにtumblrの流儀とやらで、短文コメでそれを無理矢理要約して理解しようとする横暴さのサンプルのようなもの。この先にあるのは「人類の発展のためには人体実験もやむなし」みたいなロジックであってさ。“性善説”を信じてネットにリソースを無報酬で提供している、個人個人の顔が見えてないってことには戦慄を覚えるよ。見えてたらこんなこと書かないだろ、フツー。優れたエンジンでありながらtumblrには、こういう鈴木謙介とかが言いだしそうな社会学者的チックな「三流コピー」がいっぱい。こういう悪文の垂れ流しこそ、産廃物みたいに取り締まるべき(笑)。