POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

家政婦は見た!「バンドブーム残酷物語」

 フリッパーズ・ギターのブレイクなどに刺激されて、私は新天地『宝島』に移籍することとなった。月刊誌だった『宝島』だが、けっこう広告業界で引き合いがあったので、一月に2冊だそうということになり、月2回刊体勢を作るための要員として、私が呼ばれたのだ。当時は、現在は辛口書評家として知られる永江朗氏、特殊翻訳家として後にブレイクする柳下毅一郎氏など、先輩方も豪華絢爛だった。あと、あの大江晋也1984のキーボードだった、藤野ともね氏もいた。雑誌でヌード写真が載ったのも、編集部在籍時だったので、子供の私にはかなり刺激が強かった。
 フリッパーズ・ギターは『宝島』でも連載を持っていたので、あれはお前だったのかとよく聞かれることがあるが否である。担当は後に『スウィッチ』誌に移籍するM氏。川勝正幸押切伸一『流行の素』などを手掛けるヒットメーカーだった。歳は私より下だったと記憶するが、アルバイト時代に菅付雅信氏らと同期だったというから、同社ではベテランである。外様の私は、むしろ音楽以外のジャンルの企画に関わることが多かった。だが、ムーンライダーズ特集とか、はにわちゃん特集とか、自分発の音楽企画をけっこうやらせてもらえた。はにわちゃんだよ、はにわちゃん。度量が広い編集部だと思った。
 無論、本誌だけじゃなくて、単行本などの仕事もやった。ちょうど、社内にある音楽レーベル“キャプテン”が新路線を打ち出すことになったので、私も加わって、そのうちの1バンドの単行本を作ることになった。以下、そのころのキャプテンの状況というのを説明しておく。
 80年にS編集長が就任してから『宝島』がインディーズ路線を打ち出すのだが、早い時期からナゴム、AAなどの主要レーベルの情報を扱っており、当時は「インディーズといえば宝島」といわれるほどの認知があった。そのつながりから、P-model、至福団、町田町蔵などの新作を、カセットブックで書店流通で出したりしていたのだが、好評だったため、本格的なレコードレーベルとして、社内に“キャプテンレーベル”が設立される。キャプテンは有頂天、ジュン・スカイ・ウォーカーズ、ウィラードなど蒼々たる人気グループのアルバムをリリース。『フライデー』などの写真週刊誌に、現代の立身出世伝として記事で扱われるほどに成功する。だが、本業が出版社ゆえに音楽ビジネスに対してはどこかシビアではなく、ほとんどのアーティストがワンショット契約しか結んでいなかったので、ここでのセールスを足がかりにメジャーと本契約して“卒業”していくバンドが多かった。ちょうど、一時期のラフトレードによく似ていた。アズテック・カメラなど俊英を集める目利きでありながら、アーティストの自由度を優先させて契約は緩やかだったため、小ヒットを記録すると次々とメジャーに移籍してしまう。経営が不安定になったラフトレードは、再建のために、ザ・スミスという新人バンドとレーベル初の長期契約を結ぶ。で、ザ・スミスが後に世界的な成功を収め、ラフトレードは世界に名を轟かせることになるのだ。そこでキャプテンも安定経営のために長期契約をしようということになり、当時エースコックのCFに出て人気急上昇中だったあるビートパンクのグループと契約する。契約金は確か一千万円ぐらいだったと思うので、インディーとしては力が入っていたんだと思う。 
 グループは当時原宿のホコ天で人気を集めており、4人ともルックスもよかった。私はビートパンクには疎かったが、ベース氏が熱心なプログレファンだったりと、音楽話でも話に花が咲いた。ヴォーカル氏は実は俳優志望だったが、当時のバンドブームの華やかさに惹かれてグループに加入したという。リーダーはベース氏。おそらく俳優出身のヴォーカル氏を加入させるなども彼のアイデアで、グループを成功に導きたいという強い志向があったと思う。一度何か大きな挫折をして、決断して今のバンドを引き連れて業界に入ってきたようにも見えた。私も苦労人の端くれだったから、ベース氏はけっこう気に入ってくれて、かなり信頼関係があったと思う。
 私に託されたのは、いわば彼らのタレント本で、先に出ていたAURAというバンドの本の第2弾のような構成だった。兄妹誌『キューティー』誌の人気ページみたいなファッションページもあったが、彼らは割り切ってやってくれた。だが、当初からマネジャーとの関係が険悪であった。マネジャーは芸能界寄りの人だったが、私はアイドル誌『momoco』から来たばかりだったし、頭の固い音楽誌編集者みたいな感じではなかったので、どちらともつきあいはできた。だから双方から相談されて困ったこともある。どうもソリが合わないらしい。しかし、私がスタッフ入りした時には、すでに日本青年館での単独ライヴも決まっていたし、彼ら主演の映画も予定されていたから、マネジャー氏が相当な手腕の人であることは間違いなかった。
 最初のトラブルはたぶん、その映画のことだ。日本青年館のライヴのちょうど前日に、その監督が亡くなったのだ。当時付き合っていたらしい有名女優の自宅で、首吊り死体で発見されたのだ。ワイドショーでも連日報道された有名過ぎる事件なので、おわかりの方も多いだろう。
 だが、メンバーも気落ちすることなく、日本青年館でのライヴは、満杯の客を集め、新人バンドとしてはまずまずの成功を収めた。その後は、撮影スタジオでのグラビア撮りなどを消化するだけだったが、ある時、突然、メンバーがスタジオに大遅刻する事態が起こる。スタジオ代を捻出しているのは自分なので、私は烈火の如く怒ったが、ベース氏は申し訳ないと言って、手刀を切って、それでスタジオを去った。
 後日、マネジャー氏が金を持ち逃げしたことが発覚する。そういう詐欺まがいのことが本当にあるんだと、当時の私は驚くばかりだった。だが、誰にも事情を説明してもらえず、単行本の企画だけが立ち消えになった。
 グループはその後もキャプテンとの拘束契約が残ったが、後でヴォーカルを別の若手に変えて再デビューしているので、グループ間の問題もあったんだろう。ベース氏とはそれ以降、会っていない。ただ一度だけ、ヴォーカル氏から編集部に連絡が来たことがある。私はドギマギしたが、用件は「あの時はすいませんでした」と伝えたかったというだけだった。今は俳優業をやっているらしい。そういう謙虚な子だったから、今でも俳優としてきっとやっているだろう。
 そのころのことで、ひとつだけ覚えていることがある。結構人気があったので、テレビに出そうということになり、某局のゴールデンタイムの番組にアプローチした時のことだ。歴史ある音楽番組だったが、当時はバンドブームに押されて歌謡曲シーンが停滞しており、その番組は模様替えして、歌謡アイドル中心のレギュラー本体と、若い視聴者向けのバンドとニュー・ミュージックをメインにした「R&N」、演歌中心の「ENKA」の3つの番組に分けて放送していた。本体の放送日が昼間に移動して、その「R&N」が本体の放送時間に収まったのだから、バンドブームがいかに支持されていたかがわかるだろう。こうした時代の趨勢を捉えて、雑誌などのメディアでは「バンドブームが歌謡界という旧体制を打ち負かした」というような論調で語られたものだ。だが、我々がアプローチした番組は、バンド中心の番組と聞いていたが、Bという大手芸能プロダクションが毎週、4バンドのコーディネーション権限を持っていた。無論、ヒットしたり、視聴者が見たいバンドは無条件で出演できる体勢はあったのだろうが、それ以外は芸能界のシステムで動いていたのである。
 ちなみに、彼らが出る予定だった映画は、監督や主演バンドは居なくなったが、そのまま制作は続行された。『もうひとつの原宿物語』という、オリジナルと同じタイトルでその後公開された。