POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『ニュータイプ』の思い出

 『TECHII』『momoco』『宝島』や、現在まで13年籍を置いている某週刊誌など、さまざまな編集部を渡り歩いてきた私が編集者デビューを果たした雑誌というのが、アニメ雑誌ニュータイプ』(角川書店)である。それ以前にコピーライター時代があるので、社会人一年生ってほどウブではなかったが、私が編集部らしい編集部で仕事をしたのは、この『ニュータイプ』が初めてだった。近年、飲み会などで後輩相手に半生を披瀝する機会は多いが、一番ウケがいいのがこの『ニュータイプ』時代のエピソードである。しかし、今から20年前に、たった1年だけ在籍しただけ。しかも、アニメに関心があって入ったわけじゃないので、翌年すぐに飛び出した身分である。私は『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も観ていない、不勉強な人間だ。だが、編集者一年目を同誌で過ごしたことに私は感謝している。それほど面白い体験が多かったのだ。
 最近でも、本業の週刊誌の取材などでアニメ業界の方と出会った時などに、懐かしくて思わず、遠い目をして『ニュータイプ』がいかに当時は斬新だったか、というエピソードを披露したりすることがある。だが、そのあまりに美化された話ぶりに、「それは貴方がアニメ業界の外の人だから」と冷笑されることも多い。なにしろ、今から20年も前の話なのだ。
 今はなき『TECHII』『momoco』などと違い、現在も発行されている雑誌ゆえに、発言は慎重にならねばならないだろう。現編集部に関わりのある方が読まれたら、あまりの素人の物言いに呆れられるかもしれない。だが、アニメに無知なあきらかな部外者である私を、受け入れてくれる度量があの時代の編集部にはあったのだ。まだ黎明期の余韻を残していたアニメ雑誌業界に、迷子のように飛び込んだ編集者一年生の見聞録としては、面白く読んでくれる人もいるかもしれない。
 86年、私がとある編集プロダクションに入ったことがすべてのきっかけである。広告業界と水が合わず、飛び出してはみたものの、新天地を求めてドアを叩いた出版の世界では、面接や入社試験で落とされるばかり。何社も落ちて「どうでもいいや」と投げやりな気分でいたところを、不憫に思って拾ってくれたが同社であった。『新世紀エヴァンゲリオン』の脚本などを書いている、山口宏氏などが同社に在籍する先輩であった。で、入り立ての私が配属されたのが、創刊から1年たったばかりの『ニュータイプ』であった。当時、まだ創刊されたばかりの同誌は、ビデオ評論家として著名な岩井田雅之氏(『刑事コロンボ』本は座右の一冊である)や、兄弟誌『ザ・テレビション』の編集者だった中島紳介氏ら蒼々たるメンバーの寄り集まり所帯で、皆がフリー仕事と兼任していたためか、編集部はあったが人はいつもまばらであった。上の階にあった角川春樹事務所に野村宏伸という俳優がいて、情報ページ担当に送られてきたファミコンゲームがやりたくて、ちょくちょく編集部に顔を見せていたので、よっぽどこいつのほうが編集部員らしいと思った。私が入ったプロダクションは、いわば『ニュータイプ』の分室のようなところで、メインの特集以外の大半の情報ページをそこで作っていたのだ。名刺はもらっていたし、編集後記も書いていたのだが、そういう意味では編集部一丸となって雑誌を作っていたという実感はない。いまはきっと違うと思うけど。私はそこで、アフレコ取材や主題歌の記者会見(おニャン子クラブなどの一般歌手が主題歌を歌うという、アニメとのタイアップはこのころに始まったのだ)など、メインのグラビア以外の仕事をもっぱら担当していた。オンエア作品の来月放映分の脚本を各制作会社から集め、学生のアルバイトにレジュメを発注してまとめるなんていう仕事もやっていた。まあ、地方出身者ということもあり、アニメに疎い使えない人間だったから、そういう雑用をやらせていたんだろうけど(笑)。
 『ニュータイプ』は生起自体がちょっとユニークな雑誌である(以下は、入ってから聞いた先輩からの受け売り)。80年代初頭に角川書店が発行していた『バラエティ』という変わった情報雑誌があったのだが、それが廃刊となり、スタッフは兄弟誌の『ザ・テレビジョン』に吸収される。その中にS氏という人がおり、毎週『ザ・テレビジョン』の巻末を飾っていた、サンライズ系アニメ作品の紹介ページの担当をしていた。制作会社から配給された宣伝写真で構成されたページだったが、ストーリー紹介以外、キャプションなどの付け方がかなりアヴァンギャルドで、どちらかというとマジメな性格の編集者が多かったらしい他のアニメ専門誌の記事とは、一線を画す作りになっていた。これを面白いと思ったのが角川春樹社長で、『幻魔大戦』などアニメ事業に進出しつつあったこともあり、S氏は春樹社長から直々に、角川書店から月刊アニメ雑誌を創刊する計画を託されるのだ。
 このS氏、元々は『美術手帖』などを編集していた現代美術畑出身の人。それまでどちらかと言えばアニメーター挫折組が多かったと聞く、専門誌の編集者から見れば“門外漢”であった。当時すでに、ジブリの副社長である鈴木プロデューサーが在籍していた『アニメージュ』(徳間書店)という老舗雑誌もあったし、『アニメディア』(学習研究社)という雑誌が低価格で参入し、お金のない学生層に支持されて業界売り上げ一位となっていた。『機動戦士ガンダム』に始まるアニメブームの余韻もまだあって、月刊専門誌だけでほかに5〜6誌が発行されていたのだ。そこでS氏は「丸めて持ち歩けるグラフ雑誌のようなアニメ雑誌」という、ストリート雑誌のようなオシャレ路線(!)という、前代未聞の新機軸を打ち立てる。それまでは制作会社からもらった宣伝写真で構成するのが普通だったカラーページに、アニメーターにオリジナル原画を書き下ろしさせるというのも『ニュータイプ』が初めてだった。また、誌名が「アニメなんたら」ではないアニメ雑誌というのも当時は異色。この雑誌名にどうしてもとこだわって、『機動戦士ガンダム』の制作会社に日参して許可をもらったというから、コンセプト主義も筋金入りである。
 声優という肩書きを使わずに、すべて“CV(キャラクター・ヴォイス)”と表記するというのも独特で、まるでCI(コーポレート・アイデンティティ)のような発想があった。実際、キンチョールのCMみたく、現場では萌えアニメの吹き替えを妙齢なオバサンがやってたりする世界でもあるのだが、編集者が携帯カメラで撮ってハイオシマイという取材が多かった声優記事も、『ニュータイプ』だけは、ヘアメイクやスタイリストがきちんと付いて、プロのカメラマンが撮影することに当初からこだわっていた。このあたり、後の「声優アイドルブーム」を予見していたと言ってもいい。アニメ記事では役立たずの私ゆえアフレコ取材にはよく担ぎ出されたが、競合する5~6誌が同席する取材現場で、一番アニメの知識のない、一番の若造である私が、唯一専属のカメラマンを引き連れて取材に来るものだから、他誌の方々から「『ニュータイプ』さんはいいねえ」とよく冷やかされたものだ。ふー。
 とは言え、少数精鋭で作るのが専門誌のあるべき姿で、ノルマをこなすのが精一杯の私。S氏以外は、他のアニメ雑誌から来たプロパーが多かった編集部だから、あまり歓迎された記憶はない。唯一、私の原稿を面白がってくれたのがS氏で、しばらくしてアニメとまったく関係ない流行音楽のレビュー連載を持たせてもらったりと、一目置いてもらえたのが救いであった。その連載は『ニュータイプ』から離れた後もしばらく続けさせてもらえたのだから、なんとも懐が深いこと。
 まだメールもなく、バイク便も高価だった時代で、実際に若造の過ごした日々はというと、ほとんどが一日がかりでの原稿やイラストの受け取り(ケータリング)だった。原稿書きはヘトヘトになって帰ってからの深夜からの作業だったから、楽しかったことばかりではない。吹替洋画が好きだった私にとっては、アフレコ取材は憧れだったが、尊敬する広川太一郎氏や羽佐間道夫氏に出会えたかというとそうでもない。80年代初頭の『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメブームの折に、再放送のギャラの未払いを巡って声優協会がストライキを起こした一件があり、私が業界の門を叩いた86年ごろには、有名声優と呼ばれるベテランのほとんどが、「洋画には出るがアニメには出ない」というスタンスだった。とはいえ、声優さんには舞台出身の苦労人が多いのか、新人記者に対しても気配りしていただき、話を伺うのは楽しい体験であった。だが楽しい取材を終えたあと、地下鉄で再び本人と鉢合わせになったりする、バツの悪い思いをすることもあった(シャイなもので……)。それまで、声優もタレントだからスタジオにはマネジャーが車で送り迎えしてるものだと勝手に思っていたのだ。実際は、有名大物声優とて、一般人と同じように電車でスタジオに通っていたのである。
 S氏はその後、「アニメ雑誌業界で売り上げ1位になったら辞める」と宣言して、数年後、本当に売り上げ記録を達成して辞めてしまった。当時、他の編集部ですでに働いていた、歌謡曲のコラムだけ書かせてもらていた私も、後任の編集長の覚えが悪く(プロパーの方であった)、編集長交代のタイミングで連載を下ろされた。S氏はその後独立するが、本誌で連載していた著名アニメーターのマンガ作品のためのマネジメント会社を立ち上げ、これがヒットとなって事業として大成功。アニメキャラのコスチューム・デザインのニュースを『流行通信』に売り込んだりと、パワフルな動きをみせていたのが頼もしかった。ほか、ブリキの玩具の収集家として有名な北原照久氏のコレクションをCMなどで使用する場合のマネジメント業を始めるなど、権利ビジネスの先駆けとして、数々のヒットを世に送っている。
 で、私はというと、今ならば部外者の個性を武器に立ち回ることもできるだろうが、やはり少年時代からアニメどっぷりの物知り博士みたいな先輩方に対しては、役立たずばかりで申し訳ない思いもあったのだ。86年の秋に『TECHII』(音楽之友社)という音楽雑誌が立ち上がった折、たまたま先方の編集長とうちの社長が知り合いだったという縁から、「ウチに音楽ヲタクみたいな若いのがいるので使ってやって」ということで助っ人として参加。そこで編集長に気に入ってもらい、翌87年の正月には、正式に『TECHII』編集部入り。音楽ジャーナリズムの世界に飛び込むのである。

(以下、余談)

 文字だけじゃ寂しいと思い、書庫を探してみたが、20年前のことゆえ当時の『ニュータイプ』は一冊も残っていなかった。本誌では、先に紹介したレギュラー連載担当以外に、たまに担ぎ出されてメイングラビアの書き下ろしのコンテを描かされることもあった。下は残されていた当時のメモの一部で、左がハウス劇場枠でオンエアされていた『ポリアンナ物語』、右があだち充原作の『タッチ』の、それぞれグラビア発注のために描いた下書きである。この素人の絵を、本当に本編のプロのアニメーターが描き起こしたものが、当時の雑誌に堂々と載ってたんだから冷や冷やものである。