POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『テクノマジック歌謡曲』(ソニー・ミュージックダイレクト)

テクノマジック歌謡曲

テクノマジック歌謡曲

 『イエローマジック歌謡曲』のコラムで説明したとおり、予期せぬハプニングの副産物として誕生した、もうひとつのコンピレーションが本作。YMOの3人以外の作家が手掛けた「歌謡テクノ」の珠玉作を、レコード会社の枠を超えて一同に集めたものである。選曲は同様に私が担当。タイトル、アートワークはディレクター氏によるものである。
 ここで「歌謡テクノ」の成立背景について触れておこう。拙著『電子音楽 in JAPAN』にも詳しく書いているが、YMOの登場で1980年にテクノポップ・ブームが起こったが、時代の流行に目ざとい歌謡曲のスタッフがこれを放っておくはずもなく、まず最初に、当時のトレンドセッターだった沢田研二の「TOKIO」がリリースされた。このアイデアは、作曲者の加瀬邦彦がハワイで見て衝撃を受けたディーヴォのライヴ公演にインスパイアされたもので、コピーライターの糸井重里が曲名をYMOテクノポリス」の歌詞から拝借、YMOのメンバーとはレコーディングで共同作業することも多かった元サディスティックスのベーシスト、後藤次利がカーズ風のパワーポップ・アレンジを施して、この曲は同年のヒットシングルとなった。前年に坂本龍一が受賞したレコード大賞編曲賞(サーカス「アメリカン・フィーリング」)を、この年に同曲で後藤次利が取ったりと、「歌謡テクノ」の誕生には、本家テクノポップとは切っても切り離せない関係があったのだ。榊原郁恵「ロボット」は、自宅スタジオで密かにテクノポップサウンドを探求していたという筒美京平が作曲。アパッチ「宇宙人ワナワナ」も、当時矢野顕子の夫で初期YMOのライヴにも手を貸していた編曲家の矢野誠が手掛けており、各社とも早い時期にメルクマールとなるような傑作曲を打ち立てている。だが、あくまでテクノ風の味付けはノベルティ。追随するメーカーもあったが、いわゆる学芸部が制作したいかにも安上がりな企画盤も多く、玉石混淆といった印象があった。
 その後、松田聖子のシングル曲に細野晴臣が起用され、あの異色といわれたテクノポップサウンドが、一転してミリオンセラーを記録する時代のマジョリティに。「君に、胸キュン。」で歌謡界に殴り込みをかけたYMO3人が、逆に作家として歌謡曲に起用される機会も増え、テクノサウンドは、一般的な歌謡曲の制作スタイルへと収斂されていく。84年、シンセサイザー接続の新しい規格“MIDI”が登場してからは、結線のシンプル化によって、シンセサイザーのダビングによるレコーディングが一気に普及し、やがて生演奏と打ち込みのシェアが逆転。「いまどき、打ち込みを使わないレコーディングは珍しい」といわれるほどに、ごく普通の制作プロセスとして、“テクノの手法”は今日のレコーディングに深い影響を及ぼすこととなった。
 このうち、もっぱら「歌謡テクノ」と呼ばれるものは、初期のノベルティ色の強いものを指す。シンセサイザー普及の過渡期だった時代ゆえ、まだ生演奏が多かったテレビ番組では、バック演奏にシンセサイザーが使われないケースも多く(榊原郁恵「ロボット」のようにカラオケをバックに歌うケースもないわけではなかったが、おそらく当時は演奏家ユニオンの権限が強く、現在のモーニング。娘のように、全曲カラオケというような番組はほとんどなかった)、そのぶん視覚に訴えようと考えてのことか、派手なメイクや宇宙服などの奇抜なコスチュームで歌う歌手が多かった。その“マヌケ美”に郷愁を感じる人々が、これらの愛すべきノベルティ曲の数々を「歌謡テクノ」と呼んだのだ。この場合、シンセサイザーの使用/不使用よりも、パッケージの意匠や、歌詞のデジタルチック度などが重要視されるところがポイントである。
 84年にジャパンレコード(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)からリリースされた、当時の人気ミニコミ『よいこの歌謡曲』編集部が監修した『POPS BOX』という歌謡曲オムニバスがある。冨田勲が創立時の社長を務め、元日本フォノグラムの矢野顕子のディレクターだった三浦光紀がA&Rを務めていた同社のコンピレーションは、伊藤つかさ、安田成美などテクノの影響を色濃く受けた曲を集めたものもので、これが今日「歌謡テクノ」コンピレーションの嚆矢とされている。以降も、元々サブカル色の強かった『よいこの歌謡曲』(編集主幹だった高橋かしこ氏が、現在、平沢進関連のブレインを務めてるのはご存じの通り)や、ウルトラ・ヴァイブの高護氏が編集長を務めていた雑誌『リメンバー』(ポリドール時代のP-modelのディレクターT氏はもともと同誌の編集者である)などが、研究対象として「歌謡テクノ」を取り上げるようになり、今日に至るコンテクストを築き上げた。ミュージシャンの岸野雄一氏やデザイナーの常盤響氏らが率いる集団、京浜兄弟社のメンバーも、イベントなどで頻繁に「歌謡テクノ」への愛着を表明しており、シーン普及に一役買っている。拙著『電子音楽 in JAPAN』の清水信之インタビューの章で、あえてテクノポップと同等に当時の「歌謡テクノ」を取り上げたのは、彼ら先達の仕事ぶりに敬意を表してのことである。後に、某社で類似コンセプトのコンピレーションが量産されるが、彼らがオリジネイターなどでは決してなく、それ以前からこうした検証はなされていたのだ。
 して、『テクノマジック歌謡曲』である。前コラムで触れた通り、細野曲「ハイスクールララバイ」はめでたく『イエローマジック歌謡曲』のほうに収録されることになったが、困ったのはこちらの“自社音源比率”についてである。アルファ、ソニーには「歌謡テクノ」系の楽曲は潤沢にあったがYMO関連の曲が中心に占めており、YMO以外の「歌謡テクノ」の主要曲は、むしろ社外音源に頼らざるを得なくなった。しかし、某社のコンピレーションでは収録できなかった日本コロムビアから、榊原郁恵「ロボット」、高見知佳「くちびるヌード」などを提供いただけることとなり、値段分の元が取れるコンピレーションになることには確信があった。また、ソニーには晩年の太田裕美宍戸留美、TPO、仙波清彦のはにわちゃんなど、あまり知られていないテクノポップ系の傑作が多く眠っており、これらにスポットを当てるよい機会になるのではと考えた。クレジットだけで判断いただくと、『イエローマジック歌謡曲』に比べれば見劣りすると思われがちだが、そもそもコンピレーションの楽しみは、未知の楽曲との出合いにある。購入された中でも、特にYMOにこだわりのない方からは「『テクノマジック歌謡曲』のほうが面白い」と言っていただけることも多く、選曲者冥利に尽きる話である。amazonなどでご指摘いただいている通り、自社音源が多いのはご愛敬。同社のフィッツビートレーベルから、インスト主体だった後藤次利のソロ曲が収録されていることなどは異色だと思うが、これは某有名曲が「大人の事情」で収録できないために、その代わりとして編曲家だった後藤の作品をフィーチャーしてみたというものである。
 もうひとつ、本コンピレーションには、私らしい特徴がある。フュージョン系への傾倒が窺えることだ。初期ライヴでYMOに目覚めた世代らしく、テクノ系フュージョンにはひとかたならぬ愛情を抱いている私。佐藤博が編曲した大野方栄「Eccentric Person,Come Back To Me」やスクエアの残党が結成したはにわちゃん、まるでエア・プレイを換骨奪胎したような谷村有美「傘を持ってでかけよう」など、他の選曲者なら取り上げないような曲が並ぶこととなった。「テクノといえば発祥はドイツ」と思いがちだが、当時は、ジェイ・グレイドンの「トワイライトゾーン」をステージで取り上げていた近田春夫&BEEF、清水靖晃率いるマライア、清水信之のように、米国西海岸のTOTO、エア・プレイを規範とした、「もう一つのテクノポップ」がシーンを形成していたのだ。あまり研究の俎上に上がることの少ない、これらの傾向に着目したことには意義があったと考えている。私は幼少期から鍵盤で作曲まがいのことをやっていたこともあって、楽典的に成立していない「手癖で作れちゃう」ような音楽には、あまり心を動かされることが少ない。坂本龍一のクラウス・オガーマンのような前衛アレンジなどは、そういう意味で「歌謡テクノ」の真骨頂だと思っていたりする人なので、テクノポップ系ライターなどと呼ばれる身分でありながら、シンプルな曲の多いクラフトワークディーヴォ、ムード歌謡みたいなニューロマンティック系には少々退屈してしまうところがある。このあたり、むしろそちらのほうが主要シーンとして捉えられるのは、テクノポップ系ライターに楽器をやっている人が多くないことが影響してるのではないかと思ったりするのだが……。
 ちなみに、本作がブログなどで紹介されるときに、某社のコンピレーションと「曲が重複しすぎ」と指摘されることが多いが、実際は全37曲のうち6曲のみである。先方が、YMO系の曲をあまり取り上げ得ていなかったこともあり、『イエローマジック歌謡曲』のほうはさらにパーセンテージが低い。無論、すでに半廃盤状態だったそれらを意識せず、なかったこととして選曲する方法もあっただろうが、私も一音楽ファンのはしくれ。某社のコンピレーションを持っている人ががっかりしないようにと、重複曲についての配慮は最善を尽くしたつもりである。どうか先入観をもたれぬようにとの思いで、一応ここに記しておいた。