POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

 書籍『マーシャル・マクルーハン広告代理店。ディスクガイド200枚。小西康陽。』(学習研究社)




 生まれて二度目に依頼された絵の仕事をなんとか入稿終えて一安心(後日、ご報告します)。久々に時間ができたので、買って取っておいた小西康陽氏の新刊『マーシャル・マクルーハン広告代理店。ディスクガイド200枚。小西康陽。』を読む。もう内容が楽しくてゲラゲラ笑いながら一気に読み切ってしまい、すでに二巡目。ついでにその勢いのまま、中でレコードが紹介されていたナナ・ムスクーリの似てな絵まで描いてしまった。
 ここんところ、一方的な思いこみの身勝手な批評に晒されて(あの後も、当人のツイッタに「態度にイラッときたので」って、当然のように貶したみたいなことが書かれていてムッ。子供ルールにはついて行けぬ)、それに対する反駁などを延々やってたら、すっかり「萌え批判」の人みたいに思われてしまった。ていうか、そもそもワタシは相当な萌え感受性の持ち主だってのに。ウチのレコード棚なんて、いわゆるサントラのたぐいとは別に、サバービア系のコレクターの人があまり食指を伸ばさない、古今東西の女優系のレコードなんてのがウジャウジャあったりするから。「萌え」について批評しているエントリも、あれはだいたい「日本人の付和雷同性」に対する批判であって、それを萌え批判とかポルノ批判とかに勝手にすり替えられてしまうから、読解力がないのかって話になるわけで。
 こうしてイラストだのを描いてみて思うのも、幼年期のイタセクスアリスだった手塚治虫の描くヒロインの影響がいかに根強く残ってるかということ。中学時代、映画コンテを真似て大友克洋の模写やってるときは、気がゆるむと手塚治虫っぽい丸っこい絵になってしまうのが、イヤでイヤでしょうがなかったんだけどね。「萌え」が嫌いなんじゃない。そもそも「萌え」ってのは、その絵を見たときに現実の女の子に感じるような衝撃を受けるかどうかって話であって、今のアニメの流行である「カニ顔」にワタシが萌えないっていうだけ。自分にだって絵を見たときに感じる、「萌え」の感情ってのはきちんとある。そもそも年代によって「萌え」の対象の基準なんて、世代ごとの人気女優みたいに違うのが当たり前だし、各々が個人の神様を祭ってればいいと思うのに……。そういう多様性を認めない「カニ原理主義」の若い人たちが、なぜか一律に勝敗を決めたがって、一方的に「萌え要素がない」「キャラに魅力がない」と断罪するから。なんでそんなことを赤の他人に言われなきゃいけないんだって、こっちが怒るのも当たり前。で、当然こっちは言うでしょうに、「そういうそっちは、デッサンがガタガタじゃん」って、まず目に付くいちばんの特徴を。ことの順序がまったく逆なのには頭に来る。
 『マーシャル・マクルーハン広告代理店。ディスクガイド200枚。小西康陽。』を読んでいて、小西氏のシャレのめした文体で書かれた時代のアイドルへの賛歌に思わず熱くなってしまい、久々に「萌え」の感情を思い出していたところでして。フランソワ・ド・ルーベが音楽をやった、ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』のDVDなんかを、久々に引っ張り出してきて観てみたけど、最初に観たときそのままの甘酸っぱい気持ちになってしまった。ジョアンナ・シムカスのコケティッシュさは不滅だな。晩年に女優を廃業して政治活動に傾倒したりするのって、シャーリー・マクレーンとか中山千夏とか、ワタシの好きな女優のタイプの典型なんだよな。彼女のおかげで、ワタシの中でシドニー・ポワチエの格も上がったっていうぐらいだ。


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