POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

無題:中野坂上ジョナサンにて。名優・藤岡琢也に追悼。

 丹波哲郎に続いて、藤岡琢也も逝去。昭和の名優が次々と鬼籍に入っている。藤岡琢也と言えば『渡る世間は鬼ばかり』や「サッポロ一番」のCMで認知があるだろうが、私にとって印象深かったのは、25年前にやっていた森繁久彌主演のドラマ『天山先生、本日も多忙』の黄色いグラサンをかけた駐在さん役。よく考えればそのころの藤岡琢也って、今の私ぐらいの歳なんだよな。『藤岡琢也 ジャズの世界』というアルバムも出しているほどの音楽通なのだが、80年代以降カルト系雑誌が名優の知られざる側面にスポットを当てる機会があれだけ多かったのに、なぜ藤岡の音楽への造詣が取り上げられることがなかったのか。それが残念だ。合掌。
 ところで私はというと、ここ数日間は山のような脳研究の資料を読み込んでおり、ちょっとした脳博士のような気分。でも、いちばん優しそうな新書のたぐいでも、学者の書く原稿って読みづらいねえ。軽い知恵熱でボーっとしている。これがいつまで続くんだろう。ちょっぴり不安。
 13年もいた週刊誌の時代は、とにかく毎週本が出るという状況の中で過ごしていた。だが、書籍部に移ってからは、このところ小石を積み上げるような作業が続いており、アウトプットされるのはずっと先の話なので、ちょっとフラストレーション気味である。自著の場合は、取材とプロット作成さえ終えてしまえば、あとは執筆ペースの配分をするだけだから集中できる。けれど、編集者として書籍に関わるには、予定を進めつつ多面的な検証作業が常について回るので、なかなか慣れないものなのだ。
 とにかく私は効率優先主義である。高校時代からアルバイトしながら、とりあえず宿題やって、鍵盤の練習曲やって、アホみたいに連続ドラマも見て、ラジオも聴くという生活を送っていたので、無駄な時間をいかに節約して予定を入れるかがずっと生涯のテーマになっている。週刊誌の場合は、一週間しか作業時間がないから、どんなマヌケなヤツでもそれなりに妥協しつつ進められるが、単行本のような作業だと長期間の作業の摺り合わせがけっこう大変で、人のペースと違うことで齟齬を感じることが多い。
 昨日、爆笑問題の政治討論番組見ていたら、女性パネラーが「日本から義務教育をなくすべき」という議題を提案していた。ゲストで出ていた正義感の現役教師などの反発にあって、結果は否決されていたが、私的には「いいこと言う!」とやんややんやの喝采であった。しかし「すべて中立であるべし」という社民党の議員みたいな人って本当に多いんだなあ。戦後、義務教育によって貧富の差に関わらず等しく教育を受けられるよう整備されたことで、日本は飛び抜けた天才もいないが凄いバカも少ないという、成績グラフの真ん中がもっこり盛り上がるような、教育水準の高い国になった。しかし、現在は劣等生と優等生の両極に数が集まり、真ん中が極端に落ち込んでいるんだそう。いわゆる「ゆとり教育」の弊害なのだが、ゆとってる間にバカのバカ指数がどんどん上がってしまった。これは親の教育への関心がそのまま反映したもので、成績優秀者には裕福な家庭の子が多い。金持ちの親は塾や家庭教師を付けて勉学に励ませるからだ。東京大学だって、勉強の仕方のコツさえつかめれば普通の人だって入学できるとも言われる。一方の劣等生が増えた理由は、主たる原因は本人の学習力ではなく親の無関心。昨年から問題になっている「クラスの給食費未納が2割もいる」という悲惨な状況は、実際にリストラされて貧しいって話じゃなくて、親が平気で外車に乗り回したりしている放任主義の連中の子供のことなんだからね。
 学習心旺盛な子供たちにとって、ビリケツランナーにペースを併せなきゃいけないなんてナンセンスというのが、女性パネラーの話。これは「平等に学習する機会を奪われている」という説である。私がこないだまで週刊誌にいた時も、とにかく仕事の要領が悪い後輩がいてウンザリした。何度注意してもそれが直らないし、やさしく指導すればつけあがるしで、辟易するようなことが多かった。だから、まったく同感である。私の同世代の人間はそれなりに苦労人も多いし、もともと創作目的でこの業界に入ったものばかりなので、毎年年初には前年に出した単行本の話や仕事の反省会などをして盛り上がることも多い。いわゆる社員でありながら、作家として他社や異業種で仕事をする人が多いという話。あくまで本業優先で、土日のパートタイムを使った創作活動のことである。「人生は一度きり」であるから。私にとっての一つの理想として挙がられるのは、キリンビール時代のしりあがり寿氏。ビール会社の広報宣伝部にいながら、あの人はマンガ家として土日を作家業に当てていたのだ。それは決して、マンガ家が「表」の顔でサラリーマンが「裏」の顔っていうわけじゃない。社員時代にあの人は「キリン一番搾り」などのプロモーションを手掛けてADC賞まで取っているのだ。以前、朝日新聞の夕刊に「キリン一番搾り」の担当として本名で出ていたことがあったのだが、一切、しりあがり寿の正体に触れられてなかったのを痛快に思ったほど。人生の両面のどちらかがぞんざいになっちゃうぐらいなら、兼業しなくてもいいわけだからね。
 で、作家の真似事をして原稿書きなどに専念してみると、自分の才能のなさというものにいやでも気付かされる。これは優秀でも、優秀じゃなくても、程度の差はあれいずれの人も体験することだと思う。また、晴れて市場にドロップした作品が、さっぱり売れなかったり話題にならなかったりするとかなりへこむ。以前、付き合っていた彼女がこんなことを言っていた。女性というのは思春期のころから、大人や異性から容姿によってランク付けされる機会が多いので、自己の容姿や才能における「商品性」に自覚的らしい。ところが男性は受験戦争以外、そういう機会もなしにのほほんと生きてこれるようなところがあるから、いざ締め切りのある仕事にでも向かわないと、自分の「限界」「商品価値」というものに気付くことは少ないのだ。その後輩連中ってどういうわけが自己愛が強くってさー。いい歳して、まだ何も実績残してないのに、「いずれ俺はやる」みたいな自信のみなぎったのが多かったんだよな。人の忠告なんて聞きゃしない。でもそれ、まだ何もしてないから、言えんだよ、そーいうこと。
 以前のエントリーでもちょろっと書いたが、私がイベントやったり本を書いたりするのは、ステージに立って自己顕示したいからとか、文章を読んでほしいというよりも、システムについての関心があるから。あるシステムが組み上がった状態で、作家の心理、消費者の心理はどのように作用するのだろういうのが、常に創作の裏テーマとしてある。その行き着くところは、効率化である。例えば、電子音楽作家としてアメリカのコマーシャル音楽を作っていたレイモンド・スコットが、晩年に自身の作曲メソッドによる「自動作曲装置」の開発に余念がなかったという話には、大いに共感するところがある。芸術のなんたるかをベールにくるむのなんてナンセンス。天才の所業だって、脳波の電気信号の統制によってなされている、極めて物理的な話なんだから。
 この仕事を始めたばかりのまだウブだったころ。アニメ雑誌の編集をやっていた時期だったと思うが、何か先輩と雑談しているときに、当時『コブラ』で有名だった寺沢武一と『コボちゃん』の植田まさしが同じページギャラという話を聞いた。別に当たり前の話かも知れない。作品としては、そりゃあ等価なんだろうけど、でも書き込み具合が天と地ほどの開きがある。ただし、これは逆説的に不平等という話じゃなくて、単純に言えば「シンプルな絵で認められればそれでいい」というだけの話なんだよね。今みたいにマクロ視点から物を見れるようになると、物の価値というのは、それにかかった労力に基づくのではなく、あくまで市場が付けるものだというのがよくわかる。手間じゃないのだ。効率だけ考えれば、いっそ創作もやめて株のトレードでも始めりゃいいわけだし。でも、マネーゲームも続けていれば、どこまでいっても虚業だから案外虚しいもので、いずれは実業のほうでもう一花咲かせたいという感情が芽生えてくるもの。寺沢武一が精密なマンガを描いているのは、あくまで本人がそうしたいからである。逆にシンプルな絵柄は誰にでもマネされる側面がある。実際、後に植田まさしエピゴーネンのような作家が竹書房から次々と登場し、どれがオリジナルなのかも読者は問わない状況を生んでしまった。これは私がいつも厚い本や長いブログを書いたりするときの気持ちでもあるのだが、「とにかく手間のかかったものは、時代が代わっても価値が変わらない」。これを肝に銘じている。それを信念としてやっていれば、あまり人生に迷うこともないと思う。
 とはいえ、今の仕事を選んだことを後悔することはある。私の友人にはミュージシャン、マンガ家、作家などが多いのだが、クリエイターの世界はコツコツと諦めずに続けていさえすれば、どっかのタイミングで評価されるチャンスが訪れるもの。みんなが苦労を経て、今はお金持ちになっている。ビンボーなのは、活字畑の裏側にいる私ぐらいだ。同じ活字でも、作家と編集者の社会的なステイタスは天と地の差がある。そかもサブカルチャー系はもうお呼びでないという感じだし、ジャンルで言っても私の専門にしている音楽の本はとにかく売れないのである。
 ブログにしても、もっとサッカーだの野球だの工学系だの、専門色が強ければ反響も大きいんだろうけど、こちとら門外漢だからなあ。それに、昔はとにかく原稿書くのが早くって、「てにをは」もほとんど直さずに一発で書き上げていたもんだが、最近は歳なのか途中あたりでくたびれてパラフレーズが支離滅裂になって、書き上がってから何度も推敲しないととても使えない。だいたい、一つのエントリーを書き上げるための所要時間は、トータルで3時間ぐらいかかる。ふー。
 その点、シコシコと続けているお絵かきは、とにかく早い。こっちもマンガ太郎みたいに、お題を拝借してちゃっちゃちゃっちゃと描けたりするのが理想だから、1エントリーにつき30〜60分ぐらいで終わる。もともとウチのブログはテキストが長すぎてツライという人が多い。であればと、ちょっとでも大衆に愛されたい私は、マンガを入れてみたり、お笑い(主にオヤジギャグ)をかましてみたりしている。
 で、今回も次の今夜の予定まで3時間ぐらい余ったので、今日買ってきた雑誌をつらつら読みながら、ヘッダ用のイラスト作業などを少々。意味のない序文ばかりで申し訳ない。ちょっとグチっぽくなってしまった。でへ。



マンダレイ』より、ブライス・ダラス・ハワードの似な絵(Mさん、ありがとう)。今どき珍しいクラシックな顔立ちで、角度によってはオードリー・ヘプバーンに見えないこともない。マリリン・モンローよりヘプバーンを愛した日本人であるからして、後に出演作に恵まれれば彼女は日本で大きくブレイクすると思う。次回作は『スパイダーマン3』。ヒロイン役のキルスティン・ダンストは続行だから、何の役で出るんだろう。一応、ハリセンボンの箕輪ちゃんも描いてみた。やっぱ似てねー(ただのガイコツ)。

のだめカンタービレ』ブーム、いまさら続行中。現在13巻まで読み終えた。パリ編になってからは、個性の強い敵役が登場しないのでちょっと寂しくもあり、回想シーンで出てくる江藤先生がやたらに印象が強く懐かすい。

同じく『のだめ』より、コントラバスのさくらちゃん。こういう小技ギャグって素敵。

セーラー服と機関銃』は2話もよかったね。コメディ要素もほどほどで小気味よく、長澤の演技ものびのびしていて、安心して観れる。目高組の連中の配役も見事。なぜたった全8回で終わるのか、それが悲しい。

ちょっとマンガ風の絵になってしまったハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)。『映画秘宝』の『ダーティハリー』特集の写真からの模写。『父親たちの星条旗』はいずれ観に行く。

倖田來未のシングルのジャケ写模写。私はデビュー当時から「あの顔が好き」と公言していた一人。ハスっぱなヤンキー風の女の子にいつも惹かれる。中島美嘉アーシア・アルジェントも好き。まるで毎年夏になると高校球児をお兄さん感覚で眺めるみたいに、そん時は童心に返る気持ち。