POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「ビジネスの非常識」が「ヒットのジョーシキ」と化すセオリー(レコード業界編)

 新部署で過ごす私の目下のテーマは「いかにしてお金儲けを実現するか?」である。今までマイナーなテーマとチマチマ格闘していた私が、なにをかいわんやという話。昔、仕事していた角川書店がアスミック、エース・ピクチャーズ(現・アスミック・エース)のみならず、大映(現・角川映画)やヘラルド(現・角川ヘラルド)まで傘下に入れ、ましてやスピルバーグのドリームワークスの配給権まで所有する時代だ。出版社でありながら映像事業が柱に据えられており、すでにペーパー部門は、映像事業とキャラクターほか権利ビジネスのパブ媒体のような位置づけである。そんな時代だというのに、パルプ消費の問題も顧みず、売れない本をエゴ丸出しで作り続けるというのも罪な話でしょう。えらい時代に編集者になっちまったもんだ。そんなわけで、それまで一瞥もくれなかった異業種系の雑誌などを研究している昨今である。今日もそんな作業の折り、キャラクター・ビジネス研究の先鞭を付けた雑誌『日経キャラクターズ』のガンダム特集で、興味深いコメントを読んだ。ガンダム・ファンの方ならすでに周知のことかも知れないのでお恥ずかしいが、あの空前絶後のヒットとなった“ガンプラ”のプラモデルの販売権が、バンダイに譲渡されたのって番組終了後だったのね。それ以前に、クローバーというマイナーメーカーが玩具スポンサーをやっていて、そこから受け継いだ経緯があったという話はどっかで読んで知っていたけれど、てっきり初期の玩具が余りに粗悪だったので、クオリティ至上の考え方からバンダイに交代してもらったんだと勝手に思っていたのだ。ところが実情は違って、バンダイに寄せられた『機動戦士ガンダム』のプラモデルを所望するファンの声がきっかけで、制作会社のサンライズに権利交渉を開始。やりとりは放送中から進められていたのだと思うが、きちんと契約を交わしたのはすでに番組終了のころというから、端から見るとバンダイが貧乏くじを引かされたみたいに見える。『機動戦士ガンダム』の放送を終わらせちゃった張本人は、先代スポンサーだったクローバーってことでしょう。その後の“ガンプラ・フィーバー”を知っている立場からすれば、よくぞ終了番組のハンデを克服してビジネスを成功できたものだと、バンダイの担当者の慧眼に敬服する。というか、視聴率不評で終わろうとしている番組の販売権を取得という行為を、よくまあバンダイの上層部も了承できたもんだなあ。
 『機動戦士ガンダム』もそうだが、私らの時代の『宇宙戦艦ヤマト』『ルパン三世』といったアニメも含め、だいたい本放送で視聴率が取れずに終わったものが、ファンのリクエストで再放送されて、後からヒットになるというものが実に多い。このへんは、何か「再放送ビジネス」の法則のようなものがあったりするのかしらん。アメリカのテレビ番組の資金回収は、焦らずもっぱら中長期的に組み立てられるらしいから、『X-ファイル』にしても『24』にしても、ヒットの兆候さえあればシリーズはしばらく続けられて、どこかでヒットのタイミングをつかむという展開が多いと聞く。まあ、それが逆に、中規模ヒット番組が延々追われないジレンマのようになっているわけだから、善かれ悪しかれといったところだが。「当初の予定を履行して終了」ではなく「初回放送が不評で短期に打ち切り」というぐらいの痛恨のエピソードがあったほうが、再放送時に神話として語られやすいというメリットもあったりするのかもね。
 すでに『宇宙戦艦ヤマト』による「再放送ブレイク神話」が生まれた後だったわけだから、バンダイがもし、番組終了後にこそ勝機があると見越して『機動戦士ガンダム』のキャラクター販売権を買っていたんだとしたら、それはビジネスの未来を見据えていると思う。そういう「従来の常識を逆に行く」ということが、成功を生むというパターンが近年、私のまわりでも実に多いのだ。
 例えば、テレビ番組のタイアップ曲のリリース時期の話。昔は、テレビ主題歌というのは、だいたい番組のスタート週と合わせるか、始まる一週間ぐらい前に発売されるものが多かったと記憶している。海援隊のファンだった私は、『3年B組金八先生』の番組開始前に、彼らの新曲「贈る言葉」を聞いて、えらく落胆した記憶がある。その前のシングルは「JODAN JODAN」というお笑い系のディスコ曲だったし、基本的に武田鉄矢がそれまでのドラマで演じていた役は、『せいこ宙太郎』の小林桂樹の息子みたいな、極楽とんぼなモラトリアム青年ばかりだったのだ。だいたいエロ本のコレクターとして谷村新司とタメを貼っていたような不道徳な人である。「新番組で学校の先生役を演じる」と最初に聞いた時も驚いたが、それはおそらく学園コメディかなんかで、主題歌も「JODAN JODAN」みたいな曲だと思っていたのだ。
 どうでもいい海援隊の話へと壮大な脱線の仕方をしてしまったのだが、つまり当時は、第一話でその主題歌を聴いた視聴者が「あ、この曲いいな」と思ってレコード店に行けば、だいたい買えるように、視聴者本位な発売ローテーションが組まれていたのだ。ところが、現在のセオリーを聞くと間逆で、番組終了後を目指して発売日が組まれることが多いんだとか。これには明確な理由がある。すべてオリコン・チャート対策によるものだ。週刊の「ランキング・チャート第1位」を取るために、発売日(週)にファンの購買を集中させるように誘導するというのが、今のレコードビジネスのテーゼ。B'zや浜崎あゆみのCDが200万枚を超えても、その曲を誰もが知らないのは、ファンによる組織票が「ランキング・チャート第1位」を支えているからだ。1年間は50週あるが、毎週そんなふうに「ランキング第1位」に選ばれ、それさえひとたび記録できれば、翌週に速攻でランク落ちしていようが、当初の目標は達成させられたことになる。テレビ主題歌も、従来みたいに発売前に出されたって、それが名曲かどうかなんて誰にもわかるはずがない。むしろ毎週オンエアを繰り返して、「これ、いい曲だな」と刷り込ませておいて、飢餓感をさんざんに煽った後に出すことで、瞬間風速的なヒット記録に結実させたほうが効率はいいわけ。そのベストなタイミングが、感動のフィナーレで終わる「最終回の後」ってことになったのだな。「オリコン・チャート2位、3週連続記録」とかじゃダメ。たった1週でもいいから「オリコン・チャート1位」を取らなきゃ意味はないのだ。
 以前、某レコード会社のプロモーションを手伝った時のこと。あきらかにHMVタワーレコードといった外資系大型CD店の常連客によって支えられているようなアーティストだったのだが、予約キャンペーンイベントのたぐいはすべて、山野楽器、星光堂などの老舗のチェーン店ばかりで行われた。以前書いたように、理由はHMVタワーレコードなどの大型チェーン店が売り上げデータを、オリジナル・コンフィデンスに明け渡さないためである。オリコン集計の「ランキング・チャート第1位」を取るためには、少しでもHMVやタワーに流れる客の票数を、山野や星光堂などの集計店に回したいという、レコード会社側の歪な思惑があったりするのだ。
 歪と言えば、すでに週刊誌などでさんざん書かれている話だが、オリコンが出荷枚数の集計でランキングを作っていることも、現実の売れ筋とギャップがあると指摘される、大きな問題点である。これは、オリコン・チャートが誕生したころ現在のようなPOSシステムがなかったため、調査店ひとつひとつの実売り上げをカウンティングできない物理的な問題から、レコード会社の出荷伝票を元にランキングを決めていたという時代の名残である。このPOS全盛の時代になっても出荷枚数でランキングを付けているのは、過去の時代のランキング・データとの集計方法に齟齬が生まれないようにという意味もあるんだろう。ご存じの通り、日本のレコード、CDは「再販価格維持商品」なので返品可であるため、極端な話をすれば、返品覚悟で400万枚とかプレスして出荷さえすれば、その半分も売れずに返品されても、オリコン・チャート上は400万枚を出荷した(≒売れたという印象)という事実だけが歴史に刻まれる。一時、エイベックスがとっていた戦略も、この出荷枚数強化(他社ではリスクが大きすぎてやらないほどの枚数をあえてプレスする)によって、まず「オリコン・チャート1位」を獲得し、それを宣伝材料にして在庫を売っていくというやり方であった。だが、さすがに「出荷枚数でランキングをとるなど前時代的である」と考える人もいて、テレビの世界などでは現在、POSデータから売り上げランキングを発表するプラネッツのような新興会社のデータに、オリコン・データから切り替えている番組も増えている。もっとも、プラネッツにしたところで、HMV、タワーの売り上げが反映されているわけではないから、大型CD店ならではのバンド系などが意外にチャートに上昇してこないという“見えない歪み”が、そこにもあったりするのは変わらないのだが。
 この「ランキング・チャート第1位」というのが、オールマイオティにカードが切れる金科玉条なのだ。レコード会社周辺にいる世界のすべてが、このペーパーに記された実績を根拠に動いている。ようは、その音楽がどんなものかなんて、聴いちゃあいないわけだ。純情な音楽好き少年にとっては罪な話だが、しかしそれが残酷な現実である。以前、ミュージシャンの友人と話をしていた時のこと。ギター・ポップもやれば、レゲエもやりたい。ポップである反面、アヴァンギャルドな一面も見せたいという当人は、レコード会社の販売部から押しつけられた特定のジャンルのレッテルが窮屈で仕方がないとボヤいていた。売れれば何やっても許されるけど、まず売れるまでは特定のカテゴリーに帰属して流通に載せることが先決、というのが販売担当の本音である。日本もアメリカも、取次の問屋が毎回新譜をじっくり聴いて、ジャンルを振り分けたり、扱い枚数を決めているなんていうアマちゃんな世界ではない。過去データがあるものはそれを根拠にして決められ、データがないものは「じゃあ扱わない」と言うぐらいシビアな世界なのだ。先のノンジャンル志向のミュージシャンの場合でも、例えば、ギター・ポップ、レゲエ、ポップス、アヴァンギャルドと多ジャンル対応をして打ち出しても、発売日にレコード店に行ったって、ギタポやレゲエ、ポップス、アヴァンなどのコーナーなどで、網羅的に配置してくれるなんてことはまずありえない。「めんどくさいので、ウチはいらない」と言われるのが関の山だ。彼らは、売れないレコードを一生懸命時間をかけて売るような酔狂な人たちではないのだ。「どれか一ジャンルに決めてくれ」と言われてそれに従うか、いやならば「じゃ、いらない」と言われて突っ返される、二者選択が待っているだけ。はっぴいえんどと同じ時代、多くのフォーク・ロック志向のグループが、半ば強制的に「四畳半フォーク」の世界の住人になって活動していたのも、当時、歌謡界以外に彼らが住める世界がそこにしかなかったからだ。
 レコード会社の制作担当という発信元と、末端の消費者、あるいはレコード店の入荷担当は、みな一応に一家言持つ音楽好きである。しかし、販売、流通といった中間にある世界は、例え個人的に音楽好きがいたとしても、冷徹なビジネスマンであることが求められる世界である。例え素晴らしい作品ができたとしても、それを流通に載せるためには、ある種のカテゴライズに載せる必要があったり、無理矢理キャッチーなコピーを付けられたりしなければならない。その伝言ゲームでは「微妙なニュアンス」なんていうものは伝わらないと思った方がいい。逆に言うと、それが売れさえすれば、いいものであろうが悪いものであろうが「商品化してもいいよ」とOKの出る、割り切った大人の世界でもある。例えば、まだサバービアなどの再発ブームが起こるずっと前の、有名なラウンジの復刻コンピレーション盤が出た時のエピソードがある。社外の企画者が「これを復刻すれば絶対今売れます」とレコード会社に持ち込んでも、最初は過去データがないためになかなかゴーサインが出なかったという。そこで企画者は業を煮やして、置いてくれそうなWAVEなどの当時の大型店を一軒一軒まわり、入荷担当者の友人に直接掛け合って「出たあかつきには、必ず100枚入荷する」というような念書を書かせて、それを手形にしてレコード会社に再度掛け合って発売OKを取り付けたという、逞しいケースもあったりするのだ。
 「書面がすべて」という意味では、もう一つ面白い話がある。インディーズで活動していた、私の友人のバンドがメジャーでデビューした時のことだ。氏は私と同じ歳だったが、なぜかデビュー時のパンフレットでは5歳も年が若く書かれていた(笑)。「アイドルじゃないんだからさ」「第一、ファンもわかりそうなもんじゃん」と言ってからかったものだが、これはレコード会社内の奇妙なコンセンサスに理由があった。今から15年以上前、あのバンドブームの時代であっても、「メンバーが25歳以上のバンドにはファンが付かない」という理屈から、デビューを断念させられたり、裏方の作家への転身を進められることが多かったのだ。ディレクターは百も承知で、好きだったそのバンドをなんとか社内でデビューさせるために、あえて年齢を詐称させたというのが実情であった。社内のライバル・ディレクターら各々が契約したいバンドを推す新人プレゼンで、デビューをつかみ取るための、いわば建前のためのウソ。それは「音楽性を無理矢理ねじ曲げられてデビューさせられるよりずっといい」という、ディレクターの政治的に正しい判断によってなされたものだ。当人も、制作ディレクターも、ファンも実年齢を知っているのに、ペーパー上は偽りの公称年齢が書き込まれ、それのデータを中心にして、取り囲んでいる販売、取次、マスコミの世界が回るという……。ロック界とて、建て前と本音が並行して存在するシュールな世界なのは、芸能界とさほど変わらないのだ。