POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

お父さん世代限定企画Part2「中学生のための正しいロック布教の手引き」

 以前、私がロックを聴き始めたきっかけが「5歳年上のお姉さんに好かれたいという下心から始まった」という話を吐露してみた。実を言えば、そのお姉さんには同学年の彼氏もいたのだが、私はそのお兄さんのことも慕っていたのだ。そういう年上の世代全体に憧れて、背伸びしてみたいという年頃だったんだな。そもそも私は小学生の時から、とにかく大人への憧れが強かった。同学年が夢中になっていたアニメやガキ向け番組を「しょんべん臭い」とバカにしていたので、『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も見なかったから、今でも同学年と懐かしテレビの話をしてもかみ合わないことが多い。ガキのクセにお袋といっしょに坂口良子の『グッバイママ』とか八千草薫の『岸辺のアルバム』とか、渋いドラマばかり見ていた気がする。小学二年生の時には、当時出ていた学年誌の『小学二年生』を親が取ってやると言われて「ガキっぽくてヤダ!」とどうしてもとごねて、『小学四年生』をずっと取ってもらっていたというほど、徹底した大人ぶりっこだった。そう言えば、手塚治虫が死んだあと、青年期にガキだとなめられたくなくて、生涯2歳年上に逆サバ読みしていたことが発覚したニュースがあったが、あれは小学生時代の私そのものだなあとつくづく感心したものだ。
 長男だったので音楽知識もかなり我流ではあったが、近所の兄ちゃんにロック好きというのがいて、LPをよく借りていろいろ教えてもらった。「ロバート・プラントは観葉植物が好きだからプラントと芸名を付けた」とか、どうでもいい知識が充実しているのは、その兄ちゃんらのせいである。レンタルレコード店というものがなかったので、これにはかなりお世話になった。あと、お袋の会社に勤めていた業者の人が、昔加山雄三のランチャーズのドラマーのオーディションを受けたことがあるという人で、昔の芸能界のこととかも聞かせてもらったりしていたから、島根という凄まじい田舎でありながら、魂の教育には事欠かなかった気もする。実は、隣市の松江からハードロックのBOWWOWもデビューしていたし、竹内まりや板倉文(チャクラ)、福岡ユタカ(ビブラトーンズ→PINK)など同県出身者は多く、文化不毛の地なのに、島根県はクセのある才能をけっこう輩出していたりするのだ。
 あと、街でも知らぬ者がいない不良軍団がいたのだが、このリーダー格の兄弟が珍しいロック好きで、私など怖くてとても近づけなかったが、爪襟をいつも止めてるマジメな中学生のクセに私がロックに詳しいことに一目置いてくれて、ちょくちょく「アレの新譜、お前聞いたか?」とか廊下で声をかけてくれた。よくまあイジメられなかったものだなあと、今思えば冷や冷やものだが、それもまあいい思い出だと思う。あれは、ロックに興味のないギャラリー連中には、かなりシュールな関係に見えたと思うな。
 最近、カルチャースクールの「ロック講座」が盛んで、現役の最前線の音楽ライターの方々がユニークなカリキュラムを展開している話をよく聞く。実際、学生やOLがアフターで授業を受けに来ているそうだが、皆が皆、将来音楽ライターになりたくて通ってるわけではないらしい。雑誌、ディスクガイドなどがこれだけ蔓延っていても、そんなカタログからは得られない、人生の先輩から直々にロックの名盤の話を聞きたいという動機から、わざわざ金を払って授業を受けに来ている子なんかもいるんだとか。これを浅ましい行為と言ってしまっては可哀想。Jラップだのテクノだのと情報のタコツボ化が進んでいる昨今。個人の趣味が尊重され他人が干渉しなくなった代わりに、「ロックの義務教育」が軽んじられてきたわけだから。音楽好きの自分を自覚できても、その知識が正しいかということに不安を覚える気持ちもわかる。だから、カルチャースクールや大学の芸術学部を含む、今後のアカデミズムの使命は重要である。生きた言葉でしか継承できないロックの魂というのも、あるのだよ。
 ともあれ、そんなことを日々考えている私に、以前、知人の音楽ライターW氏から、面白い話を教えてもらった。普段、編集部に売り込みに来るレコード会社のプロモーターという人種がいるのだが、これとは別にPR代理店という、レコード会社の余剰物件とか出版社と契約して、CDやら演劇やら書籍やらをまとめて宣伝に来る業者というのがいる。その代理店の近年の業務メニューに、「中学高校向けのCDのプロモーション」というのが加わったという話である。
 数年前、トレヴァー・ホーンがプロデュースしたt.A.T.u.というロシア娘のデュオがいたのを覚えているだろう。アルバム売り上げ計200万枚を突破するヒットとなったのだが、この人気を支えていたファンの大半が、実は中学高校生だったのだという。続いて同社が売り出したスティシー・オリコという当時17歳のシンガーも、初回盤をt.A.T.u.と同じく1800円という中学生でも買える価格に設定して、すぐに40万枚を突破。日本の洋楽チャートで1位を記録したものだから、アメリカで「日本で今ブレイク中」と逆輸入で紹介されて、あわてて米国のレコード会社がプロモーションに走ったという痛快な話もある。少子化と言われる昨今だが、彼ら世代が中心となって火がついて、メガセールスを記録するという現象が起こりえるのである。
 その年(03年)、カナダの女子高生バンドのリリックスが日本で売り出すことになり、なんと日本学園中学・高校の文化祭に出演するという異例のヒトコマもあった。大学の学園祭に日本の大物ミュージシャンを招聘する話はよくあるが、中学高校の文化祭に外タレが来るなんてのは前代未聞。この話はスポーツ新聞にも大きく取り上げられて、結果、20万枚という洋楽の新人としては好セールスを記録した。高校側からの「ぜひウチの校舎で演奏して欲しい」というリクエストで実現したと記事はまとめていた。が、穿った見方をすれば、レコード会社のプロモーターも「ストーリー的にイケルかも」と、スポーツ紙のタダパブ展開も視野に入れて、バンドを口説いたのは予想が付く。しかし、高校生がポスカとか手書きで描いた緞帳の前で、外タレバンドが演奏したという光景に、ちょっと心を動かされるものを感じたのだ。いわゆる、広告からラジオ局、外資系大型CD店のPOPから視聴機の中身まで、すべてが金勘定で動いている世界と離れたところに起こった、ちょっといい話的な。
 実はそのライヴを仕掛けたのが、そのPR代理店であった。面白いエピソードだったので、音楽ライターのW氏にはその担当者にインタビュー取材をお願いして記事にしてもらったのだ。面白いのは、同社はその他、私立中学・高校の放送部に、編集部やテレビ局みたいに、発売前のサンプル盤を配ったりしていたのだ。昼食時間に、どのメディアよりも先に、大物や新人のミュージシャンの新曲が聴けるというのは、その高校の放送部や生徒にとっては、ちょっと自慢できる話であろう。ケータイ電話の「着うた」というのも、新曲の先行配信を取り付けてシェアを伸ばしたことが知られている。この「よそよりちょっと早くお届け」というくすぐりが、意外にプロモーションとして強力なんである。
 現在の雑誌界、音楽界の潮流は、フリーペーパーの『R25』など20〜30代の“ベビーブーマージュニア”を狙ったものが多い。これは、もっとも人口比が多い層だからで、むしろ中学高校生のような青田買いは、投資した分だけのリターンがあるかどうか怪しいとこれまで思われてきた。しかし、この10代のロック熱というのが実に熱いんである。NHKの『10代しゃべり場』に出てくる生徒みたいに、いまどきロックで討論会とかしちゃうんである。彼らの兄貴ぐらいの世代が、ちょうどWinMXWinnyとか、共有ファイルで音楽を日常的にタダでダウンロードして聴く世代。彼らに「ダウンロードして聴いちゃダメ」という再教育をしても無駄なことは、レコード会社の人々もある程度勘づいている。いうなればこのシラケ気味の兄貴世代への軽蔑意識が、彼ら10代を「CDは買って聴くもの」という原点へと走らせているのだな。さんざんバイトして働いても、その中からCD1枚に1800円を出すのはけっこう痛い出費だろうと思う。だが、だからこそしつこいぐらい繰り返しCDを聴いて、生涯の大切な1枚へと関係を深めて行くわけだ。このあたり、平気でサンプルもらっていい気になって原稿書いてるロッキング・オンの人とかに(なんでロッキング・オン名指しなのか……笑)、爪のあかでも煎じて飲んでもらいたいところ。
 思うに、私は高校時代、マイテープ王と呼ばれるぐらい、友達に編集したテープを配って回っていた人間である。まるで詐欺師のように相手を言い含めては自分の好きなバンドを布教していく手腕はホレボレするほどで、その辺のプロのプロモーターでも太刀打ちできないんじゃないかと思うほどだった(ああ、若気の至り)。ていうか、それぐらいの年頃の、対象へののめり込み方は尋常じゃないのだ。人口比が少ない層だろうが、中学・高校生に向けてプロモーションするというのは、非常に起爆力があるのではと思う。みんな、頼まれなくてもやってたでしょ、好きなバンドの布教活動。もし、自分の文化祭に好きな外タレのバンドが来てくれたりしたら、そりゃもう一生付いて行くと思うもの。そのバンドが売れなくなっても、永遠の思い出のヒトコマを飾ったそのバンドを見限ることはないと思うし、実際、ワン・ヒット・ワンダーで終わって田舎の農場に引っ込んだとしても、引退後10年ぐらいは文通を続けるとか、そういう濃ゆい人間関係が生まれたりもするかもしれない。
 いわゆる『ロッキング・オン』的な人生訓ぶくみのロック話にはずっとシラケてきた私だが、とは言え「純粋芸術としてのロック」と言いきって作品主義に邁進するのには抵抗がある。たかがロック、されどロックなのだ。