POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

ラジオ偏愛主義者のブルース


 連日、コラムがどんどん長くなってしまって恐縮している。書き始めると止まらなくなってしまう。これも、日頃からデザイン先行(字数が決まっている)で原稿を書くことが多いことの反動なのだろう。80年代ネタだけに「オモツライ」とか言われちゃいそうだから、ちょっと短めに読めるネタも書いてみる。
 昨日のエントリーで、私のラジオリスナー時代のエピソードを披露した。ネットをやっている人のうち、どれぐらいラジオを聞く人がいるんだろうか。iTMSポッドキャストのランキングを見ても、さすが餅は餅屋というか、上位にはラジオ局系のスペシャル番組がけっこう来ていて、ネットで知ってラジオを聞き始める人も多いかも知れない。J-WAVEの音楽番組なんて、番組サイトに行くとリアルタイムにオンエア中の曲を曲名表示していて、クリックするとamazonのぺージに飛べるようになってたりして、まるで夢のようである。昔たまたまラジオで聞いた曲の題名を聞きそびれてしまい、レコードを買いたいのだが手掛かりが一切なく、探しに探してやっと見つけたのが15年後とか、私などそういう体験ずいぶんあるもの。10年ぐらい前、我が週刊誌でもラジオ特集をやったことがある。すっかり下火になっていたと思われたラジオだったが、そのころ阪神淡路大震災があって、テレビと電話網がすべてクラッシュしたのにラジオだけが唯一使えたおかげで、ライフラインとしての人命救助に貢献したといういい話もあったのだ。実際、満員電車で新聞を12折りぐらいして名刺サイズほどに畳んで読んでる人もいるが、先端のヤッピーの人たちは、ヴィダーインゼリー飲みながら、ラジオで朝のニュース聞いてるんだもんね(想像)。
 私がラジオを聞き始めたきっかけは、単純にあの時代の典型的な中学生のスタイルだったからである。まだ、テレビの値段が高く、一家に一台しかない時代だったから、勉強部屋に持ち込めるメディアなんて、ラジオしかなかったのだ。中学入学の時に初めてラジカセを買ってもらい(ナショナルのステレオマックMWであった)、試験勉強の時にしがみつくように聞いていた。ただ、テレビも好きだったので、テレビをみながらラジオを聞くなんて言うカツオ君みたいな器用な技も使っていた。三才ブックスの『ラジオライフ』という雑誌はあの時代からあったのだが、昔は『オリコン・ウィークリー』みたいなサイズのラジオ番組表が中心の雑誌で、ちゃんと人気パーソナリティの取材記事なんかが載っていた。それがあんなゲリラな雑誌になろうとは……。
 最初に聞き始めたのは、広島地方のローカル番組で、現在は参議院議員柏村武昭が司会の公開録音番組『サテライトNo.1』だった(アシスタントは「歌謡テクノ」でおなじみ榊みちこ嬢)。で、すぐにNHK第一放送でやっていた、唯一の若者番組だった『若いこだま』を聞き始めた。当時は、桃井かおり矢野顕子、サンディーetcといったラインナップであった。無論、後にYMOにハマって矢野顕子やサンディーとそこで再会するなんて思いもしなかった。そのころ映画『宇宙戦艦ヤマト』のヒットで起こった第一次声優ブームというのがあって、後期は山田康雄とか小原乃梨子とかゲスト・パーソナリティの出る回が多くなっていた記憶がある。その中で、『ウィークエンダー』に出ていた泉ピンコが何回か受け持ったことがあるが、それがずば抜けて面白くて、ファンがリスナーの中心だったレギュラーの『若いこだま』がつまらなくなって聞かなくなってしまった。
 即、ニッポン放送というふうに行かなかったのは、私が住んでいるエリアのローカル性のためであった。周波数帯域の干渉で、島根ではニッポン放送は北京放送にモロぶつかっていた。いつごろからか、中部日本放送で中継されはじめたのだが、ここが中継するのは一部までだったし、CMがいきなりローカルなものに挿し変わるのが悲しくて、結局、東京のニッポン放送の漏れてくる電波で聞いていたような気がする。結局、まだ「聴けさえすれば、なんでもいいや」みたいな若輩者だったので、しばらくは感度のいい文化放送を聞いていた。武田鉄矢青春大通り』とか、かぜ耕士の『セイヤング』とか。フォーク系が多いのは、なにしろ彼らはしゃべりが上手いんである。かぜ耕士なんて、本業はフォーク歌手だったらしいが、最後まで曲というのを聞いた記憶がない。この人の番組では、ヒット曲の歌詞を誤読してリスナーがストーリーを創作するというコーナーが激オモだった。
 ニッポン放送を本格的に聞き始めたのは、中学のクラスの連中の影響だったと思う。特に女子の間で、松山千春の『オールナイトニッポン』の人気がすごかった。今みたいなズル山パゲ丸ではなかったので、それはほとんどアイドル人気の様相だった。当時のラインナップはこんな感じだったか。
(月)……松山千春
(火)……タモリ
(水)……?
(木)……つボイノリオ
(金)……?(ナチチャコパックを聞いていた記憶があるが、違ったっけ?)
(土)……笑福亭鶴光
 ちなみに、ナチチャコパックというのは、ギネスにも載った長寿番組で、声優の野沢那智野沢直子の叔父)と白石冬美のコンビでやっていた『パックインミュージック』のことである。一応、念のため。こうして思い出してみたものの曜日が判断できないのはナゼだろう。ラジオは音だけの世界ゆえ、記憶の回路は視覚に負う部分が大きいからということか。このうち、私がハマったのはつボイノリオである。「金太の大冒険」の人だから、基本的にシモネタだったが、名古屋弁で語るのでいやらしい感じはしなかった。内容は後のビートたけしの「たまきん全力投球」なんかと変わらなかったけど、標準語でやると少々エグくなるのね。つボイノリオは最近、アルバム『ジョーズヘタ』が復刻されたり、iTMSで「金太の大冒険」のリメイクがヒットしたりしてるので、若い世代でも知ってる人は多いはず。当時、『おはよう子供ショー』(日本テレビ)で「ミニミニワイドジャーナル」というコーナーを持っていて、夜と朝を掛け持ちする多忙ぶりだったのだが、朝の番組に深夜放送の匂いを持ち込んだのは画期的であった。つボイによれば、『おはよう子供ショー』の鶴間エリお姉さんの配役理由は、通勤前のお父さんを捕まえるためにボインちゃんであることが必須だったと言っていたのだが本当だろうか。つボイは当時、ヤングジャパン(現在のアップ・フロント・エージェンシー)という事務所にいたのだが、たぶん事務所の契約切れということで、人気のピークに番組を降りて名古屋に帰郷してしまった。その後を受けたのが、同事務所の新人だった長渕剛だが、しばらくしてなんか事件があって穴が開いて、その代返として急遽駆り出されたのだがビートたけしだった。これが面白かったのでそのままレギュラーになった、というのがたけしの『オールナイトニッポン』誕生の経緯だったと思う。今や伝説的番組になったが、たけしは当時発言がアブナイと言われていて、制作者が躊躇するところもあったと思うので、正式なプレゼンを経ずに代返からレギュラーになったのは、神の采配としかいいようがない。金曜日はとにかく記憶がなくて、たぶん、歴代全然面白くなかった気がする。TBSドラマの『ムー』に出ていたトイレの仙人“ヘホ”こと近田春夫が、帰国子女のコッペ・ローウェルといっしょに第一部をやってたのを数回聞いたことはあるが、2時間の番組で「エレクトリックラブストリー」を何十回もかけていた。私がYMO の存在を知るのは、それよりわずか後になるので、こういうニアミスがずいぶんあるのだ。鶴光のオールナイトはもうすでに別格で、十八番の「うぐいす谷ミュージックホール」なんかは兄貴の世代で、当時は岡林信康「真説SOS」のカヴァーを出していたころ。テープ早回し声とかシンセサイザーのSEとかを駆使した、まるで「帰ってきたヨッパライ」みたいな曲で、ノベルティ色の強さに惹かれてすぐにシングルを買ったので、私の「歌謡テクノ」との出会いは鶴光だったということになる。ただ、フォーク派、ニュー・ミュージック派を自任していたので、シモネタも少しライト・フレーバーを志向しており、鶴光のネタは「THE エロ話」という感じで、私はちょっと引いていた。あと、余談だが『タモリ倶楽部』の人気コーナー「空耳アワー」は、元々この番組でやっていた「この歌はこんなふうに聞こえる」のパクリだと思う。コーナージングルがアダム・アント&ジ・アンツの曲で、本当に「オ※コ、オ※チョ、オ※コ、オ※チョ……」ってふうに聞こえたのが不思議だった。
 ところで、FMは聞いてなかったかと聞かれればそうではない。なにしろ、我が地方はFM局がNHK1局しかなかったのだ(最近、久々に帰郷したら民放局ができていて驚いた)。FMといってもNHKだから8割ぐらいはジジババ向け番組だったので縁遠かったが、『若いこだま』のスタッフがFMに移籍して始めた『サウンドストリート』は、最初のころから聞いていた。教授(坂本龍一)のは当然第一回から聞いてたけど、いきなりスロッピング・グリッスルとかキャブスとかかかっていたので放送事故と勘違いした人も多かったではなかろうか。これは裏話だが「コンピュータおばあちゃん」など、『みんなのうた』にYMO系の曲が多いのは、『サウンドストリート』担当の湊ディレクターが『みんなのうた』と兼任だったからである。
 東京に上京したのが84年の春で、ノイズなしでAM放送が聞けるようになったことには興奮したものだ。わりとすぐに仕事が忙しくなったので、ここからはラジオを聞く機会が減っていくのだが、それでもいくつか記憶に残っている。第三舞台鴻上尚史は、けっこうオーソン・ウエルズみたいなラジオの仕掛けものをやっていて、2:00ジャストにリスナーに呼びかけて、真夜中の咆哮とかいうコーナーで皆に「うお〜ん」とか叫ばせるネタで世間を騒がせていた。当時杉並区に住んでいたのだが、本当に咆哮している人の声が聞こえてきて、ラジオのインタラクティヴ性を初めて実感したのがこのときだった。同じころ、『週刊プレイボーイ』の編集者だった小峰隆生がDJをやっていたこともあったな。こういう、ミュージシャン以外の人がパーソナリティをやるというのが流行っていて、マンガ家の石坂啓が『パックインミュージック』をやっていたこともあった。今は子育てマンガの人だが、当時は『エルフ』という『氷の微笑』みたいな衝撃的な作品を書いていた美人マンガ家として知られていたのだ。ちょっと左寄りの人ではあったが。ちなみに、『パックインミュージック』がTBSで、『オールナイトニッポン』がニッポン放送、『セイヤング』が文化放送というライバル関係にあった。ここから『セイヤング』が最初に脱落して、『パックインミュージック』はしばらくしてからなくなった。おそらく、70年代のラジオ番組がフォーク・シンガー系DJに依拠していたからで、テクノな80代になってくると、ヤング・ジャパンの勢力は下火になっていくのであった(佐野元春だけは唯我独尊だったが)。モーニング娘。で復活するまで10年ぐらいは「ヤングジャパン? あったねえ(笑)」という感じであった。『パック』がいつ終わったかの記憶がない。ただ、横浜銀蠅の翔がパーソナリティになった時、一番の古株だった愛川欽也がスタッフに抗議して番組を降板したという『パック』史上に残る事件があって、スタッフが入れ替わったりしてもうガタガタだったんだよな。今考えりゃ、「銀蠅なんて不良!」っていう物言い自体が、牧歌的な時代のように聞こえてしまうが……。
 いつしかラジオを聞かなくなったのは、本業が忙しくなったということもあるが、私が上京してすぐにテレビの地上波が24時間放送になってしまったことだろう。あのころのテレビの深夜番組は、『タモリ倶楽部』あたりを規範としたエロでアングラなものが多かったので、ラジオを聴取者がそのままごっそり持って行かれたところがあると思う。そういえば、セブンイレブン(今はYahoo!傘下のセブン&Yだよね)も私が上京したばかりのころはまだ11時に閉まってたなあ。まだ外資だったし。ただ、だんだんロックファンの意識が強くなってきたころなので、FMを頻繁に聞くようになって、先日カセットテープの箱を引っ張り出してみてみたら、かなりのライヴ番組のエアチェックが残っていた。トーマス・ドルビー、ティアーズ・フォー・フィアーズデペッシュ・モードなど、イギリスのBBCのライヴ番組は、NHKFM東京が競うように放送していたのを覚えてる。邦楽だと、清水信之のライブが2回ともテープが残ってたし、MELONなんて4回ぐらいあったりする。そういえば、DVD『パンプド・フル・オブ・ドラッグス/ライヴ・イン・トーキョウ1985』にも収録されているニュー・オーダー中野サンプラザ公演って、FM東京で生放送でやったんだよね。やたらインターバルが長かったので、あれは知らずに聞いていたら放送事故だと思った人も多いと思う(笑)。
 このへんの洋楽については、後にBBCのトランスクリプション・ディスクという、各国に放送権をセールする時についてくる音源のLPが西新宿に出回るようになる。YMOなどはヲタなファンが付いていて高かったが、エレポップ系はわりと普通のLPみたいに買えたから、カジャグーグーとかトーマス・ドルビーなんかはこの時にたくさん買った。英国のカリスマDJ、ジョン・ピールストレンジ・フルーツからの復刻シリーズが出てきた時は興奮したな。スリッツとかガールズ・アット・アワー・ベストとかシド・バレットとかスタンプのライヴなんかが聴けるんだもん。なんでこんなマイナーなバンドが、国営放送のBBCに出てるんだろうというのは長年の疑問だった。これは、ピーター・バラカン氏の説によると、イギリスの演奏家ユニオンの要請だったらしい。戦前の音楽番組はすべて生演奏だったのだが、やがてレコードが普及して演奏家が仕事を失う深刻な事態になり、演奏家ユニオンが放送局にクレームを付けて、レコードをかけられる枠は放送の50%ぐらいにして、残りを生演奏の時間に当てることを法令化させたのだ。当然、ヒット曲を出している大物バンドのほうのレコードが優先されるから、マイナーバンドのほうの出演はすべてライヴという、なんとも贅沢な状況がそこに生まれることとなったのだ、あと、ストレンジ・フルーツの『John Peel Session』って、なんで所属アーティストのレコード会社ではなく、ストレンジ・フルーツという一レーベルから出ているのかがずっと疑問だったんだが、前にも紹介した西新宿の海賊盤屋の店長(後輩だったブートたけしのことね)に理由を聞いたことがある。これはアメリカとヨーロッパの著作権の考え方の違いによるもので、ライヴを録ったテープの所有権については、アメリカではパフォーマーのほうにあり、ヨーロッパではそれをテープに記録するために機材や予算を工面した放送局のほうにあるという、ハッキリとした傾向の違いが見られるらしい。この辺、写真家と被写体の関係でも、アメリカは肖像権のほうが強いし、ヨーロッパは写真家の作家性が重じられるという違いがあるのと同じだな。だから、ヨーロッパのレコード会社の場合は、ビートルズとかツェッペリン級の大物の場合は別として、だいたいが放送局系のレーベルからライヴ盤を出せてしまえるのだ。
 閑話休題。やがて、本業が多忙になってラジオを聞かなくなっていた私だったが、それでも帰りのタクシーの中などで聞く機会があり、80年代末期のころ、たまたま存在を知って新しいスターの登場を予感させたのが伊集院光であった。『オールナイトニッポン』の木曜2部をやっていて、そのころはオペラ歌手という肩書きだった。今は正体がバレてるけど、当時は雑誌にも一切写真が載ってなくて、本人が芳賀ゆいみたいな存在だったのだ。番組内でも、「オペラ限定イントロ・ドン!」とか言って、オペラ曲のイントロを聴いて次々と当てていくものだから、本当に音楽大学を出てる人だと思っていたのだ(笑)。これはすごいと感心し、当時いた『宝島』でわりとすぐに取材をお願いした私。その時、なぜか問い合わせしてみると事務所は「円企画」で、実際にお会いしてみたら、オペラ歌手というのは全部が設定で、まるっきり騙されていた。「円企画」というのは三遊亭円楽の事務所で、彼の正体は三遊亭楽光という落語家だったのだ。
 伊集院はブレイクしてすぐにTBSに移籍するので、ニッポン放送時代は短かったと記憶しているが、この時期の最大のヒットといえば、架空のアイドル「芳賀ゆい」をプロデュースしたことであろう。最初は「芳賀ゆい(はがゆい)」という名前のアイドルがいたら面白いよな、という雑談から始まった話なのだが、読者から「先日、どこそこで見かけた」という悪のりのハガキが届くようになり、わりとリスナー先行で盛り上がって、あれよあれよと言う間にCBSソニーからデビューという展開になってしまった。グラビア展開もすべて顔を隠した写真というミステリアスな存在で、ジャケと歌とビデオそれぞれ別の人が演じており、いうなれば良質なパーツを組み合わせた究極のアイドルであった。私が選曲した『テクノマジック歌謡曲』でネタばらしをしているのだが、彼女の「声」の担当だったのは、仙波清彦率いるはにわちゃんのヴォーカルだった柴崎ゆかり嬢である。これは、「芳賀ゆい」のプロデュースを、当時プリンセス・プリンセスユニコーンで当てていた河合マイケル氏(元スクエア)が担当したから。しかもわりと直後に、ゆかり嬢とマイケル氏は結婚したのであった。
 冒頭で、阪神淡路大震災のころにラジオが再注目されたという話を書いたが、それとちょうど同じころ、AMがステレオ放送になるというので、メディアで大きくPRしていた時期があった。私はすぐにステレオAMラジオを買ったのだが、「中波の音質でステレオ?」といぶかしがるより、「中波がステレオで聞ける。すごい!」と素直に感動したものだ。印象深かったのは、ニッポン放送の土曜日の午前中にやっていたテリー伊藤の番組だろう(番組名は失念!)。「ラジオ界初のワイドショー番組」というのがコンセプトで、芸能人の記者会見で録ってきた録音テープをかけながら、テリー氏がコメントをいうという構成であった。なんのこたないと思うかもしれない。しかし、実はテレビのワイドショーって100%モノーラルで放送されているので、記者会見をステレオ放送で聞くというのが、初めての体験だったのだ。記者席の後方から質問が飛び出したり、タレントの号泣が迫力の立体サウンドで聞けるなど、ステレオでワイドショーが聞けるのはなかなか格別な体験であった。今でも、なんでテレビのワイドショーって中継ものをステレオ音声でやらないのか不思議に思う。
 ラジオを聞くばかりではく、一時期、よく引っ張られて出ていたころもある。『電子音楽 in JAPAN』が刊行された後、興味を持ってもらったマスコミの方々がいらして、誌面から音が聞こえてこないもんだから、ぜひレコードをかけながらしゃべってくださいと依頼を受けて、いくつかのラジオ番組に出ているんである。テイ・トウワ氏のKISS-FMに出た時は、懲りまくりの渋い選曲であった。TOKYO FMの番組では、『21世紀のこどもの歌』をかけたら、そのサイケデリックな音にDJの人も驚いていた。一番のメインイベントは、当時まだTBSの局アナだった進藤晶子嬢の番組に呼ばれた時である。あれは人生のハイライトの一つだったかも。『鉄腕アトム/音の世界』などにも一応にウケていたが、ケヴ・ホッパーのスタンプの12inchに強く反応していたというマニアぶりも発揮していた。ちなみに、なんで私が呼ばれたかというと、番組を担当していたTBSのディレクター大のプログレファンだったのだ。一番好きなバンドはフランスのマグマだと言っていた。そういう人がTBSにいるんだねえ。
 そして今年、久々に私をラジオに駆り立てたのが、iPod専用のFMラジオリモコンを買ったことだった。「こんなに小さいチューナーって」という感動もあったが、それを通して聞いた、現在のラジオ界の状況に感動したのだ。投稿番組はすでにインターネットと携帯メールで行われており、「ペンネーム」も呼び方が「ラジオネーム」に変わっていた。しかも、番組の冒頭でネタ募集をかけると、その数十分後には職人からネタが集まるというレスポンス性の高さ。ホリエモンじゃないが、“ラジオとネットのシナジー”はすでに一般レベルで実現化していたのだ。そんな私を特に惹きつけたのが、東京ローカル番組なんだと思うが、J-WAVEの「GROOVE LINE」である。モー娘。のアレンジをやっていたダンス☆マンのサブリーダー、ピストン西沢がレギュラーなのだが、番組中にLAの黒人DJみたいにメガミックス・プレイとかやっちゃうんだよ! しかも未だに毎日やってることが驚異だが、本人も飽きちゃうからか、けっこう実験的なネタも多い。いつぞやは私が選曲した『イエローマジック歌謡曲』を延々30分もつないで番組やってたのには笑ってしまった。それと、アシスタントの秀島史香嬢がまたいいんだわ。喉声というか、「鈴が転がるような声」とはこのことだな。武藤礼子高島雅羅といった、我が声フェチリストに加えたいフェロモン声。あの極楽の山本が会いたいって言ってたらしいから、マスアピールもあるんだな(「ampm」の店内放送とかやってるのが彼女)。ウェブで顔を見たら、私が以前好きだったお姉さんに顔が似ていてよけい興奮した。このへん、かなりピンポイントかも知れないが(笑)。
 とはいえ「GROOVE LINE」は平日4:30〜8:00だから、勤め人が不用意に聴ける時間帯じゃない。そこで、番組を長時間録音できる機械を買おうと探したわけだ。たぶん、いまどきならチューナー付きのハードディスクとか普通にあって、SDメモリとかに転送してPCにストックできるんじゃないかとか。ところが、チューナー付きハードディスク内蔵ラジオなんて、誰でも思いつくし誰でも作れそうなのに、商品化されてるのってサン電子トーク・マスター」しかないんだよね。ハイエンドならハードディスクコンポのラジオ機能を使えばいいんだけど、けっこう高い。2ちゃんねるのラジオ板とか見てみると、やっぱり伊集院ファンとかが毎週5時間の番組を保存するために、いい録音装置ってないねえと皆も困っている状況があった。ラジオ命のいっちゃってる最先端の人は、安いPCを自作してラジオサーバ化しちゃってるみたい。私もそれを参考にして、ウチのマックにPCIのAMチューナーボード入れようと思ったんだけど、マック用のAMチューナーカードはもう作ってないという。トホホ。で、結局「トーク・マスター」の1Gタイプを買って、こいつが毎日フル稼働で動いている。
 ともあれ、私のしょうもないラジオ遍歴を書きつづってみたわけだが、改めて私は活字人間ではなく、放送に影響を受けた人間だと再認識したな。実は私、普段の仕事ぶりを見ている人から「留守電の吹き込み方が上手い」というシュールな褒められ方をすることがあるのだ。私はわりと、その一瞬一瞬に頭の中でフローを組み立てて言葉を発するタイプなので、わりと「えーと」「そのー」とかいう無駄なフレーズが少ないのだ。YMOの各メンバーを10時間づつインタビューした本『OMOYDE』も、わりと無加工まんまな感じである。これも一つの才能だとすれば、それは私がラジオをずっと聞いて育ってきたことに起因していると思う。漢字も知らないのに使っている慣用句とかもたくさんあるし(笑)。松本人志も『ヤングタウン』を聞いて育ったと言っていたけど、「ヴィダルサスーン」とか、ああいう言葉というか音韻に敏感に反応するのって、ラジオ好きの特徴だと思う。そして、こうして書いているコラムも、語るようにツラツラと永遠に書き続けていられるのが、なによりラジオの影響だと思っている。