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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

ったくもー、「つぶやきブログ」批判のエントリについての再解説

 先日のエントリで「つぶやきブログ」(リブログ)について、ちょっとシニカルに書いてみたら、またぞろ脊髄反応でここを攻撃している人がいて呆れてしまう。まったく、文章というものが単なる単語やフレーズの羅列ではなく、「文脈」によって物事を喚起させるというコミニュケーション手段であるということが、なんでわからないんだろ?「文脈」から自分の都合のいいように「フレーズ」を取り出して、都合よく批判したり「オレも同感」だのと感想を述べ合うだけの、リブログの構造というか方法論自体が、長文のメッセージを端折るしかないために、本質から離れざるを得ないのは自明の理だろうに。
 ここのブログ批判で、よく「長文が偉いのか?」とか「長文ウザイ」とか「長い文章より短い文章のほうがエライ」って言うのがあるけど、長文と短文はそもそも書かれる目的は別のもの。長い文章からわかりやすいニュアンスだけを抜粋して組み立てられてるのがレジュメ(短い文章)なわけだから、機能性を重視して整理された短い文章では、おのずと伝わりにくい新味のある主張の枝葉は、削らねばならない宿命にある。ワタシがここで長文を書いてるのは、普段、字数制限を守って仕事をしていることの反動だったり、「文章書いてカネもらってる人間が“商品原稿”をネットにタダでアップわけないだろ」というような裏の意味があってのこと。むろん、長文をいくらでも書き続けられる「根っからの文章書き気質」という性分もあるだろう。だが別の一面で言えば、既存のメディアにはもう自由に発言できる場所がないという失望感があって、こうしてここを発言のメインステージとして本音をさらけ出しているところがある。できるだけ目新しい価値観を提示したいので、書きたいテーマがあっても、事前に検索して似たようなエントリがあったら書くのはやめている。当然、いつも情報発信元でいたい自負があるから、ニュースの引用ならともかく、他者のエントリをリンクして感想文書くのなんてアホらしいので一切やらない。そして、新しいニュアンスを含む提言は、やっぱりどうしても長い文章になる。相手に正確に伝わることに自覚的だったら、なおさら説明が長くなるはずで、リブログみたいな字数制限の中で書かれたもののほうに「真理」があるだなんて、本当にバカらしい話だと思う。
 以前ここのエントリで、WinMXWinnyなどの「ファイル交換プログラム」が、新しい通信手段として登場したことを享受しつつも、「日本人の付和雷同性と合致したときに、恐ろしいトリガーを弾いてしまうかもしれぬ」と書いたことがある。そして現に、消費者が起こした違法コピーなどの謀反によってミュージシャンやレコード会社に大打撃を与え、100年続いた音楽とレコード産業のハネムーンの時代は、今終わりつつある。ワタシが「pi●iv」やリブログ、ブログのトラバコメントの内容に対してシニカルにならざるを得ないのは、例え崇高な新技術であっても、「付和雷同で流されやすい日本人」がそれを使うことによって、「マイナスな現象が引き起こされやすいのではないか」という話。「使うんであれば自覚的であれ」と、個人的立場から警鐘を鳴らしてみせているのが、これまで書いた複数のエントリの骨子である。それを表面だけ捉えて、「pi●iv批判」「リブログ批判」「トラバコメントへの強要」とか勝手なことを言って、自分の立場を脅かす偏向した悪者などと決めつけて、一方的に解釈して発狂してるのって、どこまで本質が見えてないのか呆れるばかりだよ。
 例えば、インターネットでは日本より後進国である、中国のオークションや情報ポータルを覗いてみると、実は日本人の付和雷同性を上回った、「動物化するポストモダン」な状況が繰り広げられている。人口12億人がもしネットを使って、社会主義国の「正義」を押しつけてきたときに、これをアンタらは人ごとだと思って笑ってられるんだろうか? 「pi●iv」の“萌え偏重”を立ち止まって熟考することもなく脊髄反射で擁護するみたいに、「消費者が価値を決めるのが正義」「多数決はいつも正しい」「負け組は勝ち組に文句を言うな」だなどと野放図に言ってられるのだろうか? 差別を助長するつもりはないことをお断りして個人的エピソードを書くが、昔、自分が住んでいるのと同じ安アパートにアジア系(社会主義国出身)の人が住んでいたことがあって、その人がいくら言っても生ゴミを出す日を守らないんで、業を煮やした家主や住人がそれを守るよう説明するのになかなか伝わらず(国家批判とかにすり替えられてしまうのだ、やれやれ)とても苦労したことがあった。ことほど左様に、「国民性」というのは根の深い問題で、理想論だけで軽々しく扱えないと思うのである。
 ワタシがPerfumeなどについてのエントリを書くときなど、ワタシの独自の視点という立場で書いているから、当然規範的な視点からは大きく外れるものになるのだが、それは毎回お約束のように、ファンの中心である若者世代から「ピンぼけオヤジ」とののしられてしまう。けれども、若い世代もいつまでも「自分が消費社会の主役」にいられるってわけじゃないでしょうに。いずれ、親戚縁者から白眼視されたり、家族が増えて首が回らなくなって、ネットだロックだと言ってられなくなるときが来る。そうなったときに、今度下の世代から「ピンぼけオヤジ」って言われるはそっちだってことを、肝に銘じて発言しなされ。それと何度も書くが、こっちがこうして反駁してるのは、感情的になってるわけじゃありませぬ。多くの「文章のプロ」が、自分のブログが炎上するのが怖くて「本音を書かない」のををみて「カッチョワルー」と思って、自分ならではの戦い方で、自分をヘルプしてくれる「仲間」を守るという意味でやってるだけ。だって今や、情報ツールとしてのインターネットは、ヴァーチャル世界ではなく「現実の延長」だから。ネットを「臭い物にフタ」的に扱うだけで、現実との人格の乖離があったら、やっぱキモチワルイじゃん。まがりなりにも編集者って立場で、プロとして文章に関わる仕事してるし。違うのかなあ? ここ見てる「文章のプロ」の方々はどう思ってるのかね。
 カキコなどのログが未来永劫残ってしまうのがインターネット時代。そういうことにもう少し自覚的になって、普段から「考えるクセ」を付けて、自ら発言を自制するトレーニングをしたほうがいいのでは、という話でやんす。