POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

似顔絵のアナロジー

 先日、ライヴドアが技術提携して、「pi●iv」ユーザーが個人のギャラリーを一般公開できる「pi●ivブログ」がスタートしたが、さっそくこのブログ内でここのエントリを取り上げ、一方的で浅い批判が展開されていたりしてホントーに辟易する。基礎的な教養が抜け落ちている人は、決まってこっちが反駁すると逃げてばっかりなので、ディベートふっかけてこないでほしい、まったく。「こんなこと書かれて怒ってるようじゃコドモ」って書いた先から、もう怒る気満々。一般論として書かれたものまで、自分のことに置き換えて発狂している。フントニモー。ワタシのような「チャラいロビイスト」を打ちのめすぐらいの、目の覚めるようなロジックを展開する、アニメ側からの論客が出てくればもっとバトルも面白くなると思うのに。一方的にブクマコメントで捨て台詞吐くだけで、自分のステイトメントを誰もが書かないのはなぜなんだろう。ここのエントリが、多少の枝葉を切り落とした暴論めいたものであることは、人に言われなくとも書いてる本人が自覚してまんがな。事後処理しないと伝わらない人もいると思ってるから、コメントひとつひとつに対応して、誤解があれば説き、あきらかな「意見誘導」があればそれを注意してる。それは発言者としての責任だからね。それをタブーと人が言うのなら、当然そこに踏み込んでいる意識はあって書いてるけど、思考スイッチをオフにして「タブーはタブー」なんて訳知り顔で言ってるヤツより、タブーの本質を極めたいと言葉を費やしているほうが、よほど本質に近いと思うけどね。しかも、ここのエントリを肴にして盛り上がってる「プロのライター」という連中が多い話を聞いてワタシは驚く。誰一人として加勢することもないし、「すねふぃんが言ってるのには一理あるけど」と前置きしてる人だって、一理ないのはどの部分かについて一切明示していない。ワタシなんぞプロと言っても編集者が本業で、ライターはあくまで副業。プロのライターの書いた原稿の交通整理役でしかないってのに、「言葉のプロ」という人々がなぜ、書く必要もない毒にも薬にもならないブクマコメントにイヤミを書いて溜飲を下げてるのか? ネット情報化社会の実現によって、30年の栄華を誇った情報誌の役割が、いまネットに取って代わろうとしている時代。すでにネットは情報ツールとして、現実の生活とつながった「リアルの延長」にあるというのに、いまだにヴァーチャル人格と戯れるだけの「言葉のプロ」がいかに多いか。つぶやきブログで「***氏、辛口!」「オー、コワw」なんて、幼稚園のお遊戯レベルのことをやってるなんて、なんちゃってギョーカイ人といっしょだろ。NHK-BS『ザ・ネットスター』で先日「つぶやきブログ」が特集されていたとき、「これが新しい双方向コミュニケーション」との説明を受けて、司会の立川談笑が鼻白んでたけど、ワタシの今の気持ちも談笑と同じ。モンスターエンジンの神々のコントみたいに、下々の書いた愚かなブログを勝手にリンクして一言コメントでバッサバッサと切り倒す“神目線”のご気分も結構だけどさ。「併走者がいることで一抹の寂しさから逃れられる」という「つぶやきブログ」を、一般の方々ならともかく、「言葉のプロ」がやってることに何の意味があるわけ? つか、「言葉のプロ」の意見をぜひ拝聴したいってってことで、こっちはイチャモンつけてるわけだから、長文トラバ大歓迎という話でさ。「家族や仲間をネット社会の情報公害から守るために、最低限必要なディベート能力は持つべき」ってワタシの主張は、そういう人たちには時代遅れの意見に見えるのかな? あのNHKの番組で見せた「談笑の苦笑い」の意味をちゃんと理解できてる、キャストなりスタッフなり視聴者ってどれぐらいいるんだろうね。
 「pi●ivブログ」でさっそく『POP2*5』の特定のエントリを取り上げ、「バカ」とか「氏ね」とか幼稚な言葉を書いている者がいたのは先に書いた通りだが、そういう糾弾系のエントリってどれもすごく傾向が似ていて、ワタシを悪玉に仕立て上げ「正義の鉈を振るう」みたいな論調のものばかり。で、例によってそいつの「ワタシはこう思う」がスッポリ抜けている。いまどき、『ニュース23』のオブジェクションに出てくる「イラク戦争」の街頭インタビューの小学生のコメントだって、「『ガンダム』で言えば、ジオン軍にはジオン軍の正義があってやってる」なんていうぐらい、価値相対主義的なバランス感覚を持ってるご時世だというのに。なんでそこまで単純な「似非正義」を振りかざしてるのか、さっぱりわからん。つか、どんだけ古い価値観にしばられてんだよ。
 先日見たその「pi●ivブログ」は、あまりにも書かれている内容に何一つロジカルな正当性がなく、ブクマもしてなかったんで改めて探してもなかなか見つからないんだが、そこに書かれていた指摘の内容を見て、ちょっと気になったことがあったので、今回はそれについて書くことにした。ひとつは「実写の顔が全部いっしょ」「デッサン力があるという割には、似顔絵が似てない」というワタシの絵への批判で、まず「ワタシにはデッサン力がある」なんてブログのどこにも書いてないわけだから、このあたりの読解力のなさはかなり怪しい。「実写の顔が全部いっしょ」ってのは認めるけども、じゃあそっちのアニメ絵はなんだと言いたいけどな(笑)。こっちは鼻の大きさやアゴのラインなど、それなりに差別化して描いてるつもりだが、そっちは顔の輪郭も同じ、目玉も同じで、違うのはメガネの有無と髪の色だけ。「緑」や「紫」の髪の毛がリアルだなんて、ロバのパン屋の時代のセンスだろ。なんでこんなに簡単に足下を掬われるようなことを書いてしまうのか。ワタシのように活字の世界にいて、絵をつまみ食いしてる人間から見ると、いかに絵を描く側の人間が「思考をおろそかにしているか」がその文面に現れていると思う。某匿名掲示板には、「pi●iv」に連投されるパクリ投稿を検証、糾弾する自警団の方々がいて、その仕事ぶりにはいつも敬意を表しているが、「なぜパクリがなくならないのか?」という大命題については、絵師が「思考をおろそかにしている」って理由につきると思う。そこにお灸を据えずに、ひとつひとつの事例を糾弾しても、あまり意味がないんじゃないかといぶかしくなるほど、それぐらい「倫理観」が欠乏してんじゃないかと思う。
 で、「デッサン力があるという割には、似顔絵が似てない」という、「デッサン力の有無」と「似顔絵として似てる」を一直線に結びつけていた意見。これもまたこの発言者が、いかに絵というものを構造的に理解できてないかということを象徴しているコメントのように思う。
 例えば、下の説明図を見てみてほしい。





 「もこみちの写真を使ってるのは犯罪だ」だとか、そんなクズみたいな意見はどうでもいい。「ビタミンウォーター」のCMで顔がCGクリエイターのおもちゃにされてたから、わかりやすい例として彼の顔を使ってみただけよ。先日のエントリで「似顔絵を書く行為はただのモンタージュにすぎない」と書いたとおり、ことほど左様に、パーツの位置がわずかにずれるだけで、もこみちの顔がもこみちではなくなってしまうほど、厳密なバランスによって「固有の顔」が認識されている。実際、日によって、気候や湿度の違いで人の顔というのは腫れたり間延びしたりするもので、写真に撮っても「本人に似ない」なんてことがあるわけだから。
 昔の写実的絵画の作家たちは、あたかも測量士のように、対象の顔のバランスの距離を正確にキャンバスの上に再現していた。だが、写真技術、CG技術が発達した現在では、リアル画でショーバイしているクリエイターの創作環境はかなり様変わりしている。例えば、ドローイングによる芸能人画で有名なペーター佐藤が、写真を素材にしてトレススコープを使って描いていることは誰でも知っている。TBCのキムタクのCMなんかを手掛けていたエンライトメントにしても、ワタシは仕事をいっしょにしたことがあるが、元になる写真を編集者が集めて、カメラマンの著作権処理をして預けたものが、できあがりの作品の土台になっている。つまり、対象を正確にキャンバス上に置き換える技術ではなく、写真を素材として色塗りなどの個性でオリジナル性を打ち出すという、「加工のブランド性」に重きが置かれている。これは雑誌の表紙や広告アートのような、デザイナー側からのアプローチだから、その行為を指して「ただのトレスじゃん」って非難するのはお門違いというもの。
 その一方で、宇野亜喜良ナンシー関のように、写真を素材に見ながら書くがトレススコープを使わないイラストレーターもいる。鉛筆を下ろした位置のゼロコンマ数ミリの違いで、似てる/似てないが決まる世界だから、トレスよりも「似顔絵としての完成度」にムラが出るのはいたしかたない。デコラティブな外人顔ならまだいいが、のっぺりした日本人顔の差異を似せるのは本当に難しく、「実写の顔が全部いっしょ」と非難されても、「わかってまんがな」と言い訳するしかない。だがこの方法の場合、対象の「動き」を一枚の絵の中に投影させたり、絶対笑わないグレタ・ガルボを笑わせるといったような、測量士以上の表現が可能であるというアドバンテージもある。ワタシが「似顔絵」で目指しているのはそういうものだ。デッサン力など、あくまで「似顔絵」を描くために必要な一つの技術条件でしかない。「似顔絵」と一言で言っても、トレスする/しないなどのさまざまな分岐があり、選び取る方法論の選択は無限にある。ことは「デッサン力がある」→「だから似顔絵が似てる」なんて単純な話ではないのだ。「デッサン力の有無」と「似顔絵のうまさ」を結びつけた固定観念を振りかざしているのは、たぶんこの発言者がアニメみたいな絵ばっかりに夢中で、実際に「似顔絵」を描いたことがないからだと思う。「似顔絵」を似せる苦労を知っている人なら、「デッサン力を付ければ似顔絵描く技術が身につくんなら誰だって苦労しない」ってことがすぐわかるはずだから。
 「pi●iv」にもリアルイラストレーション系の投稿は多いが、実はその中にはPhotoshopの油絵系プラグインで写真をただ加工しただけのものや、「Painter」の自動描画モードで写真をインスタントになぞったものがたくさん見つかる。ところがなぜかこれらが高得点になってたりするのは、インチキというよりも、「一生懸命描きました」などというウソを見抜けない、評価者のほうに理由があるんだと思う。特に「pi●iv」のようなアニメ系の投稿が多い投稿型SNSでは、きまって「デッサン軽視論」を持ち上げる人が多い。「アニメにはデッサンはいらない」「アニメ独自のデッサンはリアルデッサンとは違うから、ほっといてほしい」という意見はよく見かけるが、結局、そういうデッサンに関する基礎教養が抜け落ちている人が多いから、フォトショの写真加工が簡単に見抜けないんだと思う。
 また、某匿名掲示板の「pi●iv」関連スレにここのブログをリンクしていただいたようで、「キャラに魅力がない」「線画かキタナイ」とご指摘いただいてる点については、はいそうです変なオジサンですと開き直るしかない。でも、「色塗りがキタナイ」ってだけでその存在が断罪されるというのも、いかがなものか。だって、日本のマンガ家のどれだけの人がカラー原稿でショーバイしてるわけ? プロだってアシスタントに色塗りを全部任せてる人もたくさんいる。ていうか、アニメ絵だって背景は背景画家が描いてるのが普通で、人物画を描く人間に背景を描く画力が必要だなんて意見は「pi●iv」だけの世界で、あまりに現実と乖離しすぎてる。ここのブログは、「青年老いやすく学成り難し」の格言のごとく、保守化しやすい固定観念をシェイクして、「価値観の多様性を持つべき」をスローガンに書かれたものが多いけれど、そのたびに「かくあらねばならぬ」という固定観念ばかり「強要」してくる人が減らないのはなぜなの?
 ワタシの好みを言えば、ごてごてと一昼夜かけて色塗りしたものより、シンプルな数本のシャッシャッという線画だけで、例えばファーの質感を表現することのほうが、よほど絵描きの技術としての高級だと思う。色塗りに凝る時間があったら、ストーリーにもうひとつ皮肉を載せたいなんて考えてる、話がメインの小生の「作家性」なんて誰が見てもわかろうと思うんだがね。下味に時間をかけるフランス料理と、素材そのものをシンプルに召し上がる精進料理を、同じものとして語りたがるのはなんなんでしょう? ワタシのブログは「精進料理」を強要するものではないし、「毎日フランス料理だけで飽きないの?」と言ってるだけ。それがなんで、「お前の料理はフランス料理になってない」という話になるのか。この「世界の見えてなさ」はちょっと異常なんじゃないの?





 ※このエントリ読んで、「他人を見下している」と反応してる人いるけど、「他人を見下している人」に対して「他人を見下し返してる」んだけど。勝手にいちゃもんつけてる本人は無自覚で、ケンカを売られ返すと「なんで怒るの?」「オラ知らね」っていう態度を卑怯だと言ってるだけ。何度同じことを言えばいいのか。それと、ここに書かれた一般論としての一現象への批判を自分のことと受け止めるのは勝手だけど、それはあくまで受け止める側の「自分の勝手」で、だからってこのブログを感情的に一方的な言葉の暴力でなじっていい理由にはならんだろ。「読みにくい」ってさ、商品原稿じゃないのに、どこまで社会のからくりがわからないんだか。タダで提供してる読み物なんだから、咀嚼力のある読者を相手にしてるのは「こちらの勝手」じゃん。基本的に「社会の構造」という視点が抜け落ちた批判多すぎ。どうしてそこまで“ゆとり”っぷりが酷いのか……。骨のある批判は受けて立つって言ってるじゃん。