POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

Perfumeから始まって脱線しまくりの「当世プロデューサー論」


Perfume 〜Complete Best〜 (DVD付)

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(1)

 年またぎでPerfumeについてダラダラと書いている拙ブログ。11月中旬まで、こんなにもハマることになるとは思いもよらなかった。たかだか2ヶ月でどんだけPerfumeについて語ってるんだお前は(笑)。過去のエントリで披瀝しているが、同世代に比べその分野に奥手だった私が、ギョーカイに入ってからAVの世界の面白さに気づき、短期間に集中学習していっぱしのAV博士みたいなことを語っていることでわかるように、根っからの求道家みたいなところがあるんである。「何が私を駆り立てるのか?」その秘密が判明するまでは、しばらくこのPerfume熱も冷めないことであろう。間寛平ではないが、私は「書かないと死ぬ男」なのだ……うそだけど(笑)。
 しかしネットは便利なもので、「Tumblr(リブログ)」と「ニコニコ動画」のおかげで、この短期間にPerfumeの歴史についてかなりの情報を得ることができた。この手のアーカイヴスについては、ファン掲示板などより某匿名巨大掲示板のほうがよほど有益な情報があると、これまでは言われてきた。しかし某匿名巨大掲示板の住人にロートル世代が多いという現実を、改めて実感。Perfumeを支持している若い世代の発言の場は、すっかりニコニコ動画やリブログ、SNSなどに移行しちゃっているのね。そこで交わされる会話のやりとりを読んで、なんとか「Perfumeを取り巻くカルチャー」について理解が及ぶようになった私だ。たま〜にだけれど、拙ブログを話題に取り上げていただいているところもあって、ありがたいやら恥ずかしいやら。しかし若い世代のオヤジ排他ぶりはストレートだな。「なにを今さら」「今ごろ遅いわ」「オヤジホイホイに見事にハマってる」だもの(笑)。
 「椎名林檎現象」のときみたく、同世代がPerfumeについて語っている文章がもっとあるかと思ったら、けっこう的を得たPerfume論ってほとんどないんだよね。一通り読んだ中では、やはり彼女らの成長を見届けてきた、掟ポルシェ氏(ロマンポルシェ。)と宇多丸氏(RHYMESTER)の「YOMIURI ONLINE」の対談が最良のテキストになっていると思う。不必要なことを語っていないところにも、親心を感じたりする好対談。こちらもそれに応えるべく、いまさら曲解説もなんだしと、ちょっとでも変わった目新しいことを書こうと思うと、ついつい文章が長くなる。昨年までの私みたいな「まだPerfumeに気付いてない同輩」に向けて書きたいところがあるから、その大前提の説明部分がくどくなる。その大前提の説明部分を捉えて「なにを今さら」だもの。フントにもー。しかし、この傍若無人な若手世代を憎めないところが、私にはあるのだ。


(2)

 昨年末から知人のIT系ライター、津田大介氏らが発起人となり、有識人が集まって「ダウンロード違法化反対」のロビー活動が続いているのはご存じだろう。アップルのiTSがDRM著作権保護技術)を外して、利便性を確保する代わりにユーザーの「心のプロテクト」に託すなど、“ネット共産主義”の理想を築こうとしているこのご時世に、法律で著作権者のみを保護しようという動きは、確かにアナクロすぎるように思える。
 津田氏と私は、CCCD(コピー・コントロールCD)、ソニーレーベルゲートCDなどが問題視されたころから、これまで何度も週刊誌でその話題を取り上げてきた。我々が主張していた基本姿勢はこうだ。「コピー保護技術」が進んでも、いずれ誰かにハッキングされるイタチごっこが待っている。そのために「普通のCDプレーヤーでも再生できない」というような利便性まで失われるぐらいなら、そろそろ違法コピーで発生する諸問題を、技術から道徳や教育の現場に移すべきじゃないかと。よく保護者が、子供が社会的犯罪などに手を染めたときに、「学校がちゃんと教育していないから」と一方的に責め立てる場面を目の当たりにすることがあるだろう。だが、「何をしてはいけないか?」を教えるのは親の役目。本来なら「CDの違法コピーがアーティストの生活を脅かす」という社会のスキームを教えるべきなのは親なのに、その役目を放棄して、CCCDにそれをやらせてきた構図がある。このうえ「技術がダメなら、法律で取り締まる」なんて理屈が通ったら、いよいよ違法コピーを「心の問題」として語るべき、親子の会話の場を奪ってしまうのではないかと思う。これじゃあジョブスも、DRM解除に理解を示した英アップルコープも呆れるよ。
 私自身はというと、どちらかと言えば著作者側のシンパだろうと思う。知人にミュージシャンが多いし、本当に聴きたい音楽はサンプルをもらったりレンタルせずに、できるだけCDを買ってアーティストに還元できるようにと考えている。違法コピーが完全に野放しになったら、彼らの生活を支えている著作権料などの収入が、心のない者によって剥奪されることもあるかもしれない。“ネット共産主義”の理想が、ボランタリーの精神やギブ&テイクの歴史を持つアメリカとは違って、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という日本人の付和雷同性と合致したときに、恐ろしいトリガーを引いてしまう気もする。
 「YouTube」「ニコニコ動画」などのサービスが、著作権的に極めてグレーなものとして存在してるのもわかってるし、それが法整備されてしまうと途端に魅力が失われてしまうことも容易に想像できる。私が以前所属していた週刊誌は、右でも左でもない(版元はモロ右だけど……笑)「価値相対主義」の権化のような雑誌だったし、私自身がそんな文化を浴びて育った、極めて価値相対主義的な人間だ。「いまどき絶対悪など存在しない」という気分は、編集者、読者とも共有していたと思う。「世の中なるようにしかならない」というペシミスティックな気分が、いまさら何を語ってもしょうがないという、議論の機会を奪ってきたところもある。そんなバランス人間が、双方の主張を聞いて理屈で物事を解決しようとすると、どうしても「ダウンロード違法化反対」などの問題を、歯切れよくジャッジできないところがあるのだ。また、いかにも価値相対主義者らしい「カッコイイことはなんてカッコワルイんだろう」なんていう物言いに表される、この世代特有の“複雑な美意識”は、ストレートな今の若い世代には受け入れ難いかもしれないしね。それをわかってくれと言うには、説明がたくさんいりそうだし。
 昔、『筑紫哲也ニュース23』で、某匿名掲示板の「便所の落書き」論争があったとき、村上龍はこんなことを書いていた。ネットの掲示板などが温床となって、日本語の敬語の乱れが酷くなるというような一方的な意見は間違ってるーーと。日本人は相手の役職、年齢を見て、尊敬語、謙譲語などの敬語を使い分けてきた歴史がある。ネット社会では文字だけで相手の姿が見えないから、いきおい言葉が乱暴になるというのが、一部の知識人の意見であった。しかし、逆に相手が見えないことに誰よりも不安を感じるのが日本人。トラブルの火種にならないようにという自制心から、そういう無法地帯にいる場合、むしろ安全装置として自ら敬語を選び取るのではないかというのが村上龍説であった。普段は二手に別れて激論が飛び交うような辛口の掲示板にしても、それを履き違えた傍若無人な者が現れれば、その議論の場を侵されたことへの反発から、普段は対立する二者が手を組んでそいつを追い出すという「自浄作用」が働くという分析もある。「性善説」と笑われるかもしれないが、一度すべてのタガが外れてみないと、大衆がどう行動するものなのかは、わからないところもあるんじゃないかと思う。
 ともあれ、「オッサン、古いよ」と言い切れる若さ、傍若無人さが羨ましい。こういう連中が束になって、地上波をボイコットしてネット配信や「ニコニコ動画」に一斉に流れたら、本気で電通博報堂はネット動画広告について重い腰を上げなきゃならないかも、と期待するところがある。コンテンツの魅力がユーザーを引きつけた結果、旧体制が崩壊したケースなら、アメリカの3大ネットワーク凋落の前例がなにより物語っている。無料動画配信の「GyaO」がいまだに自社広告と消費者金融のCMで埋め尽くされているのも、結局、広告代理店が地上波というお得意様を刺激しないように、広告が入らないよう配慮しているなんてウワサもあるし……。2011年のデジタル地上波スタートによる「アナログ地上波終了」だって、いまどき壊れなくなったテレビを無理矢理買い換えさせようという家電メーカーと政府の思惑の一致なわけで、すべてがユーザー度外視でメーカー利益と日本経済復興のために回っている。おじいちゃん、おばあちゃんだけの家庭にまで、デジタルテレビに買い換えさせようというというのは度が過ぎてるよ。地震や火災などが起こったら、デジタルテレビがない家庭がどうすんだ? 国民へのライフラインを提供するために、放送免許を発行してきたんじゃないのかよ、旧郵政省は。
 理念で相手を説き伏せるよりも、いっそ利益構造をこちらで奪ってしまうような大胆さを持つしか、もう手がないかもしれないとつくづく思う。そういう意味では、ライブドア事件のときのホリエモンが起こした行動のひとつひとつが教訓めいて思える。そんな場合に、「聞く耳持たん」と相手を突っぱねる、強い意思が重要なのである。そういえば、小泉内閣時代に扇千景運輸大臣に任命されたときのこと。まったく素人だった扇を起用した理由について、理屈などでは動かない利権まみれの旧道路族に対して、女性大臣の扇のヒステリーをぶつけて壊滅させようという狙いがあったという、かなりオモロイ話を読んだことがあった(不遜な話ですいませぬ)。それぐらい「ものわかりが悪い」ぐらいじゃないと、本気で既得権益の解体なんてできないのかもしれないね。


(3)

 拙ブログに対して、そういう無垢で恐れ知らずのアンカーをもらっても、だから私は平常心でいられるところがある。問題はもっと悪辣な意図を感じるほうだ。先日の「ロキノン批判」が信者を刺激したのか、そのエントリ以降、まるで筋違いな酷評を書いている者がいて辟易させられる。「詩を書いてみればわかる」なんて、あきらかにミスリードでしょう(笑)。雰囲気で発言せずに、書いてみなよ、じゃあ。「ブログの使い方を取り違えてる」「こいつには期待できないことがわかった」「ドミナント・モーションを知ったのがよほど嬉しかったのか」などと、バッシング目的でなんだこりゃな誤読を書き連ねては、挙動不審にもドロンと消えた輩もいる。こういうのを私の世界では「卑怯者」と呼ぶのだが、泥棒ライターに平気で荷担するレココレ編集部と同じレベルだろ、それじゃ。音楽雑誌周辺に渦巻く「モラトリアムな空気」というか、編集部、信者読者のこの倫理なき野ざらし状況を目の当たりにして、音楽ジャーナリズムの未来にすっかり希望が持てなくなっている昨今である。つか、拙ブログで毒を吐いてるのが、あきらかにウケ狙いなのは、大人ならわかるでしょ。本人は至って平常心だし、かなり理路整然と書かれているし。イベント成金でウハウハのロキノンが、その程度のバッシングでたじろぐはずがないじゃん。信者読者のほうがよほど「打たれ弱い」んじゃないの? 年末の爆笑問題の特番で、ゲストの伊集院光が「なんでお前はラジオでは口汚い黒伊集院になるんだ?」と太田光からつっこまれて、「だって権力がないものが目立つには、悪口ぐらいしか武器はないでしょ」と語っていたことにも、大いに共感した私である。
 以前、某社の「歌謡テクノ」コンピレーションの副音声に関わったときに、あまりに酷い状況が続いたのに選曲者は反省の色も見せず、その事実を隠蔽しようとしてたので告発したら、第三者から「大人げない」と言われたことがある。6回やって約束の原稿の締め切りをたった一回も守れずに、松武氏などへの誹謗コメントを平気でライナーに載せようとするガキ連中と、どっちが「大人げない」んだよ。トラブル修復にすらまともに関わろうとしないプロデューサーが2人もいて、こんな連中とギャラを頭数で割るなんてバカげてる。どこがまともな大人社会なのか? こういうテクノポップ文化周辺に寄生する、パクリなども含む「モラトリアムの問題」に、私は本当にうんざりしている。ついでに書いちゃうけど、彼らの仲間でもあるALL ABOUTのテクノポップカテゴリのナビゲーター氏は、どうして拙著や小生の仕事だけをオミットしてるのかね(笑)。中立的立場なコンシェルジュが、リクルート社から委任受けてやっているサービスだと思ってたんだけど、『OMOYDE』書籍化の誹謗コメントなんて意図不明で私情挟みまくりじゃん。それだったらギャラなんか返上して、私みたいに個人ブログでやんなよ。いい大人なんだから私情抜きで仕事に徹すべきだし、どいつもこいつも、好き嫌いでサイトのURLや出典明記の有無を選んでんじゃねえっつの。先日取り上げた「アルファの宴」もそうだけど、まともな倫理観もなく文章も酷い人が「プロでござい」って仕事しているケースが本当に多すぎる。どうせこっそりここ見てんだろうから、あえて書いたけど(笑)。
 むろん音楽雑誌を運営するのは一筋縄ではいかない。いちばんやっかいなのは「雑誌らしさ」という制約である。特集、タイアップ、人気タレント連載、モノクロコラム、レビューなど、最低限「雑誌らしさ」を成り立たせるために必要なネタを書き出すだけで、200ページの台割はすぐ埋まってしまう。その月、その月に自分がハマっているテーマがあっても、「特集20ページ」なんてふうに毎月同じヴォリューム枠には収まらないものだし。なんでも好奇の対象になってしまう気の多い私など、音楽雑誌を始めたところで、いつ映画雑誌、AV情報誌にスイッチしたいなんて言いだすかわからない(笑)。
 そんなことを考えるにつけ、今の自分にとってもっとも表現しやすい「雑誌に代わるメディア」が、このブログだと思っているところがある。本来なら文章だけでなく、カメラマンに頼んで撮りおろしの写真も入れたいし、「ここにカットが欲しいな」なんて箇所があれば、プロに発注して描いてもらいたかったりする。それが金銭的にできないから、編集者の私が指令を出して素人ライターの自分に文章を書かせ、イラストやヘッダのデザインまで自分でやっているわけで。実際、「極楽とんぼ」「初音ミク」「Perfume」だののテーマ選びが、検索エンジンに拾ってもらうこと意識してるのミエミエだし(笑)。四コマや罵倒コラム、ほのぼのエッセイなど作風を変えたり、わざわざ長文で書いたりしているのは、読者がどの部分に反応するのかを確かめたくてやっている。これは単純に、世のネット民の好奇心の有り様を知りたいだけ。本人はそれでも謙虚なつもりで、もっとクレバーな同業者がやってるみたいに、単行本化が目的でブログやるみたいなスケベ根性はありませぬ。それにマルチクリエイター気分もさらさらなくて、自分には才能がないことをつくづく自覚してる。「そんなことはない」と言っていただく優しい方もおられるけど、ごまかし方がプロっぽいってだけだから(笑)。


(4)

 脱線しまくりなので、Perfumeの話に戻したい。まあ、そんな拙ブログに寄せられたアンカーというかトラックバックの中に、ひとつ興味深いものがあった。Perfumeについての過去エントリで、「アーティストがプロデューサーにがんじがらめにされている時期というのが、当人にとって一番幸せな時期なのだ」と書いた件について、「それが当人にとって本当に幸せなのか?」と問われていた御仁がおられたので、それについて答えておく。まず「アーティストの自意識が生まれ、それがセルフ・プロデュースなどの形で実践されたときに、かならず失敗が待っている運命の繰り返しがある」と書いているのは、私論というより、過去の数多のケースから導き出された一般論だと思っていいと思う。その方が続けて挙げていた「プロデューサー主導型の場合に生まれる、さまざまな不幸なパターンがあるんじゃ?」「森高千里はセルフ・プロデュースで成功しているのではないか?」という件については、私なりのプロデューサー論を書くことで答えられると思うから書く。
 まず私にとって、第三者によるプロデュースも、セルフ・プロデュースも、とどのつまりいっしょと思っているところがある。一般的にプロデューサーの存在と言えば、アーティスト本人には気付かない魅力を引き出すのが役目だろう。ついつい吐露しがちな言い訳やアーティスト・エゴを牽制する役割として、監督役として招かれるイメージもある。森高の例をとって「セルフ・プロデュースでしょ」って言ったって、森高にセルフ・プロデュースさせている事務所があり、彼女の意向をくみ入れるというプロデューサー的な視点がある。知的なパーソナリティがある森高なら「セルフ・プロデュース型のタレント」として世に出す方が効果的だとか、わかりやすいとか、そういうあきらかに森高本人ではない外部の視点が存在している。これをプロデュースと言わずして何を言う、という話である。
 一般的にプロデューサーというと、奇抜なアイデアやデザイン、異色作家との組み合わせを仕掛けたりというような、派手なイメージで語られることが多いと思う。だが、私がもし「優秀なプロデューサーの条件は?」と聞かれたら、「まるで気配を感じさせず、万事上手く事を運ぶ、縁の下の力持ちタイプ」と答えるだろう。プロデューサーは、先に挙げたようなコーディネーターが表の仕事ではない。実はそんなの、プロデューサーじゃなくてもできる。むしろ、避けられない事故などが起こったときに、あたかも何もなかったかのようにトラブルを収拾する手腕で、私はプロデューサーの力量が試されると思っている。トラブルの相手を押し黙らせる「闇の力」を持っているとか(笑)、アーティストの代わりに頭を下げて事態を逆に好転させてしまう底力とか、そういう場合に「すげえプロデュース能力だな」と思うことがこれまでも度々あった。つまり、優秀なプロデューサーが存在するプロジェクトは、当人は面に出ないぶん、アーティスト本人の主体で回っているような、セルフ・プロデュース的な見え方になると言ってもいいのかもしれない。
 勝手に思いつきでネーミングするわ、いかにも極悪非道なプロデューサーと思われているつんくモー娘。との関係にしても、よく見ればつんくはメンバーを叱咤し、自らが渇望しないと前に出れないぞと鼓舞している。同じ『ASAYAN』で小室哲哉が、女性シンガーのデビュー作のためにナラダ・マイケル・ウォルデンにプロデュースを依頼したり、つんくモー娘。を輩出したオーディションの優勝者のデビューイベントに日本武道館という箱を用意したりといった、派手なシンデレラ・ストーリーが展開されるときに、プロデューサーとしての力量が語られがち。しかし、それがプロデュースの本流というのなら、その結果はどうだったろうか。「オーディション落選組」を集めて、最低限の条件だけ突きつけて合宿やら自習をさせて、自らのセルフ・プロデュース能力が開花するまで俺は引き上げるつもりはない、とつっぱねたモー娘。のほうが、時代の覇者となったではあるまいか。
 セルフ・プロデュースといっても、しかし優秀なプロデューサーがサポート役にいればそうなれるかどうかは、その人次第。モー娘。で言えば、どちらかというと地味だった市井沙也加などは、ある時期までつんくのセルフ・プロデュース誘導によって、もっとも輝いていた才能だった。ところが、アーティストとしての自意識が強まった結果、悪い友達の影響でか(笑)レディオヘッド好きなどを吹聴するようになり、「モー娘。を卒業してソロになる」と宣言してから、すべてのバランスがおかしくなった。「セルフ・プロデュースしたい」という意欲があればあるほど、空回りしているようにも見えた。その一方で、肩たたきされるまで後輩の教育係を地味に務めたメンバーが、卒業後も事務所に厚遇されて、今でもタレント活動で伸び伸びと才能を発揮していたりする。非常に意地悪な言い方をすれば、こちらのほうこそ自分の分をわきまえた「セルフ・プロデュースの勝利」と言ってしまえるところがある。
 Perfumeは彼女たちの持っている魅力やポテンシャルを、本人たちが一番自覚していないところが面白い存在である。そんな彼女らが成功のステップの第一歩を噛みしめ、自らの非凡さにやっと気づき始めたことに、親心としては嬉しさを覚えている。だが、メンバーの中でいちばん音楽的に柔軟性があるらしいのっちが、「最近、ロックに興味がある」と自意識が芽生えたことを嬉しそうに語るのを見て、一抹の寂しさを感じてしまうファンもいる。サブカル人脈が盛り立てて、「脱アイドル」とか言ってデジロックなど始めたらどうなるんだろう。『QJ』誌の特集で「Perfumeのスタッフはすごい天才か、何も考えてないかどっちか」という中田ヤスタカ氏の名言があったけれど、青春時代に『momoco』というアイドル誌で芸能界の一端を覗いたこともある、すっかり薄汚れた私からすれば、よくまあ事務所は着エロとか安っすい仕事を入れずに、売れなくても5年も耐えたなと感心する。コンポーザーを中田ヤスタカ氏から変えなかったのも同じで、シングルが売れなければ不安になって路線変更したりするほうが、むしろ普通の流れだと思う。そういう意味でPerfumeのチームは「何をやらなかったか」という部分において、非常にプロデュースに成功したグループだと思う。


(5)

 A&R的見地から言えば、アイドルであれ自作自演のシンガーであれ、作家性の多寡はあれど「演者」という配役を与えられて当人がそれを演じているのは同じで、プロジェクト自体は多くの人が関わるスタッフワークであるのは変わりない。ところが、一端アーティストがブレイクすると、一番お金になる部分はアーティストに集中してしまうのが常。ハリウッドでも、映画制作者に回れるほど集金能力があるのは、監督やプロデューサーよりむしろ俳優だ。このブランドの中心にいる人物が、最終的にいちばん発言力を持つことになる構図がある。セルフ・プロデュースの意欲は、こうしたアーティスト当人の成功後に、金銭的な余裕の中から生まれることが多い。予算を持ってるのは自分だから、いきおいプロデューサー軽視が態度として現れたりする。これがやっかいなのだ。
 一方、「セルフ・プロデュースのほうが幸せではないか?」という問いかけに、じゃあ「幸せの本質とは何か?」と応えてみる。セルフ・プロデュースは自ら思惑を発揮できる場ではあるが、その結果、商業的な成功を得られなかったことの責任までアーティストが負担するという、プレッシャーが常につきまとう。例えば、現在の音楽界で成功者として誰もが名前を挙げる浜崎あゆみが、『HEY×3』で香港ツアーで定宿にしていた何百万ドルのホテルのスィートの写真を見せて、果たしてそれで「浜崎あゆみは幸せそうだ」と思える人がどれだけいるんだろう。業界に多少通じている私に言わせれば、ミュージシャンの輝かしい時代はスポーツ選手より短い。何もわからない10代、20代前半に、たった3年ぐらいの契約でその人の世間的な価値が評価されてしまう残酷な世界だ。多少古いデータになるが、90年代中盤ごろだと、年間500組がデビューしたとして、そこから数年後に契約更新できるアーティストは10分の1、それもサザンオールスターズのような10年選手でチャート曲を送り出せるアーティストは1人か2人の確率らしい。だが、デビューしたての新人をインタビューすると、全員が「いつかサザンや浜崎あゆみになれる」と信じて頑張っている、シュールな現実がある。もし、すれっからしの私が「アーティストにとって幸せな風景とは?」と聞かれれば、少し考えてから「ミュージシャン引退後に第二の人生が軌道に乗って、過去の自分を懐かしく語れるようになったとき」と含みを持たせて答えるだろう。
 私自身はアーティスト経験はないが、本を書いたりCDを監修したりして名前を出している立場ではある。本業を持ちながら本を書いてるんだから、よほど自己顕示欲があると思われるかも知れないが、それは否。本の発売日に小さな誤植が一つ見つかるだけでも落ち込んでしまう。このナーヴァスな感じは、本やCDなどの作品を出したことがない人にはわからないたぐいの心理だと思う。以前『史上最大のテクノポップDJパーティー』というイベントで、素人のイベンターの企画ながら、小西康陽氏やケラ氏に出演してもらって1000人の集客を集めたこともあった。「これが俺の人生のハイライトの1ページかも……」と、ちょっとは誇りに思おうと思ってみたけれど、まったく感動していない自分がそこにいたのだ。とにかく進行中は、後のことを心配するので手一杯。終わった後も、反省反省で次回のイベントで汚名返上ってことにしか考えが及ばなかった。ちっとも主催者としての恍惚なんて味わえることがないもんなのだ。ま、これはかなり特殊なケースで、私の性格というか「自己愛のなさ」に起因してると思うんだが……(笑)。同業者でも自己愛の強い人は、一生本なんか出さなくても、自分に自信満々でいたりするからね。
 そんな不安を私なりに経験した立場で言わせてもらえば、「ああセルフ・プロデュースはもうたくさん。誰か優秀なプロデューサーに私の人生をプロデュースしてほしい」なんて他力本願にすがりたい気持ちだ。しかし、アーティストを信奉するより作品至上主義の私は、XTCトッド・ラングレンがという変人に預けられ、一触即発の危機を乗り越えて作った『スカイラーキング』が、「これがプロデュース作品の究極だ」と思ってるような人間だからな。フィル・スペクターなんて、シンガーを絶対服従させるためにスタジオじゃ短銃を持って脅してたって話なのに(笑)、それが「プロデューサーの鑑」と言われてるんだから。「アーティストがプロデューサーにがんじがらめにされている時期というのが、当人にとって一番幸せな時期なのだ」なんて、とても言えたもんじゃないな(笑)。


(6)

 プロデューサーとディレクターの関係については、これまでもA&Rのエントリほかで何度も書いているように、よくわからない境界がある。「なんでアメリカのショービズ界みたいに、予算管理がプロデューサー、現場監督がディレクターじゃなくて日本じゃ真逆なのか?」 そのへんは結局、人ぞれぞれという話に落ち着くようだが、それでも負担を分け合い、代わりに成功報酬を分かち合う、パートナーとの共同作業であることは間違いはない。スピルバーグとゼメキスの関係など見ていると、どっちもプロデューサーやったり監督やったり、組み合わせの相手で自らのクリエイティヴィティを切り替えられる、プロデューサー/ディレクターの二面性があるように見える。これはどっちに適性があるというよりも、優秀なディレクターは、優秀なプロデューサーの素質があったりするってことのようだね。
 小生のブログは、先に書いたようにできることすべてを投入している「個人雑誌」のようなもので、その無様さ楽しんでもらえれば本望だ。編集者としての視点では、すべてを意のままにできる極悪プロデューサーの気分を楽しんでいるけれど、文章を書いたり挿絵を描いているときはそれぞれライターやイラストレーターのつもりで、濡れた目をした小動物のような気持ちでやっている。このライターやイラストレーターは、いつでもこの金稼ぎできない無能なプロデューサーから私を解き放ってくれる、優秀なプロデューサーの登場を待っている。40も過ぎて、すでに就業年数の半分を切ってるのに未だに自分の適性がよくわからない、そんな青春真っ盛りなところがあるのだ(笑)。年末の『紅白歌合戦』で「千の風になって」を観ていたときは、「ああ、俺も新井満電通)や小椋佳(元第一勧銀)みたいに、仕事やりながら作曲で当てて金持ちになりたいなあ」などと思い、まだ作曲の夢すら捨てていないみっともなさを自覚したばかりだし。
 先日の「POP2*0ナイト」のイベントのこと。「初音ミク」を媒介にして、優秀なアマチュア作曲家がたくさんいることを認識したという戸田誠司氏が、それでも「たった一人の作業ゆえに、どれも詰めが甘いのが残念」と語っていたことが、私に強い印象を残した。つまり「プロの仕事」というのは、プロデューサーなどの他視点を受け入れる、共同作業によって支えられているのだ。またこれは、仕事を持ちながら趣味で作曲を続けるクリエイターの中にだって、優秀なプロデューサーにさえ引っ張り上げてもらえば、ほとんどデビューまでリーチ手前にいる優秀な人がたくさんいるという証でもある。スタジオを借りなくても、楽器が弾けなくても、今じゃPC1台あれば音楽が作れるってことの素晴らしさを前回のエントリで私は書いたが、「たった一人で作業できるようになった」PC環境の発展が、逆にプロデューサーの有用性を浮き彫りにするというのも皮肉は話だ。戸田氏はまた、プロになると「生活のための音楽活動」という制約も生まれるゆえに、アマチュア楽家のほうが純粋でパワフルなところがあるとも語っている。凡才だって、集団で手を貸し合えば才能を発揮できる。中田ヤスカタ氏のような天才型マルチ・クリエイターにはなれないけれど、「こつこつと10年ぐらいかければ、人生に1枚ぐらいなら、大瀧詠一にとっての『A LONG VACATION』みたいな作品が作れると思う」と自らを鼓舞している自分には、なんとも希望の持てる話ではないか。
 「集団作業の可能性」という意味では、マンガ家の藤子不二雄とか、ゆでたまご、CRAMPなどが、いずれもワンヒット・ワンダーではなく長距離ランナーとして活動できていることにもヒントがある。実は以前、知人の写真家、松蔭浩之氏がコンプレッソ・プラスティコという現代美術ユニットを組んでいたころ、タイクーン・グラフィックスとかアイデアル・コピーとか、個人ではなくグループ名義で作品を発表している現代美術チームを、集中的に取材したことがある。一様に「バンド活動みたいなもの」と語っていたのが当時の現代アートシーンの雰囲気を伝えているが、取材していくうちに、ユニットで活動することのメリットに気付かされることがあった。芸術家には常に波があるから、ファインアートではなくポップアート作家にとっては、不調期に味わう産みの苦しみは耐え難いものがある。だがグループ形態なら、その時期にどちらか元気なほうが相手を引っ張ることで、「不調知らず」の演出ができるのだ。そしてもう一つ、結果的に「失敗作」が生まれてしまったときに、さっさと「これは相手のせい」と切り離してしまえる、精神衛生的なメリットがあるらしい(笑)。輝かしいバイオグラフィーの中で、失敗作だけ「これは相手のせい」と切り捨てて、迷わず前向きに仕事をこなしていくことで、「グループ不敗神話」を継続していくのである。これは、現代美術なんていう批評されるのが常のクリエイターにとって、「いかに傷つかずに済むか」という一つの知恵のようなものだと思った。
 「傷つかない」ということが、ブログで作品を発表したりする機会も多い20世紀のクリエイターにとって、一つの才能だと思うところがある。予餞会のような少人数の客前で、Perfumeの3人がくじけずにに歌っている映像というのを「ニコニコ動画」で見つけて、それを観て思わず感動してしまった小生。気安く「傷ついた」なんていってちゃ、下積み5年のPerfumeに対して失礼ってもんだ(笑)。