POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「貴方に本当に音楽が必要なのか?」70%の浮遊層を動かす、モチベーションの創造ビジネス

 先日、装丁デザインがアップしたタイミングを見計らって、私が執筆参加したインタビュー集『イエロー・マジック・オーケストラ』を紹介させていただいた。わざわざ取り上げた理由は、制作進行の遅れもあって内容変更の通知が徹底しておらず、ネット通販などの情報が間違ったまま掲載されているのを、どうせなら訂正の告知をここでしたほうがいいんじゃないのという思いがあったから。実際、いまだに一部サイトには間違ったデータが残っており、あのエントリーを書いた後からも、知人から「どの情報が正しいのかわからん」と指摘をもらっている。今のところ正しい内容になっているのは、当ブログの情報のみ。なぜ間違った情報が掲載されたのかという理由は、本書に編集で関わっているわけではないので、部外者の私にはわからない。担当編集者に聞いてみたことがあるのだが、情報を解禁していなくても、部数決定の前段階で、注文数リサーチのためにプレ・リリースとして先行情報を流すと、不確定要素が含まれるものであっても、そのままネットに掲載されることが多いらしい。そのフライング行為を厳しく取り締まれないのは、部数増に務めてくれる書店の好意によるものだから。版元にとっても「書店様あっての商売」だから、咎めるなどできないのだ。
 実は以前、拙著『電子音楽 in the (lost)world』が出た時も、初回特典のCD、DVDの店ごとの有無について、ネットで情報が錯綜していたことがあって、版元にクレームを付けたこともある(理由は『電子音楽 in the (lost)world』のエントリー参照のこと)。それ以来だから「またかー」という気持ちもある。だが、ネット通販ショップにとってもネット上では情報戦。不確定な状態であれ、どこよりも先に情報を流すことで、顧客を少しでも目をこちらに向けさせたいという思惑があるのだ。そっちの新規情報更新にスタッフ人員が割かれるために、たとえ修正依頼があっても、こっちには手が回らないというのが現状のよう。先日やっと、『イエロー・マジック・オーケストラ』の内容、価格、仕様が確定し、担当者が各ネット通販サイトに訂正の依頼をしたのだが、それはすでに一週間以上前のこと。それでも直らないということらしいから、本当に情報の取り扱いは慎重にしなくっちゃだわ。
 “『OMOYDE』の市販商品化”(ホントはそうじゃないんだけど)についても、知人から「せっかく大枚叩いて買い直してもらったのにヒドイ」とボヤかれてしまったけれど、これもオークションなどので高騰で転売されたりしているのを見て、「買う手段のなかった人」への救済措置として企画されたものであることは、先日のエントリーで書いた通り。出版界でも、ハードカバー本と、後から低価格で出される文庫という別のマーケットがある。節約のために、欲しくても我慢して文庫になってから買うという人もいたりする。ハードカバー本のメリットは、高く付いても「先に読めること」。コンピュータ・ソフトの世界も、映画DVDの価格も、初回発売分で制作費をリクープ(回収)した後は、広く楽しんでもらうために、安い新価格で出し直すのが一般的だ。『OMOYDE』と『イエロー・マジック・オーケストラ』も、そういう別々の背景を持って存在するものだと思っている。ただし、『OMOYDE』をそのまま市販商品化するのでは、消費者の端くれでもある私でさえ「タダでもらえたものを値段つけちゃうわけ?」とさすがに思う。それで内容を差別化するために、付加価値として追加原稿を加えたり、大物デザイナーである羽良多平吉氏にデザインをリミックスしてもらってはと、版元に提案してみたのだ。『OMOYDE』は元々、どうしてもソニーで販促物にブックレットを作りたいと言われ、原稿作業の時間がない中で、できそうなアイデアとして私が過去原稿を再録を提案してできた本である。ある意味では応急措置でできた本なのだ。今回は、別に『OMOYDE』を再現する必要はないし、『ミュージック・マガジン』の原稿や『ビックリハウス』の連載漫画が入ると、構成上ちぐはぐな本になってしまうため、『イエロー・マジック・オーケストラ』では割愛するという判断がなされた。ともあれ、私は本書に関しては編集者ではなく、一ライターにすぎないので、弁明する立場ではないのだが。なにしろ、急かされて原稿を入稿したのが1年半も前のこと。12月の年末進行で忙しい時期だってのに、『電子音楽 in the(lost)world』と、ソニーから出た『イエローマジック歌謡曲』『テクノマジック歌謡曲』のライナーノーツと、これが同じ締め切り日だっていうので、大変な思いをして脱稿したのだ。発売が伸びた理由もよく知らされていない。だが、とりあえず先日に最終ゲラチェックを終えて、なんとか流産せずに済んだことに今は安堵しているところだ。
 前回のエントリーで、ファンの間で交わされている“アルファ商法”という言葉があることに触れたが、その解釈のひとつに「メンバーに無許可で未発表音源を出す」行為があると私は書いた。これは、メンバー3人がネット上に告知しているymo.orgのメッセージでわかるように、メンバー・サイドと共有しているコンセンサスである。ファンの中には、「アルファ商法って酷い」と言っている同じ人が、一方で「未発表音源マンセー」と言ってたりする矛盾があったりするので、私にはそのへん理解が及ばぬところでもある。それとも、「良いアルファ商法」と「酷いアルファ商法」でもあるのかな? あるいは、良くできた復刻と悪い復刻があって、後者を指して“アルファ商法”と呼ぶのか?(なんだ、そりゃ)。良い悪いなど、一人一人の主観でしかない。この世界は任侠界と同じ仁義の世界。「第三者による無許可な復刻」が仮によくできた仕事であっても、その発売の是非を決めるのはアーティスト本人(または権利保有者)である。そんな当たり前の理屈は、大人なら誰しもわかるだろう(子供には永遠にわからないだろう)。
 私は元々、田舎にいたころからレンタル・レコードというものが好きではなく、中古品の放出セールぐらいにしか立ち寄らない人間だったのだが、音楽雑誌『Techii』の編集者になってからは、いっそうその傾向が強くなった。『Techii』は他の音楽雑誌に比べると、ずっと執筆者にミュージシャンが多かったので、日々会って会話する中で、アーティストがどのような考え方で日常生活を送っていたり、創作活動に臨んでいるかを身近で体感することが多かった。だから、例えレンタル・ショップから著作権料を微収するシステムができあがっていたとしても、好きなミュージシャンのCDは「買って聴く」が礼儀だと思っている。本人の意向を無視して、ドカドカと土足で入って未発表音源を勝手に出す行為など、何人たりとも許されるものではない。ファンあがりの構成者がのびのびと未発表音源を無許可リリースしていた90年代と、今は時代はすでに違う。あの無許可リリースが咎められなかった時代を「理想の時代」と言うのは、単なるアナクロニズムであると私は思う。
 先日、別エントリーで、ネットの無料サービスを受ける時のプライバシーの扱いについて書いた。個人情報は、「公開していいもの」「公開して悪いもの」を自分なりに見極めて、ユーザーのリテラシーの程度に合わせて、企業が欲しがっている個人情報を差し出して無料サービスを受ければよいという話。すべての個人情報をひとまとめにして「漏れると酷い」とヒステリックになる傾向のユーザーがいることを諭してみたのだが、こと日本はそのへんの見極めができない人が多い。これは情報処理能力のレヴェルの低さに原因があると思う。以前、宇多田ヒカルのファースト・アルバムがすでに200万枚を突破したころ、レコード店で若いカップルが「宇多田のCD買っちゃったよ」「ウソー、マニアック!」という会話をしているのを目撃したことがある。これは、デビューしたばかりの、まだ知る人ぞ知るというころの宇多田のイメージを論拠に、彼らが会話していることの好サンプルだと思う。「YMOファンにはインテリが多い」という言説もあって、実際、他のアーティストのファンを見下すような選民意識が強い傾向もあるみたいだけど、あれも実態はそうじゃないと思う(かつてはそうだったかも知れないが……)。確かに、メンバー自身はまごうことなきインテリ層である。YMOのメンバーの言語能力は普通のミュージシャンより高度だから、新譜が出た時にインタビュー取材しても、本人によるコンセプト説明の見事さにウットリしてしまうことが多い。いちいち音の解釈を逡巡しなくても、ご用聞きがお遣いに行ってコメントを御拝聴して来てそれをまとめれば、原稿一丁あがりとなってしまう。そこには、北沢夏音氏の村八分の原稿や、小野島大氏のロンドン・パンクの原稿が、アーティスト本人が言葉で表現できない衝動をインテリらしい審美眼で言語化するのと、間逆の構造があるように思う。そういうタフな構成力、咀嚼力のあるライターが、なぜかテクノポップ系では育たなかった。だから、たまに私が編集者の立場でYMOテクノポップ系の企画を立てる時、「書ける人が本当にいない」ということにいつも困惑してしまうのだ。
 プロ・トゥールスの普及やCDプレスによる制作費の廉価化など、作り手の環境はここ数年でガラッと変わったと思うし、彼らは環境適応のために日々学習をしている。このへん、「エクセル覚えないと仕事がこない」サラリーマン社会とそれほど変わらない。だが、消費者や音楽ジャーナリストのほうは、ただ不勉強なままエゴを増幅させているように見えることが多いというのは、穿ちすぎだろうか。
 ここで一つ、別のエピソードを紹介する。今から7〜8年ほど前、レンタル・ショップとして有名なT社が、いち早く携帯電話の専用サイトを立ち上げて、ネット通販で大きく売り上げたことがあった。まだ画面はモノクロで、コンテンツといっても文字ばかりの時代。私など、出先で欲しいものを思いついても、やっぱり家に帰ってインターネットでじっくり写真を見て、頭を冷静にしてから買う買わないを決めたいほうだから、当時の携帯電話に付いているネット通販機能など、お呼びでないという印象だった。ところがT社は、すでに始まっていたインターネット通販を拡充するよりも、携帯サイトの充実を図ることでシェアを伸ばしたのだ。私はこの時、ジャーナリストや関係者に取材してその仕組みを知った。そもそも、このモデルは「生活にCDなど本来必要のない人」に買わせることを想定したものなのだ。友達とファミレスで雑談してている時に、音楽の話題になったりする。調べものをするために携帯サイトでチェックする機会もあるだろう(当時はまだ小型PCで屋外ネットする人は珍しかった)。その時、勧めてくれた相手から「買っちゃえよ」「俺が内容保証するから」とい強い勧めがあったりして、その場で携帯をポチっと押して購買に至るというケースが実に多いのだという。おそらくその人がその場での購入を保留して、帰宅後に冷静になってからネットで通販サイトに再アクセスしても、注文する確立は相当低いだろう。いわば、友達とのダベりの最中に携帯通販で買う行為は、本来の欲しいものを買うという購買行為というより、一種のイベント、ネタ作りなのだ。また、ここでキモなのは、この推薦者という存在を利用できること。よく知る友人が推薦する構図というのは、どんなセールストークより説得力がある。よくレコード店などにいる時、「これ、俺がオススメ」「なに〜、やっぱり買わないの?」とか、終始人にモノを勧めているウルサイ連れの客という光景を見たことがあるだろう。このへんは宗教の勧誘行為と同じで、「相手に影響力を及ぼして徳を積む」という浅ましさに似ているのだが、中身が空虚な人ほど人にモノを勧める傾向があるという分析もある。しかし、これがネット通販にとっては強力な存在なのだ。
 出先でなら勢いで買っちゃう人が、家に帰って冷静になると買わない。つまり購買欲求というものは、もともと存在しない幻想なのである。「購買モチベーションは家ではなく外で発生する」ということが、携帯サイトの登場で初めて実態化したのだ。だから、文字しかない小さいモノクロの画面だけなのに関わらず、T社のネット通販はいきなり大きな市場を確立した。おそらく「モチベーションの創造」という行為が、どうやら「CDを買わない人種」と言われた日本人を購買に先導するためのキーワードなのだな。
 私がいる出版界の“ヒットを生み出す構造”もよく似ている。ある特定のジャンルについての本を出す場合、そのコア・ターゲットである30%ではなく、そのテーマに日常的に関心をもたない「浮遊層」の70%に向けて作るべしというテーゼがある。泣ける本とかベタな本ばかりがヒットするのも、こうしたオーディナリーな購買層がリアルに存在することを実証している。例えば『世界の中心で、愛をさけぶ』の300万ヒットも同様である。あの本の熱心な読者の中には、「生まれて初めて最後まで通して読んだのがこの本」という人が数多くいるんだそうで、それが累積して300万ヒットになった。分析によると「生涯で5冊ぐらいしか本を読まない」というタイプの読者もいるらしい。そんな中には、一人で何冊も『世界の中心で、愛をさけぶ』を買って、人にプレゼントする人もいたりする。その人にとっては、生涯5冊しか読まない本のうちの1冊だから、思い入れもひとしおなのだろう。村上春樹ノルウエイの森』がヒットしたのも、そうした「普段本を読まない」浮遊層の巻き込みに成功したからと言われている。このへんは「リピーターがヒットを生む」という映画業界の現象に似ている。「映画『踊る大捜査線』がリピーターによってヒットした」という説が有名だが、最初の一人が見て友達に推薦した後、勧めた本人がなぜか同行して「ね、よかったでしょ?」と確認し会うという行動パターンがあるのだ。その推薦者が周りの一人一人を巻き込んで、「すでに友達といっしょに10回も見た」という自慢話となっていくのだ。彼女が別に映画マニアである必要はなく、むしろこれは「普段映画を観ない人」ならではの行動様式だと思う。これは映画を観るという行為というより、イベントへの参加なのだ。
 DVD時代になって実現した、1タイトル=1500円などの映像ソフトの廉価化も、実は「浮遊層」を取り込むための苦しい選択である。普段映画を観ない人々にとっては、映画は芸術価値のある特別なものじゃない。iモードの有料サイトなどと並べて選択する、エンタテインメントの一つでしかないのだ。それらと価格帯を揃えてこそ、初めて「浮遊層」を巻き込むことができる。気難しいコア・ターゲットに向けてモノを作るより、短期で大きく売り上げることができるのはこちらとメーカーが考えるのは道理だろう。近年、コアなファンの人間から「作り方が雑すぎる」と指摘されるものが多いのは、彼らじゃないビギナー層に向けて商品開発がなされることが多いのが原因だ。メーカーはそんなマニアの声よりも、数の多い一般消費者に買ってもらうために、むしろ削れる要素は割愛しながら、値段を安くするための企業努力に邁進するのである。
 日本ではメーカー保護法である再販価格維持制度があったために、「レコード文化は特別」と価格が高くても許されてきた。以前、黒澤明のDVDが8000円で売られていることを問われて、東宝の社長が「8000円という価格は妥当であり、今後値下げはしない」と語ったことがある。クオリティを保持するための正しい判断ではあるが、あくまで送り手側の主張であって、消費者主導の現在のマーケットとは、いささかかけ離れている部分もあるだろう。
 私にしてみれば、昔から「音楽を聴く行為」には特別な意味があった。田舎の盆地に住んでいて、都会を夢見ていた思春期の自分は、音楽を聴くことで人生の教養を深めることもできた。わからないものがあったら勉強して理解するというのが、音楽を聴く姿勢としても普通だったと思う。「美に共鳴できる能力がある人だけが楽しめる芸術」でよいとさえ思っていた。それがファインアートからポップアートへと時代の移り変わりの中で、ポピュラー音楽が生まれ、教養のない、低所得者でも楽しめる芸術としてロックが育っていった。しかし、消費者の行動から帰納法的に「望まれる商品」をイメージして商品を決め込んでいく、今の音楽業界のマーケ的な手法は、とても不純にも思えてくる。『イエロー・マジック・オーケストラ』のインタビューでも、『BGM』で売り上げがガタッと落ちたことについて、メンバーは「ファン切り捨てをしました」「付和雷同で買ってくれてもしょうがない」と、正直に告白している。日本人は特に、この付和雷同の傾向が強い。人の持っているものが欲しくなると、自分に必要がないものでも欲しくてたまらなくなるというやつだ。だからこそ、売り上げ至上主義の現在は、30%のコア・ファンよりも、70%の浮遊層に向けて、わかりやすく、かつ求めやすい廉価なものを作るのである。支持政党だって、民主党支持の70%がそのまま自民党支持の70%になっちゃうぐらい、空気ですべてが変わってしまう。タレント議員に対する批判は常にあるが、実はタレントを持ち上げる政党自身がそこに未来を感じてないことはバレバレ。単なる数稼ぎのためにタレント人気を利用している構図があるのだが、それを選んでしまうのはあくまで庶民なのだ。その人間が選ばれさえすれば、そいつを傀儡にして民主主義政治のルールの中でやればよいだけ。肉を切らせて骨を切ればいい。『踊る大走査線』ではないが、「正しいことをしたければまず偉くなれ」しかないのである。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』のコンセプトも、マニアよりむしろ、たくさんの人に読んでもらいたい思いがあって、まず誰もが読めるエンタテインメントを目指した。このへんは、ハリウッド映画を観て育った私ならではの価値観がある。資料としての充実を図るために厚い本になったので、いかにも玄人向けのように見えてしまうのが難なのだが、芸術的な観念や小難しいレトリックはなるべく避けて、誰でも面白く読めるようにと務めた。とにかく、これまでの電子音楽の書物というのは難しかった。いや、その難しさをヨシとしていたところがある。私はあまり関心がないのだが、テクノ・ミュージックというのはインストゥルメンタルでありながら、まあ効能書きが理屈っぽいこと。その過剰さや、哲学の引用などから、教養主義というよりただのインテリ・コンプレックスに見えることもしばしばだ。
 普通の単行本の3倍もあるわけで、『電子音楽 in JAPAN』に誤植が多いことは申し訳ないが、これもスタッフ不足や制作期間の短い中で、それでも刊行したということに原因がある。海外のノンフィクションみたいに、一冊を書くのに取材を何年も書けられる環境はない。こと音楽の本はもっとも売れないジャンルと言われている。しかも、平均的な単行本の場合、リクープ・ラインから逆算してかけられる制作期間は、だいたい1冊2ヶ月が相場と言われている。力作と私も認める川崎弘二氏の『日本の電子音楽』も、7年の年月が費やされているらしい。それを、ほぼ同じヴォリュームの拙著は、ゼロから初めて10ヶ月で仕上げようというんだから、元々無茶な企画なのだ(苦笑)。でも、「これが何かの再評価のきっかけになれば」という思いが、私の推進力になっていた。
 しかし、拙著を批判される人も実に多かった。誤植も含めて“完成型になっていない”ことを指して、「書かない正義もある」とまで言われたことまである。その人はコレクターで、何かを表現する立場の人ではない。ただ蒐集するのが目的という“スーパー消費者”のような人物だから、創作で必ずぶち当たるような、自分の能力の限界や時間のなさと、永遠に無縁な世界に生きている人。だから彼には矛盾がないのだ。でも、「消費者が作り手よりも偉い」という今の社会の趨勢は、いつか文化崩壊を招くと私は思う。「表現しても間違いが含まれてしまう人間」より、「何も表現しない人間」のほうがある意味で偉いなどという物言いは、何もできない者のいいわけ。単なるレトリックに酔っているだけだ。
 「モチベーション創出」を巡る消費者の行動について考えていくと、これは「自己愛」の問題に行き着く。不動産情報誌を読む定期購読者の中には、すでに一定の不動産を所有している人が、自分が所有するのと同等の物件がどれぐらい値上がりしているかを楽しみに毎週買っているパターンも多いらしい。一時ヒットしたトリビア本のたぐいも、全部を珍しい新ネタで構成するのではなく、ある程度知られた情報もほどほどに混ぜて出すのだという。「オレ、これの半分ぐらい知ってた」「だからこれいい本。オレ、買う」という人に買ってもらうためだ。
 CDというパッケージメディアが、iTMSやMoraのような配信に入れ替わるのが、次世代の音楽ビジネスモデルと言われている。私のまわりにも、すでに「iTMSに10万円以上つぎ込んだ」という人もいる。それほど、便利さに優れたシステムなのだろう。データ所有する曲が充実していくごとに、「CDがうっとおしく感じる」ことが増えてきたと彼も語っていた。すでに、最近のiPodに入っているお気に入りの曲は、iTMSで買ったものばかりらしい。この投資した10万円を無駄にしないためにも、今後も彼はiTMSでの買い物を続けていくだろう。そこにはいくばくか、iTMSに払った分を後悔しないための、正当化の自己愛が作用している。こうした状況を見ていると、消費者の自己愛さえくすぐれば、配信ビジネスの普及はわりとすんなり移行できてしまうのではないかと思う。
 最後に一言。しかし『イエロー・マジック・オーケストラ』の単行本は、たぶんそうした「浮遊層」に向けて作られたものではないと思う。あくまで、本当に読みたかった「切実に欲しい人」にとっての選択肢となるものだろう。メガセールスを意識した価格設定になっていないので、やや割高なところもある。だが、関わった一人として、その金額を出したなりの発見のあるインタビューになっていると思っている。
 先ほど、DVD業界には、浮遊層を取り込むために廉価DVDが作られているという話をした。そのために、コア・ターゲットの30%よりも、残りの70%にとってのリアリティを追求するという考え方だ。実はDVD業界にももう一つ、コア・ターゲットの30%に向けた商売の仕方もある。それが「アルティメット商法」というものだ。ロスト・フッテージが新しく発見されるごとに中身を追加したり、画像をきれいにリマスターして出し直すという商売である。実はこれ、すでに同作品をDVDで持っているコア・ファンに買い直しを促進する狙いが含まれているのだ。実際、「アルティメット版」と称して、毎年決算期に内容改訂で何度も出し直しされる作品は多いが、ブログなどを見ると、文句を言いながらもちゃんと購入してくれる誠実なユーザーが多いこと。これはメーカーにとっても「マーケットが読める」商売法のひとつである。その商魂逞しさには呆れることも多いが、「何度も出し直しなんてヒドいなあ」という普通の消費者がいる一方で、毎回新ヴァージョンに嬉々として買い換えるコア・ファンも実際はかなりの数を占めているのである。何も、新しいヴァージョンが出たことによって、過去に買ってしまった自分の行為を断罪する必要はない。いらなくなったら、ヤフオクに出品したり、セコハン・ショップの下取りなどの選択肢は十分あるのだから。フリマなどの普及によって、すでにアメリカ流のトレード文化は根付いている。一方、マニアと対極的に「ボーナス映像はいらないから、安いほうがいい」と考え、値崩れしている旧ヴァージョンを求めるという、「文庫本の読者」みたいなユーザーだっている。その売買する人の間で幸せな関係が結べれば、何も問題はない。私のような人間には、浮遊層向けの大ばくちなどより、こうしたコア・ターゲットに向けた丁寧な仕事のほうがよほどしっくりくる。
 『イエロー・マジック・オーケストラ』がDVDの「アルティメット版」のように、『OMOYDE』を所有している読者にも思わず買い直しさせてしまう、そんなパワフルな本として読者に受け入れてもらえたらよいなと、スタッフの一人である私は思っている。


※注
このエントリーをアップした後、「アルファ商法」について読者からメールでご指摘いただいた。「アルファ商法」とは、「アーティスト本人に無許可で音源をリリースすること」を指すのではなく、もっぱらLDから盤起こしをしてライヴ盤をでっち上げるといった、水増し音源をリリースすることを指すのだそう。アーティスト本人に無許可でも、秘蔵ライヴ音源をリリースするのは歓迎されるため、「アルファ商法」と呼ばないんだそうだ。
……なんのこっちゃ。「商法」ってやり口のことなので、ファンの印象で良いか悪いかで線引きするのって、用法としてヘンじゃない?