POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

家政婦は見た!Part2「外資系大型CD店ブランドことはじめ」

 昨日のエントリーで、90年代初頭の外資系CD店の登場で、日本の商慣習が変わったと書いた。アナログレコード時代、街のレコード店の売り上げの8~9割が新譜で占められていたというエピソードは、そもそも店の陳列棚に旧譜を置くスペースがないという、日本の住宅事情によるものだ(以前、サンフランシスコに行った時、ヘイト・アシュベリーにある中古レコード街に行ったことがあるのだが、体育館ほどの広さの中古レコード店がざらにあったりして、その環境の違いには唖然とした)。マーケットも小さく、相対的に扱うカタログ量がむやみに大きい旧譜の扱いは、いわばギャンブルのようなもので、ショップのみならず、メーカーが本腰を入れてこなかったのにも明確な理由があったのだ(LPレコードが今のCDより占有サイズが大きかったという単純な理由もあるだろう)。つまりマーケットが小さかったから、稼働率の高い新作中心にカタログが構成され、売り上げを安定させてきたわけだ。
 昔、ある有名な業界紙に取材した時に聞いたのだが、日本は諸外国に比べ文化民度が低く、欧米では生活に密着していた「レコードを買う」という消費スタイルが、なかなか根付かない国と言われてきたらしい。つまり、「日本人はレコードを買わない人種である」とずっと言われてきたのだ。しかし、なぜ「日本人はレコードを買わない人種」だったのかと問われれば、日本のレコードが諸外国に比べ高かったからである。
 これは日本のレコード業界が、“再販価格維持制度”で保護されていることに理由がある。ご存じの方であれば、拙者の説明など読み飛ばしていただいて結構だが、以下、ご存じのない方に、私なりに説明をしてみる。第二次大戦締結後、マッカーサー元帥が日本を一時的に統治していたころ、チャンバラ映画を制作中止にするなど、戦前の日本文化を根絶やしにするため、教育文化にこと細かく干渉していたのはご存じだと思う。そのためにGHQは、当時のNHK局内に本部を設けるわけだが、GHQがまだできたばかりの(というか敗戦国ドイツから持ち帰ったばかりの)テープ・レコーダーをいち早くそこに設置していたことが、NHK電子音楽スタジオ誕生の遠因になったということについては、拙著『電子音楽 in JAPAN』でも取り上げている通り。そのGHQの政策として、戦後の焼け野原で失われてしまった日本の音楽文化を復興させるべく、まず送り手であるレコードメーカーを支援するために、今のDVDのようにむやみやたらなディスカウント狂騒に曝されないように(DVDは再販商品ではないので、自由に割引販売ができるのだ)、レコードなどの音楽ソフトを「定価制」にしたのである。レコード店で勝手に割り引き販売できないように制限を設けたわけだが、代わりに売れなかった商品については(一定の条件付きで)返品可能にして、店にも負担がないようにとの配慮がなされた。つまり、店に置いてあるCDは、レコードメーカーからレンタルしたもので、売れた商品の分だけを後から決済するというやり方で、戦後ずっと日本のレコードビジネスが運営されてきたのである。この「定価制」が、ある時代までは貧しかった日本の音楽文化育成の追い風となってきたことは否定しないが、一方でユニクロブームや100円ショップ、牛丼やDVDのような自由競争に曝されず、諸外国より高い定価販売を続けることができた元凶でもある。それが庶民にとって「レコードを買う」という行為を遠ざけてきた、最大の要因であるとも言えるのだ。
 それは、街のレコード店にとってもメリットが大きかった。音楽好きの若者がレコード店をオープンしたいという際に、店いっぱいに並べる商材をわざわざ購入しなくても、問屋から商品をレンタルすればいいのだ。だから、レコード店というのは、初期投資が少なくお店を開けるメリットがあった。また、レコード店の店主が音楽に詳しくなくても問題はない。問屋は取引先の店の売り上げを安定させるために指導する役回りも担っているので、そのために「売れ筋商品の詰め合わせセット」みたいなパッケージを供給するスタイルが、街のレコード店の売り上げを支えてきたのだ。実はこれが、別の見方をすると護送船団方式になっていて、詰め合わせセットの中身を見てみると「大物演歌歌手が30%、ニューミュージックが20%……ギターポップが0.5%」という風になっていたりする。あくまで統計的に不良在庫がでないようにとの配慮から割り出されたということになってはいるが、いうなれば問屋の采配によって、日本のベストセラーの利益配分が作られてきたと言える。インターネットがない時代には、ロングテールなどという概念は存在しなかった。発売日に店頭で、いきなり棚挿しに回されてしまうマイナー盤など“存在していない”のと等しく、客の目に触れなければ、それがヒットするなどの偶然でも起こりえなかったのだ。
 実はこの前例を覆したのが、90年代初頭の外資系大型CD店の、邦楽ソフト販売開始だったと言われている。それまで輸入盤のみを扱っていた外資系大型CD店は、基本的に買い取り主体で商品を確保してきたため、日本の商慣習に併せる必要がなかった。また輸入盤ビジネスは、不良在庫が出れば赤字になるギャンブル性の高いものだから、入荷担当として音楽知識の高い店員が求められた。実際、スター店員などの引き抜き合戦もあのころは頻繁に行われていたらしい。そんな音楽知識のある入荷担当者が、わざわざ問屋から「売れ筋商品詰め合わせセット」を仕入れる必要などない。それで多くの外資系大型CD店が、邦楽アーティストのCDを取り扱うにあたって、「問屋抜き」で直接レコードメーカーと取引をし始めたのである。従来の商慣習に囚われず、ギターポップ好きの店員が「フリッパーズ・ギターを100枚入荷」といった風に、ある程度の裁量を預かって、直接メーカーにオーダーを出し始めたことから、「渋谷系」のような局地的なブームが起こったという説もあるのだ。それまで見たことのなかったような、『オリーブ』誌の誌面みたいな可愛いジャケットのCDが店に平積みになっている光景を見て、普段CDを買う習慣のなかった女性客が惹き寄せられ、それはやがて渋谷エリアの局地的ヒットの報として、全国のメディアで紹介されていく。本来なら、「詰め合わせセット」の数パーセントを占めるに過ぎなかった、誰にも気付かれずに消えていったかもしれないギターポップなどの音楽が、突然、時代のマジョリティとして浮上したのである。
 また当初から外資系大型CD店は、各店舗の売り上げやランキング集計データを、「某ランキング」に提供することをしなかった。ご存じの方も多いと思うが、あの有名な「某ランキング」には、いまだにタワー、HMVなどの外資系大型CD店の売り上げがまったく反映されていないのである。結果、日本のベストセラーを生み出すメカニズムに荷担していた「某ランキング」と別の、全米の大学が参加して作られた「CMJ」(キャンパスチャート)のような、カウンター的なランキング文化が日本でも生まれることにもなった。
 これらの構図は、ショップと消費者とが結託し、レコードメーカーと問屋と某チャートが護送船団で行ってきたベストセラーの構造を、初めてひっくり返した出来事だと言えるだろう。これ以降、「ベストセラーを生み出す現場」は、テレビや雑誌などのメディア発信のスタイルから、外資系大型CD店のフロアそのものへと移っていく。カルヴァン・クラインなどのブランド品や「たまごっち」なども扱う、情報サロンとして外資系大型CD店は機能し始め、雑誌でチェックしてから買うのではなく、ふらっと目的なしに立ち寄って見つけて買うというスタイルが、90年代以降の若者たちの消費行動のスタンダードとして定着していくのである。「新譜を雑誌でチェックして買う」というこれまでのスタイルが凋落した結果、恐ろしいことに、音楽雑誌の存在自体をも不問にしてしまうのだ。
 ふー、ちょっとした前書きのつもりが長くなってしまった。私がこのエントリーでやろうとしたのは、そんな外資系大型CD店が上陸したばかりのころの風景を思い出して、当時を知らないヤングたちに伝えてあげようというのが当初の魂胆であった。以下、日本の代表的な外資系大型CD店に、足繁くかよっていた一消費者として、当時の風景を思い出せる限り書いてみたいと思う。

■WAVE

 80年に六本木に一号店がオープンした「WAVE」は、外資系ではない。パルコを代表とするセゾングループが経営母体の純国産ブランドだが、日本でタワー、HMVなどが本格上陸する前に、海外の大型店のようなビジネスをいち早く実践していたということで、“外資系マインド”を持ったショップとして、まず取り上げてみた。扱っている在庫量は決して多くはなかったが、スティール・ドラムや口琴などの楽器をディスプレイしたりしていて、早くも単なるレコード店に止まらない情報サロンとしての機能を打ち出していた。上階にあったアール・ヴィヴァンは現代音楽などを主に扱っており、私のような電子音楽ファンや、多くの日本のアヴァンギャルド系ミュージシャンの唯一の情報源として、日本の音楽シーンの傍流文化を支えていたとも言える。
 また、「WAVE」が面白かったのは、独自のカウンター精神であった。場所柄、広告代理店筋の客が多く、ここで店員がレコメンドしていたアーティストが、そのままお洒落なFM番組などの選曲に多大な影響を及ぼしたりしていた。しかし、そうしたお洒落文化に与するのではなく、意地悪く「広告代理店担当者様推薦!」などとポップで茶化してみたりするいたずら心があった。このへんは真に、店員魂ともいえる逞しいもので、サンプル盤をもらって記事を書くだけの音楽ライターや音楽ジャーナリズムに、真っ向から喧嘩を売っていた。そういえば、これは余談だが、渋谷のZESTができたばかりのころ、新譜のCDのポップにずらりと「ロッキング・オン編集者非推薦!」と書かれていたのを見た時は爆笑したな。
 一時期、テレビの深夜番組などでも「WAVE」チャートを扱っていた番組がけっこうあったが、初CD化されたばかりだった四人囃子『一触即発』とか、バカラックの『カジノ・ロワイアル』の怪しいフィリピン盤のサントラなどが毎週1位を飾る、ランキングの唯我独尊ぶりにはクラクラした。80年代だというのに、ベストテン内にボウイの『ジギー・スターダスト』やブッカー・T & MG'sの旧譜がランクインしたりする、イギリスのチャートみたいに完全に狂っていた。
 だが、外資系大型店の猛者ブランドがずらりと並んだ90年代初頭、「WAVE」が凋落した理由が、その反骨精神だったという説もある。今では、たいていのCDチェーンが、輸入盤は本社の輸入部で全国分のトータル枚数をまとめて買い付けている。海外では音楽ソフトの定価が決まっていないため、入荷ロット数が多ければ多いほど、単価を安くできるからだ。ところが「WAVE」は、各店舗とも個性的で経営方針も異なり、店舗単位で入荷していたので、比較的いつも売価が高かったのだ。音楽に詳しい店員が多かったためプライドが競争意識として働いたのか、同系列でありながら「WAVE」は、各店舗の店員同士が仲が悪いというのは有名な話であった。独自に見つけた新商品の入荷ルートを、他店の店員から問い合わせがあっても、お互いに絶対教えなかったらしい。また、それは店舗ごとだけではなく、私が渋谷クワトロ店でスプーキー・ルーベンのCDを買いに行った時など、系列のクワトロ・レーベルの商品なのに在庫がなく、店員に聞いたら「扱っていません」と露骨にイヤな顔をされて、上のクワトロまで買いに行ったことがあった。きっと、クワトロとも仲が悪かったんだろう。
 しかし、店舗ごとの個性が新潮流を生み出すこともあって、渋谷クワトロ店の女性担当者だったA氏が、同所から起こした「スウェーディッシュ・ブーム」などは、各店舗の自由な裁量が認められていた「WAVE」だからこそ、起こったムーヴメントだと言えるだろう。まだどの雑誌でも取り上げていなかった、スナップやノース・オブ・ノー・サウスなどの新譜情報を得るために、私もあのころは足繁くクワトロ店に通ったものだ。また、「サバービア・スウィート」に寄稿したりしていた六本木店のサントラ盤担当のE氏の手書きポップも、買い物時によく参考にさせてもらった。当時はまだ仏盤を扱っている店が少なかったので、渋谷店のフレンチのコーナーにもお世話になったな。
 六本木WAVEの地下には、シネ・ヴィヴァンという単館系の映画館があったが、そこは佐々木敦氏や中原昌也氏、阿部和重氏といった、アルバイトから多くジャーナリストを輩出した梁山泊でもあった。実際、佐々木氏から荷物を受け取るために、仕事中のシネ・ヴィヴァンを訪ねたこともある。また、最上階にはSEDICというレコーディング・スタジオがあったのだが、エスカレーターで移動することができるようになっていたので、当時そこをよく使っていた細野晴臣氏らを、エスカレーターで見かけることも多くて興奮したものだ。
 2000年のオープンから20年目に、六本木WAVEは再開発地域に指定されて撤退した。が、現在も主にアナログ盤を扱う店として「WAVE」ブランド自体は継続している。

■ヴァージン・メガ・ストア

 「WAVE」に対抗すべく、外資系大型CD店の本格的上陸第一号と言われたのが、「ヴァージン・メガ・ストア」である。私も新宿店のオープン日には駆けつけたが、店内にDJブースがあって、支店網に向けてリアルタイムで独自の番組を放送していた光景にうっとりした。フジテレビの深夜番組『ビートUK』などの提供番組もあったので、上陸時には「本格的な洋楽至上時代の到来か!?」と思わせるインパクトを与えたのを覚えている。系列のレコード会社、ヴァージン・ジャパンにフジテレビの資本が入ったりしたこともあった。そもそも店員推薦用語の“レコメンディション”という言葉も、私はヴァージン・メガ・ストアで知ったのだ。
 ヴァージンのもっともよく知られる功績として、音楽好きの間で知られているのが、初めて視聴機を本格導入したことである。実はそれまで、日本では「視聴機を置くと、客が聴いて満足してしまうので売れなくなる」という神話が、業界筋でまことしやかに語られてきたのだ。実際に各方面から反対もあったらしいが、ヴァージンは視聴機を本格的に導入して、それが販売促進に絶大な効果があることを実証してしまった。
 ヴァージンも実は、先の「WAVE」のように、ある時期までは店舗ごとの裁量を自由に認めていたと言われている。この辺、老舗であったHMVとは違う、創業者リチャード・ブランソンのインディペンデントな経営美学を感じさせるものがある。フラッグシップ的存在だった新宿店では、早くから韓流商品などを数多く扱っており、ここからはアセアン・ブームがその後起こっている。88年のソウル・オリンピックのころなどは、賑やかな光景だったのを覚えている。当時新宿店の入荷担当者だったのが、『ミュージック・マガジン』などで健筆を振るわれていた音楽ライターの本根誠氏だった。本根氏はその後、カッティング・エッジのA&Rに就任されて制作に回られるのだが、泣かず飛ばずだった東京スカパラダイスオーケストラを同社で初のヒットに導いたのは、きっと本根氏が普段の接客業を通して得た「現場の感覚」があったからだろうと私は思っている。
 店舗ごとの個性という話で有名なエピソードがひとつある。ヴァージン・メガ・ストア横浜店のオープン日に、XTCのアンディ・パートリッジが来日したときのことだ。これは店長がアンディと個人的に親しかったことから、夫妻を招待したというものだったらしい。ところが実はそれ以前、新宿店が『ノンサッチ』のリリースの際に、「XTC来て来てキャンペーン」という署名活動をやっていたことがあって、私も署名した一人だったのだ。なのに、知らないうちに「横浜店アンディ来店!」などと雑誌広告が出ていたので、ちょっと怒って新宿店の店員に聞いてみたら、ウチの人間もみな当日まで知らなかったと言われてしまった。
 数年前、新宿にエリア面積アジア最大の「HMV高島屋タイムズスクエア」ができて、“外資系大型CD店新宿の乱”などと言われたものだが(というか、私が週刊誌で勝手に書いていた)、そこからヴァージン・メガ・ストアが早くに脱落したことが、古くからの同店のファンを悲しがらせた。実際は、関係者の話によると、英国のヴァージン本社と持ち株比率で同等を所有していた丸井との、経営を巡る確執が原因だったと言われていて、今でも「一時的な撤退」という認識もあるらしい。だが、丸井の資本の入ったヴァージン・メガ・ストアは、地方に行っても必ず駅前の丸井のビル内にあるという、地の利ではタワーやHMVが対抗できない立地条件を誇っており、エリアによって競合店を抑えて売り上げ1位を記録している店も結構あるらしい。

HMV

 90年代初頭の『日経ビジネス』や「日本経済新聞」などで、「本格的な外資系大型CD店上陸」としてよく記事で取り上げられたのは、このHMV参戦の時であった。HMVは蓄音機誕生のころから1世紀以上の歴史を持つ、イギリスのレコード販売ビジネスの老舗である。ここもオープン日に私は足を運んだのだが、(私の記憶があいまいではあるのだが)当初は確か、海外のレコード店と同じようにアーティスト名の仕切盤の表示が、例えば「McCARTNEY,PAUL」という風に“セカンド・ネーム,ファースト・ネーム”の並びになっていて、「さすがグレート・ブリテン!」などと意味もなく関心しながら、やたらにCDが探しにくかったのを覚えている。
 すでにアメリカには進出済みだったHMVだが、日本への進出はかなり慎重に準備が行われていたらしい。日本はイギリスよりも音楽マーケット自体は大きく、世界第二位の商圏であった。しかし、アメリカと一番に違っていたのは、「HMVと言えばニッパー君」と言われるほどの認知があったあの犬のマークを、日本ではビクター音楽産業がライセンス所有していたために、使えなかったことだ。だから、当初しばらくは、日本のHMVだけ犬のマークなしで店のデザインなどが組まれていたが、後に全世界でデザインを統一することとなり、世界各国のHMVからニッパー君のマークが外されている。それほど、HMVにとって日本は売り上げ拠点と思われていたのだ。また、上陸したころはまだバブルの余韻もあり、「円高ドル安」を追い風にして、「CD2枚買えば1枚あたり1480円!」とか、系列で初めてディスカウントを大きく打ち出したのもHMV。いわば輸入盤界のドン・キホーテなのであった。
 外資系大型CD店で初めて、日本盤を扱ったのもこのHMVである。そして序文で紹介したように、入荷担当者に独自の裁量を与えていたので、「渋谷系」や「サバービア・スウィート」などのムーヴメントの発信基地として注目されることが多かった。渋谷店の名物店長と言われたO氏などは、トラットリアから限定シングルを出すほどにミュージシャンからも支持を受けていたのを覚えている。後に同氏はネット通販部門に移籍されたようだが、HMVがいち早くインターネット販売のカタログ数を拡充していたのは、こうした音楽好きの店員が支えていたからではないかと思う。そもそも、HMVの存在を世に知らしめた「手書きポップ」(今では、書店の販促手法にまで普及している)は、O氏が新星堂の社員時代に、クレプスキュールなどの同社のカタログを売る時からやっていた手法らしい。ネオアコ・ブームも、今日昨日いきなり誕生したわけではないのだ。
 しかし、ある時一斉にHMV名物の「手書きポップ」が店頭から消えたことがあったのを覚えている方も多いだろう。これは噂だが、イギリスから本社の視察団が来た際に「この汚いポップを片づけなさい」とクレームがつき、本社の方針として、すべてのポップがワープロ打ちに変更されることとなってしまった、という説もあるらしい。いかにも厳格な名門HMVらしいエピソードである。
 あの「渋谷系」ブームの折に、よくニュースなどで同店の特集が組まれて取材されていたのを覚えているが、広報担当氏が「渋谷系というイメージはありますが、ウチも実際はドリカムやB'zがちゃんと売り上げは1位ですから」とエクスキューズしていたのが印象的であった。「マイナー音楽にうつつを抜かして」と突っ込まれないための、あれは株主対策のパフォーマンスの意味もあったのだろうか?

タワーレコード

 いわゆる外資系大型CD店としてのタワーレコードの歴史は、正式には90年初頭に、現在の渋谷店がオープンしたあたりからということになっているらしい。それ以前、私もよく足繁く通っていた、ZESTやムーンライダーズオフィスがあったノア渋谷にあったころは、品揃えもアメリカ盤中心ばかりだったが、資本構造は現在のタワーレコードと若干異なっているという。おそらく正史には載っていないのだと思うが、日本でタワーレコードという店が最初にオープンしたのは遡ること80年代初頭。確かエリアも九州かどっかの地方だったはず(←札幌が正しいそうです。失礼しました!)で、米国のタワーにライセンスせずにその名を使っていたらしい。そこに本国からアプローチがあって本格始動し、地味〜に店舗を拡充しながら、90年代になってライバル店「HMV」が台頭し始めたあたりから、現在の店舗へと整備されていった経緯があった。
 90年代からのタワーの方針は、私の勝手な思いこみかも知れないが、最大のライバル店であったHMVの戦略を、常に参考にしていたような印象がある。HMVが初めて邦楽を扱い始めた時も、邦楽フロアをそれ以上の面積に拡充して対抗していた。そこからは「渋谷系」よりも売り上げの大きい、ウルフルズなどの全国区のグループがタワーレコード発で登場している。また、HMV名物だった「手書きポップ」がなくなった後の、タワーレコードの個性的な「イラストポップ」の打ち出し方は、度を超えたものがあった。根本敬の書いた巨大な精子のオブジェとかが、家族連れの客の通るフロアにあったりしたんだから(笑)。あと、これも噂か真実か定かではないが、アルバイトを取る時の採用条件として、HMVでは当時認められていなかった「金髪」「バンド活動」を、唯一タワーレコードだけが承認(または推奨)していたという、なかなか泣ける話を聞いたことがある。新宿店の副店長氏がオーガナイズしていた「喫茶ロック」シリーズや、渋谷店の店員だった村松タカヒロ氏が、その後アステロイド・デザート・ソングス〜スマーフ男組などでアーティスト活動を始めたりする自由度が、ある意味、タワーレコード最大の魅力だったとも言える。この辺、初代の名物社長だったキース・カフーンの美学が窺えるところ。タワーレコードならどこの店舗にも必ずあった「ゲイミュージシャンコーナー」(クイーンとか××××とか××××とかが置いてあった)など、隅々にまでそのヒッピー思想がにじみ出ていたように思う。
 それと、私が高く評価していたのは、フリーペーパーの『BOUNCE』に、サバービア・スウィート〜アプレ・ミディの橋本徹氏を編集長として迎えていた時期があったことだ。この時期の『BOUNCE』の特集の充実ぶりは、フリーペーパーのレヴェルを軽く超えていた。それが無料でもらえる雑誌だったことが、日本の御用音楽ジャーナリズムを失墜させた部分はかなり大きいと思う。
 で、数年前にアメリカのタワーレコード本社は倒産したのだが、その前年にMBOマネジメント・バイ・アウト=社員などが株式を購入して独立すること)を果たしていたため、現在はタワーレコードは純国産の会社として運営されている。


……ともあれ、記憶で書いているので、あくまで当時の雰囲気をつかんでもらうためってことで、曖昧な部分があるところは、ご愛敬ってことでお許しくだされ。
 そういえば、先日タワーレコードに初めての本格的な「全曲視聴機」が導入されたのをご存じか。早速見に行った私だったが、残念ながらお金のなさそうな若者が1時間ぐらい張り付いていて、結局触れずに帰ってきてしまった。
 昔、向こうの新聞かなんかで読んだことがあるのだが、90年代の初頭にアリゾナだったか南部のタワーレコードのテスト店で、店内にあるすべてのCDが聞ける店がオープンしたというニュースがあった(その時脳裏に描いたイメージは、フロアの地下が空洞になっていて、ボタンでCDを選ぶと、巨大なクレーンのレバーが動いて、CDをピックアップしてみたいな……)。よく海外の資料などをあたっていた時に、有名な曲名と同じ曲などの場合、それがオリジナル曲なのかカヴァー曲なのか、判別が付かなくて困ったりすることがあったものだから、そのニュースを読んで「全曲視聴機あったらいいなあ」とそのころから思っていたのだ。その後、確かヴァージンが最初に、iMacにMP3データを入れた50万曲入り視聴機を導入したニュースを読み、喜び勇んで新宿店に足を運んだこともある。それまで、内容未確認で買うのに躊躇していた、キャプテン・ビーフハートとかノイズ系のアーティストのアルバム名を入れてみたのだが、でもさっぱり全然ヒットしなくて、「50万曲なんてダメじゃん」とガッカリしたことがあった。その後、海外通販のCD NOWやamazonでいち早く視聴できるようになって、「リアル店よりネット店だなあ」と改めて思ったものだ。それがいまじゃ、iTMSほどの膨大なカタログを保有する視聴機が、家に居ながらにして聞けたりするわけだから、便利になったものである。
 ところで、序文のところで「渋谷系」が誕生した理由の一つとしてあげていた、レコード店とメーカーが直接取引をするケースというのは、今はなくなったと聞いている。インディーズの台頭のころ、たくさんの独立レーベルが誕生したのだが、そのために取引する口座が増えてしまい、銀行振り込み手数料もバカにならないので(ホントかよ)、その辺の経理の諸経費などを鑑みた上で、問屋に口座を一本化したほうが安く上がるという理由で、多くの外資系大型CD店が問屋経由で邦楽を入れるようになったということらしい。それに、外資系大型CD店といっても、現在は売り上げの中心は邦楽が占めている。以前の「輸入権騒動」の時、輸入盤をメインに扱うショップでありながら、大きく反対署名運動するような動き発展しなかったのも、すでに外資系大型CD店も、日本の音楽産業に組み込まれているということなのだろうか。
 口座一本化の話を聞いた時、「それって“渋谷系”みたいなハプニング的なブームなど、もう2度と起こらないってことなのか?」と、遠い目をしたのを思い出す。