POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

『TV Bros.』7月11日号に原稿(コラム+マンガ)描きますた。




 以前、ここのブログでも報告済みだが、今週発売の『TV Bros.』で同誌に初めて、原稿(文章+マンガ)を書かせていただいた。特集は「音楽と兄弟(ブロス)」。まさか扉ページに自分の原稿がくるとは思ってもおらず(笑)、自分だけ怪気炎上げているのがお恥ずかしい……。無礼講的というか、何書いてもいい的な企画主旨で依頼をいただいたつもりだったんだけど、わりと穏便な内容にまとまってたのは、それがほかの書き手の時代感覚なのでしょう。このブログもそうだけど、キツイ文章というかハッキリした物言いになってるのは、週刊誌編集者を13年もやってきたのが理由。音楽雑誌とか専門誌よりも、よっぽど週刊誌はコミュニケーションがダイレクトな世界だから。オマケにワタシは、ずっとクレーム処理的なものの電話応対を担当してきたので、まあ大抵の場合に理詰めで問題を解決してきたために、そういうことへの適性もそれなりにあったりするし。週刊誌の世界には、挑発的な内容の特集号は必ず売れるというテーゼがあるけれど、これは罵倒系エントリにはてなスターの星数が集まる反応と、基本的にそう変わらないだろう。批評めいたエントリを書くという、エネルギーを要することをわざわざやるのは、本人がそういうことが好きとかそういうことじゃなくて、それが大衆を惹きつける魔物であるのを知ってるから。
 先日、わりとキツめのエントリを連投していたもんで、常連読者の方からも「どうしてネットに関するネタになると、そんなに感情的になってしまうのか」と指摘されてしまった。いえいえまったく平常心。何度も書くけど、いちいち怒ってるわけじゃないし、内容は理路整然としたもので、どうみても感情が書かせた文章じゃない。むしろ「大衆の心理」を汲み取って、それを言葉に置き換えて表現して提出してみました的な、謙虚なものだと思っている。「罵倒コラムニスト」として一時人気を博した、ナンシー関さんがいちいち原稿書くたびに高血圧になってたわけじゃないのと同じ。これはブログの読み手が、その罵倒された対象や内容に自分を重ねて、感情のコントロールを失ってるだけ。それほど、「いかに日頃から、怒られ慣れてないか」ってことだと思う。少なくとも自分の世代なんて、会社に入ってからも怒られるのが日常茶飯事だったし。そういう日々を、若いなりになんとか悪知恵付けてやりくりして、「怒られない」ための処世術を身につけて大人になったわけで。学校でイジメられっ子だったって人にしても、処置せずにいりゃ、どっちにしろ社会に出たってイジメられる運命が待ってるだけだから、学校にいるうちにイジメられない処世術を身につければいいってだけの話。大人社会で受けるイジメのほうがよっぽど残酷だしね。
 おかげで耐性もついて、怒鳴られてもいちいち傷かなくなった自分だけど、そのぶんナイーブさというものがすっかりなくなったのは事実だろう。「こんなの怒られて当然」と思って、自分に教育されたのと同じように後輩を諭したりすると、大抵若い世代の相手はかんたんに傷ついちゃう。わりとハードコア耐性ができてるだけに、自分をキビシサの基準にして、部下とかを教育したりするのは非常に難しい。なるべく対象の気持ちを推し量って、配慮して言わなきゃねと毎回反省してるんだけど。しかし、そもそもブログでのやりとりにしたって、ブクマコメ書く側の人は、こう言えばどういう感情が芽生えるとか、相手の気持ちなんていちいち汲んで書いてるわけじゃないじゃん。こっちは「自分が罵倒したぶんだけ、罵倒されるのもやむなし」だと思って、自覚して書いてるつもりだけれど、相手は「罵倒するくせに、罵倒されるのは傷つく」という、身勝手な存在だから。自分が怒りたいときだけ怒って、怒られると「叱ってくれる側の心情」になどまったく想像力も働かない、お子ちゃま相手じゃ一方通行でおしまい。
 これは以前、サイコパスの取材をしたときに医師から聞いた話。神経衰弱で参って神経科に訪れた患者を診察しても、なんら体には異常がない。状況について聞いてみると、家族や友人に一人「奇矯な人物」が存在していて、それに振り回された結果の神経摩耗のよう。医師は処置はせず、原因だけ解明して帰してあげるわけだけど、問題はなんら解決されたわけじゃない。その原因である「奇矯な人物」が病院を訪ねてくるってことは永遠にないわけ。そいつには自分が原因だという自覚症状がないから。そうやって問題人物だけが無罪放免で、毒を世間にばらまいて平気で生きてるのが社会。「鈍感力」「スルー力」を持つべし、っていうけど、そういう人物を再教育せずに野放ししておくってのも相当罪深い話。自分がサイコパス予備軍のほうだったとしても、少なくともそういうことに気付かない鈍感な人間にはなりたくないなあ。一部のはてブコメントなんかを見てても、方々で悪口書き散らしてる、自制心の有無を問いたくなるようなものよく見かけるし。大和田伸也が何度酷い目にあっても、チンピラ相手に説教するのをやめないのと同じで、間違った指摘だと思うものに、いちいち回答しているのは誠意ある行為だと思ってる。それに、「相互批評はあってしかるべき」という意見は道理だけど、はてブとブログの「落差」とか「一人VS多数」の力学なんて利用せず、そんなのブログ同士で一対一でやりゃいいんだよ。
 『TV Bros.』に話を戻すけど、名物長期連載である川崎和哉氏の「ネット探偵団」で、たまたま今週号はTwitterブームネタをやっていた。こういうのを「ライフストリーム系」というらしい。「リブログ」とか「つぶやきブログ」というより、よっぽど雰囲気。「外観てみろ、凄い虹が出てるぞ」という一人の発信に対して、複数のTwitterユーザーが連鎖して「ホントだ」「こっからも見えるよ」とレスポンスを送る、美を共有する感覚が紹介されていて、非常にわかりやすい。(特定の話題のエントリを中心に据えるのではなく)人生や時間の流れを意識した応酬という想定ならば、Twitterの魅力もなんとなくわかってくる。「虹の風景」を発見した人に始まる、美のおすそ分け感覚は、ニコニコ動画なんかで対象となるムービーを共有して、観ながらカキコしてる感覚のほうが近いかもね。
 Twitterユーザー同士の間に、そういう「風景」が見えてこないから、第三者には、だらしなくつながってるだけの形骸的なコミュニケーションに思えてしまう。「ネット探偵団」には、サービス2年目のTwitterが再燃ブーム化した理由を、オバマホリエモンらカリスマが使い始めたことが契機と書かれていたけど、その人の人生=ライフストリームが「美しい風景」となれば、そこにギャラリーを交えた語りの磁場が生まれる。そういうきちんとした実人生を送ってこそのTwitter。見習いたいものである。


砂丘 (初回限定版) [DVD]

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帰ったらamazonから届いてた『砂丘』のDVD。アントニオーニの実存主義アメリカン・ニューシネマの虚無感が二乗となったマスターピース。こういうのを中学生時代に深夜テレビで観て、我々は人生を学んだわけだ。北野武監督の『3-4×10』のラストなんて、たぶんこれの影響だよね。誰も語ってるの読んだことないけど。ピンク・フロイドやジョン・フェイヒーの音楽もいいが、サントラにも入ってないMEVの電子音楽がまたいいんだわー。