POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「ムーンライダーズ vs. フリッパーズ・ギター」の対立の構図について、Twitter風につぶやいてみた。

 前回のハンマー・レーベルのエントリをアップしたあと、読者の方々から、はてブTwitterで意外な反応をいただいた。「ムーンライダーズフリッパーズ・ギターって対立してたの? 本当に?」というもの。フリッパーズの2人が雑誌などのメディアで、特定のミュージシャンの名前を上げて毒舌でバッサバッサを斬っていたころ、ライダーズ・ファンの側にいてヒヤヒヤしながら読んでいたワタシは、彼らをそれで強烈に記憶しているぐらいなので、隔世の感がある。「YMO、ライダーズだけでなく、手当たり次第に攻撃していたんじゃ?」という指摘もあったが、意外とそうではない。例えば北関東圏のヴィジュアル系やヤンキー・ロック的なものには寛容で、特に敵視していたのは、当時、広告代理店系のスノッブ層に支持されていた良識派のミュージシャン。それが、散開後のYMOのメンバーや、ムーンライダーズであった。例えば、ライダーズ・ファンにとって姉貴分的存在だった音楽評論家の能地祐子氏が、たまたま雑誌『PATI PATI』でフリッパーズ・ギターの初期連載を担当することになり、彼らの発言の扱いにほとほと困って、たいへんご苦労されていたのをよく覚えてるし(笑)。
 このへんについては、背景で何があったかをワタシは関係者に聞いたことがある。それをまとめた文章もすでにあるんだが、世の中に出ることが今後もあるわけじゃないと思うし、自己責任で書くぶんにはいいと思うので、Twitter風に当時のことについてつぶやいてみる。元々あの2人は、最初からあのような問題児ではなかった。5人組時代のごく初期の取材では、他の新人組と同じように素直に質疑応答していたらしいし、グループには前途洋々とした未来もあった(なにしろフリッパーズが正式に解散したときでさえ、2人の年齢は21歳なのだ)。そのごく初期の取材の一つで、彼らを劇高させるような事件があったという。音楽雑誌の新人紹介枠の取材で、ビートルズの解釈を巡り、教養主義的なインタビュアーの一方的な物言いに、メインのソングライターである2人がブチ切れてしまったことがあったのだ。あれだけ膨大なUKロックの知識を有していたのにも関わらず、実は2人はそのころ、ビートルズをほとんど聴いていなかった。そのインタビュアーの「ビートルズを知らずにロックを語るな」的な価値観の押しつけに、彼らはごく当たり前に反発したのだろう。その雑誌はいまでも存在するが、それが絶縁のきっかけとなり、解散後のソロ活動になってからも、いままで一度も2人は登場したことがない。その雑誌の「知性の基準」となっていたメイン・アーティストというのが、元YMOのメンバーやムーンライダーズの面々だった。その取材の一件がなければ、意外と素直なフリッパーズ・ギターの歴史もあったのかも知れないと想像すると笑える。でも、もしそうだとしたら、「毒舌の天才」を発揮する、後の2人のパブリック・イメージを引き出すことになったそのインタビュアーに、フリッパーズ・ファンは感謝してもいいのかもしれないね(笑)。
 先日、ワタシのTwitterで、我が青春期を振り返り「僕らにはXTCがあるから、ビートルズいらね」と本気で信じ、ビートルズ・デビューがかなり遅かったことを告白した。ストーンズも、リアルタイムで意識し始めたころの新作『サム・ガールズ』とか『アンダー・カヴァー』、有名なサイケデリックなドキュメンタリーで曲が使われて知った『サタニック・マジェスティーズ』しか持ってなかった。雑誌『宝島』編集者時代に、自分より10歳近く若いバイトの子に、60年代のストーンズのアルバムを一切聞いたことがないといったら、バカにされたこともある。やたらに「ロックの歴史」に拘るようになったのは、そのころの反動と言っていい。それぐらい当時は「ロックの歴史」に疎かった。というより、「ロックの歴史」を俯瞰できるような優れた教科書、ディスクガイドが当時は存在しなかったのだ。初心者にやさしく、時代の変遷と重要作品をバランスよく配置したディスクガイドが登場するのは、おそらく90年代のDJブーム以降のこと。CDでごく当たり前にロックの名盤が買えるようになってからで、それまでは歴史としてロックを捉えるムードが、それほどなかったように思う。とにかく、エフェクターやデジタル機材は80年代半ばまで日進月歩で進化し、それと併走しながらR&Bやヒップホップなどを飲み込んでロックも進化していた。Twitterで「ビートルエスクなものは、新しければ新しいほど価値があると信じていた」と書いたのには、そういう背景がある。とにかく毎月、新譜を買うだけでワクワクを持続できた時代だった。当時、特に劇的な進化を遂げ、ある意味「ロックの進化」を体現していたXTCが、デュークス・オブ・ストラトスフェアの変名で出したサイケデリック・アルバムを聴いて、「これがあれば、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』いらねえや」と本気で思えるほどリアリティがあったのだ。
 若造にそう思わせたのは、優れた歴史書なかっただけが理由ではない。とにかく、ロックというものはユース・カルチャーであって、歴史を持たないことに美点があり、常に「親殺し」によって進化してきたという意識があったから。ケミカルなサイケデリック時代に対して、自然志向のフォーク・ロックが生まれ、複雑かつ白人至上主義的なプログレッシヴ・ロックの反動で、R&Rの原点への回帰運動としてグラム・ロックが登場する。カウンター・カルチャーであるはずのロックのアルバムが1000万枚も売れてしまう、ヤッピーを主要購買層にして膨れあがった“産業ロック”(渋谷陽一命名フリートウッド・マックイーグルスetc……)に対して、パンクが登場して商業主義に唾を吐きかけるといった具合に。だから、若いロック・リスナーだったころの自分も、兄貴の影響でビートルズ・シネクラブに入りながら、新譜をまったく聴かないような教養主義的で頭の硬い友人をバカにしていた。ディスクガイドで知った名盤だけを聴いて、ポピュラー史を知ったような気分で語っているロックファンを軽蔑してた。『ミュージック・マガジン』などの老舗雑誌の持っている権威主義にもウンザリで、とにかくレコード店に行って自分の耳で聴いて買うことを至上としていたのだ。『ロッキング・オン』なんてのはもはや問題外。レコード会社からサンプルもらうだけで、輸入レコード店に足も運ばない、広告記事と同人誌原稿載せてるだけのミーハー雑誌だと思ってたから。『ミュージック・マガジン』で、やっと僕ら世代の目線で語る音楽評論家が登場したと思ったのは、高橋健太郎氏や萩原健太氏が登場してから。『プレイヤー』出身の高橋氏は楽器、オタマジャクシのことがわかる珍しい音楽ライターで、輸入盤で新人を開拓する越境精神の持ち主だった(当時はサンプルもらって書く人が多く、日本盤の出ないアーティストの扱いは存在しないに等しかった)。八曜社の『はっぴいえんど伝説』で颯爽と登場した、元早川書房の編集者出身の萩原氏には、ビーチ・ボーイズの新しい聴き方を学んだ。師匠の戸田誠司氏にご教示いただいてソフト・ロックに目覚めた、『TECHII』編集者だった86年ごろ、最前線にいたミュージシャンでビーチ・ボーイズをまともに評価していたのは、戸田氏と細野さんぐらいだったと思うし。ワタシ自身、いまでも音楽ライターと言われることに内心抵抗があったりするのは、その時期の音楽マスコミに対するネガティブなイメージに、いまだ引きずられているからかも知れない。
 フリッパーズ・ギターの2人に最初に会ったのは、セカンド『カメラ・トーク』のレコーディングを終えてすぐのころだから、91年初春のこと。イギリス録音のその新作は、チェリー・レッド、エル周辺のミュージシャン、ルイ・フィリップ、ディーン・スピードウェル(=ディーン・ブロデリック)、デヴィッド・ラフィ(ex.アズテック・カメラ)らが参加していた。ワタシがそれらの参加者に通じていたのは、実はムーンライダーズを聴いていたおかげであった。コンパクト・オーガニゼーションのヴァーナ・リント『スウェディッシュ・モダーン』は岡田徹氏、新星堂から出てたチェリーレッドのオムニバスは鈴木慶一氏がライナーを書いているように、当時、イギリスのユニークな新人を自分たちに紹介していたのは、常にムーンライダーズのメンバーであった。ワタシのテクノ→ネオアコへの転向も、チェリー・レッド作品に目覚めるきっかけとなったアルバム、『青空百景』の強い影響があった。だから当然のように話の流れとして、その取材でライダーズの影響があったのかという話題を2人に振ってみたところ、彼らは毅然として否定し、一切聴いたことがないと語った。以前、初めてフリッパーズに会ったころの思い出を書いたエントリでも触れているが、ワタシが「“フリッパーズ・ギター”のネーミングって、ロバート・フリップのフリッパートロニクスの影響があるの?」と聞いて全面否定されたように(笑)、彼らはプログレを通っておらず、わずか数年の違いではあったが、そこには歴然とした世代格差があった。そして彼らはなんと、あれほどのイギリス音楽通でありながら、XTCをまったく通っていなかった。後にソロになってから小山田氏に再度尋ねたら、「聴いたことがないし、たぶん嫌い」と言っていた(笑)。「XTC嫌い」はおろか、彼の「ビートルズ嫌い」も有名で、盟友だったマイク・オールウェイ(ビートルズ・コレクターで、エルの主宰者だったイギリス人のサッカー記者)と共同運営していたトラットリア・レーベルの時代にも、マイク入魂のコンピレーション『エキゾティック・ビートルズ』だけはトラットリアから出すのを拒絶し、同メーカーの別レーベル、ウィッツから出したというぐらい、徹底してビートルズを排除していた。
 ともあれ、新人時代のフリッパーズ・ギターが、それまでの音楽の教養基準として一目置かれていたYMOムーンライダーズに噛みつくという構図も、ロックの「親殺しの歴史」に倣って言えば、なんらおかしいことではない。そんな小山田氏が、YMOのバッキングを務め、のみならずプラスティック・オノ・バンド(ご存じ、ジョン・レノン夫人、ヨーコ・オノのグループ)のメンバーになるんだから、時代は変わったと思うわな(笑)。身勝手な一ファンの物言いなので許していただきたいが、サポートでYMOのメンバーとステージで共演している姿を見て、そこに小山田氏の人間的成長を意識して、喜びに近い感情を覚えたりする。「YMOムーンライダーズへの反発」という相克の時代の記憶があったからこそ、ワタシはあの共演を美しく思うのだ。


(追記)


 XTCに関しては、ちょっと別の思い出がある。トラットリアからデビューしたブリッジのメンバーだった、カジヒデキ氏がソロデビューしたばかりのころ、XTCの濃厚な影響を受けたカジ氏のある曲を巡って、『ミュージック・マガジン』に酷評されたことがあった。その記事を読んだすぐあとに、本人と取材で会ったのだが、その話をきっかけに、トラットリアに所属していたフリッパーズの2人以外の多くのミュージシャンが、やはりXTCを精神的支柱にしていたのを彼から聞いて、ちょっと嬉しくなったりもした。XTCファンであることをグループ名に刻んだ、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー(『ビッグ・エキスプレス』の曲名が由来)が同レーベルからデビューするのは、それより後のことだ。
 『ミュージック・マガジン』の記事については、本人も少し気にしていたと思う。ワタシはむしろ、XTCがまったく評価されなくなったあのころに、「渋谷系」という意外な文脈で彼らにスポットを当ててくれる人がいたことに、喜びの感情があったぐらい。同じころ、Mr.Childrenエルヴィス・コステロそっくりの「シーソー・ゲーム」という曲を出して、PVまでコステロの真似をしていたのに、一切メディアから咎められなかったことなどを思いだして、役立たずの慰めコメントを送ったような思い出がある(こういうところ、実は人情派で論理が徹底してなかったりする)。最近作のジャケットで、いまどきオレンジ・ジュースのポストカード時代のパロディをやってるぐらい、カジヒデキ氏の音楽愛は、あいかわらずまっすぐだと思うしね。


(さらに追記)


渋谷系関連のキーワードで検索して、初めてここを読んでいただいた方、有り難うございマス。一応断り書きを。上記の思い出話で、フリッパーズ時代の2人が「ビートルズXTC聴いたことなかった」と書いてるのは、あくまで表面上の公式的な発言でしかなくて、それが真実かどうかの判断は読み手次第。これ書いてるワタシ自身が、そうじゃないだろうなーと思ってたぐらいだから。上記のコンテクストを読み進めていけば、なぜ彼らがそういう発言したかがわかるはず。
 ブログ書き始めて、思ってた以上に自分が80年代的なメンタリティ持ち続けていることに、ハッと気付かされることは多いんだけど。書かれていることがすべての、まっすぐな下の世代から見りゃ、「イヤと言っても反対の意味よ」(松田聖子)なんて、うっとおしいだけだろうな。そういう建前と本音を使い分けるのが知的だと言われた時代なのよ、80年代は、いい意味でも悪い意味でも。


いよいよ明日開催。「ムーンライダーズ渋谷系をつなぐ男」こと、ハンマー・レーベルの森達彦氏が初めて公式にイベント参加する「80年代サウンドを作った男たち。シンセ・プログラマーの逆襲!」。平日でごめんなさいですが、時間が空いたら遊びにきてね! お宝音源初公開&おみやげCDで狂喜乱舞してくだされ。