POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

12月8日、松武秀樹 vs. 森達彦「80年代サウンドを作った男たち。シンセ・プログラマーの逆襲!」(新宿ロフトプラスワン)速報!



YMO vs. ムーンライダーズサウンドを支えた影の立役者、
シンセ・サウンドで時代を彩った2大傑物プログラマーが、
当時の(秘)蔵出し音源をかけながら、ロック〜テクノ歌謡
おニャン子クラブまで、音楽制作舞台裏のエピソードを初公開。


松武秀樹ロジック・システム)×森達彦(ハンマーレーベル)
YMO vs. ムーンライダーズサウンドを支えた影の立役者。ロック、歌謡曲の貴重音源を初公開!
「80年代サウンドを作った男たち。シンセ・プログラマーの逆襲!」


司会:田中雄二電子音楽 in JAPAN、テクノ歌謡監修)
SPECIALライブ:ロジック・システム、BARGAINS+u.l.tスペシャル・ユニット
サンプラーCDを来場者全員にプレゼント》


■開催日:2009年12月8日(火曜日)
■開場:18:30 開演:19:30(〜22:30終了予定)
■会場:新宿ロフトプラスワン 新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2(TEL 03-3205-6864)
■チケット:前売:1500円 当日:1800円(飲食別)
(予約はロフトプラスワンHP=http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/にて受付中)


※当日はブリッジ、ヴィヴィド・サウンドのCD出張販売あり。
※撮影、録音不可につき、ご了承ください。
 11月11日の同所でのイベントの興奮も醒めやらぬ中で、次のイベントの宣伝告知もせねばなるまい。もともと11月11日に開催する予定が事情があって延期になっていた、松武秀樹 vs 森達彦「80年代サウンドを作った男たち。シンセ・プログラマーの逆襲!」が、12月8日(火曜日)に日を改めて遂に開催されることとなった。YMOのコンピュータ・プログラマーとして一時代を築いた松武秀樹氏、シンセ・レンタルの草分け“レオ・ミュージック”からキャリアを開始し、80年代のムーンライダーズサウンドを技術面で支えた一人、森達彦氏が初めて公の場で対談するというこのカード。今夏に夢の島のイベント「World Happiness 2009」で初競演が叶ったYMO vs.ムーンライダーズ対決の構図を、そのままそれを支えたテクニカル・スタッフの2人に置き換え、技術面から検証するというのが狙いである。もともとこの企画、ロジック・システムの復刻CDのライナーノーツや、学研『大人の科学』の編集などで近年、松武氏とお付き合いの深かった小生が、その一方でアートワークを担当させていただいていたハンマー・レーベルの主宰者、森氏と引き合わせて実現にこぎ着けたもの。現在はミキシング・エンジニアとしての仕事がメインの森氏も、もともとはシンセ・プログラマー出身で、松武氏が主宰している「JSPA(日本シンセサイザー・プログラマー協会)」設立時に、ともに尽力されたお2人なのである。拙著『電子音楽 in JAPAN』をすでにお読みの方なら、松武氏の70年代初頭の冨田スタジオ時代からYMOに至るの歩みと、森氏が在籍していた楽器レンタル最大手、レオ・ミュージックがアープ、シーケンシャル・サーキットなど数々の「シンセ輸入第1号」を手掛けてきた実績から、70〜80年代の歌謡界、ロック界におけるシンセサイザー導入史を、この組み合わせがほぼ網羅していることにお気づきになるだろう。ワタシが『電子音楽 in JAPAN』執筆のために、時代の生き証人の方々に生の声を通して聞いた当時の抱腹絶倒のエピソードを、そのままステージに持ち込んで、取材時のコーフンをお客さんにも味わってもらいたいと、以前からその実現を画策していたイベントなのだ。
 86年の雑誌『TECHII』の創刊早々から編集に関わっていた小生は、当時は珍しかった「楽器好きの編集者」ということで、“神聖な場”として音楽ライターなどの出入りがあまり許されてなかった、制作中のレコーディング・スタジオを見学する機会に恵まれた。YMOが確立した打ち込みレコーディングの手法はすでに一般化し、ごく普通のロック・バンドの録音すら、バンド一発録りではなく、MIDIのガイド・クロックから始めるようになっていた時代。ミュージシャン、編曲家(またはプロデューサー)と同等に、シンセサイザープログラマーという肩書きのプロフェッショナルが、スタジオで重要な役割を担っていたことを、レコーディング現場の取材を通して何度も目撃していた。例えばYMOの長時間レコーディングなど、2/3の時間をシンセの音作りに費やしていたといわれるが、音が決まれば演奏は早いもの。なにしろ3人とも譜面は初見で弾け、テイクはほとんど2、3回で終わるというほど達者な演奏者である。60年代末のグループ・サウンズの時代から「誰がいち早く流行の洋楽サウンドを取り入れるか?」が問われ、舶来のファズやジェット・マシーンをミュージシャンが競うように求めていた「日本のロックの歴史」を引き合いに出せば、サウンドの大半がシンセの打ち込みで作られるようになるこの時期のサウンドの「洋楽度」は、プログラマーのセンスに負っていた部分が大きいとワタシは思う。FMラジオから流れる、まるで洋楽のような和製AORサウンドの、例えばスネア・ドラムの音の品質を決めていたのは、作詞家でも作曲家でもプロデューサーでもなく、シンセ・プログラマーやミキシング・エンジニアら、技術者たちの優れた耳だったのだ。
 ここでちょっとお勉強。これはイベント当日、プロジェクターに映し出して説明に使う予定の、当時のシンセサイザープログラマーの人物関連図である(小さくて読みにくくてすいませぬ)。





 画面左上にある松武秀樹氏は、ご存じのように冨田勲の薫陶を受けてキャリアを開始した、日本のシンセ・プログラマーの草分け。ただし、76年に独立して興した会社が「MAC」(Musical Advertising Corporation)という名であることからもわかるように、劇伴の数々を手掛けてきた冨田スタジオ時代同様、レコード業界よりも、映画、テレビのサウンドトラック、コマーシャル音楽などが、その活動の主たるフィールドであった。
 一方、60年代末のGS(グループサウンズ)の時代に、ビートルズが使っていたような舶来の電気楽器、エフェクター、マイクなどを輸入販売するプロ向けの業者が登場。やがて、関税率が高くてミュージシャンには手に入らないほど高価だった高級楽器類を貸し出す「プロ向け楽器レンタル」を開始する。この老舗が、図で言うと右に配置されている、森達彦氏が在籍していたレオ・ミュージックである。元々は戦後からあるモモセ・ピアノ、サンリースなどと並ぶレンタル業者の一つだったが、70年代にアープ、シーケンシャルなどの「シンセ輸入第1号」の数々を手掛けたことから、「シンセ・レンタルといえばレオ」と言われるほどにシェアを確立。安価な国産シンセが手軽に手に入るようになった現在は、すでに舶来楽器レンタルは往時ほど行われていないが、同社は60年代末のニュー・ロック時代に、日比谷野音の「10円コンサート」に日本で初めてPAを貸し出したという、和製ロック史の黎明期から技術面を支えていた存在。宇多田ヒカルからU2、近年盛況のフェスなどの音響面を支える、PAレンタルの最大手として現在はおなじみである。
 冨田勲の功績と同様に、70年代初期にシンセサイザー普及に貢献した人物として、60年代のギタリスト活動から転身し、現在はコンピュータ・プログラマーとしてお仕事されている神谷重徳氏がいる。この神谷氏がギターを辞め、70年代にシンセストに転業するきっかけになった、日本上陸第1号のアープ2600を輸入したのもこのレオ・ミュージック。高かった舶来シンセの購入代金を減価償却せねばらなず、すでにギタリストとしてスタジオに出入りしていた神谷氏が、歌謡曲、ジャズ、ロックのレコーディングにシンセと技術者を貸し出したのが、日本のシンセサイザープログラマーのきっかけと言われている。山口百恵からピンク・レディーまで、いわゆるメインストリームの歌謡曲畑で聴けるシンセ・サウンドの大半が、神谷氏の経営していたプログラマー集団「JAN EMS」のスタッフによるもの。レオ・ミュージックも後に、「シンセをレンタルしたけど操作できない」という声が多かったために技術者を派遣する業態となり、主にヤマハ系のミュージシャンがシンセサイザーを使うレコーディングの戦力となっていく。
 この2社は「楽器レンタル」を名目に事業をスタートさせたこともあり、当時のレコードのクレジットを見ても、技術協力に会社名はあっても人名はない。その一方で、冨田スタジオ時代に南佳孝摩天楼のヒロイン』(73年)で編曲家として知り合った、矢野誠氏の誘いで、矢野顕子喜納昌吉とチャンプルーズ、ムーンライダーズのレコード制作などに、松武氏が参加し始めることとなり、バラバラに誕生したこの2つの流れが70年代中期に交わることになる。トッド・ラングレンのバンド、ユートピアロジャー・パウエルとも親交のあった松武氏。「プログラマーも一演奏者である」という哲学を持ち、矢野顕子ト・キ・メ・キ』で、ミュージシャンと並んでシンセサイザープログラマーの名前が初めてクレジットされた。こうしたその時代の啓蒙活動を経て、日本演奏家協会の下部組織として「JSPA(日本シンセサイザープログラマー協会)」を旗揚げすることになるのだが、松武氏のプログラマーの地位向上の働きかけによって、80年代に“作家性”を開花させたプログラマーも多い。森達彦氏しかり、氏の先輩格にあたるプログラマーの先駆け浦田恵司氏、YMOのプログラミングを松武氏から引き継いだ藤井丈司氏らが、その後プログラマーからプロデューサーに転身していったのも、彼らプログラマーの音を捉えるプロフェッショナルな耳が、一技術者のものではなく、プロデューサーのそれであったことの証左となるだろう。
 わかりにくい松武秀樹 vs.森達彦というお2人の位置関係を、ざっと説明してみたわけだが、堅苦しい説明が続いてしまったものの、恐るることなかれ。そういったプログラマーの歴史を音と映像と本人解説で、立体的に楽し〜くお届けできればというのが、今回のイベントの狙いなのである。作曲家・編曲家研究などをテーマにしたイベントはすでにあると思うが、プログラマーを軸にして音を歴史で辿っていく試みは、おそらく前代未聞。「あれ? 編曲家名は違うのに、音の傾向がちょっと似てない?」というような、日頃CDを聞いていて気付くことが多い「耳のよいリスナー」なら、あっと驚く真実をそこで発見することとなるだろう。これまでジョージ・マーティンの影武者的な位置づけだった、ビートルズのエンジニアとして有名なジェフ・エメリックの伝記『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』が、ジョージ・マーティンの著作以上にレコーディング現場の実情を克明に語っていたように(中にはマーティンの証言と正反対の事実もあったりして)、技術者の視点からではないと語れない「真実」があったりするのだ。
 最後に、当日の大まかなテーマ立てを紹介しておこう。


■第1部「シンセサイザープログラマーの誕生」
……上記のような図と音で解説する、70年代のシンセ・プログラマー誕生の歴史。「冨田勲からYMO始動まで」の10年がどんな時代だったのかを、当時を知る2人の証言で紐解いていく。ロジック・システムとしてリーダー・アルバムを作る以前にも、映画音楽、歌謡曲などをカヴァーした数多くのノベルティ・アルバムを手掛けている松武氏だが、こうしたロジック前史のサウンドをまとめて聴けるのは貴重な体験になるはず。


■第2部「YMO vs.ムーンライダーズの時代」
……レオ・ミュージック時代に『青空百景』のレコーディングに機材レンタルで呼ばれ、そのままムーンライダーズのレコーディング・スタッフに欠かせない存在となった森達彦氏。同バンドのローディーからプログラマーになった土岐幸男氏とともに、80年代のライダーズ・サウンドを技術面で支えていく。当時のムーンライダーズのアルバムにクレジットがないのは、土岐氏がライダーズ・オフィスの社員で、森氏がレオ・ミュージックからの派遣だったため(会社名のみクレジット)。後に、ムーンライダーズ・オフィスの資金援助を得て、86年に誕生するのが森氏が立ち上げたプログラマー集団「ハンマー」なのだ。『Don't Trust Over Thirty』で導入されるPPGウェーヴタームなどは、実はハンマーの持ち物で、そうした最新機材の導入の決定権を持っていたのが森氏。ちょうどムーンライダーズが活動停滞期に入るこの時期、稼がないライダーズに代わって(これはギャグです!)、メンバーが参加する歌謡曲のレコーディングの現場のほうで、森氏はプログラマーとして大活躍していたのである。
 一方の松武氏も、実はYMOだけでなく、ライダーズの初期レコーディング『イスタンブール・マンボ』、『NOUVELLES VAGUES』などに参加している立場。形としては「YMO vs.ムーンライダーズ」となっているが、松武氏にもせっかくなので、ライダーズ時代について語ってもらえればと画策中。また、このパートのハイライトとして、せっかくゲリラな会場でやれるので、なんとか探してもってゆきます、各々のバンドの未発表音源の数々を(!)。その内容は、来たお客さんだけのお楽しみってことで。


■第3部「テクノ歌謡の時代」
……ライダーズのメンバーが参加する歌謡曲のレコーディングなどで、采配を振るっていた森氏。アイドル歌謡曲など、作家によっては手抜き仕事も多かったりするような現場でも、まるでビートルズトッド・ラングレンのようなサウンドを好奇心旺盛に持ち込んで、80年代のアイドル歌謡を面白くしてきた存在なのだ。特におニャン子クラブに始まる、編曲家の山川恵津子氏とのタッグでは、トニー・マンスフィールドやスチュワート&ガスキンなどのサウンド・スタイルを導入して、モータウンを規範とする彼女らのサウンドに、コンパクト・オーガニゼーション作品のような洋楽フレーヴァーを盛り込んでいた。一方の松武氏のキャリアも、YMO周辺だけでは終わらない。彼らとの共同作業で確立したレコーディングの方法論を、歌謡曲に於いて普及させた立役者でもある。スターボーイモ欽トリオなど、ノベルティとして語られて終わることの多い「テクノ歌謡」だけれど、サウンド面を凝視していくと、そのこだわりはあきらかに、メンバーの散会後のソロ以上に“YMOの遺伝子”を受け継いでいることがわかる。
 このパートでは、ほとんどメディアに取り上げられることのない、名タッグで知られる編曲家との歌謡曲時代の仕事にクローズアップ。クレジット未載のものも多いため、一プログラマーをフォーカスして時系列に曲を紹介していくのは、初めての試みになるだろう。加えて、今回は特別な計らいとして、おなじみのアイドルの制作の過程を克明に記録した、当時のデモテープ、仮唄ヴァージョン、ラフ・ミックスなどをプレイ。本人の解説とともにお送りする。


■第4部「未来予測!音楽業界のこれから」
……YMOからの卒業後、大沢誉志幸のツアーなどに同行し、一ミュージシャンとして活動していた松武氏は、80年代後期に「JSPA(日本シンセサイザープログラマー協会)」を設立。ロジック・システムとしてのソロ活動を続ける傍らで、シンセサイザーという楽器の普及に尽力するなど、プロデュース方面に活動域を広げていく。森氏もまた、「日本一舶来楽器の多く所有するプログラマー集団」となっていたハンマー(後期はハム)を90年代に解散。エンジニア、プロデューサーとしての活動にシフトしていく。各々がプログラマー仕事に矜持を持ちながら、その舞台をスタジオから、ビジネス、業界政治の世界に移していった理由とは? 60年代末のビートルズのスタジオ・ワークが、70〜80年代の音楽の在り方を預言していた……という有名なたとえ話があるが、「神は細部に宿る」ではないけれど、おそらくバブル時代のピークに、スタジオ・ワークの最前線にいた彼らには、日常の作業を通して“未来の音楽業界”の姿が見えていたに違いない。このパートは現在の立場から、70年代のシンセサイザープログラマー史を振り返り、当時の彼らの美意識が、今世紀にどのように継承されていくのかについて聞いていく。


スペシャル・ライヴ「ロジック・システム」「BARGAINS+u.l.tスペシャルバンド」
……前回、11月11日のイベントで好評をいただいた辻陸詞率いるハンマー・スペシャル・ユニットに引き続き、今回もこの日だけの特別編成でミニ・ライブを挙行。松武氏は自らのユニット、ロジック・システムのミニマム・サイズで出演(内容はこれから詰めまする)。森氏もまた自らのプロデュース・ユニット、u.l.tと、ハンマーレーベル復活第1弾VA『Ordinary Music』にも参加しているBARGAINSが合体した、特別編成によるライヴを予定している。今回もハンマーレーベルからは、非売品のスペシャルCDを来場者全員分をご提供いただいており、この値段でこの内容はお得すぎる!


 とまれ、堅苦しい話が続いてしまったものの、こうしたテーマを前回のようなファンキーなノリでやってみたいというのが主宰者の思惑でして、前回参加して味をしめた人なら、今回もバッチリ楽しめるはず。しばらく同所でのイベントはないと思うので、2009年の音楽関係の思い出を締めくくる一夜として、ぜひ足を運んでいただければ幸いである。