POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

社会学者・鈴木謙介についてつぶやいてみる。

 当初は別に非難するつもりもなく、ただのウォッチの対象に過ぎなかったTwitter。しかし交わされる内容の中身の空虚ぶりには、目を覆いたくなるものが多い。というか、このネタの宝庫を誰もつっこまないのが不思議なほど。


ソフマップの店頭デモを見ながら、
二人のオタが言い争っていた
初音ミクが唄っているのだ」
「いや、ただパソコンが鳴っているのだ」
そこへ通りがかったオタが言った
初音ミクが唄っているのでもない、
 パソコンが鳴っているのでもない
 おまえらの心が鳴っているのだ」
二人のオタは鳥肌をたてた。
(非風非幡)
 手近なものをひとつ紹介したが、「どう?」「すごいでしょ?」って書き上げた本人のご満悦ぶりは伝わってくるけど、内容はちんぷんかんぷん。「わからないので文意を説明してよ」と言っても、聞いたところで発言者自身しどろもどろになるだけだろう。これはヒッチコック映画でいう「マクガフィン」で、思わせぶりな謎の包みも空けてみれば中身は空っぽ。「怪獣をやっつける方法はたったひとつある。薬品タイタンXじゃ」「まさか、タイタンX!」とか(笑)。例えば、宿敵の存在を北朝鮮や旧ロシアになぞらえて「悪の枢軸」として描く、70年代のスパイ映画によく見られた定石パターンがあるが、こういうマンガチックな設定、マンガチックなセリフというのは、やはりTwitterユーザーに、空想好きのアニメファンが多いことに起因していると思う。Twitterで語られる政治話も、現実の矛盾などおかまいなしの概念論ばかり。きっと彼らは、キムタクが首相やってるような月9ドラマかアニメの国の住人なのかもしれない。
 各々が近況をつぶやくという行為が、まるで「メガ日記」の進化型のように複雑に交差しあう、Twitterそのもののエンジンのダイナミズムは確かに面白いと思った。字数制限というのも、複数の小エントリの連結を一つのクラスタ=ワンエピソードとして、興味のあるところから読めるように、あえて設けたものと思えば道理にかなってる。しかし、長い論理的な文章が書けない人が、「短いならボクにもできる」と飛びついた途端、勢い余って他者の批判やら政治評論を始めたりするこの飛躍っていったいなんだろ? 「ショート文なんだから、言葉の責任はロング文よりも軽い」とか、本気で思ってるんだろうか。文章のプロに聞けばわかるけど、短文ほど書くのにはテクニックが必要。ワタシが本業で字数制限を守りながら、ここでお気楽な長文を書いているのは、長文はお遊び感覚で書けてしまうものだからだ。「長文がエライのか」なんてハテブコメントがつくこともあるけど、まるでお門違いな批判だよ。
 そんなTwitterの「三流コピー」を見ていて連想したのは、おそらくTwitterユーザーにも支持者が多いだろう、今のサブカル世代に人気が高いらしい社会学者、鈴木謙介のことである。“チャーリー”という徒名を自称し、「社会学はクリエイティブ」という、名三流コピーを残してギャラリーを興ざめさせたヒト。小生の知人にも彼がTBSでやっているラジオ番組の出演者がいるし、ここの読者にもきっとファンは多いと思う。ワタシらの世代には、ある種の共通感覚として「社会学者の言うことを真に受けない」というのがある。学者として一段低く見てしまうのは、やはり政治学者や経済学者などに比べ、言い得て妙な、ニッチな部分を受け持つ宿命にあるから。猟奇事件が起こったときなどに、神経学者(理系)より心理学者(文系)のほうがマスコミ受けする発言がしやすいように、社会学者はマスコミにとって便利な道具として、「学会のコピーライター」のように重用されてきた歴史がある。だからこそ、シビアに統計学を極めて、社会学を越境しようとした宮台真司氏の仕事は評価できるものだった(その後の“転向”も含めて、ワタシは信頼を置いている)。鈴木謙介の存在は最初、彼の師匠である宮台真司氏を批判する弟子筋の新進の社会学者として名前を聞いていた。事実、彼はいいあんばいの距離を取りながら、ラジオでたびたび宮台批判を繰り返している。しかしそれは、まるでTwitter発言のように「弟子だから」という安全圏で発せられた、発言の重みを感じさせないもの。そして鈴木は、宮台氏が越境しようとした社会学の世界に、むしろしがみつく存在である。マスコミに登場することで、他の社会学者に対する優位性を確保し、むしろ社会学会の中心に居座ろう賢明になっているように見える。
 出演者の一人でもあるワタシの知人から「いまいちばんナウなラジオ番組」として、TBSの月一番組『文化系トークラジオLife』のことを聞いたのは1年半ぐらい前だったか。日頃から編集者として新しい発言者、書き手を探していたし、元々根っからのラジオ好き。普段iPodで通勤するときも、音楽よりもPodcastを聞くほうが多いというほど、いまだに「声の訴求力」を確信している立場である。そんなワタシが最初にこの番組をPodcastで聞いた印象は、「なんだこの各ゲストの自慢話ばかりの井戸端会議は?」というものだった。20年以上も前にやっていた、NHK『YOU』のフォーマットの焼き直しもいいところ。口角飛ばしての敵対するバトルもないのは、出演者がお互いが認め合った仲良し同士だかららしい。それはまるで、Twitterユーザー同士が乳繰り合う対話の内容にそっくり(いや、マジメにバトルするだけ、Twitterユーザーのほうが遥かにマトモか……笑)。たまに「社会はそんな甘くない」と叱咤する役回りのご隠居役がいるが、彼はこのモラトリアム集団の中で「朝ナマの大島渚」みたいな役を引き受けているつもりなんだろう。日経BP社の人らしいけど、日経新聞グループの中でもここは、ちょっと出す出版物に一定の傾向がある、問題編集者が多いと言われるいわくつきの会社である。この人の発言内容というのも、実はよくよく聞いてみると「普通の会社勤め」という立場以上のことは、何も言ってないのがよくわかる。
 ワタシが最初にこの番組を聞いてイラっときたのは、発言内容ではなく、鈴木謙介の声のトーンであった。電子音楽本うんぬんに関わっている立場でもあるから、音楽と同時に音響的なことにも常にセンシティブなつもりでいるが、この人の甲高い甘えたトーンの声は、およそ学者のものではない。この人、自ら調査した手持ちの統計を元に語る宮台氏と違って、やたら欧州やアメリカの学者の分析の引用が多いのが特徴なのだが、アメリカの〜と言っているわりには、そのプレゼンスは国際水準的にかなり低い。声を低く抑えるとか、論文発表などに於けるお作法というか、トレーニングを一切受けてないんだろう。あるいは、「声が高いほうがカワイく聞こえる」とかそういう邪念があるようにも、この人の行動を見ていると思ってしまう。少なくとも「ちょ、おま」(「ちょっとお前」のアニメ風短縮語)というような、砕けた言葉を使ういい大人のマスコミ人は、この人か「オモツライ」の糸井重里氏ぐらいしかしらない。
 普通のラジオ番組なら、ディレクターやプロデューサーが分相応に釘を刺す立場であるが、この番組は鈴木本人がディレクターらしく、わざとらしく自分で指を鳴らしてキューを出す(指を鳴らすようなノイズ行為は、ラジオ界ではタブー)。プロデューサーは黒幕というTBS社員。「黒幕」とか「悪徳プロデューサー」と自ら名乗る人は、まず間違いなく正体は「黒幕」や「悪徳」だったりするのが世の常なので、逆説的に解釈する必要はない。番組は鈴木謙介が作曲したテーマ曲で始まる。「社会学者であるパーソナリティ自身がテーマ曲を作曲するというのは前代未聞」だとか。影響を受けたミュージシャンは尾崎豊。ワタシと同じく『ロッキング・オン』が嫌いらしい(笑)。
 鈴木謙介への不信感が確信に変わったのは、ちょうど1年前の「秋葉原連続殺傷事件」の特番を『Life』で取り上げたときである。この事件を昼のニュースで聞いて、彼は何を思ったのか、犠牲者と救助車、人混みで混雑する秋葉原駅に友人らと待ち合わせて、「物見遊山」に出かけている。まるで事件の心配もせずニコニコ動画で現場中継レポートごっこする、メイド喫茶のウエイトレスみたいに。彼はその後、普段平和慣れして処置に慣れていない万世橋警察がマスコミ対応に苦慮しているのをみて、あろうことか自分もそこに乗り込み、まるで当事者気取りで自分の友人のこと(だけ)を心配し、万世橋警察のおぼつかない応対ぶりをわざとらしく叱り、そこにいたマスコミに「距離を感じた」と番組で断罪している。そりゃそうだろ、休日返上して仕事のために秋葉原を訪れた新聞記者と、遊び半分のお前とじゃ立場が違う。そして鈴木は、「被害者の中に友人の友人がいた」という話を番組中に繰り返し、「この事件は自分自身の問題」と語る。いつもはおしゃべりな鈴木が、この回だけは振るわなかったのは、本人によれば「自分自身の問題だから」らしい。番組を持つプロのくせに、何を甘えたことを。予定されていたマンスリーテーマを、わざわざ1週間前に変更したのは、自分自身だろうに。この番組は毎回、ネットでもリアルタイム放送されており、CMが流せないためその時間だけスタジオの場外トークをネットで中継しているのだが、鈴木は聞こえよがしに、CM中、このテーマを取り上げたことを懺悔したり「俺ってガンバ」などと自分を激励していた。おそらく、そのつぶやきがネット放送で流れていることなど、本人も百も承知なのだろう。
 これが一タレントであるならまだ救われる。だが、日頃から師匠批判や、他のライバル的社会学者を非難する発言も多い社会学者の行動なんだから始末に負えない。本来、社会学者というのはデータや統計を重んじて、スクエアに社会動向を分析するのが仕事。「被害者が友人の友人」「ボクは当日、そこにいた」「殺されていたのはボクかもしれない」という、対象との関係性を担保にして優位性を主張する、この男の語り口や態度というのは、社会学を越境するどころか、社会学それ以前だよ。マスコミから「秋葉原連続殺傷事件」を語れる論客と見なされたのは、これだけパフォーマンスしてりゃそりゃそうだろうと思うが、「自分の問題だから」と取材受けないと宣言していたくせに、舌の根も乾かぬうちに、テレビのTBS『ニュース23』だけ出演していたのは何だったんだろうね。
 1年前の「秋葉原連続殺傷事件」がテーマの放送以降も、ほかの番組を聞くのと同じように、半分は仕事のつもりでPodcastをチェックしていた。しかし、自分にも関わりの深い「出版不況」の回のあまりのお粗末な内容を聞いて呆れ、それを最後に耳にしていない。先の描写も、記憶だけで書いてるところがあるから、間違ってたらお許しを。この番組のイメージキャラクターを描いている、浅野いにおという『QJ』を連想させるマンガ家の“絵”も、ワタシはモラトリアムを連想させてまるでダメ。『Life』が昨年ギャラクシー賞を受賞したというニュースでは、鈴木謙介が会場で大人げなく、大粒の涙を流していたことにも興ざめした(といってもギャラクシー賞は自薦方式で、大半の番組は応募しない)。お前は遅れてきた松田聖子かよ(笑)。サブカルチャーとは本来「反権威」であるべきなんだけど、この人は学者の肩書きとかギャラクシー賞とか、本当に根っから権威が好きなんだよな。
 そういえば今年のギャラクシー賞は、同TBSで自分の冠番組を持ち『Life』にも縁の深い、ラッパーの宇多丸氏が受賞していた。近田春夫氏、リリー・フランキー氏、掟ポルシェ。氏など、サブカル界の発言者の歌謡曲批評は、いつも弁舌が見事で、ずっと応援してきた小生。面識はないが、そのラインから登場した彼の歌謡曲評というのも、けっこう注目して読んでいたことがある。いい歳して、モーニング娘。Perfumeも本気で聴いてたクチだから、氏の初の著書もかなり期待して買って読んだほう。しかしワタシには、いつも宇多丸氏の書く歌謡曲評ってどこか、ピントがずれていると思うところがある。ラッパーの余暇活動ならかまわないが、「アイドル歌謡文壇を背負う」と自任するには、どこかアイドル歌謡曲評を軽くみているというか、先達の仕事ぶりにくらべるとかなり緩い。せっかくミュージシャンが本業なのに「音楽的」な踏み込みが弱く、対象への愛が先に立つゆえか、分析が常に甘いのである。人気パーソナリティ、コラムニストの批判なんて、お門違いも甚だしくて恐縮だが、そういう声をほとんど聞いたことがなかったので、初めてここで告白してみた。
 「政治家がTwitterをやる。だからTwitterは凄い」「社会学者がラジオをやる。だから鈴木謙介は凄い」。行為のみを評価して質を問わない、こういう単略化が、ブログ→短文ブログの時代になっていっそう極まってしまった印象がある。Twitterや『文化系トークラジオLife』やギャラクシー賞のありがたみも、鈴木謙介の素晴らしさがわからないワタシだから、宇多丸氏の語るアイドル歌謡分析が、若い世代の支持者のように心に届かないってことなのかなあ?


(執筆後記)


ブクマコメより。


>youtone

秋葉の件とか印象論が過ぎるぞ。これならどっちが無責任かわからん。どうせなら出してる本を批判しろよ。こんな社会学者としての副業で上げ足とっても生産性ゼロだな。チラシの裏にでも書いとけ
鈴木謙介の仕事を批判しているのではなく、印象論からブキミだとつぶやいているエントリに噛みつかれても。仕事の批判ならウォッチャーがやるだろ。オレはウォッチャーじゃない立場から書いている(文責は無論、自分にある)。「無責任」「生産性ゼロ」「チラシの裏」って……ブログって本来、メディアに出てこないような取るに足らない個人的の思いを発信するもんじゃないの。「鈴木の副業で上げ足とっても」っていうんなら、こっちも「本業じゃない個人の余暇でやってるブログの上げ足とっても」と言い返すしかない。


>yamuyam

そういえばブログが登場した頃にも、「ホームページ」からブログを批判する人がいた。あんなに手軽に更新できるのはけしからん、みたいな。
この内容から、その指摘はお門違いだよ。Twitterの機能については誉めている。「手軽に更新できる」のにも関わらず、書かれている内容はいかがなものか、と問うているだけ。どうせ書くなら、以前のエントリで書いている「じっくり立ち止まって考えて発言するべき」「素人でも、時間をかけて考えればプロにも勝る」というワタシの旧世代的な主張に対し、Twitterのようなアクティヴなメディアの時代のお作法を説くべき。


>keano

声ぐらい許してあげてよ
声って重要なんだよ。声に対するコンプレックスにどう対処するかが、自我の形成と関わる部分は大きい。これはトレーニングの有無の問題。ああいう甘えた声にコンプレックスを感じない様についての「鈴木観」について書いている。


>yukky2001

文脈に関係なく宇多丸を混ぜてみるところに釣りくさいものを感じた。
この文脈で宇多丸氏のことを書くのはフェアじゃないのは自覚してる。ことさら『Life』スタッフが「ギャラクシー賞受賞」と謳っていたので、その権威とやらに別の角度から照射しただけ。立ち位置は面白いんだから、もっと面白い文章を書いてほしいと思ってるけど、「貶さない」ことでそう導けるのかな?


>sync_sync

"この番組は鈴木本人がディレクターらしく"これは違う。ディレクターはTBS社員がやっています。
指摘ありがと。じゃあなぜ、出演者がキューを出すの? そういう「茶番」をやってるから、通りすがりにさまざまな誤解の種を植え付けてるんじゃないの。


>bunoum bunoum

「ブログって本来、メディアに出てこないような取るに足らない個人的の思いを発信するもんじゃないの」Twitterの即時性が面白い、と気付いていながら、内容の空虚さ(?)を批判し、旧世代的なべき論をぶつけるのは不思議
これ、相当な取り違がえがある。このエントリで筆者が「取るに足らない」と言ってることと、Twitterで交わされている典型的な「空虚」な内容を同じと結ぶのは飛躍が酷すぎる。「行為のみを評価して質を問わない」と指摘したばかりだが、この手のギャラリーの、物事や行為を表と裏の二種類しかないと捉える思考回路はあまりに単純すぎる。「べき論」なんてどこにある? そうならないために、こんなに長い文量を費やして書いて説明してるのに。読み手であるアナタの読解力の問題。


>amimotosan

声で職業を論じるのは差別だろ
フントニモー、読解力ないんか。「声」じゃなくて「トレーニングの有無の問題」と書いてるだろう。昔ロック歌手が、煙草やウィスキーでノドを焼いて声を潰したとか、コンプレックスをバネに成長した神話があるだろ。地方出身者が訛りを克服するとか。そういうことに対してのデリカシーの所在を問うてるんだよ。


>zyugem

鈴木謙介の問題の火種はどうみても本人の日頃の行動にあるのは明白じゃないの。」いや,その行動を受け取る側の解釈に問題があるのでは。特に学者の声質を問題にした感想は初めて見た。
「受け取る側の解釈の問題」とあるが、なんらそれが明示されぬ「不可解」なブクマコメ。こちらは、秋葉原無差別連続殺傷事件当日の本人の奇矯な行動、ギャラクシー賞受賞を受けて「日本一のラジオ番組」と自称するなどの行為を具体的に挙げて、眉をしかめているのだが。学者の声質の問題についても、メディアに登場した学者の外観や声のトーンの異色さを捕まえて、例えばナンシー関などが過去に何度もコラムのネタとして取り上げてきている。「初めて」とは、ウブなのか?


>wassy_5

社会学者がラジオをやる。だから鈴木謙介は凄い」そんな話初めて聞いた。皆そう思ってたの?
>lakehell

チャーリー鈴木を社会学者として評価しているリスナーはあんまりいないような。実質はネットコミュニティー出身のタレントだろう。
あの番組において、彼はホスト役なのかなんなのかよくわからんが、副業として放送メディアにでる学者はたくさんいるけど、むしろ本業については一切ふれず、みな与えられた仕事をするのが普通。自分の能力のうち、メディア向きの部分を抜き出して関わってる人のほうが多いだろう。糸井重里が司会の番組で、長々と自分の広告の話はしないし(例えが古っ!)、むしろ「本業に関わる話はしない」を引き受ける条件に、タレント活動をしている学者もいる。あれぐらい社会学者という自分の立場を宣伝している番組は珍しい。つか、それを容認している番組側の姿勢について、誰も声を上げないのが不思議でしょうがない。「鈴木謙介ファンクラブ」って番組なら文句は書かないよ。


 一応書いておくけど、ここでネタにしてるのは、基本は大方が「批判する者に対する批評」のつもり。鈴木謙介がしばしばメディア批判、学会批判をやることに対して、鏡に相手を映してあげるように、彼の作法について批評している。いちいち相手の土俵に行って、仕事ぶりをつぶさに見て批判するつもりはないし、それはワタシの任ではない。
 鈴木謙介の「かわいい小動物」的な振る舞いに隠れた、けっこう「野心家」な本音は、番組の内容や姿勢に散見する部分が多く、警戒するには十分だと思う。
 ブクマコメ読んで思ったけど、通りすがりから見た鈴木の目に余る行動から評価するこちらと、秋葉原事件の前後のような振る舞いを「すべて許す」支持者との間の溝なんか埋まりゃしないよ。ワタシはあの回を最後に、まともに聞いてないけど、あれを許すっていうんなら、世の中なんでもありじゃん。「長い」「見てらんない」という指摘は、そのまま『Life』の番組の感想としてお返しするよ。


(追記)


 せっかくだから、関連する私感をもうひとつ書いておく。若い世代のリスナーと違って、思春期にいちばん身近なメディアとして深夜ラジオを聞いて育った世代として、あの番組を聞いたときに感じるのは「ラジオを舐めてるんじゃないか?」「ただの自著の宣伝に利用している」という思いである。メディアに出る者としてトレーニングされてないとか、公私混同を許しているのは、そういう気持ちのほころびがあるからでしょ。
 以前、ライブドアニッポン放送を買収したとき、「ホリエモンオールナイトニッポンとか始まるかも知れない」という笑い話があった。ホリエモンに対する当時の印象はけしてよくなかったが、ワタシはこれを面白いと思ったクチ。我々は、最初に買ってもらったテープレコーダーで、「オールナイトニッポンごっこ」(スネークマンショーごっこなんかもあったな)なんてのを必ずやってた世代。放送局を買収して自分の番組を持つなんて、自分らの世代の鑑じゃんとも思った。ところがホリエモンは買収以降、産経新聞やフジテレビのことにご執心。ニッポン放送や「オールナイトニッポン」のことなどまるで気にも留めなかったのに、密かにガッカリしたものだ。おそらくホリエモンは、受験勉強中に深夜ラジオを聞くような体験がなくなった世代の代表なんだろう。
 そういう「ラジオに思い入れのない世代」が、ラジオの送り手側に回っていることへのとまどいというか。それがギャラクシー賞を取って、「日本一のラジオ番組」(これは番組中に鈴木や黒幕が言ってた)とのたまってしまうというのは、あまりにラジオに対する歴史軽視がヒドすぎるという思いがある。鈴木謙介という人間は、そういうデリカシーに著しく欠けているという印象があるのだよ。


>>sonickhedge

俺が理解できないものには価値がない!ムキー!!!のパターン。無門関あたりだろ?ミクの歌に魂を感じ感動するけど、それは受け手の側にある、って話。自分の無教養に気がつかずに狭い世界で語る馬鹿大杉
サンキュー。知らなかった。無教養は認めるよ。Twitterの話で取り上げるサンプルには相応しくないね。つか、そういう主張も踏まえると、なんのためのTwitterなんだろ。そういうマクロ視点で語ってくれよ。揚げ足取りしてないでさ。誰でも知ってて当然というのもえらく横暴だし、「理解できないものには価値がない!」ってのも、ずいぶん感情的な誤読だし。


 自分はTwitterのようなアクティヴなメディアには参加してないけど、やっぱり即時性って面白いね。内容は自分の脳内だけで培養した妄想だと十分自覚していながら、それなりにスマートに書いたつもりではあるんだけど、バッサバッサと問題点や無教養を指摘してもらえるのは清々しい。横着な自分には勉強になる。普段は「言語活動」に虚しさを感じることのほうが多いんだけど、得るものは多いから続けるべきだな。マンガに逃げてずにさ。


(最後に)


社会学プロパーの方々のブクマコメの指摘ありがとう。先入観だの、無理矢理練り上げたロジックなどという、お門違いの批判にはまったく耳を貸す気はないけど。お前の私怨だ捏造だ、批判はけしからんっていうけどさ、鈴木謙介の問題の火種はどうみても本人の日頃の行動にあるのは明白じゃないの。何度も言うけど、そういうものを「すべて許す」って言う人との対話なんて無理だよ。