POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

「アニメ萌え絵はいつ、どこで始まったのか?」についての個人的考察




 昨日「Pi●iv」にまつわるエントリで、さまざまな投稿サイトに“アニメ萌え絵”が溢れている状況を、小生から見た視点でちょっと批評的に取り上げてみた。《複数の作画家が参加する商業アニメーションの現場では、キャラクターというのはアニメーターの画力の上手い下手に関わらず、誰もが真似られるようなシンプルな造型が求められる中から生まれてくるもの。のっぺりしたセル画塗りというカラーリングも、大量生産のために編み出された簡略的な表現である。こうしたアニメ絵というものは、それを動かしたり、ストーリーを背負わせたりすることを大前提とした「記号」に過ぎず、その一場面を切り出してきて額縁に入れたものを「イラストレーション」と呼んでありがたがる風潮はいかがなものか》ーーと。しかしこれは、一般人に状況をわかりやすく理解してもらうための仮説というか方便にすぎないもので、本当はもう少し複雑な背景があることは小生も知っている。諸悪の根源は、アマチュア投稿者側にあるのではなく、実はアニメーション産業の構造のほうにある。というのも、「キャラや背景は、総合芸術としてのアニメーションを成り立たるための一材料に過ぎず、そのひとつを抜き出してありがたがるのはお門違い」と真っ先に批判しそうな、宮崎駿監督のジブリなどが、率先して背景画集などをアートの名の下に出している現状があったりするから。放映権料など大した額ではなく、アニメビジネスそのものは売り上げの7割近くを、文房具や玩具にキャラクターを貸し出すマーチャンダイズ収入で支えられているのはご存じだろう。先の画集なども一種の副次的なキャラクター商品として、赤字補填という別の目的のために出されているんだと思うし、あるいは背景マンや作画監督の地位向上のために、アートの名目でそこを抜き出して個人の偉業をフォーカスしてもらうという、別の建設的考えがあるのかもしれない。そういう状況を認めながら、「Pi●iv」などに溢れているアニメ絵の投稿者を一方的に断罪するのは、もちろんフェアじゃないだろう。そこで今回はもう少し同テーマを掘り下げて、取材や過去の読書歴などから得た情報を元に、「そもそもアニメ萌え絵はどこからきたのか?」について、小生なりの見解を書いておくことにした。
 1963年に、国産アニメ第一号として『鉄腕アトム』がスタート。原作者の手塚治虫自身が創立した虫プロダクションが制作し、約4年も続くロングランヒットを記録した。と言っても「連続テレビアニメは不可能」と言われた時代にあえて実現させた企画ではあるから、搬入スケジュール厳守やコストカットのために、セル画の枚数を極端に抑えるなどして、ほとんど紙芝居のように絵が動かないアニメーションと呼ばれるものになった。小生がずっとお手伝いをしている音響デザイナーの大野松雄氏が、『鉄腕アトム』に過激な電子サウンドを導入しているのは有名な話だが、「ぴゅーん!」「ずごーん!」というあのファニーで変幻自在な音は、動かないアニメをあたかも動いているように錯覚させる重要な要素を担っている。実際に音だけ消して『鉄腕アトム』を見てみると実に味気ない。大島渚白土三平のマンガをカメラ割りして撮って、台詞と音楽を付けただけの『忍者武芸帳』というATG映画があるが、それを引き合いに出して語ってしまいたいほどの、この「動かないアニメ」の誕生。最近出された『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』(津堅信之)という研究書があるんだが、そこには放映前から手塚が準備中だったテレビアニメ第1作は「動かないアニメになる」ということを十分予測しており、そのための最適な原作として数多くの手塚作品の中から『鉄腕アトム』が選ばれたという、興味深い顛末が書かれている。
 日本のアニメ史の傍流から登場した虫プロという制作プロダクションは、核になるスタッフこそ東映動画やおとぎプロから引き抜いてきたプロパーだが、ほとんどが素人集団(設立時の状況は、 山本暎一の書いた『虫プロ興亡記―安仁明太の青春』というセミノンフィクションにくわしい)。海外の文芸作品などに触れ、最初からアニメーション作家を目指して業界入りするエリート志向の東映動画などと違い、真崎守、杉野昭夫北野英明、荒木伸吾、安彦良和など、元々はマンガや劇画を描いていた新人を、即席アニメーターとして大挙起用していた歴史がある。その影響で2つ、虫プロ作品らしい特徴が生まれている。ひとつは、作家によって絵にばらつきが生まれてしまうものを、とりあえずOKとしてオンエアしたこと。『鉄腕アトム』など、ちょっと酷いぐらいに回によってアトムの顔が違う(笑)。これは前回触れたみたいに、全員が同じ絵が描けることをウリにプロ集団を名乗っている、東映動画などの美学からはあきらかに外れるはず。そしてもうひとつは、マンガ畑出身者が多かったため、非常にスマートな「止め絵」を得意とする作家に恵まれたこと。虫プロの草創期に作られた石森章太郎原作の『佐武と市捕物控』などは、「電気紙芝居」と批判された「動かないアニメ」という条件を逆手に取り、印象的な止め絵をアクセントにおいて、シャープな切れ味の殺陣を演出している(ここでも大野氏が手掛けた『鉄腕アトム』同様、音響の補足によってアニメーション表現が成り立っていることが重要)。こっから先、73年に虫プロが倒産するまでの話がすこぶる面白いのだが(反手塚派の急先鋒だった杉井ギサブローが、手塚原作を書き換えて『悟空の大冒険』にしちゃうとか)、ここでは蛇足だから触れない。ともあれ、さまざまな偉業を果たしながらわずか10年でその使命を終えたのは、虫プロの美点として語られる「素人集団」であったことが、なにより放漫経営に結びついて倒産に至る、最大の要因になったということだろう。
 一方、虫プロに刺激されてすでにテレビアニメ界に進出していた老舗・東映動画のほうは、『魔法使いサリー』などのテレビ作品も堅実に手掛けながら、創業以来の事業である夏休み、春休み公開の劇場作品にも注力していた。しかし、当初軽視していた虫プロのテレビアニメなどが人気を集めて力を持ち始めると、創業時の美学から外れて、劇場作品にもテレビアニメ並みのコストパフォーマンスが求められるようになる。ときあたかも、学生運動に揺れる70年安保の時代。当然、ビジネスを最優先する経営陣に対し、若いアニメーターたちの多くが、芸術の末席にいるものとして反旗を翻す行動に出る。このへんの時代状況を知るには、高畑勲宮崎駿や、精神的シンパだった大塚康生の自伝など、当時の「東映動画労組」の組合員の視点から書かれたたくさんの読み物がある。しかし、主要アニメーターたちがストを決行している間も、コンスタントに東映動画作品は作られていたわけで、給料をもらいながら仕事をせず、早退したり活動と称してキャッチボールをやっている組合員を横目で見ながら、組合に参加しなかったアニメーターらは彼らのノルマ分も引き受けて、毎週のオンエアを楽しみにしている子供たちのために作品作りを続けていた。当時の「反組合員」の立場から、いかに宮崎らが遊んでばかりの“給料泥棒”状態だったかを語る、『タイガーマスク』の作画監督だった木村圭市郎のインタビューがあって、これはとても面白かった。
 連合赤軍によるあさま山荘事件が起こった72年に、東映動画争議(だったかな?)が起こり、テレビアニメの主要スタッフが賃上げと待遇改善を巡って、長期間ストを決行する。しかし東映動画作品はあいかわらず作り続けられていたわけで、このときは『魔法使いチャッピー』、『さるとびエッちゃん』などの作画監督で知られる高橋信也らが、組合員たちに見つからないように自宅を隠れた連絡拠点とし、東映動画の総務から受けた仕事を、下請け会社にまるまる発注するというカタチで制作が続けられたんだそう。それまで、アニメーターから背景画家まですべて自社の社員が作るということで、クオリティを保証していたのが東映動画ブランドである。完全に機能停止になってしまった同社は、信頼の東映動画のブランドの下でテレビ局から制作費を預かり、外部の下請け会社へのアニメーション部分発注を開始。この72年という年は、アウトソーシングが本格的に始まった年として裏・東映動画史に記憶されているという(作品でいうと、『ミラクル少女リミットちゃん』から)。
 このとき、複数の下請けプロダクションが3週ごとにローテーションするという、その後の東映動画テレビ作品の制作スタイルが確立される。しかし、テレビアニメの歴史自体がまだ始まって10年に満たず、実績を持つ下請けプロなどほとんどなかったわけで、内情は大半が虫プロ離脱組や、あるいは給料遅配が始まって危機感を感じていた虫プロ社員のアルバイトだったそう。そのようにして少しづつ虫プロの伝統に染まっていった結果、3週ローテーションの中で作画監督ごとに絵のバラツキが生まれることが、了解事項となったようで(笑)。バッファロー吾郎の木村がよくトークで語っている「『マクロス』のリンミンメイが、3週に一回ぐらい変な顔のミンメイちゃんになることがある」というネタの歴史は、ここから始まったということらしい(笑)。虫プロのスタッフがメインで関わった当時の東映動画の代表的作品には、例えば荒木伸吾が作画監督を務めた『バビル二世』がある。『聖闘士聖矢』や『ベルサイユの薔薇』で有名な作画監督の荒木伸吾こそ、“萌えキャラのルーツ”の一人と言われる人で、他の虫プロ出身者と同じく劇画家の出身。横山光輝のマンガを大胆に美少年に書き換えた『バビル二世』は、実際、女子高生のファンクラブができるようなジャニーズ的人気もあったらしい。
 一方、虫プロ倒産直前の72年に離脱メンバーが集まってできたマッドハウスというプロダクションがあり、主に東京ムービー作品のアニメーション制作の下請けを担っていた。こちらは出崎統杉野昭夫のコンビによる『エースを狙え!』などを手掛けていたが、2人は虫プロ東京ムービーで作った『あしたのジョー』、『あしたのジョー2』で有名な名コンビ。動かない止めの絵をパンして使うというおなじみの出崎演出こそ、「一枚のアニメ絵が芸術作品のような価値を持つ」と言われるような、今日的な価値観が生まれる原因となったもの。また、元虫プロ商事の社長だったプロデューサーの西崎義典が、『宇宙戦艦ヤマト』を当てる前に手掛けた手塚治虫原作『海のトリトン』も(演出は『機動戦士ガンダム』の富野由悠季)、CM前に劇画調の止め絵が入る、出崎演出に近いフォーマットを展開した作品として知られる。「手塚治虫が萌えマンガのルーツ」というフレーズは、ここでもよく引用させていただいている今やギョーカイの定説だが、かのように「アニメ止め絵」の歴史も、手塚の薫陶を受けた虫プロスタッフから脈々と受け継がれてきたことが、なんとなくわかってくる。
 さらにこんな話もある。『バビル二世』、『キューティーハニー』などをコンスタントに手掛け、すでに東映動画の一つのカラーを担っていた荒木伸吾が、魔女モノの黎明期の作品『魔女っ子メグちゃん』のキャラクターデザインを手掛けたときのこと。あまりに荒木個人の画風の個性が強く、劇画の影響を受けすぎていたために、ローテーションで荒木が登板する回以外のつなぎを受け持っていた他の作画監督が誰一人、きちんとキャラクターを満足に描けなかったとこぼす作品になってしまったという。ヒロインの髪型もこれまでの「おにぎりに海苔」みたいなんじゃなくて、ファッションブックから抜け出してきたような(笑)カールヘアだったので、彩色担当の人の苦労も忍ばれる。しかし、過去の東映動画作品(『サリー』とか『チャッピー』とか)にはなかった、少女マンガから抜け出してきたようなアダルティなキャラクターだったからこそ、同番組は人気を集めたわけで。このころすでに、アニメーション本来の「動きで人を魅了する」時代から、すでに「ちょっと動く劇画」にファンの主たる関心が移り始めていたのかもしれない。
 さらに荒木伸吾の弟子筋にあたる姫野美智がキャラクターデザインを務めた『花の子ルンルン』になると、輪をかけた乙女チックな絵柄になって、本人以外にモノにできる作画監督(大半が男性)が一人もいない状況になってしまう。「こんな変な顔ルンルンじゃない!」という視聴者からのクレームもあったのか(笑)、途中から等身を落としてもっさりさせた、もう少し描きやすい主人公にキャラクターデザインを大幅修正するという作業が行われたんだそう。これについては、番組前に行われた下請け会社各社が参加したコンペにキャラクター案を提出した姫野本人が、まさか描きにくい自分の複雑なタッチの絵がメインキャラクターが採用されるとは思っていなかったと語っている。
 これは小生がアニメ雑誌にいた20年前に聞いた話だが、ロボットアニメ作品などのキャラクターデザインを決定する会議で、決定的な発言権を持つのはもっぱら玩具メーカーなどのスポンサーだったという。描かれている変形合体ロボが本当に商品化できるのかといった観点から、彼らはキャラクターを絞り込んでいくわけだが、当然アニメーションのプロではないので、動かしたときにさまになるアニメ映えのするキャラクターかどうかといったような配慮がそこにあるわけではない。これが少女アニメの場合だと文具メーカーとかになるわけだが、彼らは彼らで自社で売り出す塗り絵セットや筆入れなどの表紙を飾るのに相応しいビューチフルなキャラクターが欲しいはずで、「動かしたときに魅力的に映る」といったようなアニメ本来の観点とは軸を異にしているはず。『ルンルン』の最終的なキャラを決定したのが誰だったのかはわからない。だが、「動画」より「止め絵」で映えるキャラクターがスポンサーに求められるようなことが現実にあったとしたら、「アニメ止め絵」をありがたがるような価値観はすでにこのころから生まれつつあったのかもしれない。


(※参考資料「東映動画長編アニメ大全集」「魔女っ子大全集〈東映動画篇〉」)
※事実関係間違ってたらゴメンナサイ。修正します。