POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

テクノとネオアコ=「渋谷系」にまつわる思い出。中田ヤスタカを考える(冬休み補修ヴァージョン)その3


FLASH BACK

FLASH BACK

 話を中田ヤスタカ氏に戻そう。最新作『FLASH BACK』のプロモーションとして、『マーキー』誌に登場していた中田氏の最新インタビューというのを読んだ。そのサウンドから、いわゆる「渋谷系」の面々のような音楽博士的なルーツがあるかと思ったら、幼少期にピアノをやっていた多重録音少年で、曲のアイデアはゲームなどの“ガジェット文化”というか、楽器などのツールと戯れることから生まれてくるのだという。「ネタ勝負」を競い合うようなDJ文化とは、別のところから現れた才能であることに私は喜んだ。以前、エイフェックス・ツイン、ポリゴン・ウィンドウのリチャード・D.ジェイムスに取材したことがあるけれど、同じようにあまり音楽を聴かない生活圏で育ち、機械との対話の中で音楽を作ってきたタイプの作家が、ある種の「ポップの黄金律」を会得するという流れは、私を興奮させる。あくまで自己申告なので実際のところはわからないけれど、自らのルーツを開陳して足場を図る、ポスト「渋谷系」の多くのグループの多弁家ぶりに比べ、ストイックであろうという態度には心を動かされるものがあった。
 以前私が「史上最大のテクノポップDJパーティー」というイベントをやっていたころのこと。このシリーズ後半で、早くもDJのような選曲ごっこに飽きたらなくなり、アイドルや往年のシンガーと新世代のトラックメーカーをドッキングさせるという実験的なライヴを企画して、私は溜飲を下げていた。「史上最大のテクノポップDJパーティー」は、テクノ全盛期だった当時の流れの中で、とにかく「テクノポップ」というものにこだわった企画である。
 イギリス発のテクノ・ムーブメントをキャッチすることに関して完全に奥手だった小生。初めてワープやライジング・ハイ、R&Sなどの当時旬のテクノレーベルの作品を聞いたとき、以前パンク記事を読み興奮さめやらぬ中でセックス・ピストルズを聴いて「な〜んだ、普通じゃん」「曲つまんないじゃん」とがっかりしたのと同じような体験を味わっていた(あくまでインドアでの体験ということで)。周りの友人たちが流行にすんなりとけ込んでいく中で、孤立気分を味わっていた私は、「やっぱ英国のテクノとは背景が違うし。俺らのルーツはテクノポップだよなあ」と開き直って、天の邪鬼気分で始めたのがあのイベントだった。「イギリス人にとってネオアコサウンドが原風景にあるように、ソニー、ホンダが世界を制覇するハイテク国日本人のルーツはテクノポップにある」なんて陳腐なコピーまで用意していた。だが、当時の世の風潮は「テクノなのにポップ? ノスタルジーやってんじゃねえよ」と冷たいもの。先日の「ポップ2*0ナイト」にも裏方で参加してもらっている、当時のテクノ評論界の重鎮だったライターの小暮秀夫氏らからも、さんざん雑誌などで酷評され虐められた(笑)。当時のテクノ・ムーヴメント、レイヴ・カルチャーは、失業率が低迷する80年代のイギリスのワーキング・クラスの中から生まれた、パンクと似た生起を背景に持っており、ギターを弾けない若者がパンクを始めたように、電子楽器などまともに弾けない人々らから生まれた文化である。いかに非ポップでクールでストイックであるかに価値があり、その支持者は圧倒的にパンクシンパで占められ、“西海岸派テクノポップ”育ちの私などはもともと受け入れる余地はなかったのだ。いまでこそ流行も一巡してすっかり受け入れられているけれど、YMOリヴァイヴァルや「歌謡テクノ」みたいなポップなテクノも、その一切合切が「テクノ原理主義者」の方々に断罪されるという悲しい時代であった。
 一方で私は、『Techii』(音楽之友社)という雑誌の編集者として、日本のネオアコ・リヴァイヴァルの源流にも立ち会っていた。テクノな友人らとの付き合いの中で新製品の楽器の話に盛り上がりつつ、ポニーキャニオンから世界初CD化されたばかりの『ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ』に心を躍らせ、毎週「Hi-Fiレコード」に旧譜を漁りに行くというような、2つの音楽文化に引き裂かれるような日々を送っていた。今じゃ信じられないかも知れないが(いや、今でもそうなのかも知れないが)、テクノ支持派とネオアコ支持派はその時代、完全に分断されていたのだ。当時の私の印象記を語ると、テクノ支持派は音楽(や歴史)に疎かった。曲も手探りで掘り当てたようなものが多く、いずれマンネリで自滅するのではと予感させるものが当初からあった。反対にネオアコ派はレコード・ジャンキーが中心で、ボサ・ノヴァやジャズなどの価値を再発見させてくれる貴重な存在だったが、ほとんどが選曲ごっこで終わるかDJあたりがゴール。その音楽性をバンドとして展開しようという人々は圧倒的に少数で、しかもかなりヘタなグループが多かった。簡単に言えば、テクノ派は「音楽」に疎く、ネオアコ派は「楽器」に疎かったのだ。そんな中で、ピチカート・ファイヴという、テクノ派、ネオアコ派それぞれと微妙なつながりを持つグループが、当時『女性上位時代』というアルバムを出したことが、私に大いなる勇気を与えてくれた。クラブシーンで活躍する百戦錬磨のトラックメーカーが、DJ的センスで豊穣なポップの歴史を素材にするという、「テクノ」と「ネオアコ」の融合がそこにあったように見えたのだ。
 「史上最大のテクノポップDJパーティー」で、ライヴのアイデアを妄想していたときの私の頭で鳴っていたのは、まさに『女性上位時代』のようなサウンドだった。「これならノスタルジーとは言われない」「テクノ以上に刺激的なクラブサウンドの流れになるかも」と私に確信させるものがあった。あそこで宍戸留美スーザンといったヴォーカリストをチョイスしているのは、あくまで私の趣味に過ぎないが、彼女らのオリジナル曲にセヴンスやテンション・コードなどの技巧的なコード進行を盛り込んだナンバーが多く、これをそのまま現在進行形のテクノのサウンドに置き換えるだけでOKという手応えがあったから。しかし、トラックを作ってくれるようなグループを都内のテクノ系イベントに足繁く通って探してみたものの、彼らなら任せられると思うグループを探すのは難しかった。808STATEやイタロ・ハウスのようなフュージョン風ハウスを実践していた面々はいたものの、サンプリングによるスライドコードを鳴らしているものが大半で、音楽的にはかなりでたらめ。歌謡曲やポップスを換骨奪胎できるような音楽教養には、なかなか巡り会えなかった。実際、「テクノDJパーティー」のライブでバックトラックを作ってくれたメンバーとは、カラオケ制作の段階で何度もキャッチボールをしているのだが、残念ながらコードの聞き取りの段階でかなり怪しく、「ここのコードは違わなくない?」などと具体的な話をしなければならないことが、安ギャラでやってもらっている私には辛かった。
 これは本人たちの名誉のために書いておかねばならない。その時代にテクノ、ハウスを実践していたグループの大半が、ギター、ピアノなどを経験せず、ファースト楽器がサンプラーという世代。コードも知らずに見事に曲らしく組み立てる様が痛快であったのだが、楽典を知らないことが彼らを早い時期にマンネリに陥らせていた印象があった。それでも当時は、808STATEのようなファットな“グルーヴ”を作れるだけで重宝されていたもので、その基準にすら達しない打ち込み組も多かったのである。その理由は単純で、当時のデジタル楽器はまだまだ高価であり、庶民がシンセを買うには定番の「男の60回」で毎月ローンのお世話にならねばならず、DJのようにレコードを買うような金銭的余裕が彼らにはなかったこと。これは私自身、楽器集めのほうにルーツがあるからよくわかる。私にしても、たまたま「渋谷系」のルーツみたいな雑誌『Techii』という雑誌の編集者にならなければ、これだけ幅広いジャンルの音楽に出会うことはなかったのかも知れないと、本当に思う。
 以前のエントリで私は、「楽器を演奏できなければ音楽を語れない」というようなニュアンスの文を書いていたと思うけれど、実はこの時点で、楽器好きの人々の「音楽を聴いていない不勉強さ」も十分自覚していたのだ。拙著『電子音楽 in JAPAN』にも少し書いているが、私が音楽雑誌の編集者時代にスタジオで出会ったギタリスト、エンジニアの方々の中には、楽器やエフェクターにはご執心なのに、聴く音楽がレッド・ツェッペリンイーグルスで止まっている人が本当に多かった。スコアも読めずに音楽ライターをやるってことを責められないぐらい、音楽をまともに聴いていない不勉強なミュージシャンも多かったのだ。そんな中にいたほんの一握りの音楽マニアなミュージシャンというのが、細野晴臣氏やムーンライダーズの面々であり、ノンスタンダード・レーベルの小西康陽氏や鈴木惣一郎氏といった、その後の「渋谷系」時代に頭角を現す人々だったのである。
 『Techii』という雑誌は、そもそも「Hi-Tauch+Hi-Tech」という造語から誌名を預かっているように、「音楽情報」と「楽器情報」を均等に扱う目的で作られた雑誌である。しかしそれゆえに、楽器マニアからはリットー・ミュージックの雑誌のような正確さを欠くと責められたし、音楽マニアからは半分の誌面を楽器情報に取られていることの不満が寄せられていた。唯一のライバル的存在だった『チャート』(現在の『ストレンジ・デイズ』)編集部の連中から、その中途半端さについてさんざん陰口を言われていたのを知っている。ま、こっちも「バカみたいにジャケ違いレコード集めるだけの雑誌がどう偉いわけよ?」と、当時から怒りに充ち満ちていたのを思い出すが……(笑)。結果、『Techii』という雑誌は使命半ばで短命に終わり、音楽選曲家協会のその後の活躍やピチカート・ファイヴのブレイクを見届けることができなかった。以来、「テクノロジー」と「豊穣な音楽の歴史」……つまり「テクノ」と「ネオアコ」的なものがが喧嘩せず、同居するような音楽ができないものかというのが、ずっと私の中にくすぶっていたテーマだったのだ。
 この2つの文化の合体への私の思いは、その後「渋谷系」ブーム後期に現れたナイス・ミュージックや、『ファンタズマ』以降のコーネリアスの変遷、最終作で音響系への進化したシンバルズらの音楽との出会いで、満たされることとなった(彼らはみな、レコード・ジャンキーの側からデジタル楽器をツールとして選び取った、DJ側の進化系と言える)。その一方で、楽器というツールと戯れてきた側から突如現れ、ポスト・ピチカート的才能を開花させたというストーリーが、私に中田ヤスタカ氏にモーレツなほど希望を抱かせるのである。


(まだまだ続く。意地になってダラダラやってるのではないかと思うが(笑)、次回でめっさ怒ります!)