POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

大野松雄『鉄腕アトム/音の世界』完全版、世界初リリース決定!


鉄腕アトム・音の世界

鉄腕アトム・音の世界



 先日のエントリで、7月に行われる大野松雄氏の生涯初のコンサートを含むイベント『<アトムの音をつくった伝説の音響クリエイター>大野松雄〜宇宙の音を創造した男』を告知させていただいたが、これに続く関連リリースとして、大野氏が75年にコジマ録音から発表した『鉄腕アトム/音の世界』のCD再発売が決定した。といってもこれ、オリジナル・ジャケット、オリジナル・マスター、オリジナル選曲でCD化されるのは今回が初めて。というのも、これまで大野氏率いる「綜合社」(タージ・マハル旅行団の映画『「旅」について』の制作や、アニメ『ルパン三世』第一シリーズなどを手掛けた音響制作会社)が解散になって以来、「マスターが紛失した」と言われていた幻の音源だったのだ。それがついに今年、某所でこのオリジナル・テープが発見されたのである。
 本作は、63〜66年までフジテレビ系で放映されていた国産第一号アニメ『鉄腕アトム』のために作られた、音響デザイナー大野松雄氏が制作したサウンドトラック(効果音)を商品化したもの。オリジナルはアナログのLPで、現代音楽のレーベルであるコジマ録音傘下の「ALM」から75年にリリースされた。土取利行+坂本龍一ディスアポイントメント・ハテルマ』などの電子音響を担当している、プロデューサーの吉田秀樹氏によって企画され、これがインディー盤としては異例の大ヒット。79年にジャケットをカラー原画に改め、同内容でビクターから再リリースされて、初めて全国一般発売が叶った。その後、原作者の手塚氏の死後に、令嬢のるみ子氏の采配で手塚治虫生誕70年の99年に、ジャケットを再改訂して初CD化。アナログLPも限定発売されて好セールスをマークし、オリジナル放映時を知らないDJ世代にもファンを集めて、日本の電子音楽の初期のマイルストーン的一枚として有名なアルバムとなった。だが、先に触れているように「オリジナル・マスター紛失」は当時のスタッフの共通認識で、ワーナーでCDされたのは、当時のLPのヴァージンディスクから盤起こしした音を元に、大野氏がリマスターを施したもの。拙者が監修で関わった作品集『大野松雄の音響世界』(全3巻)がキングレコードから発売された際に使われた抜粋音源も、同マスターが使用されている。実はこのとき、コジマ、ビクターなどの過去のリリース先の倉庫を一度調べて、マスターが残されていないことをスタッフは一度確認しているのだが、所在を突き止めるにいたらず。それが今回時間を経て、当時のディレクターがその執念で、オリジナル・マスターの所在を突き止めたのである。これが手塚治虫生誕80年、および大野松雄氏の初イベントが開催される今年に見つかったことには、神の采配を感じてしまう。
 オリジナル・マスター使用(2009年リマスターを制作中)はもちろんのこと、現代音楽レーベルらしい大人な渋さで味わいがあるコジマ盤の初回ジャケットでの復刻も初めて。さらに、コジマ〜ビクターと受け継がれながら、ワーナーでの初CD化のときに割愛されていた、冒頭と終幕の『鉄腕アトム』主題歌のダイジェストも今回初めて同盤に収められた。また大野氏によると、オリジナル・マスターには当時立体音響にご執心だった大野氏の意向で特殊な位相処理が施されていたらしく、LP盤ではそれが正しくカッティングできなかったとのことで、スタジオで制作されていた本来の『音の世界』のサウンドがリスナーに届けられるのは、今回が初めてになるらしい。今、先行音資料をもらって聞いているのだが、ワーナー盤では針トレース・ノイズによって微妙にマスクされていた音のフリンジ(輪郭)などが、今回はくっきりと再現されており、全体の印象はまったく異なるほど違う聴感がある。はっきり言って、今回のCD化こそが「初CD化」と正々堂々と声高に言えるもので(過去のスタッフの方々すいませぬ)、向こう10年これだけでご飯何杯もお代わりできるとお約束できる、お茶の間必携の1枚になるだろう。

「テクノ歌謡の真髄は“萌え声”にあり」の巻

テクノ歌謡 アルティメット・コレクション1

テクノ歌謡 アルティメット・コレクション1

 小生が制作進行を担当した、11月30日に発売される『テクノ歌謡ディスクガイド』(扶桑社)が無事入稿を終え、後は校了日を残すのみとなった。リリースまで1カ月を切ったわけだが、ここから発売日までが正念場。書店、問屋から注文をいただいて初めて、一般書店で普通にお客さんが手に取れる状況ができるかどうかが決まってしまうわけだから、制作時以上に発売までのカウントダウンの期間は気が抜けない。11月のPerfumeの初の武道館公演や、おそらく決定済みだろう12月の紅白歌合戦出場の話題など、「テクノ歌謡」的に追い風は十分あるものの、年末商戦といえばライバルも多い時期。ソニー・ミュージックダイレクトから先行リリースされる『テクノ歌謡アルティメイト・コレクション1』(11月26日発売)や、11月30日の新宿ロフトプラスワンのイベントなどと連動させて、盛り上げていく所存である。それと、くわしくは決定後に改めてアナウンスするが、『テクノ歌謡ディスクガイド』の一部ページをネットで先取りして読める、短期集中連載企画も準備中である。しばし待たれよ。
 音楽ポータル「ナタリー」で紹介していただいている通り、『テクノ歌謡ディスクガイド』にはメインのディスク紹介以外に、著名なクリエイターのインタビューが掲載されている。なかでも興味を惹くのが、巻頭のPerfume特集に登場している近田春夫氏の証言だろう(ロマン・ポルシェ。の掟ポルシェ氏との対談で収録)。Perfumeが所属するアミューズの創業時のアーティストであり、同社に所属していたヒカシュージューシィ・フルーツをデビューさせた辣腕プロデューサーでもある近田氏。ヒット曲「ジェニーはご機嫌ななめ」をインディーズ時代にPerfumeがカヴァーしている縁もあって、すでに雑誌で彼女らと対談済みであるが、今回の近田氏のインタビューはPerfumeの話題に特化して、アミューズ元会長の大里洋吉氏との出合い、彼女たちと会った印象、Perfumeサウンドがいかに素晴らしいかをじっくり語っていただいた。内容は発売日に本書を手にとって確認いただきたいが、ひとつだけこれはというエピソードを紹介してもよいだろう。 今回の対談の中で交わされた「テクノポップを支えている核になる要素とは何か?」というテーマへの問いかけに、近田氏が「声の表現」と答えていること。Perfumeサウンドの特徴が、プロデューサー中田ヤスタカ氏による、過剰なオート・チューンによるヴォーカルの加工であるのは周知のことであるが、実は近田氏が手掛けたジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」をレコーディングした際も、本来の地声ではなくイリアにファルセットで歌わせて、当時の感覚でいう“テクノ音響”的なモディファイを施していたという話である。電子楽器のサウンドではなく、あえて「声」に着目したところに、テクノポップの「ポップ」たる所以がある。以前、当ブログでもフリッパーズ・ギターの本質は小山田圭吾氏の声にあること、ライバルだったピチカート・ファイヴとワールド・スタンダードの最大の違いはヴォーカリストの声質にあると書いている通り、テクノポップ、ニュー・ウェーヴの評価においてほとんど無視されてしまう「声」に着目してきた小生。改めて近田氏が、Perfumeのオート・チューン・ヴォーカルと「ジェニーはご機嫌ななめ」のファルセット・ヴォーカルに、共通項を見出していることに深い感動を覚えた。それを受けた掟ポルシェ氏の発言も、中田ヤスタカ氏がエフェクトをかける前のPerfume3人の声質が、たぐいまれなものであるのことを指摘している。小生も以前、次世代の「ポストPerfume」の一群をまとめてチェックする機会があったけれど、サウンドはいいセン行っていてもPerfumeの代わりとなる新しい才能を見つけ出すことはできなかった。あれは、やはり「声」の問題だったのかと。ルックスが飛び抜けてるというわけじゃないPerfumeの3人だが、それでもファンが夢中になるのは、やはりあの3人の声の「萌え成分」に殿方はやられているということなんだろう。特にかしゆかの声質は、魔的な魅力を感じてるし……。ううう、これ以上踏み込むと本が売れなくなってしまうので、ぜひ予約してでも購入して読んでいただきたいのだが、せっかくだから「声」に関連した思いつきを、今回は書いてみることにした。
 前回、フォークアイドル朝倉理恵を紹介してみたが、彼女が幼少時代、「桜井妙子」の名前で活動していたときの声質は、小生の中で「萌え声の基準」となっているものだ。朝倉理恵のファルセットのお姉さん声も、それはそれで魅力的なんだが、声変わりする前の鼻声の思春期特有の危うさというか(なんかエロイ発言)。常に音楽芸術がひとつの成熟を目指す中で、いつか手に入れられなくなってしまう一過性の危うさことがポップスの本質であることを暗示しているというか。以前、『ふしぎなメルモ』の作曲家でもある宇野誠一郎氏のインタビューで、例えば『ひょっこりひょうたん島』のヴォーカル録りのとき、「波をちゃぷちゃぷちゃぷかき分けてえ〜↑」の「え〜↑」の部分を何度もディレクションして歌い直しさせるものの、シンガーの女の子がどうしても恥ずかしくて歌いたがらなかったという話を聞いたことがある。堂々と歌うのではなく、その恥じらいが曲を魅力的にしてるというか。宇宙企画のAVとかに思い入れがある御仁なら、その例えわかってもらえるだろうか……(笑)。ちなみに「桜井妙子」としてレコーディングしていたのが、彼女が小学生時代のことというから驚き。その路線で黄金の輝きを持っている声といえば、服部克久の秘蔵っ子である『ワンワン三銃士』『トム・ソーヤーの冒険』の日下まろんもそうで、たった4曲で引退してしまった彼女も、それらを歌っていたのが小学生高学年のことらしい。
 テクノポップサウンドに限定して言えば、我が萌えヴォーカルの最高峰は、はにわちゃんの柴崎ゆかり嬢にとどめを刺す。「もうお笑いはやりたくない」と前任ヴォーカルの小川美潮嬢が引退を固辞し、はにわちゃんバンドにオーディションでゆかり嬢が加入して、あの美潮嬢が書き残したSMチックな歌詞を歌わせたことで、はにわちゃんサウンドは完成した。小生はそこに、神の采配を感じたものだ。ルックス的には3代目のつーちゃん(木元通子)のほうがアイドル風だが、やはり本来もって生まれた声質というのは、なかなか歌唱力などの技術でカヴァーできるものではないのだろう。ゆかり嬢本人はまったくアイドルを目指した時期はなかったそうだが、それでも音楽に選ばれる天性の声というか、伊集院光がクリエイトしたアイドル「芳賀ゆい」がたまたま、CBSソニーのはにわちゃんのディレクターだったM氏の担当となり、交際中だったゆかり嬢にシークレット・ヴォーカルが託されたという流れも、神が仕組んだドラマと信じて疑わないものがある。また、テクノポップ界で小生よりお姉さん世代で選ぶなら、スーザンが昔から大好きであった。私はPerfumeに至るまで、一貫してナチュラルな声質を好んでおり、中森明菜的な歌い上げ系のヴォーカリストがまったくダメなのだ。近田氏の言を借りるわけではないが、サウンドテクノポップであっても生々しいヴォーカルとの組み合わせでは興ざめ。スーザン「サマルカンド大通り」のような、ワンテイクで録って終わりみたいな、気負わないヴォーカルこそがテクノポップにもっとも相応しいと思っている。海外のアーティストだと、ちょっとマイナーだけどドイツのフンペ・フンペの妹、インガ・フンペのコーラスがそれに相当するかな。
 「萌え声」について考えていくと、とどのつまり小生は、それほどルックスにこだわっていないタチで、声のみに萌えを感じているんだなということに気づくことがある。以前、『吹替映画大事典』という本にも関わっている小生。ビデオがまだ普及する前、名画を見るのではなく、カセットに録った吹き替え版で何度も聞いて覚えた世代だからなおさらだ。ここんところ、なぜか頻繁に登場させている『ふしぎなメルモ』にしても、オリジナルの武藤礼子の吹き替えがあったから「萌えアニメの元祖」と言われるようになったわけで、申し訳ないのだが声を新人声優を入れ替えたリニューアル版は、絵は同じでありながらまったくの別物である。アニメ『のだめカンタービレ』ののだめちゃんにしても、声がまったくイメージと違っていて、それだけで2週目から見るの止めてしまったぐらい。「萌え萌え言ってるのに、まったく絵にこだわらないのか?」と問われれば、ひょっとして人ほどにヴィジュアル重視ではないのかもしれない。ホラ、仕事であった人とかで、ルックスが地味で目立たないのに、妙に心象に残る人がいたりして、思い返してみると声が可愛かったりするのってあるじゃん。Perfumeのハマる前後の自分を思い出してみても、やはり声を知ったことでその評価が180度代わったぐらい、小生の中の評価が声を基準にしていることがよくわかる。
 声優とかラジオDJで言えば、前にも紹介した『GROOVE LINE』の秀島史香あたりが、思春期からの永遠の好みである。知らない人なら、『ねるとん紅鯨団』のナレーターや『YAWARA!』の柔ちゃんやってた皆口裕子なんかをイメージするとわかるんじゃなかろうか。いわゆる喉声というタイプで、腹式呼吸のはりのある声というよりは、か細さにこそ魅力があるというか。このタイプにも刷り込みがあって、小生が中学生時代に『みんなのうた』で聞いた、思春期に感銘を受けた1曲「道」の広谷順子なんかが、萌えヴォーカルが基準になっている。実はこれ、同世代には知る人ぞ知る名曲なのだが、なんと作曲は村井邦彦氏。友人の元土龍団・濱田高志氏が監修した数年越しの企画『The Melody Makerー村井邦彦の世界ー』というBOXに収録され、今春、見事に初CD化を果たした。予備知識なくなにげにBOXを聞いていて、「なんと!? これは!?」と、20数年越しの驚きの再会を果たした奇跡の1曲だった。シンガー・ソングライターとして知られる彼女がアルバム・デビュー前、他の作家の曲を歌ったイレギュラーの作品なので不本意なものだったのかもしれないが、『みんなのうた』の歴史に残る1曲だと小生も思っているので、知らない人はぜひ聞いてみてほしい。


The Melody Maker -村井邦彦の世界-

The Melody Maker -村井邦彦の世界-




前回紹介できなかった朝倉理恵関連アイテムの中から、桜井妙子時代に歌った『アンデルセン物語』のアルバムと、朝倉理恵時代のレアシングル「つる姫じゃ〜っ!」。前者は宇野誠一郎作品の中でも、『小さなバイキングビッケ』と並ぶ名曲揃い。後者はジャケットが興ざめだが、坂田晃一が作曲したB面「月になった恋人」がなかなか名曲である。

実を言うと現役時代をよく知らない日下まろん。今夏の一連の日本アニメーション名作劇場主題歌マイブームのときに発見して、かなりのめり込んでしまった。おそらく単独作品としてはアルバムは『トム・ソーヤーの冒険』は唯一か? 服部克久が『音楽畑』などに取り組んでいた野心的な時期の作品ゆえ、珍しくシーケンサーなどを多用したエレクトロなサウンドが耳に残る。

ここの読者の方にはもはや説明はいらんだろう。はにわちゃんの唯一のアルバム『かなしばり』。CD化で初収録された4曲以外にも、同クオリティの未発表曲が10曲近くあるのだが、いつか日の目を見ないものだろうか。シングル倉庫を探っていて出てきた、はにわオールスターズの珍しいシングルもあったので、せっかくだから載せておく。

スーザンは2枚のアルバムと、シングル・オンリーの3曲を収めたコンプリートCD BOXが出たので、今では気軽に聴けるようになった。実を言えば、元は1枚ものの2 in 1で出るはずだったスーザン復刻を、「いや、絶対コンプリートで出すべき」とディレクターに働きかけたのは小生なのだ(ちょっと自慢)。それ以前も、スーザン・ノザキ名義で3枚のシングルを出しているほか、プレ・スーザン時代に出ているのが77年リリースのスージー・白鳥名義のこのシングル。2曲とも、拙著『電子音楽 in the (lost)world』でも紹介している『みごろたべごろ笑いごろ』のアルバムにも未収録のレア曲で、東海林修の弾くコルグ800DVのPファンクみたいなドロドロのシンセが気持ちいい、見事な「テクノ歌謡」に。

我がシングル倉庫は、一種の萌えヒストリーを形成しており、こんなのもあったので載せておく。ああ〜、好きでした浅野真弓。美人なのだが太ったりやせたりヌードになったりが極端な人で、20代は可愛いバイプレーヤーとしてユニオン映画系ドラマを飾った。ドラマのセリフでは地声は低い印象があるが、2枚のシングルが出ていて、実は歌声はかなり可愛い。もともと音楽好きだった縁で、その後、柳ジョージと結婚している(その後、別れたとか)。

ええい、これも紹介しておく。高橋洋子といっても『エヴァンゲリオン』の人ではなく、小説『雨が好き』の作者のほう。この人も浅野真弓と似てて、美人なのに太ったりヌードになったりする個性派女優として、小生らの世代のハートをわしづかみにしていた。こういう俳優、いなくなったなあ。

極私的列伝! 素晴らしきアレンジャー・プログラマーたちとの出会い

NHKみんなのうた おしりかじり虫

NHKみんなのうた おしりかじり虫

 昨年末の『紅白歌合戦』は、さんざん話題作りで盛り立てていながら、視聴率歴代ワースト2位という結果を残すこととなった。放送前から「どうしてPerfumeじゃなくて、ヒット曲がないAKB48が選ばれてるんだよ!」という物言いはよく耳にしていたし、自分も大いに頷けるところだったので、このへんの「アキバ系の配慮履き違え」が敗因になった説は否定できないだろう。一連のNHK特番のアキバ系への擦り寄り方は、ここんところ尋常じゃないぐらいだったのに。本当にわかってなかったのか、そこに「政治的な配慮」があったのかはわからないが、最後の一手のミスで民主党みたいに票を逃がしちゃった感じ。しかし、Perfumeはそのへん逞しく、「2008年の目標は紅白出場!」という公式アナウンスをちゃっかりと出していたぐらいで、ファンはこれで今年一年も一盛り上がりできそうだ。そういう意味では、NHKの判断は「政治的に正しかった」のかも知れないね。
 仕事をしながらチラ観してたぐらいなので、ちゃんと『紅白歌合戦』観てたとは言えないが、前川清とクールファイブの「そして、神戸」のバックにムーディ勝山がさりげなく混じっていたり(笑)、それなりに見せ場作りは健闘していた模様。そんな中で、個人的にもっとも感慨深かったのが、「おしりかじり虫」であった。NHKみんなのうた』でオンエアされて火がついた2007年の大ヒット曲のひとつだが、この作編曲を手掛けていたのが、私の20年来の知人であるミュージシャン松前公高氏なのである。『Techii』編集者時代によくイラストを発注していた常盤響氏の紹介で、彼のグループ「コンスタンスタワーズ」のメンバーとして20年前にお会いしたのが、おそらく初対面。マニュアル・オブ・エラーズという創作集団のメンバーであり、大半が東京〜横浜出身者で構成されていた中で、唯一の西日本出身者が松前氏であった。私がプロデュースしたテレックスイズ・リリース・ア・ユーモア?』にリミキサーとして参加してもらったり、『史上最大のテクノポップDJパーティー』のためにオリジナル・コンスタンスタワーズ(現在のスペースポンチ)を再結成してもらったりと、マニュエラのメンバーの中では趣味も合ってなにかとお世話になった人である。『キリーク・ザ・ブラッド』『玉葱物語』など、ゲーム音楽のサントラを個人名義で出してはいるが、どちらかというと裏方界で知る人ぞ知る存在。オーディナリー・ピープルの間でもっともよく知られているのは、東京少年のオペレーター時代の仕事だろう。今のaiko以上にもろXTCしていた後期の東京少年(キーボードは、ティポグラフィカと兼任していた水上聡氏)での、トッド・ラングレンばりの魔法のプログラミング・ワークにはいつも溜息をついていた。ブロードバンド環境が整備されたこともあり、数年前から奥さんの実家のある大阪に拠点を移して現在も活躍中だが、そんな松前氏がマニュエラ周辺で活躍していたイラストレーター、うるまでるび夫妻と数年前から準備していたプロジェクトが「おしりかじり虫」なのである。ベースラインなどに「テクノな魂が宿っている」といわれるのも当然の話。
 先日のイベントにも「ソノタ」で出店いただいた、山口優氏とのユニット「エキスポ」などでカルトな作家として知られる松前氏でありながら、こうした大衆向けの企画でも手を抜かず、職能を発揮していることに私は大いに励まされる。現在、単行本のためにいっしょに仕事をしているプロデューサーの牧村憲一氏も「い・け・な・いルージュマジック」(忌野清志郎坂本龍一)、「子供達をせめないで」(伊武雅刀)などを手掛けた「企画モノ」の名手であるが、これまでも私は、ノベルティ・ソングに情熱を傾けてきたクリエイターに常に敬意を払ってきた。古くはフォークブームの嚆矢となった、ザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」しかり、最初にヒットしたJラップ「今夜はブギーバック」(小沢健二スチャダラパー)「DA・YO・NE」(EAST END×YURI)しかり、日本の音楽史において、停滞するシーンの中でカンフル剤のごとく突発的なミリオンヒットを作ってきたのが、いずれもノベルティ色の強いものばかり。こうした曲のヒットの実績が、その後のシーンを切り開いてきた歴史があるのだ。「アーティストが主体的にやりたいこと」はむろん尊重すべきだけれど、レコード会社の傍流セクションから生まれたノベルティ・ソングから、ジャンルの歴史が築かれてきたことを軽視してはならない。そんなヒット曲誕生の現場で、数々の名プロデューサーが育っていったのだ。
 以前のアニメ劇伴のエントリでもちょろっと触れたが、そんなレコード会社の傍流=「学芸部」「ストラテジック部」の仕事で、表には名前は出ないけれど、私の心を捉えて放さない名仕事を残してきたクリエイターらがいる。主にプログラマーと呼ばれる職種の人々だが、コンピュータ、シンセサイザーが普及し始める80年代中期から、スタジオには欠かせない分野のスペシャリストとして、時には音色作り、時にはブレイクビーツのループ職人として、あるいはアレンジの大半を手掛けちゃったりと、さまざまな局面で「音楽を面白くしてきた」方々なのである。
 私が編集者をやっていた『Techii』という雑誌は、レギュラーで楽器情報を扱っていたこともあり、一般音楽誌と違って、スタジオ取材が許されていた数少ない存在だった。80年代中盤に、数多くのプログラマーの仕事を間近で体験させてもらったのは、私にとって貴重な経験となっている。スタジオでのヒエラルキー的な意味で言えば、ミュージシャンや編曲家より格下の“ボウヤ”的な位置の人も多かったので、下っ端の新人編集者だった私に親近感を感じてくれてか、待ちの時間などによく話を聞かせてもらった。そんな交流を通して、制約の多い著名ミュージシャンから依頼を受けた仕事より、むしろ「企画モノ」の仕事のほうに情熱を傾けてきたプログラマーをたくさん知っている。それほど、実はクリエイターにとってノベルティ・ソングは自由度があり、自らの作家性を発揮できる場だったんだと思う。
 いまどきは「パソコンが使えなければミュージシャンに非ず」が当たり前の時代だけれど、私が音楽雑誌の編集者だった80年代中期は、まだパソコンを持ってるミュージシャンのほうが珍しかった。趣味のゲーム用としてNECのPC-88、PC-98を持ってる人はいたけれど、音楽に使っている人もあくまでホームデモ止まりで、スタジオでは専門のプログラマーが打ち込みを担当するのが一般的だった。鍵盤奏者が自宅でデータを打ち込んでくるやり方が今では一般的だろうし、おそらくそれは主に制作コスト的な理由があるんだろう。一方で「楽器を弾かない」専業プログラマーと称される人々は、通信カラオケのプログラミングなど、別の分野に活躍の場を移している現状がある。そんなふうに役回りがまだ分化される前の時代だったから、80年代中期のプログラマーと呼ばれる人々は、ミュージシャンとタメを張れるぐらい勉強家だったし、音楽知識にも精通していた。今回のエントリは、そんな「プログラマープログラマーらしかった時代」に出会った人々について書いてみることにした(プログラマーというのは基本的に裏方なので、一部、作曲家、アーティストとして名前を出している方以外は、基本的にイニシャルで記述する)。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』で、日本のポピュラー音楽界の黎明期の動きについてまとめている通り、70年代初頭に冨田勲氏のスタジオから独立して広告音楽制作会社「MAC」を設立した、YMO仕事で知られる松武秀樹氏、KAMIYAスタジオの神谷重徳氏、KAMIYAスタジオから独立して「エレクトロ・サウンド」という工房を主宰していた、バッハ・リヴォリューションの田崎和隆氏、神尾明朗氏らが、黎明期のプログラマーとしてよく知られている。この中では、ピンク・レディーの一連の仕事や、山口百恵「プレイバックPART2」のシークエンスなどを手掛けているKAMIYAスタジオが、歌謡曲の制作現場で果たした役割は大きい。また、バッハ・リヴォリューションの「エレクトロ・サウンド」は、ヤマハシンセサイザー教室の運営を手掛け、後のヤマハのベストセラー機「DX-7」の開発にも関わっている。日本の専門学校の草分け、千代田電子専門学校出身の松武氏を始め、いずれも工学知識を有する人々であった。
 小生が『Techii』の編集をやっていたのは、「プログラマー第二世代」と言われる方々が活躍していたころ。連載を受け持っていた、現在はプロデューサーの藤井丈司氏には人生勉強において大変にお世話になった。YMOのローディー出身で、松武氏に代わって後期YMOのプログラミングを歴任。もともとブルース系ギタリストで、細野晴臣氏が主宰していた勉強会「エキゾティック・クラブ」(湯浅学氏、篠原章氏も同人)のメンバーだった人なので、打ち込み音楽に限らず音楽全体に造詣が深かった。藤井氏を筆頭にこの時代に活躍していた「第二世代」には、プログラマーという新職業に魅力を感じ、プレイヤーから鞍替えしてきた人が多い。例えば、同時期に活躍されていたベテランS氏は、なんと東京ロッカーズのSPEEDの元ギタリスト。リザードの前身「紅蜥蜴」のモモゾノ氏が、その後アミーガのプログラマーとして『ウゴウゴ・ルーガ』や『どうなってるの?』のオープニングCGなどを手掛けたりするなど、この時代のパンク、ブルース系ミュージシャンのITへの順応ぶりには敬服するものがある。藤井氏と並んで知名度があったのは、松任谷由実の仕事でシンクラヴィアのプログラマーとして名を馳せていた浦田恵司氏。『電子音楽 in JAPAN』にも出てくる、楽器レンタル・ビジネスの草分け「LEOミュージック」のプログラマー部門「RMC」から独立した人で、SHOGUNなどを手掛けていたベテランだが、早くから松武秀樹氏のロジック・システムのようにリーダー・アルバムを発表したりして、「和製アラン・パーソンズ」的な注目を浴びていた。
 こうした名伯楽の仕事現場を覗くのは楽しみであったが、なにしろ使っている楽器は、モーグ、アープ、プロフィット5、フェアライトCMI、シンクラヴィア、PPGなど高級舶来楽器ばかり。当時、AKAIから出たばかりだったサンプラー一号機「S612」(なんとメディアがミニディスク! 片面1音色!!)の話題など、箸休めに民生機のことなど話ししようもんなら、「なんだそれ?」という冷ややかな反応が返ってくるだけだった。冗談と思われるかも知れないが、80年代中期までは本当に、スタジオでは舶来楽器信仰が強かったのである。実際、完全デジタル制御になるまでは、コスト・パフォーマンスを重視し、民生機主体で開発を続けてきた国内メーカーのアナログ・シンセサイザーにはS/N比の酷いものが結構あった。MTRで多重録音をしていても、音を重ねるごとにヒスノイズやハム音が酷くなったりして、それでよく悩まされていたものである。だから、マルチ・トラック環境そのものがワークステーション化された、現在の「Cubase」などをいじっていると、一切ノイズ処理などに悩まされないことだけで感動を覚えてしまう。そんなスタジオ現場で、私のしょうもない民生機の話にフレンドリーにつきあってもらえたのが、下の世代にあたる若手プログラマーの方々であった。
 『Techii』を発行していたシナジー幾何学という会社の株主の一人に、西平彰氏という著名なアレンジャーがおられた。沢田研二のバックバンド、EXOTICSのメンバーとして、グラマラスな衣装でキーボードを弾いていたのをご記憶の方も多いだろう。編集長と懇意にしていた西平氏の縁で、西平氏プログラマー兼ボウヤをやっていたM氏は頻繁に編集部に来ることがあり、同世代だった私によく楽器の知識を指導してもらっていた。私が最初にプログラマーという職業の人を、身近で意識したのがM氏である。『Techii』とは最後に喧嘩別れして辞めた経緯もあったので、その後お会いする機会には恵まれなかったが、後年、西平氏と縁の深かったエピック・ソニー仕事でプログラマーとして活躍。実力シンガーでありながらまだヒットに恵まれてなかった岡村靖幸氏と組んでからは、名作『靖幸』『家庭教師』などのプログラミングを全面的に担当している。岡村ちゃんの脳内にある「プリンス・ワールド」を実際の音にリアライズしていたのが氏で、この時期の岡村仕事の密度は、打ち込み芸術の極みにあると私は思う。『家庭教師』以降も数年にわたって共同制作を続けており、山のような未発表テイクが残っているらしいが、川本真琴「愛の才能」ほか当時のストックから世に出たものはごくわずか。いずれ、その全貌を明かしてくれる人が出てこないものか。
 プライベートでもよく会っていたM2氏は、坂本龍一氏が審査員を務めた、パルコが主催した多重録音コンテスト「オルガン坂大賞」でグランプリを獲得した新人。その取材で知り合ったのがきっかけで仲良くなり、よく2人で遊びに行ったものだ。いつも「新曲ができた」と彼の車の中で聞かせてもらったのが、なぜか毎回ギャグ風の打ち込みものばかりで、かなり個性が強い人物だったから、常識人だった私(笑)は、よくお互いの言葉尻を捕まえて喧嘩していた。後年、アルファレコードから『スパイ大作戦』のカヴァーを含むミニ・アルバムを出したり、アーティストとして活動していた時期もあったが、すっかり会わなくなった後、『新世紀エヴァンゲリオン』で有名な鷺巣詩郎氏に師事。音を通じて再会したのは、Misia「つつみこむように」の共同アレンジャーとしてであった。
 当時、おニャン子クラブの仕事を通して、アレンジャーの山川恵津子氏にご執心だった小生にとって、山川氏とタッグを組む仕事が多かったプログラマーM3氏にお会いできたのも幸運だった。M3氏は先の2人よりは一世代上で、「LEOミュージック」系列の「RMC」出身。ムーンライダーズアマチュア・アカデミー』にイミュレーターをレンタルで貸し出したのが縁で、同事務所の専業プログラマーとなり、ライダーズではPPGのプログラマーとして活躍していた。私が最初にお会いしたのは『DON'T TRUST OVER THIRTY』のレコーディング直後のころ。長期レコーディングでやっと完成したあの問題作については皆があまり口を開こうとせず(笑)、もっぱら山川恵津子氏との仕事の話を楽しそうに語っていたのを思い出す。とにかくM3氏が参加している山川編曲仕事は、他のプログラマーとの仕事のものより音圧が凄かった。真璃子「私星伝説」のレコーディングの時、録音済みだった青山純氏のドラムが迫力に欠けていたので、トリガーを出力させてサンプリングのゲート・ドラムに差し替えた、という冒険心あふれるエピソードもあるほど(時効話なので許して……笑)。実際、山川氏が機械が不得手ということもあって、音作りに関してはプログラマーを信頼して、かなりの自由度でやらせてもらえたのだという。スティーヴィー・ワンダーを信奉し、当時珍しかった女性編曲家を志した山川氏のスコアはバークレー・メソッドの影響下にあり、これにプログラマーによる最新意匠の音作りが加わって、まるで和製スウィング・アウト・シスターのようなサウンドが生まれるマジック。恐れ多くも後に山川氏本人に聞いてみたところ、マリ・ウィルソンなどのトニー・マンスフィールドの“引用”は、ほとんど元ネタの存在をご存じでなく、あれは完全にプログラマーの趣味だったらしい(笑)。ちなみにM3氏はその後、ハンマーという事務所を立ち上げて、デヴィッド・モーション(ストロベリー・スウィッチブレイド、ギャングウェイのプロデューサー)の国内マネジメントなどを担当。カヒミ・カリィほか、クルーエル・レコードの初期作品のエンジニアリングや、自らu.l.t.という匿名ユニットでも作品をリリースしている。
 『Techii』後期に知り合いになったのが、これまた同じイニシャルのM4氏だ。当時、人手不足の編集部に助っ人として鈴木惣一郎氏が加わって、連日、ミュージシャンと編集者の掛け持ちという多忙な日々を送っていたが、ワールド・スタンダードがエヴリシング・プレイに改名して、最初にできたのが『ルール・モナムール』というアルバム。このアルバムの主要メンバーだったのが、プログラマーM4氏であった。フランソワ・ド・ルーベのカヴァーなどを含むこのアルバムには、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントの声がサンプリングで使われているなど随所に仕掛けがあり、そのタイム感を巡って、まるで映画監督と編集マンのようなやりとりが繰り広げられていたのを、スタジオでずっと傍観していた私はよく覚えている。M4氏はその後、正式メンバーとして迎えられ『POSH』をリリース(山口優氏もこの時期メンバーに)。近年は小山田圭吾氏のパートナーとして、コーネリアスの一連の仕事を手掛けている。「締め切りを決めない」という前人未踏の制作体制を打ち出した『POINT』以降のコーネリアス作品は、この方の忍耐力に支えられていると言ってもいいかもしれない(笑)。
 音楽雑誌の編集者を辞め、90年代に入ってからは一ファンとして音楽に接していた小生が、久々にプログラマーの存在を意識したのが、これまた同じイニシャルのM5氏。ピチカート・ヴァイヴ『女性上位時代』以降の黄金期を支えていたプログラマーである。ブレイクビーツを多用するこの時期のピチカートのサウンドが、いわゆる「それ風にやってみました」的な企画モノに止まらず、当世DJ的なファットなサウンドを獲得しているのは、おそらくこの方のおかげ。まったくコンピュータを触らない小西康陽氏だから、主なディレクションは氏が指示しているとしても、実際のサウンド・メイクの部分はかなりプログラマーに負うところが大きかったのではと思う。M5氏が離れたあと、代わってプログラミングを担当していたのが、当時同じ事務所に所属していた福富幸宏氏。この第一期、第二期と、ピチカート解散後の最近の作品に関わっている人と並べてみても、小西サウンドは同じ打ち込みでもずいぶん耳触りが違って聞こえる。ハウス・ミュージックに傾倒した福富時代の「東京は夜の七時」も魅力的だったけど、やはりいまでも私は、M5氏時代のピチカート・ファイヴサウンドエヴァー・グリーンを感じてしまうのだ。
 そんな「私的プログラマー史」の中で、大きな存在として君臨しているのが、何度も勝手に拙ブログで名前を登場させてもらっている、元Shi-Shonen、フェアチャイルド戸田誠司師匠である。MIDI時代の標準機的シーケンサーが登場しなかった不幸な80年代中期、多くの専業プログラマーがまだMC-4を使い続けていたスタジオに、最初にコンピュータ(PC-88)を持ち込んできたのが戸田氏であった。その驚くべき華麗な歴史は、拙著『電子音楽 in JAPAN』に当たっていただければ幸いである。だがそれでも、戸田氏のスタジオワークの現場では、池田だめお氏らベテランのプログラマーが脇を支えており、その分野のテクニシャンとの共同作業によって、あの時代のサウンドは生まれていた。池田だめお氏は、KAMIYAスタジオ出身のベテラン組の一人。私の敬愛するキリング・タイムのメンバー、Ma*To氏もタブラ奏者としての印象が強いが、元々は同じKAMIYAスタジオのプログラマー出身だ。同所が輩出した数多くの才能が、カミヤイズムとも言える芸術意識をもって、80年代以降もプログラミング音楽の質的向上に貢献してきた歴史があったのである。


 ミュージシャンが他人に任せず自らプログラミングを手掛けるという、戸田誠司氏が開拓してきたヒストリーの先に、現在のcapsule中田ヤスタカ氏の存在がある。引き合いに出されることの多い、ピチカート・ファイヴと比較すると、往年のピチカートが「小西康陽氏のアイデア」+「M5氏のプログラミング」+「信藤三雄氏のアート・ワーク」というパートナーシップの産物であったと考えると、そのすべてを自らが生み出す中田氏のパワフルさには改めて圧倒される。むろん、ミュージシャン自らがスタイリング、デザインまでを手掛けることには、他のクリエイターが口を挟めないという「閉塞性の問題」がついて回るだろう。だが、そんな批判は承知の上で、おそらく中田氏はすべてを自らが手掛ける中から、なにか「突き抜けた表現」が生まれることに期待しているのだと思う。
 一台のコンピュータで、音楽もデザインもスタイリングも、すべてがこなせるのが現代。かつて、プログラマーとミュージシャンが分業だった時代に始まり、作曲家自らがプログラミングを手掛ける時代を経て、マルチな才能を持って颯爽と中田ヤスカタ氏が登場してきた。すべてを自らが手掛けるというエゴが、必ず「自家中毒」に陥るというわけではないのだろう。「一人=一職業」という公式を打ち破る才能の登場に、大いに期待する小生である。時代のクリエイターにそうした尽きない意欲があることは、かつてピチカート・ファイヴというプロジェクトに関わっていた、小西康陽氏が自らブックデザインなどを手掛けるようになったり、デザイナーの信藤三雄氏がパートナーにもりばやしみほ氏(ハイポジ)を得て音楽までデザインする側に回ったことでも、実証されているという気がする。

「Cubase4」が年末に到着。「初音ミク」など、近年のDTM環境について雑感を記す。

Cubase 4

Cubase 4

 年末ぎりぎりに、件の「Cubase4」アップグレード・キットが届く。「Cubase4」についてご存じでない方に説明しておくと、DTM界において、プロアマ問わず使いやすさで主役の座に上り詰めてきたドイツ産のシーケンサー・ソフト。その独特なシーケンス・モードの設計から「ループ音楽向けシーケンサー」などという蔑称を預かっていたDAWアプリだが、ソフト・シンセ時代到来を見据えた規格「VST」の搭載でシェアを大きく広げ、特に「生録音を一切使わない」「ソフト・シンセで内部完結」で曲を作ることが多いテクノ系のアーティストの間で爆発的に普及していった。電気グルーヴ石野卓球氏や、capsule中田ヤスタカ氏らが使っているメイン・シーケンサーもこれである。
 かつて圧倒的支持率を誇っていた「Vision」のオプコードが倒産。Mac(プロユーザー)のみに向けて開発を続ける「Digital Performer」のおっとりとしたMOTUの開発ペースに業を煮やし、これらに代わるものとして、私の周りのアマチュアセミプロ・ユーザーの間でも「Cubase」支持者は増えてきた。ただし、プロスタジオ界ではApple純正の「Logic」が本格進出してきたり、ローランドの「Soner」を授業に使う専門学校も多かったりと、デファクトシーケンサーの座を巡っては、予断を許さない状況は続いている。「Cubase」の現在の販売パートナーは、日本最大手のヤマハ。実は数年前に「SX3」にアップして以来ごぶさただった小生は、スタインバーグ・ジャパン(カメオ・インタラクティヴ)に代わって輸入代理店になったヤマハに、今回の注文で初めてお世話になった。あのヤマハが「Cubase」をサポートするという構図だけで、オールドのDTMユーザーには隔世の感がある。
 小生は、オーディオが初搭載されたOS9時代の「Cubase 3.0」からの付き合いになる。しかし、鍵盤入力部分が「Vision」「Perfomer」とはまったく異なる概念で設計されていたために、ウチでは常にセカンド・シーケンサーとしての座に甘んじてきた。昔からユーザーの間で問題視されてきたのが、「Cubase」のステップ入力モードにおいて、タイ/スラーの入力コマンドがないこと。過去のシーケンス・ソフトでも、比較的使用頻度が高いこのコマンドがないことが、「Cubase」普及の大きな妨げになってきたと言っていい。これまでも「Cubase」をヴァージョンアップする度に、それが改善されたかどうかがユーザー間でまず話題となってきたもんだが、今回も一分の期待を込めて、到着した「Cubase4」を試運転してみたものの、やっぱり以前のままであった(笑)。
 以前、本国のスタインバーグにユーザーが問い合わせしたときのログを読んだことがあるが、これについて設計者は「対応する予定はない」と回答していた。「Cubase」のMIDI入力モードは、メーカーいわく「すでに完成されている」ものとして、何世代か前から基本的にずっと設計が変わっていないのである。この姿勢は、呆れるを通り越して頑固すぎると思うほど。しかし、その後「Ableton Live」のようなまったく別の概念のシーケンサーが登場し、それがDJユースの標準アプリにまでなってしまうと、「シーケンサーのあるべき姿とは何か?」という問いかけも、時代とともに風化していくものなのかもと実感してしまう。実際、「Cubase」はそのぶん、オーディオの進化に技術を注いできたわけだが、複雑化しがちなMIDI部をスッパリと切り落としたことが、案外「Cubase」支持者を集めた理由なのではないかとも思ったりして。
 かつて社長の川上源一がヤマハの最初の普及型シンセサイザーCSシリーズを出したとき、「フィルターが発振するものなど楽器ではない」と言って、モーグのように発振しない12dbのVCFを採用したという、まことしやかな伝説というか、有名なウワサ話があった。そんな都市伝説まであるほど、厳格なイメージで知られていたヤマハが、この少々クセのある「Cubase」を自社のデファクトシーケンサーとして採用したというから、よけいにその思いも強まってくる。


 さて、前置きはここまでにして、さっそく「Cubase4」を試運転してみた雑感を書いてみたい。インストールしてすぐに「4.1」にアップデートして、現在使ってみているところ。今回はあくまで、デュアル・コアに対応した12月の「4.1」リリースのタイミングに合わせての購入なのであるが、「SX3」からいきなり「Cubase4」にアップグレードした私には驚くことが多かった。「Cubase4」ユーザーには何をいまさらと言われるかもだが、私のように「Cubase」を旧世代のまま放置しているユーザーは案外多いと思うので、同輩へのガイドとして書き残しておくのも悪くないだろう。
 購入の最大の決め手だった、4.1から搭載された「移調トラック」は、私の思惑をパーフェクトに満たすものであった。前に紹介した通り、曲の任意の箇所で全トラックを一斉に移調するためのコマンド(専用トラック)で、基本的に「C」なら「C」のキーでコード・ポジションさえ覚えてしまえば、トランスポーズでなんとか転調作曲ができてしまう。過去に作って放置してあった、なんちゃってハウス風の曲の断片を鳴らしながら、サイクル・ループで曲の長さをガンガン付け足して、ガンガン転調していくと、なるほど小室哲哉風の曲が一丁上がりという感じ。これまでも既データをコピペして音階を上下してやってみたことはあるけれど、それなりに作業は面倒だったので、ヴァースごとに全トラックを一発でキー・チェンジできるのには、さすがに感動を覚えてしまった。だって、ヴォーカルやギターみたいなオーディオ・データも、矢印キーでポンとキーを上下するだけで、MIDIトラックに追随して移調しちゃうんだから。
 ただし、プラグインまわりは大きく設計が変わってしまっていて、旧世代プラグインはブリッジを介して動作させている仕様のよう。ウチの別のデスクトップのOSXマシンで動いていた「SX3」用のプラグインのいくつかが、「Cubase4」では認識しなくなっていた。まず、Carbon系はまったく動作せず(インテルマシンなんだから、あたりまえか)。この段階で、過去のなじみの数多くのプラグインとおさらばしなければならなかったのは辛かった。テクノポップ世代にとっては、TR-808TR-909などの名器をチューンナップするような感動が味わえたリズム音源モジュール「Attack」(Waldorf)も認識せず。開発終了してしまった本国のアーカイヴを見ても、最新版のパッチは公開されていない。市販されているオールイン・ワン版『Waldorf Edition』のパッケージには「ユニバーサル対応」と書かれているんだけど、使いたければ新規でこれを買えということなのか?※(とりあえずシモンズ、エレキット系はLinPlug「RMIV」のオシレーター・セクションで代用することに)
 問題はヴォコーダー・ソフトについてである。古くからの「Orange Vocoder」(Prosoniq)ファンの私は、これが使えない環境に初めて陥って、長年の友を失うような気持ちであった。ちなみに、ダフト・パンクや中田プロデュース・ブームの昨今でありながら、お店で聞いてみたらヴォコーディング系プラグインの単体パッケージはどこでも現在は扱いがないという。調べてみたら、最新環境のOSX版で動作するのは、VirSynの新製品「MATRIX」と、海外製で日本での取り扱いがない「ELS Vocoder」(Eiosis)ぐらい。ヴォコーダーって流行ってないのかな。いろいろデモを聞き比べてみて、小生は結局「ELS Vocoder」のダウンロード版を購入することにした。「Orange Vocoder」がローランドVP330系の艶のある繊細な音がしていたのに対し、「ELS Vocoder」はクラフトワークやELO、テレックスが使っているゼンハイサー社のヴォコーダーみたいな豊かな低音域に特徴がある。少し音の主張が強すぎるところがあり、さりげなくコーラスに使うのには向かない感じかも。
 ちなみに「Cubase SX3」時代に標準搭載されていた純正のヴォコーダープラグインは、残念ながら「Cubase4」では割愛されている。ただし、念のためウチの古いマシンのプラグイン・フォルダから引っ張ってきて入れてみたら、ちゃんと「Cubase4」でも動作したので、シングル・マシンで使っていて「Cubase4」にアップグレードする予定がある人は、旧フォルダのプラグインを複製しておいて後から入れ直せば、ちゃんと使えるのでご安心を。あれを割愛したのは、スタインバーグのほうでヴォーカル・モディファイ用の単体パッケージを出す予定があるということなのかな?
 それと「SX3」をデュアル・コアマシンに仮インスコしたときは認識していた、スタインバーグのハーモナイザー系プラグインVoice Machine」がダメだったのには落胆した。これで、なんちゃって中田サウンドをインスタントにやろうと思っていたアテが外れてしまった。ちなみに『DTMマガジン』によると、中田氏がPerfumeなどで酷使している、ヴォーカルの強制キー・クオンタイズみたいなモディファイに使用しているのは『Auto-Tune』ではなく、同じアンタレスの『Harmony Engine』らしい。『Harmony Engine』は少々高めのソフトだから、そのためだけに買うのは気がひけるなあ。ちなみに「Voice Machine」を復活させるには奥の手があって(OSXの場合)、「Cubase4」で作成したファイルを選択して、ファイル>情報を見るから「このアプリケーションで開く」のリストを表示させると、「Cubase4」と並んで「Cubase SX3」が現れるので、これを選択するとなぜか「Cubase SX3」が立ち上がって旧環境で使えるのである。デュアル・コアに完全対応してないから、あくまで避難的な使い方だが、ちゃっちゃって感じで「Voice Machine」で作業して書き出してしまえば問題はなさそう。しかし、これは私がいろいろやってみて発見した邪道なので、他の環境の人がこのやり方で旧世代「Cubase」を起動できるかはわからない。各自試してみてくだされ。

VOCALOID2 HATSUNE MIKU

VOCALOID2 HATSUNE MIKU

 話はここで終わるつもりだったが、最後に「初音ミク」について訂正を少々。Bootcampでウィンドウズ環境が使えるようになったマイマシンで、さっそく「初音ミク」を使ってみた。思ってた感じに歌わせるのはそれなりにコツがあるようで、改めてニコニコ動画に投稿している皆様の“調教技”に敬服してしまった。実は、Mac用としてずっと使われてきた「VocalWriter」で、これまでも実際にローマ字配列でなんとか日本語で歌わせてきたことのある私なのだが、ちょっと勝手が違う感じなのである。その謎が、『DTMマガジン』別冊『初音ミク』の開発者のインタビューを読んで判明した。「初音ミク」の人声フォルマントの再現って、ベル研究所などで開発されてきたフィジカル・モデリングではなくて、膨大なサンプリング・データを呼び出す方式なんだな。同じ日本語で歌う技術といっても、10年前に出ていた初代Vocaloidとも言える、フィジカル・モデリング方式のヤマハプラグイン・ボード「PLG100-SG」とは、設計自体まったく異なるのである。
 例えば、「Cubase」用としてリリースされている、「Virtual Guitarist」という有名なギター系プラグインがある。シーケンサーでテンポ指定して曲を走らせながら鍵盤でコードを入力すると、膨大なライブラリから、そのコードの音声ファイル(テンポ同期するRexファイル)を一瞬で探し出して、あたかもギタリストが演奏しているようなカッティング演奏が再現されるというもの。いわばこれと同じで、入力した50音のカタカナデータ+音階情報から、それに該当するオリジナル声優の声がサンプリングされた音声ファイルを、瞬時に呼び出して歌わせるという仕様なのである。ベル研究所にルーツがあるというより、ギャグのつもりで話題に取り上げていた、アイドルの小川範子が喋るPCエンジン用ゲーム『No・Ri・Ko』の発声原理の進化形と言ってもいいのかもしれない。これは子音と母音がセットになって音節が成り立っている、シンプルな日本語ならではの仕様なのだろう(成り立ちがラテン語、ゲルマン語などのミクスチャーである英語の場合、用意するリファレンスは膨大になるらしい)。その「あ」「い」「し」「て」「る」という音単位を、あたかも自然に歌っているようにモーフィングしてつないでいくところに、Vocaloid2のために考案された新技術が発揮されているのだ。「初音ミクに英語で歌わせることができない」のは、そういうふうに発声原理が日本語のために独自設計されたものだったからなのね。前回のコラムを読んだ皆様、改めてそこんところ訂正させていただく。

(ちなみに、今回テストしてみたのは、2GHzインテル・コアデュオのMacBook、Mac OSX10.4.11環境である)


※「Attack」(Waldorf)はスタインバーグの配給が終了した後、オールイン・ワン商品『Waldorf Edition』収録の一プラグインとして開発元のWaldorfで現在も扱われており、ユニバーサル対応の最新版は本国のWaldorfのホームページからダウンロードで入手可能とのこと。ご指摘いただきましたので訂正しておきます。

音楽における「物語性」はスコアに宿る。中田ヤスタカを考える(冬休み補修ヴァージョン)その4

Baby cruising Love / マカロニ【初回限定盤】

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 では、音楽ライターにとって、果たして「楽器経験」「スコア知識」は必須なのか? この問題提起に関連して、以前のエントリでノンフィクション作家の武田徹氏が『日経アンドロポス』で連載していた「ロックの経済学」の例を紹介したことがある。日々、新しいスタジオ・テクノロジーが生まれていた80年代中頃。サウンド作りの主導権を、それまでのスタジオの主役だったギタリストから、キーボーディスト、プログラマーに取って代わられる激動期があった。「FM放送で流れたとき、一瞬のスネアの音の響きでその曲の品質が決まる」と、戸田誠司氏も以前語っていたけれど、リヴァーブの深さであるとか、細やかなギターのカッティングのキメなどが、トレードマークとして一流クリエイターの証になっていた時代だ。その風景を新人の音楽誌編集者として目撃した私は、ヒットするサウンドを支えているのはこうした「音楽言語」であり、それまでの演歌、流行歌のような、作詞家が歌詞に込めた怨念やメッセージなど、リスナーがまったく求めていない時代が来ていることを実感していた。そんな時代の“流行音楽”を分析すると謳った、そのノンフィクションでインタビュアーがマイクを向けていたのが、作詞家、ディレクターといった「言葉の世界」の人ばかり。スタジオの主役になりつつあったアレンジャーやキーボーディストの存在を蚊帳の外に追いやって、「現代のヒット曲の条件とは?」などと書いていることの欺瞞を、私はその連載に感じたことがあった。実は、小室哲哉氏や小林武史氏ら、アレンジャー出身者が時代の主役として表舞台に躍り出た90年代の「プロデューサーの時代」になっても、マスコミの論調は基本的に変わっていない。とにかく「言葉」で音楽を理解しようとするマスコミの傲慢さは、未だに無反省に続いている気がする。
 ビギナー向けの作曲マニュアル本を読むと、必ず載っている作曲技術のいろはとして、「緊張と緩和」「混沌と解放」の例がある。「セブンス>トニックへの解決(ドミナント・モーション)」とか、「sus4(ぶらさがり)>長3度への回帰」などが主な例だが、複雑なコードワーク(濁った和音)は、必ずその後にメジャー・コード(澄んだ和音)へと進行していくルールがあり、これによって聴く側が快感を感じるという法則である。テンション・コードはジャズ風に聞こえて刺激的であるが、それだけだと聴いていても気分は落ち着かないままで、シンプルなメジャー・コードへと連結しなければ、聞き手に「開放感」を感じさせることはできない。これはクラシックの時代からある「音楽を聴く快感原則」を支えている、古典的な作曲法である。歌詞の流れにも物語があるように、曲のコード進行にも、小さな「物語性」が宿っているということ。しかし、こうした基礎的な作曲テクニックの話であっても、音楽ジャーナリスト皆が周知の知識というわけではない。「この歌詞のところで空間的な広がりを感じた」とか「暗闇から空へと広がっていくようなサウンド・スペクトル」などともどかしく書かれている分析が、たいていドミナント・モーションという技術の説明で済んでしまうところを、ややもすると神憑りなレトリックで逃げてしまうような文章を何度も見てきたのだ。スコア知識は必須とは思わないが、そうした古典的テクニックがあることを知ることで、いくらか表現的にも謙虚になれるのではという話である。
 これはかなり私的な話になるのでお許しを。当ブログで長文のエントリを書かせてもらっているのは、ある意味私の勝手だと思っているが、「ダラダラと書いていてまとめる技術がないのか?」「あんたそれでプロ?」とアンカーを書かれたことについて、一言申し上げておく。まず、プロの編集者は「商品原稿」をタダでブログでアップするようなバカなことはしない。文章を書いたり、本に値段を付けて売っているプロの人間が、ブログで「無償で読み物を提供する」ということには、実はかなりナイーブな問題が潜んでいる。
 私は同業者の中でブログを立ち上げたのが遅い方なのだが、始める直前までかなり保守的な「アンチブログ」「アンチSNS」派であった。理由は「売文家がタダで原稿を読者に読ませてどうするの?」「それで満足しちゃ本が売れなくなるでしょ?」という、ごくありきたりなもの。それを「いまどき何寝ぼけたこと言ってるの?」と諭してくれたのが、知人のITライター津田大介氏であった。初めて発行人を務めた週刊誌のIT系増刊号の発売前に、宣伝予算がまるっきりない中で、どうしたら告知を広めることができるのかと相談に行って、「金がないならブログやんなさい」と勧めてくれたのが津田氏である。「だってタダ原稿でしょ」「やだよ、そんなの」とゴネる私だったが、「やってみなきゃわかんないじゃん。何いってんの?」と言われて、かなり渋々引き受けたのがこのブログを始めた発端だったのだ。実際に雑誌がやってるブログなんてのは、下請けの業者に書かせているところも多いんだろうけど、こうして編集者自らがブログをやることになって早1年半。自分でやらなければ気付かなかったこと、勉強させていただいたことがたくさんある。その点で津田氏には本当に感謝している。
 コミケなどで最近、プロのマンガ家や、岡田斗司夫氏、唐沢俊一氏といったプロライターが同人誌を出品し、お目当てのファンを集めているという話を聞いたことがあるだろう。白泉社集英社のように、かなり早い時期からお抱え作家によるミニコミ発行に理解を示していた出版社もある。なぜ、日常的にそれでオマンマを食っている人が、わざわざそんな自費出版にまで手を染めるのか、読者には一見理解が及ばないかもしれない。実は世に出ている雑誌で、ライターや編集者が自分の好きなことができている雑誌なんて、いまどきほとんどないのである。とにかく、「これは売れる!」と思って企画したものであっても、デスクから「絶対売れる保証があるわけ?」などと突っ返されるのが、編集者の日常の風景だったりする。それに、プロの出版物の世界には必ず、ページ数や字数の制限がある。そうした制限から解放されて、自分の好きなように書ければ「これ以上の幸せはない」と日々考えてるライターや編集者は多いはずだ。
 津田氏の忠告を受けブログを始めたものの、しばらく迷いの時期があった私だったが、本の宣伝になればと、ありとあらゆる自分のコネを発揮して、アクセス数稼ぎに取り組んでみた。残念ながらその雑誌は短命に終わったが、ブログをいまさら店じまいするわけにいかず、少なからず固定読者も付くようになって、私なりに「ブログを書く意義」も見えてきた。それが、「誰も読んだことのないようなテーマ」「書かれたことのないような過剰さ」「文章家がデザインやイラストまで一人でやってしまうアマチュアイズム」で書く、という当ブログの基本路線である。「いかに商業出版的でないか」というのが、私個人のテーマだ。「要点をまとめて簡潔に」だの「決まった字数で」など、本当にバカバカしい指摘だと思う。
 私はHTML時代からホームページをやっているが(そのとき感じた敗北感が、ブログを遠ざけていた理由でもある)、ブログ時代になって、情報のインデックス化が進み、使う側にとってネットは非常に便利な時代になった。個人のブログで紹介された目撃談などの情報も、通信社が提供しているようなニュースと同等に扱えるようになったことのメリットは大きい。しかし、インデックス化が「情報の均質化」に向かうのは世の常。利便性は生まれたが、ネット黎明期のような型破りでドラマチックなブログとの出会いは少なくなった。先のスコアの話ではいが、ここにも「物語性」の欠落がある。苦痛の先に快楽があるから、読み続けて感動を味わえる。拙ブログだって、ダラダラ書かれた前文を読み進める苦労があるから、その先に用意されたオチ(らしきもの)を楽しめるんだと信じて書いている。だって、手頃な長さで読みやすいんだけど、「結局は何も語ってない」「どこかで書いてあったものの要約に過ぎない」ってブログ、たくさんあるじゃん。実際、たくさん説明しないとわからないものというのは、たくさん説明しないと伝わらないものなのよ。書き手の脳裏に浮かんだアイデアのオリジナルが、商業出版というプロセスの中で、ページ数や字数などの制限のために、万人向けに加工されて世に出ることが多いのは、編集者である私が一番よく知っている。それが「文章の商売人がブログをやる」ということの、一つの解になっていると思うだがどうだろうか?
 もう一つ、ネット界に提供されている情報の流れについても説明しておく。インデックス化された、簡潔でシンプルな情報というのは、たいてい通信社が発信し、それをポータルが買い上げて提供されている。ポータルは会員数をバックボーンにバナー広告料をせしめ、それで情報を買って、ユーザーに無償提供するという「経済のメカニズム」がある。一方、GyaOのようなユーザーと直接関係を結ぶサービスは、プライバシーを提供してもらったり、事前に長々と広告を見てもらって、本編のサービスを無償で提供できている。ネット上に存在するあらゆるサービスが、一様にある目的によって作られ、ちゃんとした理由があって提供を受けているのだ。そんなの、いまどき小学生でもわかる理屈。個人のブログに訪れて、長い文章という見たまんまを特徴を捉えて、「情報は簡潔に」「ダラダラせずに」などと陳情上げてるなんて、首から「私は世の中の仕組みもしらないバカです」というプラカードかけてるのといっしょ。「想像力の欠如」というか、これも「ゆとり教育」の被害者なのか?(笑)。無償サービスのスキームや、「350円の週刊誌を内容が面白くないので返品させろというクレーマー」について以前に書いたエントリがあるから、その御仁は、自分のケースに当てはめて読んでみてほしいと思う。
 ネットに限らず、無償で情報が提供されているということでは、R社のフリーペーパーなど、現実の出版界でも大きな地殻変動が起こっている。ただでさえタダなのに(笑)、新興のR社と違って、雑協に入っている我々普通の出版社の人間は、「雑誌にクーポンを付けられない」「無料誌を発行できない」など、がんじがらめの制限がある。そんな中で雑誌運営をしていくのは本当につらい。一足先に、タワー・レコード発行の『Bounce』というフリーペーパーの登場で、同じように市場を壊滅させられたのが音楽雑誌業界だろう。フリーペーパーな上に、私の知人でもある橋本徹氏(アプレ・ミディ)が編集長だった時代なんて、普通の商業誌でもできないような冒険的な特集をやっていたこともある。iTSやamazonで手っ取り早く曲が試聴できてしまう現代になると、むしろユーザーが求めているのも評論なんかより、『Bounce』のようなほとんど広告に近い情報だったりするのかも知れない。実際、ショップとレコード会社の関係は、「顧客」と「メーカー」であり、立場はショップのほうが上。レコード会社の広告で細々と発行させてもらっている音楽雑誌のほうが、よほどスポンサーを意識して原稿を書かねばならない歪な図式がある(この広告依存モデルの最たるものが『ロッキング・オン』である)。よく聞かれる「どの雑誌も表紙も内容がいっしょ」という批判も、その月のリリース作品が内容を決定づけてしまうという広告上の理由がある。
 だが、私などはギリギリ音楽雑誌で育った世代。尊敬するライター、編集者もたくさんいる。「音楽雑誌必要論」というテーマについては、また書いてみたいと思うが、先のエントリでやや批判的に書いた「Perfume対談」のように、内向きではなく経済や産業論も含んだ広い視座を持った、新しいタイプの音楽カルチャー誌が登場してくれることを待望している。また、音楽誌の編集者みなが「編集長が出世の終点」なんてつまらない。キャメロン・クロウみたく、音楽雑誌のライター出身者がハリウッドの映画監督になってエンタテイメントを提供しちゃうような、新しい時代の“音楽評論スタイル”を見せつけて、私らをコーフンさせて欲しいと思う。
 さて、話を前回の「史上最大のテクノポップDJパーティー」の話に戻してみたい。まだデジタル楽器が高かった時代、楽器マニアが月々のローン支払いの苦しみ、音楽を聴くことがままならなかったことを、一つの不幸なエピソードとして紹介した。私がやっていた「テクノDJパーティー」だけでなく、テクノポップ・フォロアーと呼ばれる人々にとって、かなり逆風な時代だったと思う。もうひとつその時代の象徴的なエピソードとして、当時テレビで人気を博していた『イカ天』の話を紹介しよう。あまり知られていないと思うが、あの番組の出場条件の中に「打ち込みNG」という項目があったのだ。YMOが使っていた高価なコンピュータMC-8(値段は120万円)の時代から10年がたち、やっとポータブルで安価なシーケンサーが登場したころだったが、おそらく「打ち込みを使うと、純粋に演奏力が審査できない」という『イカ天』運営スタッフの判断から、そういう措置が執られたのであろう。しかしイギリスでは、シーケンサーサウンドとロック・バンドが同居するマッドチェスターなるムーヴメントも起こっていたし、スチャダラパーのような和製デラ・ソウルみたいな、新世代のトラックメーカーはすでに活動を始めていた。こうした90年代に開花する新しい動きを、ただ「打ち込みNG」というだけで、『イカ天』は一切を篩にかけて落としてきた歴史があるのだ。今の視点なら「シーケンサーを使う」ということは一つのサウンド・コンセプトに過ぎないとすぐわかるが、当時は下手な人が演奏力をごまかすためのツールという考え方がまかり通っていたのである。
 『イカ天』に端を発したバンドブームは、ネオアコ・リヴァイヴァル〜「渋谷系」の時代へと不思議なつながり方で、「ストリートの流行音楽」として、私が当時所属していた雑誌『宝島』などの誌面で交代劇を繰り広げてきた。その間もずっと、なぜかテクノポップの末裔たちは、辛酸をなめ続けてきた歴史がある。だからこそ、打ち込みシーンから、あたかもピチカート・ファイヴコーネリアスへの返答のように、中田ヤスカタ氏が颯爽と登場してきたことに大きなインパクトを感じてしまうのだ。
 Perfumecapsule、MEGなどのプロデュース作品を一様に聴いてみると、基本的に中田プロデュース・サウンドは一貫して同じ。『マーキー』ほか雑誌のインタビューで、「Perfumecapsuleの違い」について聴かれ「前者は、基本的にリクエストを受けた仕事。後者は自らのモチーフで作る仕事」と線引きをしていたが、私が聴く範囲では、それほど大きな違いはないと思う(もっと極端に、商業仕事とソロで音が激変するアーティストはたくさんいる)。それほど、中田氏にとって中心にあるcapsuleが不動の存在であり、プロデュース作品はcapsuleのプロモーションとしてそれを取り巻いているものと理解したほうが、いっそ潔いところがある。このあたり、やはり彼が職業作家ではなく、「限りなく職業作家的に対応もできる」アーティスト主義の人であると思わせる。このへんが実は、本業で何度か仕事ぶりを拝見させていただいたこともある、小室哲哉氏のスタイルに似ていると思わせるところなのだ(この人も、まったく芸能色に染まらず、基本的にTMネットワークが中心にあるという考え方を持っていた)。
 さきほど、capsuleもプロデュース作品も一様に似ていると書いたが、よくよく聴くとPerfumeのB面曲のようにコード進行から発想したような曲もあれば、MEG『BEAM』収録曲のように、おそらくメロディー先行で後からコード付けしたと思わせるような曲もある。こうした傾向は作品ごとに偏らず、どのアルバムにも均質にちりばめられ、一つのアルバム・デザインとなっている。スタイリング、ジャケット・アートもすべて自ら手掛けている中田氏のトータル・プロデュースの姿勢が、こんなところにも見て取れる気がする。それほど、どの中田作品も、流行ポップスとして、あるいはクラブ・ミュージックとしても、ドッシリとした手応えを感じるものに仕上がっている。無理矢理、小室哲哉に当てはめるのも酷だと思うけど、「ポスト小西」というより「ポスト小室的」なスケールで、次世代のJポップ界を面白くしてくれるのではないかと期待する所以である。Perfumeにしても、サブカル族のスターにしておくのはもったいない。小学生の女のコならみながマネしたくなるようなフォーメーション・ダンスだし、案外、小学校低学年あたりから火が付いて、「00年代のピンク・レディー」みたいなブレイクの仕方をするんじゃないかという気もする。
 ともあれ、中田氏の作品を一通り聴いてみて「どれもが同じ」「オーヴァー・プロデュースだからいい」などという妙な褒め方をしているのは、私が相当変人だからだろう(笑)。過去の業界経験を通して、アーティストがプロデューサーにがんじがらめにされている時期というのが、当人にとって一番幸せな時期なのだと常に主張している私。アルバムが売れて、アーティストの自意識が生まれ、それがセルフ・プロデュースなどの形で実践されたときに、かならず失敗が待っている運命の繰り返しがある。「どれを聴いても基本的にいっしょ」「オーヴァー・プロデュースの象徴」とも言えるトニマンに入れ込んでいる私だから、点数が甘いんだよと言われれば返す言葉もないが、オーヴァー・プロデュース気味の作品というのは、「プロデュースという行為の批評」として、実に興味深いものなのよ。それと、重要なのは質だけでなく量も「過剰であること」。00年代のヒットメーカーの鉄則は、とにかく数を作ることにあると思う。これは私の日頃の仕事から編み出されたものでもあるし、映画『パッチギ』のプロデューサー、李鳳宇氏が「ヒットの秘訣は?」と聴かれ「ムダ玉をどれだけ打てるか」と答えていたことにも共通している。つんくが精彩を欠いた今、これだけ過剰なプロデュースを実践しているプロデューサーなんて、他にはいないんじゃないの?


(これで終わり。長文乱筆失礼しました。最後に編集後記)


 しかし、ここんとこ毒舌続きだったな。多分にそれは、年末をずっとプロモーションのためにいっしょに過ごしていたエガちゃん(江頭2:50氏)の影響があると思う。普段はとてもやさしくて、ベッドに子猫が寝ているときは、起こさずソファーで寝て風邪を引いちゃうぐらいの小心な男なのだが……。
 冗談はさておき、改めて思ったのは、「文章を書く行為」は人を高揚させ、「絵を描く行為」は人を落ち着かせるんだなということ。拙ブログで、文章だけでなく挿絵まで描いているのは、バランスを取る上で精神的にいいみたい。文章を書いている時は週刊誌時代と同じく辛辣な気分になるが、絵を描いている時だけは「皆に愛されたい」という博愛心が高まるもんな。生前、ナンシー関氏と何度か仕事をしたことがあるのだが、コラム発注の時にはシリアスなナンシー氏だったけど、似顔絵ハンコをお願いしたときには凄く優しく接してくれたってことを、ちょっと思い出してしまった。

 

テクノとネオアコ=「渋谷系」にまつわる思い出。中田ヤスタカを考える(冬休み補修ヴァージョン)その3


FLASH BACK

FLASH BACK

 話を中田ヤスタカ氏に戻そう。最新作『FLASH BACK』のプロモーションとして、『マーキー』誌に登場していた中田氏の最新インタビューというのを読んだ。そのサウンドから、いわゆる「渋谷系」の面々のような音楽博士的なルーツがあるかと思ったら、幼少期にピアノをやっていた多重録音少年で、曲のアイデアはゲームなどの“ガジェット文化”というか、楽器などのツールと戯れることから生まれてくるのだという。「ネタ勝負」を競い合うようなDJ文化とは、別のところから現れた才能であることに私は喜んだ。以前、エイフェックス・ツイン、ポリゴン・ウィンドウのリチャード・D.ジェイムスに取材したことがあるけれど、同じようにあまり音楽を聴かない生活圏で育ち、機械との対話の中で音楽を作ってきたタイプの作家が、ある種の「ポップの黄金律」を会得するという流れは、私を興奮させる。あくまで自己申告なので実際のところはわからないけれど、自らのルーツを開陳して足場を図る、ポスト「渋谷系」の多くのグループの多弁家ぶりに比べ、ストイックであろうという態度には心を動かされるものがあった。
 以前私が「史上最大のテクノポップDJパーティー」というイベントをやっていたころのこと。このシリーズ後半で、早くもDJのような選曲ごっこに飽きたらなくなり、アイドルや往年のシンガーと新世代のトラックメーカーをドッキングさせるという実験的なライヴを企画して、私は溜飲を下げていた。「史上最大のテクノポップDJパーティー」は、テクノ全盛期だった当時の流れの中で、とにかく「テクノポップ」というものにこだわった企画である。
 イギリス発のテクノ・ムーブメントをキャッチすることに関して完全に奥手だった小生。初めてワープやライジング・ハイ、R&Sなどの当時旬のテクノレーベルの作品を聞いたとき、以前パンク記事を読み興奮さめやらぬ中でセックス・ピストルズを聴いて「な〜んだ、普通じゃん」「曲つまんないじゃん」とがっかりしたのと同じような体験を味わっていた(あくまでインドアでの体験ということで)。周りの友人たちが流行にすんなりとけ込んでいく中で、孤立気分を味わっていた私は、「やっぱ英国のテクノとは背景が違うし。俺らのルーツはテクノポップだよなあ」と開き直って、天の邪鬼気分で始めたのがあのイベントだった。「イギリス人にとってネオアコサウンドが原風景にあるように、ソニー、ホンダが世界を制覇するハイテク国日本人のルーツはテクノポップにある」なんて陳腐なコピーまで用意していた。だが、当時の世の風潮は「テクノなのにポップ? ノスタルジーやってんじゃねえよ」と冷たいもの。先日の「ポップ2*0ナイト」にも裏方で参加してもらっている、当時のテクノ評論界の重鎮だったライターの小暮秀夫氏らからも、さんざん雑誌などで酷評され虐められた(笑)。当時のテクノ・ムーヴメント、レイヴ・カルチャーは、失業率が低迷する80年代のイギリスのワーキング・クラスの中から生まれた、パンクと似た生起を背景に持っており、ギターを弾けない若者がパンクを始めたように、電子楽器などまともに弾けない人々らから生まれた文化である。いかに非ポップでクールでストイックであるかに価値があり、その支持者は圧倒的にパンクシンパで占められ、“西海岸派テクノポップ”育ちの私などはもともと受け入れる余地はなかったのだ。いまでこそ流行も一巡してすっかり受け入れられているけれど、YMOリヴァイヴァルや「歌謡テクノ」みたいなポップなテクノも、その一切合切が「テクノ原理主義者」の方々に断罪されるという悲しい時代であった。
 一方で私は、『Techii』(音楽之友社)という雑誌の編集者として、日本のネオアコ・リヴァイヴァルの源流にも立ち会っていた。テクノな友人らとの付き合いの中で新製品の楽器の話に盛り上がりつつ、ポニーキャニオンから世界初CD化されたばかりの『ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ』に心を躍らせ、毎週「Hi-Fiレコード」に旧譜を漁りに行くというような、2つの音楽文化に引き裂かれるような日々を送っていた。今じゃ信じられないかも知れないが(いや、今でもそうなのかも知れないが)、テクノ支持派とネオアコ支持派はその時代、完全に分断されていたのだ。当時の私の印象記を語ると、テクノ支持派は音楽(や歴史)に疎かった。曲も手探りで掘り当てたようなものが多く、いずれマンネリで自滅するのではと予感させるものが当初からあった。反対にネオアコ派はレコード・ジャンキーが中心で、ボサ・ノヴァやジャズなどの価値を再発見させてくれる貴重な存在だったが、ほとんどが選曲ごっこで終わるかDJあたりがゴール。その音楽性をバンドとして展開しようという人々は圧倒的に少数で、しかもかなりヘタなグループが多かった。簡単に言えば、テクノ派は「音楽」に疎く、ネオアコ派は「楽器」に疎かったのだ。そんな中で、ピチカート・ファイヴという、テクノ派、ネオアコ派それぞれと微妙なつながりを持つグループが、当時『女性上位時代』というアルバムを出したことが、私に大いなる勇気を与えてくれた。クラブシーンで活躍する百戦錬磨のトラックメーカーが、DJ的センスで豊穣なポップの歴史を素材にするという、「テクノ」と「ネオアコ」の融合がそこにあったように見えたのだ。
 「史上最大のテクノポップDJパーティー」で、ライヴのアイデアを妄想していたときの私の頭で鳴っていたのは、まさに『女性上位時代』のようなサウンドだった。「これならノスタルジーとは言われない」「テクノ以上に刺激的なクラブサウンドの流れになるかも」と私に確信させるものがあった。あそこで宍戸留美スーザンといったヴォーカリストをチョイスしているのは、あくまで私の趣味に過ぎないが、彼女らのオリジナル曲にセヴンスやテンション・コードなどの技巧的なコード進行を盛り込んだナンバーが多く、これをそのまま現在進行形のテクノのサウンドに置き換えるだけでOKという手応えがあったから。しかし、トラックを作ってくれるようなグループを都内のテクノ系イベントに足繁く通って探してみたものの、彼らなら任せられると思うグループを探すのは難しかった。808STATEやイタロ・ハウスのようなフュージョン風ハウスを実践していた面々はいたものの、サンプリングによるスライドコードを鳴らしているものが大半で、音楽的にはかなりでたらめ。歌謡曲やポップスを換骨奪胎できるような音楽教養には、なかなか巡り会えなかった。実際、「テクノDJパーティー」のライブでバックトラックを作ってくれたメンバーとは、カラオケ制作の段階で何度もキャッチボールをしているのだが、残念ながらコードの聞き取りの段階でかなり怪しく、「ここのコードは違わなくない?」などと具体的な話をしなければならないことが、安ギャラでやってもらっている私には辛かった。
 これは本人たちの名誉のために書いておかねばならない。その時代にテクノ、ハウスを実践していたグループの大半が、ギター、ピアノなどを経験せず、ファースト楽器がサンプラーという世代。コードも知らずに見事に曲らしく組み立てる様が痛快であったのだが、楽典を知らないことが彼らを早い時期にマンネリに陥らせていた印象があった。それでも当時は、808STATEのようなファットな“グルーヴ”を作れるだけで重宝されていたもので、その基準にすら達しない打ち込み組も多かったのである。その理由は単純で、当時のデジタル楽器はまだまだ高価であり、庶民がシンセを買うには定番の「男の60回」で毎月ローンのお世話にならねばならず、DJのようにレコードを買うような金銭的余裕が彼らにはなかったこと。これは私自身、楽器集めのほうにルーツがあるからよくわかる。私にしても、たまたま「渋谷系」のルーツみたいな雑誌『Techii』という雑誌の編集者にならなければ、これだけ幅広いジャンルの音楽に出会うことはなかったのかも知れないと、本当に思う。
 以前のエントリで私は、「楽器を演奏できなければ音楽を語れない」というようなニュアンスの文を書いていたと思うけれど、実はこの時点で、楽器好きの人々の「音楽を聴いていない不勉強さ」も十分自覚していたのだ。拙著『電子音楽 in JAPAN』にも少し書いているが、私が音楽雑誌の編集者時代にスタジオで出会ったギタリスト、エンジニアの方々の中には、楽器やエフェクターにはご執心なのに、聴く音楽がレッド・ツェッペリンイーグルスで止まっている人が本当に多かった。スコアも読めずに音楽ライターをやるってことを責められないぐらい、音楽をまともに聴いていない不勉強なミュージシャンも多かったのだ。そんな中にいたほんの一握りの音楽マニアなミュージシャンというのが、細野晴臣氏やムーンライダーズの面々であり、ノンスタンダード・レーベルの小西康陽氏や鈴木惣一郎氏といった、その後の「渋谷系」時代に頭角を現す人々だったのである。
 『Techii』という雑誌は、そもそも「Hi-Tauch+Hi-Tech」という造語から誌名を預かっているように、「音楽情報」と「楽器情報」を均等に扱う目的で作られた雑誌である。しかしそれゆえに、楽器マニアからはリットー・ミュージックの雑誌のような正確さを欠くと責められたし、音楽マニアからは半分の誌面を楽器情報に取られていることの不満が寄せられていた。唯一のライバル的存在だった『チャート』(現在の『ストレンジ・デイズ』)編集部の連中から、その中途半端さについてさんざん陰口を言われていたのを知っている。ま、こっちも「バカみたいにジャケ違いレコード集めるだけの雑誌がどう偉いわけよ?」と、当時から怒りに充ち満ちていたのを思い出すが……(笑)。結果、『Techii』という雑誌は使命半ばで短命に終わり、音楽選曲家協会のその後の活躍やピチカート・ファイヴのブレイクを見届けることができなかった。以来、「テクノロジー」と「豊穣な音楽の歴史」……つまり「テクノ」と「ネオアコ」的なものがが喧嘩せず、同居するような音楽ができないものかというのが、ずっと私の中にくすぶっていたテーマだったのだ。
 この2つの文化の合体への私の思いは、その後「渋谷系」ブーム後期に現れたナイス・ミュージックや、『ファンタズマ』以降のコーネリアスの変遷、最終作で音響系への進化したシンバルズらの音楽との出会いで、満たされることとなった(彼らはみな、レコード・ジャンキーの側からデジタル楽器をツールとして選び取った、DJ側の進化系と言える)。その一方で、楽器というツールと戯れてきた側から突如現れ、ポスト・ピチカート的才能を開花させたというストーリーが、私に中田ヤスタカ氏にモーレツなほど希望を抱かせるのである。


(まだまだ続く。意地になってダラダラやってるのではないかと思うが(笑)、次回でめっさ怒ります!)